2007/11/03

復活

コリントの信徒への手紙 第15章1-11節

兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。(コリントの信徒への手紙一第15章1節)
福音とは主イエス・キリストの十字架と復活の出来事のパウロ自身の体験でした。かつて告げ知らせた福音を、パウロはもう一度知らせると言うのです。その福音を、手紙を読んでいる人々は既に受け入れて生活のよりどころとしているだろう。その福音を忘れずにしっかり覚えていなさいとパウロは言うのです。しっかり覚えていれば、あなたがたはその福音によって救われると言っているのです。
 三節から八節に記されています、十字架にかけられ死んで葬られ、復活されたキリストと出会ったこと。これこそ、パウロが受けた福音であって、それが教会の迫害者パウロを使徒パウロに変えたのです。パウロは強い信仰の言葉を記します。
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。(同10節)
むしろ「今あるは神の恵み」という愛唱聖句として知られている箇所ではないでしょうか。パウロは、コリントの人々の信仰のよりどころを、福音について、もう一度明らかに語ろうとしたのだと思います。キリストの十字架と復活を語り、自分にも、そのキリストが現れた。自分は出会ったのだと語った時。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と語らないではいられなかったのだと思うのです。パウロ自身のたいへん力強い、自分はこれで生きているんだ、との信仰告白です。
 コリントの信徒への手紙15章は、パウロが復活ということについて語るところです。それはなぜだったか。今まで、コリントの教会で起きた、さまざまな誤った信仰の言葉を聞いてきました。「キリスト者って何をやってもいいんだ」というスローガンによって、日常の生活と霊的な生活を切り離してしまい、肉的な自分なら何をやっても赦されるという誤った信仰に陥ってしまったこと。「だけど腹は減るだろう」と言って、やはり霊的、信仰的なつつましやかさを離れ、地上的、肉的な放縦、やりたい放題なさまを赦してしまう考え方。パウロはひとつひとつ信仰的にコリントの教会の人びとをいさめてきたのでした。そして復活の問題はその究極です。霊的、哲学的な復活観に陥り、この私の肉体こそが復活するという、パウロが宣べ伝えたキリストの復活に疑いを差し挟む人びとがいたらしいのです。
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。(同3-5節)
これはキリストの十字架の3年以内にさかのぼるという古い信仰告白だと言われます。続く6,7,8節。これはコリントの教会の人びとに死者の復活を語ろうとしていることを考え合わせればわかります。復活されたキリストが500人もの人びとの前に姿を現した。その大部分は今なお生きている。教会の指導者であるヤコブにも現れ、このわたしにも現れた。それなのになぜ疑うのか。というパウロの証しであり問いかけになっているのです。おそらく、これは、この15章をひととおり読み終えた時に、もう一度ふりかえらなければならないことだと思うのですが、繰り返し紹介しています、この書物の注解書を書いたヘイズという人は、「すべてキリスト教の宣言は復活に基づいていなければならない。このことによって信仰は立ちも倒れもする」と記していました。わたしたちの信仰が立つか倒れるか、それは私たちがこの復活の福音の言葉に立っているかいないか--まさに冒頭のパウロの言葉のままなのですが--それにかかっているのだと言うのです。
(楠原博行:2007年9月12日祈祷会より)

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2007/08/04

神の栄光をあらわしなさい

コリントの信徒への手紙一 第6章12-20節

「わたしは何をやってもいいんだ!」
「それでも腹は減るだろう!」
賢い人が自分で選んだ事なら何をしても構わない、というずいぶん都合の良い知恵や哲学をコリントの教会の人々は作り上げていたのです。そして、このようなスローガンを掲げていました。ヘイズという人が、コリントの信徒への手紙一の日本語でも読める注解書の中でおもしろいことを書いていました。コリントの人々は、むしろパウロが自分たちの主張に賛成すると思っていたと言うのです。パウロ先生は古いユダヤ教のしきたりから自由になることを伝えていた。神様の恵みこそがこの上ないものだと教えてくださった。だから良心の咎めとか、良心に反するからしてはいけない等という人間的な事柄は無意味になるはずだ。
 コリントで問題になっていた、父親の妻を自分の元においている男性の事件に、これが極端にあらわれている。コリントの多くの人々が、このような倫理的な問題に対してたいへん寛容であったと言うのです。「娼婦のところにしばしば行くコリントの男性は、前代未聞の新しい自由を主張していたのではな〔く〕...単に自分たちの文化の中では全く普通の愉快な活動を続けて楽しむ権利を主張しただけである(R・B・ヘイズ、現代聖書注解、教団出版局、180頁)。」
 コリントの人々の主張に反対して、対話するような形で書かれているのが、今日のところです。
「コリントの人々:わたしは何をやってもいいんだ!」「パウロ:しかし、すべてのことが益になるわけではない。」
「コリントの人々:わたしは何をやってもいいんだ!」「パウロ:しかし、わたしは何事にも支配されはしない。」
「コリントの人々:それでも腹は減るだろう!」「パウロ:体はみだらな行いのためではなく、主のためにある!」
 パウロはキリスト者の基本的な信仰告白に訴えようとします。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあ〔る〕。」わたしたちの体は主のものである。体が大切であることを、神は、主を復活させることでお示しになった。肉体的なものは劣ったもので、ここから魂だけが脱出して救われるとか。死ねば、魂だけが清いかたちで、平安に至るとかいうのは、わたしたちの信仰には当たらないのです。
 神は、主イエスを、肉体的に復活させられました。そしてわたしたち自身も、肉体として復活させてくださいます。だからこそ、今、この肉体で行うことに意味が生じてくるのです。キリスト者としての証しです。「わたしたち自身の復活の信仰」に生きるなら、わたしたちの肉体を、楽しみに使う道具としてはいけません。

知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい(19-20節)。

あなたがたの体は「聖霊が宿る神殿である」。あなたは「自分の体」で、むしろ「神の栄光を現しなさい」。父親の妻を自分のものとしている人にも、信仰を突きつけます。キリストを、教会が聖なるものである事実を突きつけて、みだらな行いをやめさせようとするのです。それは、そのみだらな行いが、その人、個人を傷つけるだけでなく、キリストの体である、教会を傷つけるからでした。
(楠原博行:2007年7月2日祈祷会奨励より)

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2007/02/03

十字架のほかに誇る所あらざれ

「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない(ガラテヤの信徒への手紙第6章9節、口語訳)。」

 加藤常昭先生は「善を行う」とは「互いに重荷を担い合う」ことだとおっしゃいました。ガラテヤ書のこの箇所の説教でかつて次のように語られたのです。「私たちは教会の交わりと言えば、教会とは、自分のことを誰かが親切にかまってくれるところ、自分の思う通りにしてくれるところだとのみ考えてしまう。そういう甘えが私たちの中にある。甘えのこころがあると、そのこころが満たされないままに不平や不満が生まれてしまう。パウロはそんなことを言っているのではなくて、教会というのは、むしろ自主自立の人間の集団であって、自分自身の重荷は自分で負う人間の集まりである。けれども自分の重荷を自分で負うことを知った人間は、神様のみまえに、ひとり立つことを覚えた人間であって、そのような人こそ、また神様のみまえにあって他者の重荷を負うために手を差し伸べることができるようになる(加藤常昭説教全集21教文館)。」

「然(さ)れど我には我らの主イエス・キリストの十字架のほかに誇る所あらざれ。(同14節、文語訳)」

 ガラテヤ書の講読も終わりに近づいて、わたしたちの心に響く勧めの言葉が続くのです。わたしたちはパウロの言葉にうなだれて耳を傾けざるを得ないと思うのです。この十字架によって世はわたしに対してはりつけにされている。わたしも世に対してはりつけにされている、ともパウロは言います。わたしたちがこの世を本当の意味で生きるとは、この世にしばられないことなのです。すべてを主イエスにゆだねる生き方こそがキリスト者が本当に生きるということなのです。この世的な、わたしの思いにとらわれて生きるならば、それも本当の意味で生きると言うことではないでしょう。
 「十字架のほかに誇る所あらざれ。」それはたいへん重い。時にはたいへんつらい言葉となるかもしれません。割礼の問題しかり。律法の問題しかり。わたしたち自身の問題としても、人間としてのわざ、思い...わたしたちの教会で、長老会で、あるいは信徒個人の間の問題でぶつかるもの、その多くは、肉にある人間の思いと、キリストにあって十字架のみにより頼む信仰との衝突に違いないと思うのです。結局は人間の思いによる見えでしかない。わたしたちがいかに、キリストの十字架を建て前にしてしまっているのか。まさにありとあらゆるものが「十字架のほかに誇る所あらざれ」との信仰をさいなみかねないのです。しかし、そうではいけない。まことの信仰に立ち返れ、キリストに立ち返れ、肉にあってではなく、キリストにあれ、とパウロは言うのです。
 祈祷会で出会ったこのふたつの言葉がなぜ多くのキリスト者に愛唱されて来たのでしょうか。それはただ自分の看板のように家の前に出して、満足するためではなかったと思うのです。キリスト者として歩み、悩み、涙する中で、心の中で繰り返して来た、そういう言葉であった。慰め、励ます言葉であったに違いないと思うのです。

兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。(同18節)

 この「アーメン」という言葉。ガラテヤ書の最後にパウロ自身が「アーメン」と書き記したことにも意味があると言われます。わたしたちには、もしかしたら、ここに「アーメン」とあることが普通に思われるかもしれませんが、実際、パウロの手紙の最後に、「アーメン」と記されているのは、ガラテヤ書以外には、意外に思えるかもしれませんがローマの信徒への手紙だけなのです。しかもガラテヤ書ではパウロ自身が「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いて(同11節)」いる。「アーメン」と書いている。そこにはこの手紙を聞くあなたがたは「アーメン」と言えるかと問いかけているパウロが、いや、これは信仰の本当に大切なことだから「アーメン」、「その通りです」と声をあわせなければならないというパウロのとても強い意志が働いているに違いないと考えられるのです。
(楠原博行:2007年1月10日祈祷会より)
   

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2005/03/21

今から後、人の子は全能の神の右に座る

ルカによる福音書 第22章63-71節
 主イエスは捕らえられてから一晩を過ごしました。これは夜明け前の話です。63節に「見張りをしていた者たち」とありますが、日が昇り裁判が始まるまでの間、被告人である主イエスを見張っていたのでしょう。恐ろしいことに、主イエスはここでは不当な扱いを受けられます。まだ、裁判も始まっていないのに、殴られ、侮辱されるのです。見張りをしていたものたちは、主イエスに目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言ったといいます。この言葉の裏には、「神の子だというのならば、目隠しをしていても、誰が殴ったかはわかるだろう。」という悪意が読み取れます。「神の子ならば、おまえにはすべてが可能なはずだ。さあ、誰が殴ったか言い当ててみろ。しかし、おまえはただの人間だ。そんなことはできないだろう。」という思いがあります。と同時に、私たちの心の中にの呼び覚まされるもう一つの光景は、主イエスが受けられた荒野での試みではないでしょうか。荒れ野の誘惑の中でも、「神の子ならば」と悪魔は繰り返し語りかけてイエスをそそのかしたのでした。イエスをののしっている見張りの者たちは悪魔でしょうか。違います。私たちと同じ人間である彼らが、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言ったのです。イエスをののしった言葉は、同時に神を試す言葉となっています。神を侮る言葉になっていたのです。
 夜が明け、イエスは裁判の座に着きます。裁判と言っても、悪意に満ちた裁きの場です。民の長老会、祭司長たちや律法学者たちは最初からイエスを死刑にするためにこの裁判にかけたのです。民衆を扇動し、王の座を脅かす者。神の子、メシアと称し、神を冒涜する者。それを示すことができれば、イエスを確実に死刑にすることができます。彼らは法廷にイエスを引き出し、尋ねるのです。
「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」
イエスはお答えになります。
…「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。」(67,68)
この短いイエスのお答えの中で、長老、律法学者、祭司たちの言葉こそが、神に背を向ける者であることを暴いています。神のこの言葉を聞かない、聴こうとしない姿です。そして、ご自身のことをはっきりと示されました。
「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」(69)
人の子が神の右に座るということはどういうことでしょうか。この言葉は、使徒信条の言葉の中にもあります。改めてハイデルベルク信仰問答の言葉を思い出してみましょう。
問50 なぜ「神の右に座したまえり」と付け加えられたのですか。 答 キリストは天に上げられました。 それは、そこにおいて、主ご自身が、キリスト教会のかしらであることを知らせるためであり、それにより神様は全てを支配なさるのです。
 残念ながら、長老、律法学者、祭司長を始め、集まった群衆も、この主の言葉に耳を傾ける者はありませんでした。みんなが、あつくなっていました。イエスを死刑にするために躍起になっていました。聞く耳を持ちませんでした。
人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。(71)
イエス自身が自分は神の子であると証言した。イエスは神を冒涜した。これ以上の証拠があるか。人を罪に定めることに熱心になり、神の言葉を聞こうとしない罪がここにあるのです。
 しかし、私たちは忘れてはなりません。主イエスは、このように人を裁き、自分を正当化し、神の言葉に耳を傾けない私たちを、その罪の縄目から救うためにこそ、真の人としてこの世に来られたことを見逃してはならないのです。
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。(ヘブライ人への手紙12:1-3)
祈りましょう。 主イエス・キリストの父なる御神様。 主の御受難の道行きを一歩、一歩たどるように、今週は御言葉を耳にし、祈る時を持っています。すでに、悪意に満ちた裁きの場で、主は裁かれました。裁きの場に満ちていた悪意は、私たちと関係のないところの者でもなければ、遠い過去の話でもありません。今、私たちを取り囲み、私たちに絡みつく、罪のなのです。
しかし、その様な悪意の渦巻く中で、「今から後、人の子は全能の神の右に座る。」と、主はご自身をはっきりと証されました。
私たちは、主の御受難の記事の中に、自らの罪の深さを思い知らされます。しかし、どうか、私たちが罪の中に座り込んでしまうのではなく、この私のために主イエスが忍耐されたことを思い起こさせてください。しかも、私たちは一人で罪の中に取り残されているのではありません。神が、教会の頭なる主イエスを通してこの世を支配されているからです。教会の仲間と共に、この主を見上げて、一歩を踏み出す力を与えてください。
主の御名により、祈り願います。
アーメン
(楠原彰子:2005年3月21日 受難週祈祷会奨励より)

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2004/08/25

主にある交わり

フィリピの信徒への手紙 第2章25-30節

今回登場するのはエパフロデトです。同じ、フィリピの信徒への手紙4章18節に

わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。…

とありますから、彼はフィリピの教会の人物でとらわれの身であるパウロのためにいろいろなものを託されて、パウロの所へやってきたと思われます。また、2章25節では
…彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、

と記されていますから、フィリピの教会からの贈り物を届けたばかりではなく、彼の地にあってパウロの手助けをしていたと考えられます。しかし、そのエパフロデトが病気になってしまった。どんな病気になったのかは具体的には記されていません。生活環境が変われば体調を崩すこともあるのは、簡単に想像できることだと思います。そのような中で重い病にかかってしまうこともあるでしょう。パウロがとらわれの身であることを考えれば、その滞在はいろいろな意味で困難を伴っていたと思われます。あるいは26節に
しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。

とありますから、ホームシックに罹ってしまったのかもしれないと考えた人もありました。肉体的な、あるいは精神的な緊張、重圧。そのようなものから、エパフロデトは病に倒れてしまったのでしょう。さらに、せっかく教会の仲間の思いも背負ってパウロのもとに来たのに、彼を助けるどころか病気にかかり、かえって迷惑をかけた、足手まといになってしまったという思いも、エパフロデトを苦しめたかもしれません。
 いずれにしても、瀕死の状態であったエパフロデトは、何とか回復したのです。テモテをフィリピの教会に送る。病み上がりのエパフロデトも一緒にフィリピへ送り返そう。それが彼にとって最も良いとパウロは判断したのでしょう。このような中でパウロが手紙に記したのは、
…神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。…あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。…(27-29節)

という言葉なのです。神の憐れみと再会の喜びを記すのです。もし、エパフロデトがパウロのもとで命を落としてしまったら、彼は殉教者の一人となったかもしれません。しかし、神様はそこでエパフロデトの命をお取りにはならなかった。パウロにとっても同労者の一人を病で失うということを経験せずに済んだのです。それをパウロは、「神様の憐れみ」によってだとしているのです。
 こう考えるのは単なる気休めでしょうか。教会学校に来る子供たちはよく言います。
「先生は、いつでも神様、神様という。良いことも、悪いことも、全部『神様の御心』にしてしまう。それってずるくない。」
なかなか鋭いところをついていると思うのです。わたしたちが、単なる気休めであらゆる事を「神様の御心だからしょうがない」とあきらめてしまう、納得してしまうならば、子供たちがいうようにずるいかもしれない。たしかに、気休めの言葉はあきらめしか生み出さないのです。
 しかし、御言葉に尋ねつつ、祈りつつ、「神様の御心ですか。御心ならば受け入れます。」とすべてを主のみ手に委ねるのならば、わたしたちにはあらゆる事を絶える力が与えられるのではないでしょうか。27節の
…彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。

とのパウロの言葉から、彼がどんなにかエパフロデトのことを思い、神様に祈っていたかが想像できると思うのです。さらに、パウロはこの神様のめぐみをその当事者、エパフロデトとパウロ自身だけのものとはしません。
…あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。…(28-29節)

とにかく、エパフロデトのためにも、大急ぎで彼を送り返すから、彼を歓迎してほしい、再会を喜んでくれというのです。それは、ただ、パウロの所へ贈り物を届け、彼の地でパウロを助けるという仕事をし、しかし、重い病に倒れて生還したものとして歓迎するのではないのです。29節の「主に結ばれている者として大いに」と訳されているところは、「主のうちにあって、すべての喜びをもって」という言葉です。すなわち、エパフロデトを迎えることも、主にあっての喜びの中にあるのだというのです。
 パウロは、ローマの信徒への手紙12章9-15節の中でも、次のように記していることいます。
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
 ここで忘れてはならないのは、「主にあって」ということでしょう。わたしたち、教会に集うものの交わりは常に「主にあっての交わりである」ということを忘れてはならないのです。それは、主に救われた喜び、神様のめぐみを与えられている喜びを共に喜ぶ交わりであるのです。同時に、祈る言葉も見つからないようなときも、神様を信じられなくなるような困難に出会うときにも、一人でその苦しみを耐えるのではない。教会に仲間の信仰に支えられていることを忘れてはならないし、わたしたちも祈ることを怠ってはならないのです。
わたしたちは主にあって一つということを忘れるならば、教会は単なる人の集団にしか過ぎません。しかし、わたしたちが主にあって一つとなり、信徒の群れを造るならば、それこそが世の人に対して主の未来のを伝える大きな証しとなるのではないでしょうか。
(楠原彰子:2004年8月25日 祈祷会奨励)

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2004/07/28

あなたの内に働かれる神

フィリピの信徒への手紙2:12-13
主の救いを讃えてパウロは再び、フィリピの人々に告げました。

だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。(12節)

わたしたちは、この手紙の中で、何度同じ言葉を聞かされるのでしょうか。パウロは、ここでも「従順でいなさい」「へりくだっていなさい」と命じているのです。
しかも、パウロはここで付け加えていることがあります。
恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。

単にへりくだり、従順でいるのではありません。従順でいながら、恐れおののきつつ自分の救いを達成するようにと勧めているのです。何を恐れおののくのでしょうか。神様をおそれるのです。

信仰を求めて教会に来る生活を始めると、最初に知らされるのは「罪」と言うことだと思うのです。キリスト教においての「罪」とは一言で言うと「神様に背くこと」「神様の方を向いていないこと」なのです。神様との関係がただしくないこと、それが「罪」なのです。
ここでパウロが「従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」という事を、フィリピの教会の人々に対していっているわけです。繰り返しになりますが、パウロとフィリピの教会の人々との関係は大変に良かった。しかも、この手紙は「喜びの手紙」と呼ばれているほどなのです。しかし、すべてがよいわけではなかった。パウロがキリストにあって従順であり、へりくだっていなさいと勧めなくてはいられなかったものがここにあったのです。教会員同士の争いがあった。傲慢の目があった。
この罪の問題はわたしたちにもある問題です。決して対岸の火事ではないと思うのです。どこにあってもわたしたちは「罪」を冒す危険にさらされていると言っていいと思うのです。どこにあってもすぐに「神様の方を向けない」状態になる危険があるのです。「罪」の落とし穴はどこにでもあいているのです。「からみついてくる罪」との戦いに対して、信仰の先達たちは慎重になり、その罪を出来る限りさけるために策をこうじたのでした。
たとえば、讃美歌の中には、主旋律だけが記されているものがあります。これは礼拝で歌う讃美歌を斉唱で歌うという伝統からで、礼拝における讃美歌は神をたたえるものであって、自分たちが心地よい思いをするために歌うのではないと言うことから来たものです。信仰の先輩たちの自戒と知恵でありましょう。神に向かって教会員が一つになるという意味も込められています。
また、「祈る」と言うことの中でも、わたしたちは罪を犯す危険をはらんでいます。どんなに美しい言葉を並べても、どんなに神様に求めるような言葉を並べても、それが単なる呟きに終わってしまうことがあるのです。あるいは、美しい祈りのことばを並べることで、その祈りに酔うと言うこともある。宗教改革者の一人、カルヴァンはジュネーブ教会信仰問答の中で「口先だけの祈りは無益なばかりでなく、神様に不快さえ与える(問242)」ということを記しています。
このような点で13節に記されているパウロの言葉は、わたしたちがいつも心に留めておくべきものではないでしょうか。

あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。(13節)

すなわち、わたしたちはいつも神様の存在を意識し、いつも神様の方を向いて、御霊の助けを請い求めることが必要なのです。
先ほど、ジュネーブ教会信仰問答を紹介しましたが、カルヴァンはさらに、「祈りは神がそこに働いてくださることが必要で、神様ご自身がわたしたちの心の中に神を求める心を形づくってくださる」(問244)というのです。つまり、わたしたちが捧げる祈りをも、わたしたちの外側、神様の側からの働きかけによって初めて祈りとなるということなのです。ですから、「わたしたちの気まぐれに任せるならば、祈りは規律のないものになってしまう」(問253)。そこで、まず、祈りの手本として主の祈りに学ぶことを勧めているのです。
わたしたちの内側に働いて御子このままに望ませ、行わせておられる神様を全面的に信頼すること。その神様の約束は確かであるとの信仰に立つこと。この神様とのつながりを求めないところでは、どのような教会の活動も喜びを伴わず、争いにつながります。しかし、この神様とのつながりを求めつつ、確信しつつ行う営みは、どのような困難な中でも喜びに輝き、恵みに満ちあふれるのではないでしょうか。

祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神。
この天地をつくられ、すべてを支配される御神。
わたしたちは常に不完全です。あなたにすぐに背く傾向にあります。教会に集っていても罪を犯す危険にさらされています。みことばを聞く最中も、みことばに耳を傾けるのではなく、自分の心の浮かんだ思いにとらわれることがあります。あなたにさんびの歌声を響かせるつもりで自分の歌声に酔いしれることがあります。祈っているつもりで、祈りのことばを整えることを怠り、御心にかなわないことばを並べることがあります。あなたに奉仕をしているつもりで、人からほめられることを知らずに期待することがあります。
お許しください。そして、導いてください。
あなたにすべてをゆだね、あなたが送ってくださる御霊が常にわたしたちのうちにあって働き、あなたの御心をわたしたちに望ませ、行わせてくださることを固く信じさせてください。
人間的に安易な道に進むのではなく、困難な中にあってもあなたのみ栄えを表すにもっとも良い道を進むように導いてください。
あなたがわたしたちのうちに働いて、御心を望ませるとき、教会の営みは喜びにあふれます。どうか、み霊を注いでください。
主のみ名により祈り願います。
アーメン
(楠原彰子:2004年7月28日祈祷会奨励より 「ジュネーブ教会信仰問答」はカルヴァン、戸山八郎訳「ジュネーブ教会信仰問答」、新教出版社、1963からの引用です。)

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2004/05/26

キリストを告げ知らせる

フィリピの信徒への手紙1:15-18

だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。(18節)
フィリピの信徒には、「喜ぶ」という言葉を含む節が12節もあります。「喜びの書簡」と呼ばれるゆえんです。しかし、獄中のパウロの状態はわたしたちの想像を遙かに超えて困難であると考えられます。また、他方では教会の中に置いて分裂があり、混乱があったと言うことも、手紙から想像できるのです。パウロはココでなぜ、このような状況の下にありながら、喜びを語ることが出来るのでしょうか。パウロがここで喜びを語る秘密は、「キリスト」が告げ知らされていることによるのです。「キリスト」の出来事がただしく伝えられている限り、パウロはそれを喜ぶのです。パウロが注意していることは、どのような人物が伝えているかではなく、キリストがただしく伝えられているか、と言うことなのです。
わたしたちは、一人一人、キリストの証人として立てられています。その信仰的な経験は様々であって、百人百様。パウロの時代にも既に様々な伝道者がいたでしょう。それがそれぞれにキリストをのべ伝えていたのです。神学的な議論での対立もしばしばだったかもしれません。しかし、「キリストをただしく告げ知らせている」限り、パウロはそれを喜んだのです。
パウロは自分を中心とするパウロ教団を作ろうとしたのではなく、キリストを告げ知らせることに心血を注ぎました。すなわち、自分を証しするのではなく、キリストを証しすることを第一としたのです。いろいなことをいう伝道者がいる。しかし、そのいうところが「キリストをただしく告げ知らせている」のならば、それをパウロは喜ぶといったのです。
わたしの尊敬するある牧師は、よく言われました。
「ある教会を紹介するときに、『○○先生の教会』ということをいう人がいるけれど、これは正しくない。教会は牧師のものではなくキリストのものなのだから。」
教会はよく、キリストの体にたとえられます。
その頭は私たちの主イエスキリスト、私たちはその手足と。キリスト教を信仰するものが「クリスチャン-キリスト者」と呼ばれるのは、主イエスの救いを信じ、主の体の一部となったからです。
その上でその牧師は次のようなこともいわれました。
「キリスト者の生活は、その生活のすべてがキリストの証だ。何か特別なことをするというのではなく、その箸の上げ下ろしにも信仰が現れている。」
そのようなことを聞かされましたときに、「信仰者の箸の上げ下ろしって、いったいどんなだろう。」と思ったものでした。
その先生が言いたかったのは、日常生活のどんな小さな事も、すべて主キリストのもとにあるということだったのです。私たちのすべてがキリストのものとなったからです。加えていいますと、その牧師は、夜眠るときのとこの中にも信仰の姿があるといわれました。もし、「トイレの中もですか」と質問したとしたら、おそらく「その通り。」と答えられたでしょう。
しかし、私たちは同時にはやり注意が必要だと思うのです。悪魔の手口は実に巧みだからです。「キリストを告げ知らせている」ように見えていて、実は人間的な思いが先走っていたり、全く間違った教えが語られていることもあるからです。
それを見分けるにはどうしたらよいでしょうか。それは、やはり聖書に耳を傾け、みことばを聞くことだと思うのです。それも、人間の思いではなく、神様の告げられたものとして聴くことだと思うのです。
パウロは喜びを語りました。しかし、フィリピの教会は、パウロ同様困難な状況の中にありました。教会が主の体としてこの地上に建つために、パウロはフィリピの教会にどのようなことを書き送ったのでしょうか。引き続き読み進めていきたいと思います。
(楠原彰子:5月26日の祈祷会より)

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2004/04/28

喜びの手紙

わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです(フィリピの信徒への手紙1章3-5節)。

フィリピの教会を思う時、パウロの心には神様への感謝がすぐに出てくるのです。彼はただ厳しいだけの荒々しい伝道者ではないのです。ともに罪を語り、諭し、そしてまたともに泣き、ともに祈り、ともに感謝し、ともに喜ぶ。そういう彼の姿が読み取れるのではないでしょうか。この手紙は「喜びの手紙」と呼ばれています。パウロにとって喜びといいますのは、うれしい気持ちとかうれしいという感情とかいったものではありません。精神的な高まりや、沈み込み、そういったものをすべて越えてしまう、そういうことがあるのだということを理解することです。それによって喜びを、そしてまた失望を呼び起こす出来事をも受け入れることができるのです。なぜなら人生において、日常の生活において、人が喜ぶとき、そして人が悲しむとき、すべてはイエス・キリストの御手の内にあるからです。うれしいときは喜びなさい、悲しいときは悲しみなさい。キリスト者にとってすべては、喜びも悲しみもキリストのものなのです。なぜパウロは喜びをもって祈るのでしょうか。福音にあずかっているからです。エヴァンゲリオンという言葉は日本語で喜ばしいおとずれと説明されます。しかしそれはパウロにとって人間が変革されるような神の力です。なによりも神様が著者であるからです。パウロが福音と書くとき、パウロも、フィリピの教会の信徒たちも、よく知っているのです。福音とはイエス・キリストを宣べ伝えることです。人々が口々にそれを伝え、またそのことを心に留めて、人々は行う。そうすることにより福音は世界へと広まっていきます。神の新しい創造の業としての福音が宣べ伝えられるということが、フィリピの教会によって押し進められていく、そういう意味なのです。それが「善い業」であることを、パウロは確信しています。パウロとフィリピの教会の信頼関係が目に見えるようです。
(楠原博行 4月28日祈祷会奨励より)

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2004/04/09

主の十字架

マルコによる福音書第15章21-32節
カトリック教会で、あるいは海外へ旅行された時などに主イエスの磔刑像を見たことのある方もあると思います。その姿は大変生々しく、また、イエスの表情も苦痛にゆがんでいます。正直なところ目を背けたくなりますが、わたしたちは、「十字架の死」が持つ意味をきちんと知ることが大切であると思うのです。十字架刑は主イエスが地上の歩みをされた当時、もっとも残酷で、また、もっとも身分の低いものに対して行われた処刑の仕方でした。そして、そこには神の呪いがあります。申命記21章23節に、次のように書かれています。 …木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。…  主イエスが十字架におかかりになったということは、主イエスは神に呪われたも のとして、神に見捨てられたものとして死なれたということです。主イエスは「死」、しかも「神に見捨てられた死」をわたしたちに先立って経験されました。その主が蘇られ、復活されたのです。  主の十字架の死と復活を信じる時、わたしたちに大きな変化が起こります。神を知らずに過ごしていたものが、神を恐れることを知るのです。神に見捨てられたものとして死ぬものが、主の復活によって生きるものとされたからです。これが罪からの解放です。  主の十字架はわたしたちの罪の深さを示すと同時に、神様の愛の証です。神様はひとり子を、神に呪われたもの、見捨てられたものとして十字架に架けられるほどに、わたしたちを愛し、生きるものとしてくださいました。残酷な刑罰であった十字架を、わたしたちの救いの十字架として喜びをもって見上げることができるのです。〈2004年4月9日 祈祷会 楠原彰子〉

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2004/04/08

主の晩餐

マルコによる福音書第14章22-26節

受難週の木曜日は「主の聖晩餐が定められた日」として祝われてきました。これは、主の最後の晩餐の記事に由来するものです。
 マルコによる福音書によれば、主イエスは弟子たちと一緒に過越しの食事をされました。過越しの祭はユダヤ教の三大祭りのひとつで、イスラエルの出エジプトの出来事を記念する祭です。
エジプトの奴隷であったイスラエルの民が、神様の導きによりエジプトを脱出する時のことです。最後の災いを神はエジプトに下されました。イスラエルの民は戸口に屠られた子羊の血塗を塗りました。戸口に血の塗られた家には災いは及ばず過超していきました。最後の災いが下りファラオはイスラエルの民がエジプトを離れることを許可したのです。その祝いの食事、過越しの食事が主イエスの「最後の晩餐」の舞台となりました。イスラエルの民はエジプトの奴隷という縄目からの解放でしたが、主イエスが示された新しい過ぎ越しは、わたしたちに絡みつく罪の縄目からの解放です。
 聖餐において配られるパンは「あなたのために裂かれたキリストの体」であり、杯は「あなたのために流されたキリストの血」なのです。イスラエルの民にとっては、「血」は命そのものでした。旧約聖書の中に次のような記事があります。


生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。(レビ記第17章11節)

罪の贖いとして、犠牲となる動物の血、命を捧げることをイスラエルの民は行いました。この贖いの儀式は、罪の贖いのために自分自身を献げるという意味も持っていたのです。主が言われた「裂かれた体」「流された血」は、これからイエス様が十字架にかかり、そこで体が裂かれ血が流されたと言うことだけではなく、主の十字架の死が、わたしたちの罪の贖い、犠牲として献げられた物であることを、弟子たちにはっきりと示しているのです。
神学生の時に過ごしていた教会で、洗礼を受け、信仰を言い表し、教会員として生活をされているのに、聖餐を受け取らない方がおられました。聖餐の時には聖餐制定のことばとしてコリントの信徒への手紙一第11章23-29節のみことばが読まれます。
その方は、

従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。(27節)

の部分を大変真剣に受け止められ、自分を省み、聖餐を受けること躊躇されていたのでした。しかし、もし、この方が考えられたとおりだとしたら、一体誰が聖餐を受けることができるでしょうか。
 英語の「聖餐」は「感謝」を意味するギリシャ語がその語源となっています。主が感謝の祈りを唱えて、弟子たちにパンと葡萄酒を配られたことに由来するものです。ですから、聖餐は主に対する賛美と感謝をもって受けるものなのです。もちろん、わたしたちの罪の重さを忘れてはなりません。その罪を贖うには、神でありかながら、汚れも罪もない真の人としてこの世に来られた、主の十字架の死が必要であったのですから。
ハイデルベルク信仰問答では、次のように記されている問と答えがあります。

問81 どのような人が、主の食卓に来るべきですか。
答え  自分の罪のために自己を嫌悪しながらも、
キリストの苦難と死とによってそれらが赦され、
残る弱さも覆われることをなおも信じ、
さらにまた、よりいっそうじぶんの信仰が強められ、
自分の生活が正されることを
切に求める人たちです。

しかし、悔い改めないものや偽善者たちは、
自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。(吉田隆/山下正雄訳より)


自分の努力ではありません。自らの罪を深く顧み、主がこの私のために肉を裂かれ血を流されたことを信じること、そして、そのこと故に新しい命に生かされていることを感謝しましょう。そして、ともに赦されたもの同士が、とりなしあい、赦しあって、新しいイスラエル、教会をたてていくのです。
(楠原彰子:2004年4月8日 受難週祈祷会より)

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2004/04/07

わたしの言葉は決して滅びない

マルコによる福音書13章28-31節

 わたしたちは主の日ごとに献げる礼拝の中で、使徒信条によって信仰を言い表しています。その使徒信条の中に、「われはそのひとり子、われらの主イエスキリストを信ず。」というところがあります。

われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。 主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくダリ、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。

この箇所は、わたしたちの信じる主はどのようなお方であるかを示しているのですが、その内容は誕生、すなわちクリスマスの出来事から受難、十字架の死、葬り、よみがえり、昇天までを語るのです。すなわち、わたしたちは復活の主のみならず、主のご受難と死をも信ずると告白しているのです。受難週祈祷会では、「主の十字架のみ苦しみと死を信ずる」というのはどういうことなのか、このことを頭の中において、みことばに耳を傾けてたいと思うのです。
 さて、今日わたしたちに与えられたテキストは「いちじくの木のたとえ」とよばれる、たとえ話です。これをふくめて、主イエスは13章に記されたことを、十字架にかかる直前に弟子たちに語りました。13章はその内容から「(マルコの)小黙示録」とも呼ばれているところです。通して読んでみるとよくわかるのですが、実に不思議な、またある意味では恐ろしい終末の徴、世の終わりのことが続けて記されているのです。
 「小黙示録」の名の通り、ここに書かれている記事をこれから主の受難の記事に重ね合わせて読むこともできるでしょう。神殿の崩壊はイエスの死。戦争、飢饉、世の中の混乱といった終末の徴は、イエス死後の弟子たちの離散、人々の失望、そして主を信じる者たちの殉教と迫害…。主はこれからすぐ起こる出来事を弟子たちに教えたと考えられます。
 しかし、もう一方で主は「惑わされてはならない。目を覚ましていなさい。」と繰り返し言われているのです。目を覚まして「人の子が戸口に近づいていること」(29節)を悟りなさいというのです。人の子が来る。復活の主が再び来られる。それは救いの完成を意味する時です。そのときを「目を覚まして悟れ」と言われるのです。「世の終わり」と聞くと何もかもがなくなってしまうような、すべてのものが無に帰してしまうような印象を受け、恐ろしさばかりを思い描くことが多いのですが、そうではないのです。神様の約束のことばは確かで、朽ちることも消えることもないものなのだと言われるのです。
 最近、わたしたちが耳にするニュースは悲しく、恐ろしいものが多くなってきました。「これこそ、世界の破滅が近い徴である」と言う人たちがいます。不安がないといえば嘘になるでしょう。しかし、そのような不安にとらわれてしまうと、わたしたちは日常の小さな一歩さえ前に踏み出せなくなってしまうのではないでしょうか。

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(31節)

より頼むべき確かな道を、主イエスは十字架を通して示してくださいました。主のゲツセマネの祈りを思い出してください。主はみ苦しみを前にして祈られたのですが、そこには、父なる神に対しての絶対的な信頼がありました。
 わたしたちは、このような十字架の道を示された主イエス・キリストを信じています。主の十字架の死を信じると言うことは、「私のことばは決して滅びない」との主のことばに堅く信頼し、ひたすらに日々の歩みを一歩一歩進めることなのです。(2004年4月7日 祈祷会 楠原彰子)

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