2004/12/22

沈黙から賛歌へ -ルカによる福音書のクリスマス-

 ルカによる福音書はイエス・キリストの誕生の物語から始まります。クリスマスといえば、「喜びの歌声」「楽しい雰囲気」「聖なる光」と言ったものが思い浮かびます。しかし、ルカが伝える物語の始まりは、天のみ使いが人の口を封じる出来事です。
 ここに一組の夫婦がいました。祭司ザカリアと妻エリサベトです。二人は神様の御前に正しい人でありましたが、子供がなかったのです。ザカリアが、祭司の職によって聖所で香をたいているときに、天使ガブリエルが現れました。ガブリエルはザカリアに子が授かること、その子が主に先立っていくものであることを伝えます。み使いの言葉に対してザカリアは問うのです。

「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」(1:18)

人の目には不可能なこと、信じられないことに対して、しるしを求めたのです。御言葉を信じない人間の姿がここに記されています。ガブリエルはつぶやく唇を封じました。
 次に天使が訪ねたのは、マリアです。マリアに対するガブリエルの言葉は、
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(1:28)

という祝福の言葉から始まります。そして、マリアも天使に問うのです。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(1:34)
マリアもまた、信じることができなかったのです。しかし、神の力がマリアに対して働くのだということを知り、彼女は御言葉がその身になるようにと受け入れたのでした。
 マリアの受胎告知は、古くから多くの宗教画家たちの題材となりました。様々な画家たちの作品を見ていると、おもしろいことに気づくのです。天に描かれた父なる神から、鳩がマリアに向かって降りてくる様子が描かれています。マリアに聖霊が降ることを示しています。また、背景にアダムとエパの失楽園の様子が描かれていたり、遠くの丘に三本の十字架が書かれているものもあります。受胎告知が人間の罪の世界のただ中で行われ、既に十字架の死が定められていることを画家たちは描き出しているのです。
 み使いの言葉を信じられない人間、つぶやく言葉しか発しない唇は神の力によって封じられました。が、物語はここで終わりにはなりません。マリアはエリサベトを訪問します。同じように御言葉を身に受けたエリサベトを訪ねたのです。ここから物語は一気に変わります。
 マリアの挨拶を受けたエリサベトは御霊に満たされて声高らかに挨拶をします。本当に大きな声で叫ぶように、エリサベトは神を讃えて挨拶をしたのです。この言葉に響き返すように、マリアの賛歌が記されています。ここでは徹底して神を褒め称える言葉が記されています。取るに足りない者を用いてくださったということに対して、マリア自身が自分を誇っているのではありません。無きに等しい者の唇にも、神が讃美の言葉を備えてくださったことを讃えているのです。
 讃美の歌声はどんどん大きく響いていきます。続く洗礼者ヨハネの誕生の記事の中では、ザカリアが天使が伝えたとおりの名を子に付けたとたんに封じられていた口が解かれ、神から託された預言の言葉を語り出します。さらに、賛歌は野の羊飼いに現れた天使の大群の合唱となり、イエスの神殿奉献のシメオンの賛歌へと続くのです。そして、宗教画家たちが受胎告知に三本の十字架を描いたように、天使の合唱はイエスのエルサレム入城の時に群衆の歓呼として響くのです。
 マリアの賛歌、ザカリアの預言、天使の合唱、シメオンの賛歌。いずれも、古い時代から現代でもなお礼拝の中で、祈りの集いの中で歌われているものです。クリスマスを祝う季節に私たちも、つぶやく唇を閉じて神様の前にひれ伏し、「神を讃える言葉を与えてください」と祈り求めたいと思うのです。
(聖書を読む会の聖書研究より)

osirase.gif聖書を読む会は毎週第2金曜日10時より、教会にて行っています。ルカによる福音書を少しずつ読み進めています。聖書を読むのは初めてという方、もう一度じっくり読んでみたいと思う方。一緒に読んでいきましょう。
木更津教会のクリスマスはこちらへbo_gr_a1w_click.gif

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2004/04/28

喜びの手紙

わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです(フィリピの信徒への手紙1章3-5節)。

フィリピの教会を思う時、パウロの心には神様への感謝がすぐに出てくるのです。彼はただ厳しいだけの荒々しい伝道者ではないのです。ともに罪を語り、諭し、そしてまたともに泣き、ともに祈り、ともに感謝し、ともに喜ぶ。そういう彼の姿が読み取れるのではないでしょうか。この手紙は「喜びの手紙」と呼ばれています。パウロにとって喜びといいますのは、うれしい気持ちとかうれしいという感情とかいったものではありません。精神的な高まりや、沈み込み、そういったものをすべて越えてしまう、そういうことがあるのだということを理解することです。それによって喜びを、そしてまた失望を呼び起こす出来事をも受け入れることができるのです。なぜなら人生において、日常の生活において、人が喜ぶとき、そして人が悲しむとき、すべてはイエス・キリストの御手の内にあるからです。うれしいときは喜びなさい、悲しいときは悲しみなさい。キリスト者にとってすべては、喜びも悲しみもキリストのものなのです。なぜパウロは喜びをもって祈るのでしょうか。福音にあずかっているからです。エヴァンゲリオンという言葉は日本語で喜ばしいおとずれと説明されます。しかしそれはパウロにとって人間が変革されるような神の力です。なによりも神様が著者であるからです。パウロが福音と書くとき、パウロも、フィリピの教会の信徒たちも、よく知っているのです。福音とはイエス・キリストを宣べ伝えることです。人々が口々にそれを伝え、またそのことを心に留めて、人々は行う。そうすることにより福音は世界へと広まっていきます。神の新しい創造の業としての福音が宣べ伝えられるということが、フィリピの教会によって押し進められていく、そういう意味なのです。それが「善い業」であることを、パウロは確信しています。パウロとフィリピの教会の信頼関係が目に見えるようです。
(楠原博行 4月28日祈祷会奨励より)

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