2008/01/05

人間を照らす光

ヨハネによる福音書 第1章1-5、14節

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(ヨハネによる福音書 第1章1-3節)

 神様のもとに、あるものがあったと告げられます。聖書が記されているギリシャ語でロゴスという言葉を、どう言いあらわそうかとたくさんの人々がつとめたのです。わたしたちの新共同訳聖書では「ことば」と訳されていますが、もともとそう読まない字で記されています。「言」という字に、「ことば」とふりがながふられています。この「ことば」が「はっぱ」のように薄っぺらでないからだとも説明されるのです。
 初めにあったのは、「神様がお現れになること」だと言う人もいます。初めに、神様ご自身が、みずからをおあらわしになった。そして、神様は世界を創造されたのだと言うのです。神様のみわざと言っても良いかもしれません。一つひとつのみわざではなくて、神様のご意志、このようにされるとの、ご計画こそが最初にあったのです。

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(同4、5節)

 神様のみわざの中に命が宿ります。それはわたしたち人間を照らす光でありました。その光は暗闇の中でも輝くのですが、逆に、その光に照らされた暗闇は、その光が何かを理解しなかったというのです。新約聖書で夜とは、わたしたちが生き、生活する今のことを言うことがあると、先週申し上げました。新約聖書は、それほどまでに、自分たちが生きている時代の暗さを、夜ということをひしひしと感じていたのです。そしてまた、これから朝が来なければならないこと、いや、今、まさに長く続いた夜が明けて朝になろうとしていることを、はっきりと言いあらわそうとしたのです。暗闇という言葉も特別な意味合いを持っています。倫理、道徳的な堕落について言うのです。道徳的に誤っている人の生き方を言います。そういう人は暗闇の中を歩いているのだと。そしてそのような人は、これからも闇の中にいつづけるのだし、さらには、もっともっと深い闇の中へ放り捨てられるとさえ言われるのです。だから暗闇とは、倫理、道徳的に誤った人に対する罰であり、死であり、人々からうち捨てられることさえも意味したのです。
 わたしたちが暮らしている世界が暗闇であることについて、しばしば言われることをわたしたちは良く知っています。明らかに、人間が悪意をもって、あるいは、自分の利益だけを求めたことによって、他の人々を突き落とすと言うこともあるでしょう。文字通り、闇の中を歩む人たちです。聖書が言うように、人の道に反した暗闇です。人間が落ち込んでしまって、もう抜け出すことができない暗闇です。自暴自棄という暗闇も知っています。それは、他人をも巻き込むのです。ほんのしばらく前、命が奪われ、命が捨てられるのを、わたしたちはテレビや新聞を通して見たのではないでしょうか。ある新聞記事で読みました。「人間はどうせ死ぬんだ。どうせ死ぬんだから。死ぬまでに何か大きなことをやってやればいいんだ。」そう考えていた人が、残酷な事件を起こしたというのです。暗闇は、人を引きずり込むばかりか、回りの人まで、何の関係もなく、幸せな日々を過ごしていた人さえ巻き込むことがあるのです。そればかりではない、突然、押し寄せてくる、事件、事故という暗闇があります。その背後には、人間の無責任、人間の限界というものがあるでしょうが、さけきれず、巻き込まれ、悲しみの底へと突き落とされてしまうのです。痛ましい事故についても、私たちが昨日、今日、聞き知った出来事も数多いのです。一方で、人間の力で、そのような闇から、抜けだそうとする人もいます。人には見えないものを見る人がいて、アドバイスをする人もいます。お金が要求されることもあるでしょう。これさえ、昨日、今日、報道され事件となっています。
皆が暗闇を知っているのです。少なくとも、そのような暗闇から逃れたいという思いは、誰にもあるのです。時には、特別な手だてをあつらえても、お金を積み上げてでもと、人は思うのです。
 「ことば」とは何のことなのか。命とは何のことか。人間を照らす光とは何のことか。どうして、ヨハネという人は、ここから書き始めたのか。ある人は言います。ヨハネは、イエス・キリストというお方が、いったいどういうお方か、わたしたち人間にとってどういうお方なのかについて、まず書きたかったのだと。マリアとヨセフの旅についても、ベツレヘムでお生まれになった時の出来事よりも、羊飼いたちや、東方の博士たちが礼拝したことよりも、もっと、書き記さなければならないことがあったというのです。伝えなければならない大切なこと。それは、主イエスがわたしたちにお与え下さったものでも、主イエスが人びとの間でなさったことでも、主イエスの生い立ち、生涯でもなくて、この驚くべき主イエスというお方ご自身、主イエスそのものなのだということ、それを最も大切なこととして伝えたかったからだと言うのです(W・デ・ボーア)。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(同14節)

 その「ことば」こそ、わたしたちが知っている、わたしたちの主イエス・キリストなのだ。わたしたちの主イエス・キリストは、初めに、神様と共にあり、神様のところから来られ、わたしたちのところに宿られた。これは驚くべきことではないか。これこそが、ヨハネがわたしたちに伝えたかった、キリストの福音であったのです。
 今日、わたしたちに与えられた聖書の箇所を挙げて、これこそがクリスマスのメッセージだと言った人がいます(トゥルンアイゼン)。そのクリスマスのメッセージとは、イエス・キリストが、神と共にあった世界から私たちのところにきてくださったということです。そして父なる神様と共にあるこうした世界があるということです。そしてわたしたちの主イエス・キリストを通して、この父なる神様の子としてわたしたちが召されているということです。神様がわたしたちのところに出てこられる。暗闇ということについてお話ししましたが、その暗闇の世界へと神様ご自身が出ておいでになるのです。この人は、神様が、そこにとどまっておいでになることもできたのだとも言っています。わたしたちのところに来る言。わたしたちの救い、神様と共にある救いが、神様の所から来る。人間の力で何とかしようというのでもない。知恵を積んでとか、財をつんで、何とかしようというのでもない。神様の救いのみわざが、神様の所から、わたしたちの所に来る。ただ、神様の所から来る救いを信じ続ける。この言葉を心に刻み、クリスマスを祝いたいと願います。(楠原博行:2007年12月23日クリスマス礼拝説教より

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2008/01/04

わたしが生きているので、あなた方も生きる

2008年1月1日に行われた、元旦礼拝の録音です。

  ヨハネによる福音書 第14章15-19節
  「わたしが生きているので、あなた方も生きる」楠原博行
  

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2007/12/28

光は暗闇の中で輝いている

2007年12月24日に行われた、燭火礼拝の録音です。
   ヨハネによる福音書 第1章9-14節
  「光は暗闇の中で輝いている」 楠原博行牧師
  

Krippe

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2007/11/26

命を救う

マルコによる福音書 第8章31節-第9章1節

 主イエスは、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められました。しかも、それを「はっきりとお話になった」と福音書記者はしるしています。公然と、明らかに、あからさまにお話になったのです。これは不思議なことです。なぜなら、ペトロが「あなたはメシアです」と告白したときは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められたのに、主イエスが、公然とこれから御自身について起こることを弟子たちに示されたのです。
 弟子たちにとって、この言葉はどのように響いたのでしょうか。ペトロは「あなたはメシアです」とはっきりと告白しました。「メシア」ヘブル語で「油注がれた者」の意味です。預言者、祭司、救い主としてのキリスト。尊敬し、これぞ私たちのメシアだといった主イエスが、御自身の受難について語られたのです。
 人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される。このような姿のメシアがあるでしょうか。それはあってはならないメシアの姿でした。ペトロは、主イエスを脇にお連れしていさめ始めました。

「先生、その様なあからさまなことをいわれては困ります。あなたは、私たちの希望です。メシアです。人々から排斥されて殺されるなんてことがあってはなりません。そんなことをいわないでください。」と

 主イエスは、すぐ様にふりかえって、その場で、ペトロを叱りました。「弟子たちをみながら」とありますから、弟子たちの目の前で、ペトロを叱ったのです。

「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

「引き下がれ」とは、私の後ろに回れの意味で、私の前に立つなといわれたのです。主イエスは、さらに言われました。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(35-37節)

私の弟子となり、従う者、私をキリストと信じて従う者は、自分を捨てて、私と同じように、自分の十字架を負ってついてきなさいといわれたのです。しかも、この言葉は、限られた弟子たちだけに語られたのではありません。主イエスは、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われたのです。
 この言葉を聞くと、私たちは躊躇します。私は弱い者だ。イエスさまと同じように十字架を負うことなどできない。これはむしろ、特別に信仰深い人の向けて語られたのではないかと思ってしまうのです。しかし、主イエスは弟子のみならず、群衆を呼び寄せて、教えられたのです。誰一人の例外なく、あなたも、あなたも、キリスト者として私についてくるのならば、あなたの十字架を負って私のあとに従いなさいと言われたのです。
 友人一人が洗礼を受けたときに、お祝いに教会からいただいた聖書に、マルコによる福音書8:34の御言葉が記されていました。牧師はこう語ったそうです。
 洗礼のお祝いの聖書に書く御言葉を、祈りながら探しているときに、この人にはこの言葉という示しを受けた。が、しばらくためらってしまった。洗礼を受けて教会の仲間になる方のお祝いの言葉に「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」というキリストの言葉は、あまりに厳しすぎないか。もっと穏やかな、もっと慰めのある、あなたはそのままでいいのですよというような御言葉の方がいいのではないか。しかし、なぜ、自分を捨てること、十字架を負うことが、特別な人にしかできないような辛いこと、厳しいこととしか考えられないのか。ここで主イエスは人々を呼び寄せていわれている。イエスをキリストと呼ぶということは、「私は、あなたのあとに付き従います。」「あなたのいうとおりに生きます。」と言うことである。
 当の友人は、しかし、正直なところ、この御言葉の書かれた聖書を開くことができませんでした。はやり厳しいという思いがどうしてもあったのです。その教会では、受難週の祈祷会は、長老会から指名された教会員が奨励にあたり、みんなで祈るのです。誰もが主の十字架を語るのですが、その誰もが光り輝く十字架を語ったのです。
 確かに、私たちの人間の罪を負って、主イエスは十字架に架かられ死を遂げられた。それで終わりではないのです。死んで墓に葬られ、三日目に復活されるのです。罪の私は、主とともに十字架につけられ、滅ぼされ、主の復活と共に、私たちもまた、新しい命に生きる者とされたのです。奨励を担当した一人一人が証ししたのは、罪の暗い十字架ではなく、復活の輝く十字架でした。福音のために、この復活の十字架を負って、ついてこいと主はいわれるのです。
 主イエスは、決してあなた一人で、あなたの十字架を負って行きなさいとはいわれません。自分の十字架を負って、私のあとに付き従えといわれます。すでに、私たちの前を、主イエスが十字架を負って歩いていらっしゃるから、それに倣っていけばよいのです。福音のために自分の十字架を負ってついていくと、主イエスがそうであったように、どんなに小さなことであっても、自分のためではなく、隣人のため祈ることができるます。主イエスが、人々のために涙を流されたように、自分の悲しみだけではなく、隣人の悲しみも共に悲しむことができます。主イエスが死に打ち勝たれたように、私たちもまた、新しい息を吹き入れられ、まことの命に生きることができるのです。
 自分の十字架を負って主イエスのあとに従いましょう。主が負わせてくださる、まことの命に輝く十字架の光で、この世を照らしていきましょう。
(楠原彰子:2007年11月11日:主日礼拝説教より)

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2007/10/27

あなたもキリスト者に

使徒言行録 第26章19-32節

「わたしをキリスト信者にしてしまうつもりか」。アグリッパ王はついにこの言葉を口にしました。この時、キリストの信仰をあなたは持ちますか?キリストを信じますか?とアグリッパ王はパウロから突き詰められたと感じたに違いないのです。
 キリスト信者になるということは、わたしたちが経験しますような、何かの会員への勧誘ではありません。わたしがまだ20歳頃の話ですが、集っていました教会の長老が、教会の会員になっても、この世的には何の利益もないとおっしゃったことを覚えているのです。キリスト教会の会員になっても、お金をたくさんもうけることができるとか、何か特別な力を得るとか、特典があるわけではありません。そのような俗世間的なものと教会とは関係ありませんとおっしゃりたかったのだと思うのです。
 でも、それから20年以上たった、今、果たしてそうなのかなとも思うのです。地上でなどと言い方をしなくても、こうして日々生活をしていて、こうして生きていて、本当に実感する様な益はないのだろうか、と思うのです。おととしハイデルベルク信仰問答をご一緒にお読みしまして、繰り返し申し上げましたことは、信仰問答書が、繰り返しくりかえし、キリスト信仰により「何の益になりますか?」と問うていたことでした。益があるのです!わたしは申し上げました。信仰問答書がこう問います時、それは、信仰を持つことによって、あなたの生き方がこう変わりますよ。あなたの考え方がこう変わりますよ、と繰り返し説き聞かせるように言っているのですと。
 いや、今、語っているパウロ自身がそうでした。エルサレムで命を失ってしまうかもしれない。自分の人生が、残酷にも、ここで奪われてしまうかも知れない。そう思わないではいられない。そのような危険の中にも、私の人生は死で終わりはしない。死を乗り越えてしまう信仰を持っていると言える。このような裁判の席においても、崩れることなく、自分の信仰を語ることができる。それは、私と共に、キリストがいてくださる。キリストが生きておられるからだ。パウロ自身が、自分の生き方、考え方が、こう変わった。こうすばらしいものに変えられたと語っているのに違いないのです。
 パウロの語る言葉は、次に聞く者をも変えてしまおうとします。そこでアグリッパ王は言わないではいられなかったのです。

アグリッパはパウロに言った。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」(同28節)

パウロのキリスト者としての迫力。伝道者としての迫力にアグリッパ王は圧倒されたからではなかったでしょうか。「わかった。わかった。もうその話はやめてくれ。もう言わないでも分かっているから」と言うのではないのです。そうではなくて、パウロの言葉に引き込まれそうになった。「あなたもキリスト者に」というパウロの言葉が自分の中に響き、「わたしもキリスト者として」という言葉が心の内に起こったからではなかったかと、わたしは思うのです。パウロ先生の生き方、生き様というものが、まさに自分を引き込んでしまう。この人こそがキリスト者だと思い。わたしもこの人のように歩みたい。「わたしもキリスト者として」と思う瞬間だったのではないでしょうか。
 聖書のこの箇所を読んでいて、もう十何年も前の出来事を思い出すのです。私が伝道師をしていた教会の年配の方です。そのお方は、また一方で、私が、まだ高校を出たばかりの大学生の時、たいへん親しくしてくださった教会の長老のお父様でいらした方ですが、若いころのお話をしてくださり、それが本当に楽しく、また豊かな思い出であったことから、良く聞いてくれたと、聞いているわたしにまで感謝してくださったことがあったのです。そのお方は、若い頃、一時期、かの賀川豊彦の鞄持ちをしたことがあり。この伝道者が伝道の仕事に出かける時、自分も付いて行って、どれだけ、それが今の自分の信仰の源になっているかを、本当に楽しそうに、もう60年以上昔のことだったろうと思うのですが、ひとりの若者が、あのすぐれた伝道者と旅をして戻ってきた時に、あたかも、自分の友人に話して聞かせるように、それこそ60歳は離れている私に話して下さったのでした。
 すぐれた伝道者の生き方、また人と接する時の迫力が、どれほど人を変えるのか、と思わないではいられませんでした。キリスト者との出会いが自分の生き方にとって大きいものとなるか、それとも何も残らないのか。その違いは大きいと思います。そのような出会いを、ひとりでも多くの人にして欲しいと願います。自分の殻に閉じこもったり、限られた世界の中にいて、これが自分の信仰だなどと思わないで欲しいと思うのです。パウロは、ましてやキリストと直接出会いました。自分が出会ったキリストについて、友人に、家族に、町の人々に語り聞かせる時、パウロの顔は輝き、おそらく聞く人を変えてしまうような力を持っていたに違いないのです。
 「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」と言うアグリッパ王に対して、「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります(同29節)」とパウロは告げます。時間をかけて読んで参りました、裁判の場面も、「あなたも、私のようにキリスト者に。多くの人が恐れる死を乗り越え。いかなる時も生きておられるキリストが助けて下さるという信仰を持つ、キリスト者になりませんか」という伝道の大きな機会としたのでありました。
 人々は、パウロに罪を認めません。むしろ、皇帝に上訴する訴えを起こしていさえしなければ、すぐにでも釈放されて、自由の身になっていたろうにと、口々に言い合うのです。しかしパウロは、そのような可能性、今、釈放されて自由になることなどはまったく望んではいませんでした。いよいよ、この後、パウロの本来の目的地、ローマへの旅が始まります。世界の中心と呼ばれていたローマにおいても、声高らかにキリストの御言葉を語る。パウロの生涯最後の仕事へと向かうのです。
(楠原博行:2007年9月23日主日礼拝説教より)

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2007/09/07

聖餐・喜びの食卓

コリントの信徒への手紙一 第11章23-29節

 コリントの信徒への手紙一第11章23節以下の言葉は、「聖餐制定の言葉」として、聖餐の度ごとに読まれています。聖餐は、説教と共に、主のご臨在を証しするものとして定められ、木更津教会では、毎月の第一主日と、クリスマスなどの特別のお祝いの日に、聖餐礼拝を行っています。説教のあと、主イエスが最後の晩餐でなされたように、パンとブドウの汁を分かち合うのです。
 聖餐は、主イエスが定め、主、ご自身が招いてくださった食卓、恵みの食卓です。23-25節で示される主イエスの言葉は、最後の晩餐の時に弟子たちに語られたものです。その言葉を、教会は主の晩餐を祝うたびに、くりかえし聞き続けてきました。しかし、私たちは、パウロの次の言葉(26)で、立ち止まらざるを得ないのでしょう。

だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(26)

主イエスの昇天から再び来られる時まで、私たちは聖餐を祝うごとに「主の死」を告げ知らされ、心にとめることになります。「祝いの食卓」でありながら、「主の死」を心に刻むのです。なぜ、「聖餐」の場に「主の死」が告げ知らされるのでしょうか。
 当時のコリントの教会は、分裂の危機にありました。人々は、教会の中の中の何人かの有力者たちを指して、私はあの人につく、私はこの人につくと言ってバラバラになっていたのです。主によって建てられた教会が、なぜ分裂するのか。主によって召し集められた聖なる民が分裂してはならない。パウロはそう思い、この手紙をコリントの教会に書き送ったのです。主の晩餐についても、コリントの教会では皆が勝手に食するという状態でした。主の食卓においても教会は分裂していたのです。
 パウロは、まず主イエスが、聖餐を祝うことを命じられた出来事を人々に思い起こさせました。23-25節は、最後の晩餐の席での主イエスの言葉です。十字架の上で裂かれたキリストのからだ、十字架の上で流されたキリストの血は、私たちと主なる神との新しい契約のしるしであることを、繰り返し心に刻むためです。
 23節の「引き渡される」という言葉を聞くと、私たちは最後の晩餐の後、主イエスが人々に裏切られ、押しかけた人々に引き渡されたことを思い出します。しかし、パウロはローマの信徒への手紙の中で、同じ「引き渡す」という言葉を用いて、次のように記しています。

わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。(ロマ8:32-34)

主イエスを引き渡したのは、罪人である私たちすべてであると同時に、神、ご自身です。「神が、私たちのために主イエスを死に渡される夜、イエスはパンを取り…」というのです。つまり、私たちがこの聖餐制定の御言葉を聞くときに、主イエスの十字架の死は、私たちを罪の中から救うための神のご計画であることを深く思わされるのです。

 続く27節以下の御言葉を聞くときにも、いささか戸惑いを感じる人は少なくないでしょう。
従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。(27)

おそらく、聖餐を受けるにあたって、この御言葉を聞き、自らを省みない人は、一人もいないと思うのです。聖餐を受けるときに自らを省みることは、ある意味で正しいことです。しかし、この部分についても、問い直さなくてはなりません。「聖餐を受ける足るふさわしさ」とは何でしょうか。 パウロは、そのことを29節にはっきりと示しています。

主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。(29)

 主の体とは、主イエスを頭とする教会です。聖餐は、新しい契約の民としての教会の一致を現すものです。個人的な赦しを得るものでもなければ、個人的な信仰のわざでもありません。主の食卓を主の民が集い囲むのです。聖餐を受けるときに求められるのは、主イエスによって召し集められ、主の体なる教会に集う信仰の仲間との関わりを心に刻むことです。
 キリストの死も、私個人の罪の赦しに留まらないのです。主イエスは、この世を救うために自らを死に渡されました。パンを受け取るときに、私たちは、この世のために裂かれたキリストの体を思います。キリストが身体を裂かれたから、私たちは生きるのです。杯を受け取るときに、私たちは流されたキリストの血を思います。キリストの血は、神と新しいイスラエルの契約のしるしです。
 この約束を、神は、誇るべきものがないばかりか、むしろ罪のまみれた私たちに、憐れみと恵みのゆえに与えられるのです。これ以上の奇跡はありません。その奇跡を、私たちは聖餐のたびに、見て、味わうのです。
 ならば、私たちは、聖餐を受け取るときに、自らを省みて尻込みをするのではなく、むしろ、神は、その恵みのゆえに主の食卓に私たちを招かれ、キリストの体と血を受ける決意をするように促されるのです。
 讃美歌21、75番を味わってください。1番の歌詞は、次のことをあらわしています。
 私たちは、すべてを納められる、主によって、主の食卓への招きを受けているのです。しかも、罪の衣を脱いで、主の食卓に集うにふさわしい、光の衣をまとうのです。この光の衣は、主イエスの十字架の死と復活が、私とこの世の救いのためであることを信じ告白するものに、与えられるころもです。
 続く2番の歌詞は次のことをあらわしています。
 私たちは、飢え渇きます。その私たちに、主は祝福し聖別したパンと杯を与えられるのです。尻込みする必要はありません。私たちは、自らの罪を知っているゆえに、私たちの救いは、この主イエス・キリストをおいてほかにはないと告白することができるのです。与えられたパンを感謝して受け、主の体に連なり一つとなるのです。

 まだ、洗礼を受けていない方たち、信仰告白式を終えていない方たちへ。主なる神は、あなたの応答を待っています。あなたも、主の食卓に連なるものとなるように、主の体に連なり、一つとなるように。その心で信じ、口で信仰を言いあらわし、洗礼を受けることを、私たちもまた、祈っています。
 そして、すでに信仰を言い表している私たちも、改めて、聖餐に示されている恵みと、はかり知れない奇跡を、心に刻みつづけるのです。
(楠原彰子:2007年8月26日 主日礼拝説教〈修養会開会礼拝説教〉より)

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2007/07/30

耳と口が開く

マルコによる福音書 第7章31-37節

 私たちが、主日ごとに献げる礼拝において願うことは、魂が開かれ、与えられる御言葉を受け入れることができるようになること。語る者も、聞く者も、まず、神によって魂を開かれることを祈り願うことから、礼拝は始まるのです。今、私たちに与えられている御言葉も、主イエスによって魂を開かれた人の奇跡の物語です。
 主イエスは、エルサレムから来た律法学者やファリサイ派の人々と、清さについての論争をされたあと、ずっとイスラエルの辺境の土地を行かれました。そして、そこで出会う、異邦の人々にも、御言葉を告げました。マルコがここで記したかったのは、ユダヤ人よりも異邦の民の方が御言葉を受け入れたとか、都会のエルサレムよりも、田舎に住む素朴な人たちの方が、主イエスを受け入れる心を持っていたとかの話ではありません。神に向かって心を開き、神の言葉を受け入れるとは、どういうことかなのです。
 ここに一人の人が連れてこられました。耳が聞こえず、舌の回らない人です。この人が自分から主イエスのところに来たので
人々が、この人を主イエスのところに連れてきました。耳の聞こえない人は、歩くことはできたし、耳が聞こえなくても、主イエスのことは、知っていたでしょう。では、なぜ、彼は自分から主のもとに行くことをしなかったのでしょう。
 もしかすると、こういう事だったのかもしれません。仮に主の前に行ったとして、自分の願いをどのようにして、主にお伝えすればいいのでしょう。自分は舌が回らないし、イエスさまの前に立ったら、緊張し、舌は硬直して、ますます、話すことが困難になるかもしれない。きちんと願い求めることなんかできないんじゃないか。それを見て、周りの人は笑わないだろうか。…いろいろな思い煩いが、彼を取り巻いていたのでしょう。
 心閉ざしている彼を、主のもとに連れて行ったのは、周りの人々でした。ある説教者は、その中に、悪霊を追い出していただいたものも入っていたのではないかと想像しました。自分は、主の前に、助けてくれと言うこともできなかった。悪霊のために、悪態をつく言葉しか出せなかった。墓場をうろつき、喚き騒ぎ、自分の身体を傷つけることしかできなかった。でも、その様な私を、主は救ってくださった。今、主イエスがこの地方に来られている。さあ、行こう。あなたも癒していただくために、イエスさまの所へ行こう。
 主イエスは、ここでも、人々の信仰をご覧になって、うんと頷かれたに違いないのです。今回、主イエスは、人々の前で癒しのわざを行うのではなく、この人一人を群衆から連れ出されました。宗教改革者、マルチン・ルターはこう語ったそうです。
 回りに弟子たちがいたかもしれないが、この男は、主イエスと二人きりになる。他の人から離されて、「一人神の御前に立つ」。信仰とはそういうものである。一人神の御前に立つところで、信仰は成り立つ。そして、その信仰に根ざす愛に生きる。愛は、とどまっていないで外に出て行く。一人であることを好まず、それどころか、自分のと同じ痛みのある人の所に行って、イエスさまの所に行こうと声をかける。それが「伝道」だ。
 一対一に向き合われた主イエスは、今までは、言葉で癒されていましたが、ここでは、耳に指を入れ、つばをつけた指で舌に触れ、「開け」と命じられました。耳に入れた主イエスの指から、力が流れ出して、この人の中に注入されていく。また、つばは、癒しの薬のようなもの。さらに、「エファタ」これは、呪文の言葉のように、聞こえるかもしれません。が、福音書記者が伝えたかったことは、主イエスから流れ出て、私たちを変えていく神の権威ある力です。
 ここに用いられる「開く」のギリシア語は、押し開いていく様子を意味する言葉です。たとえばルカによる福音書では、よみがえりの主イエスが失望のうちにエマオに向かっていた弟子たちに顕れたとき、また、エルサレムで集まっていた弟子たちに顕れたとき、彼らの心の目を開いて御言葉を悟らせたと記されています。
 私たちは、人間の心はかたくなで、それが「罪」だとも教えられています。そして、自分の力で、そのかたくなな心を開いて、神様の方に向かなければならないと考えてしまうことがあります。あるいは、なかなか教会に足を向けてくれない友人や家族に対して、そのかたくなな心を何とか開こうとがんばってしまう事もあるでしょう。そのときに、石のようなかたくなな心は罪の故だから仕方ないと居直ったり、なじったりする。本当は、主イエスこそが、岩のような私たちの心を砕き、心を打ち開いてくださることを、忘れていないでしょうか。
 ここで主イエスは、もう一つのことを、私たちに示されます。天を仰いで深く息をつかれたのです。天の父に対して、この人の耳と舌を解き放ち、開いてくださるように祈られたのでしょう。そして、この出来事は、主イエスによって、天が裂け、神の御国と地上とが繋がったことを、私たちに思い起こさせるのです。今ここに、またひとつ、神の国が来たことを告げる出来事が起こったのです。
 この人の耳は開かれ、口を縛っていたもが解かれて、はっきりと話すことができるようになりました。彼の耳は、御言葉を聞き、受け入れることができるようになったのです。また、口には、賛美と祈りの言葉が与えられました。
 主イエスは、人々にこれらのことを話すなと禁じらました。福音書記者は、主イエスの真のお姿を知るのは、十字架の死と復活を経た後と考えています。また、先に行った、指を入れる行為、舌に触れること、「エファタ」という言葉が、魔術の所作事や呪文の言葉にならないためです。しかし、人々は、このでき事を話さずにはいられなかった。福音書記者は、まだ主イエスの時は来ていないことを記しながら、しかし、人々の唇に、驚きと、賛美の言葉を神が与えてくださったことも記すのです。
 福音書記者は、苦しんでいる人が癒されることが起きたのではなく、神の民が回復されること、神の国の支配がもう始まっていることをここに記したのです。そして、神の国のご支配は、聖書を通して、今、私たちにもつげ知らされているのです。
(2007年7月8日主日礼拝説教より)

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2007/06/25

主の御心

わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。彼らは”霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。
       (使徒言行録第21章4節)
今、パウロは自由に御言葉を語る使徒として最後の時を迎えているのだと言う人がいました。確かに、まもなくパウロは逮捕拘束され、命を狙われます。でもそれは決して伝道者パウロの歩みが妨げられることではありません。むしろ伝道者パウロの人生の最高点であるという人もいるのです。パウロも弟子として、十字架を担われた主イエス・キリストの歩みに従うのです。
 エルサレムにおいてパウロは捕らえられると、ここ、ティルスの町の小さな教会でも聖霊が語っておられました。教会の人々はパウロを引き留めようとするのです。ある人は言います。目の前にある信仰のための苦難。そんな時、わたしたちの心の中にはいつも当然のように、「だめだ。やめよう」という気持ちが起きるではないかと。神の聖霊によって示される、目の前にある苦難、苦労というものは、だからすぐに「やめなさいという警告」になってしまう。しかしパウロは止められても旅立つのです。神様が私たちに与えられる苦労というものは、すぐに「やめる。断念する」ということには結びつかないからです。優しい言葉、楽しい事柄、耳にやさしい事ばかり語る偽預言者であってはならないからです。
 そのような厳しい場面において、エフェソの大教会ではなく、ティルスの町の小さな教会の人々について記されています。ある人は言います。小さな親しい交わりの中にある教会が、心から、この苦難に向かう使徒パウロを心から送り出すのだと。
しかし、滞在期間が過ぎたとき、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした。彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。(同5、6節)
 探さなければ見つからないような小さな教会でありましたが、教会の人々は、妻や子供を伴い、家族ぐるみで、パウロたち一行を町はずれまで見送ったのです。浜辺でひざまずいて祈り、別れの挨拶を交わしたのです。先ほどの人は言います。「何とすばらしい光景だろう。すべての人々が浜辺でひざまずき、共に祈り、別れをする。そこには子供たちも一緒になって、パウロたち一行を見送るという体験をする。同じ主キリストの体の枝として、何と、これから歩む道が異なっていることだろう。」
 カイサリアに到着したパウロ一行は、フィリポという人の家に滞在します。あの使徒言行録第8章でエチオピアの宦官に旧約聖書イザヤ書を解き明かした弟子、ステファノの殉教の事件の後、危険なエルサレムを離れた一人でありました。たいへん不思議なことです。今やかつての迫害者が、迫害されていた人の客として、しかも同じキリストの兄弟として共にいるのですから。
 ここでもアガボという人が、パウロが縛られ異邦人の手に引き渡されると預言をしました。人びとはパウロを引き留めようとしたのです。ついにパウロは答えます。
「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」(同13節)
 「主イエスの名のためならば」とパウロは言います。今目の前で起きていることは、どうしようもない、どうにもならない出来事ではないということです。今目の前に迫っている困難は「主イエスの名のため」に起きている事柄である。
パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。(同14節)
 「主の御心が行われますように」の言葉はわたしたちにとって大切な言葉です。「主の御心が行われますように。」そしてわたしたちはもう口をつぐむしかないのです。「主の御心が行われますように」と祈り、すべてを神様におゆだねしてしまう。なぜそんなことができるのでしょうか。それは主イエスが「わたしに従いなさい」とおっしゃったことに従うことなのです。それは十字架におかかりになる前の夜、主が必死で祈られた言葉でもあるのです。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
 (マタイによる福音書第26章39節)
 パウロがこの時までにはエルサレムに到着したいと願った五旬祭、ペンテコステの日を今日わたしたちは迎えています。私たちの助け手、聖霊が来てくださった日です。
宗教改革者マルティン・ルターは次のように言っています。「このすべての世界、すべて輝き光るものに対抗して、神様が憐れみ深く、わたしたちをお救いになる方であることを信じること。そしてそのことを口に出して告白することは、今や厳しいことであるかもしれない。」暗いもの。闇ばかりではありません。この世には、輝き光るものがある。しかしそういうものに顔を向けるのではなく、神様の方向に顔を向ける。私は愚かになるかも知れない。罪の問題がある。わたしの弱さの問題がある。いや何よりも死ぬということへの恐れに、わたしはさいなまれる。ルターは言うのです。そんな時「聖霊が来る。聖霊が来てくださる。わたしの心に触れて、聖霊がお話になる。」
 愛し、愛し抜いて従っていた、主イエスが、この地上をお離れになる時、弟子たちの不安はいかなるものであったろうかと思うのです。直接、傍にいて、教え、守り、導いていてくださった、主イエスが、今、自分たちを離れてしまう。ルターは言います。その時、風の音がするというのです。聖書で「霊」と言う言葉は「風」という意味もあるのです。「ヒュー。さあ元気を出しなさい!聖霊はわたしたちに勇気を吹き込んでくださる。わたしたちに親しく、慰め深く話しかけてくださる。」
 不安の中で、どうして主の御心の通りになりますようにと祈れるのでしょうか。それは、この地上において、聖霊が助けて下さることを信じているからなのです。
(2007年5月27日ペンテコステ聖餐礼拝説教より)

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2007/03/29

いのちの糧

マルコによる福音書 第6章30-44節

 今日、私たちに与えられました御言葉は、主イエスが非常に多くの人々に食べ物をお与えになった奇跡、パンの奇跡の物語です。主イエスのなされた奇跡は、どれもびっくりするような出来事です。その力の大きさに私たちは心を奪われてしまいますが、多くの人々に食べ物をお与えになった奇跡の物語は、もう一つの点で、私たちが注意をひくことがあると言われています。それは、このパンの奇跡は、主イエスが、人々から「パンを与えてください、飢え死にしそうです」と求められてしたものではない、ということです。しかも、「私が用意をしようと」と、主イエスがすぐにその場で、パンの奇跡をされたわけではありません。
 今日の物語は、使徒たちが主イエスもとに帰ってきて、伝道の報告をするところから始まります。これは、6章6節以下の話の続きです。弟子たちのその報告を、主イエスは、ひとつひとつをお聞きになったのです。報告をお聞きになった主イエスは、伝道から帰った使徒たちを休息の場へと招かれます。
 ここに、「人里離れたところ」とあります。「人里離れたところ」と聞いて、すぐに思い浮かぶのは、1章35節で、主イエスが祈るために出て行かれたところでしょう。「人里離れたところ」は、主イエスの祈りの場、すなわち、主なる神と向き合う場で、休息するために、弟子たちを招かれたのです。
 しかし、人びとは主イエスと弟子たちが、人里離れたところに向かっていることに気づき、彼らよりも先回りしてそこへと向かいました。休憩に、すでにおびただしい人々が、彼らを待ち受けていたのです。
 (人里離れたところにおいて弟子たちと)船から上がった主イエスが見たのは、「飼い主のいない羊にような有様の人々」、歩むべき方向、見上げるべき方向も分からない、「飼い主のいない羊」のような存在だったと福音書記者は記しました。歩むべき方向が分からないと、それぞれは身勝手な方向に進んでしまいます。主なる神様の方向を向かない、自分を中心として身勝手な方向に行ってしまう罪の姿を見て、主イエスは、深く憐れまれたのです。私たち人間の罪の痛みを、主イエスご自身が知ってくださったのです。
 主イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められました。
ここでも、主イエスが語られたのは「悔い改めの宣教」でしょう。悔い改めるとは、自分の罪を見つめ続けることではありません。私の罪は、悔いても食いきれないと言って自分自身に呪いをかけることでもありません。身勝手な方向に進んでいくことをやめ、主なる神を見上げる方向に180度方向転換てすることです。ここでも、主イエスは、そのことを教えられました。
 時が過ぎ、弟子のひとりが、提案します。

「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」(36)

しかし、主イエスは、このすすめを断って言うのです。ほかの誰でもない、

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(37)

主イエスは、更に弟子たちを教育されるように、このパンの奇跡に引き込まれたのです。すぐに弟子たちが考えたのは、その場から離れて、食料を調達してくることでした。しかし、そこで主イエスが言われたことは、この場を去ってパンを探しに近くの町に出かけていくことではありませんでした。

イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」(38)

更に、この五つのパンと2匹の魚を配るにあたって主イエスが、弟子たちに命じられたことは、皆を組に分けて、青草の上に座らせることでした。行く先の分からない、勝手な方向に歩み出してしまうような、飼う者のいない羊の群れのようであった人々を、神の民の群れとして、秩序立てて並ばせたのです。人々の様子は、もはや「飼う者のにいない羊」の有様でありません。主の与えられた食べ物で満たされた群れとなったのです。
 しかし、マルコは、弟子たちが悟らなかったと記しました。何を悟ることができなかったのでしょうか。更に、この先の8章では、ペトロの信仰告白の記事が記されていますが、その直後になされた主イエスの受難の予告に対して、ペトロはそれを否定し、主叱責されるのです。そればかりか、主の十字架を目の当たりにして、人々は失望し、主イエスから離れたのです。まさに、「飼い主のいない羊」の有様でした。
 パンの奇跡で示された主の姿は、羊飼いとしての主イエスです。過去のどの預言者よりも力のある方です。大勢の人々食べ物を用意する奇跡を起こす方としてではなく、病を癒す力をお持ちの方としててもなく、また、貧しい者、虐げられている者を解放する指導者としての方ではなく、神の民を主の下に導いていく真の羊飼いとしての主イエスが、ここに示されているのです。この時、弟子たちの悟ることの出来なかったのは、この主イエスのお姿でした。
 しかし、そのままで終わりにならないことを聖書は私たちに示しています。死から復活された主イエスは、まず弟子たちに現れ、再び主イエスに養われる羊の群れ、教会がそこに形成されるのです。
 主イエスは、弟子たちに言われたように私たちにもお命じなります。私の、真のいのちのパンを携えて、この世に出て行きなさい。私の与えたパンを与えなさい。主イエスの御言葉を携えて、この世の歩みへと派遣されようとしています。直接に主イエスの言葉、聖書のことを話す機会は何かもしれません。が、どんな日々の仕事の中に必ず、御言葉の光は現れるます。そのことを信じて、日常茶飯の小さな業も、主の導きの祝福を祈ってなしていきましょう。
(楠原彰子:2007年3月11日主日礼拝説教より)

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2007/02/26

信じる喜び

使徒言行録 第16章11-40

フィリピの町で起こった出来事を読み味わっています。信じる喜びについて語られるのです。パウロとリディアという女性の出会いが記されていました。彼女の家族が皆洗礼を受け、フィリピの教会が誕生しました。まさに信じる喜びが語られるのです。
 しかしその一方で何が起こったでしょうか。パウロたちは捕らえられ、残虐な仕打ちを受けます。牢獄の中での出来事も記されます。彼らが助け出されることも記されるのですが、今や、逆の立場について。つまりパウロたちが救出される事は、牢獄の看守たちにとっては一大事なのです。職務を全うできず、責任を感じた看守たちが自殺までしようとする事が記されるのです。
 言われのない罪で逮捕投獄されるパウロたち。一方で思いもよらない出来事で職場でミスを犯し、その悩みから命を絶とうとする人々。信仰の喜びはどこにあるのかと問い返さざるを得ません。不当な仕打ちでひどい目に遭わされると言うことがわたしたちにも起こります。職場でのつまづき、疲れから、命を絶つ人がどれほど多いのか。わたしたちは日々、耳を閉ざしたくなるほどに聞くのです。
 事件のきっかけはパウロが占いをする霊を女奴隷から追い出した事でした。占いが出来ないのですから、持ち主からしてみれば大損害です。そこで人びとをそそのかしてパウロに仕返しをしたのです。オカルト的な力で占いをする力が失われたと言っても、金品が奪われたり、壊されたのではありません。裁判しようがないとも思われます。だからパウロたちが受けた仕打ちは行き過ぎであり、もしかしたらよそ者を嫌う、みにくい感情が込められていたのかもしれないとも言われるのです。
 パウロとシラスの二人は、いちばん奥にある牢の中に入れられたとあります。重罪人として、木の足枷まで付けられました。パウロたちはそういう身じろぎもできない様な所に押し込められました。わたしたちも、日々の歩みの中で、そういう経験をする事があるに違いない。そこで語られることがまずひとつ。キリスト者にある信じる喜びです。おとしめられ、たとえそれが全く不当な事であったとしても、うなだれ下を向くだけである必要がないとの事です。

真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた(使徒言行録第16章25節)。

 重罪人として、最も深い牢屋に入れられて、足枷までかけられている二人が、顔を上げ、天を仰ぎみて、神様を礼拝している。他の囚人たちまでもが二人の声に耳を傾けるのです。美しい声に心惹かれたのでしょうか。パウロたちの信仰に引き込まれる。そういう体験です。教会はそういうところでありたいと願います。少しでも力強い賛美の歌を、少しでも人を励ます、信仰の言葉が、わたしたちの教会でも語られるならば、とわたしたちは願っているのです。牢の中にいた囚人たちがパウロとシラスの声に耳を傾ける。いったい何を思うのでありましょうか。たとえ犯罪を犯した囚人たちであっても、明日を思うのでしょうか。自分の境遇をなげくのでしょうか。それとも犯した罪を悔いるのでしょうか。神を讃える歌が、人々を、立ち直らせ、新しい歩みを始めさせる、そのきっかけとなることは、わたしたちにとっても同じなのです。
 虐げられても上を見上げる事ができる、信じる喜び。そしてたとえどんな理由、いきさつがあったとしても、悲しみ沈む人びとを励ます力を持つ。これも信じる喜びです。さて牢屋の看守たちにとって思いがけない事が起こります。

突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった(同26節)。

 囚人たちが逃げてしまえばたいへんな失態です。看守たちはすぐに剣を抜いて自殺をしようとしたのです。パウロは大声で叫びます。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」もうこれ以上進めない、もうこれ以上生きることができない、そのぎりぎりのところで、パウロが叫ぶのです。パウロの叫び声を、命を絶とうとするぎりぎりのところで看守たちは聞いたのです。わたしたちにそういう声が聞こえるでしょうか。わたしたちにも、もうこれ以上生きることができないというぎりぎりのところがあるに違いない。しかしそこで声をかけてくれる人がいるのです。
 看守は、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏します。何の震えなのでしょうか。恐怖であったかもしれない。自分たちに理解できないことを目の前に見ている震えであったかもしれません。思い詰め、死のうとして、そのぎりぎりのところで止められた震えです。生きろと叫ぶ声を目の前にしたときの震えです。わたしたちも経験したことがあるはずの震えです。自分の力だけでは生きることができないことを知った震えです。看守は尋ねます。

「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った(同31、32節)。

 確信に満ちた言葉。信仰に満ちた言葉です。信仰を求めている人びとに、力強く語られる言葉です。まだ真夜中であったにもかかわらず、しかも罪人として牢屋に入れられていたにもかかわらず、看守はパウロとシラスの二人を連れ出して怪我の治療をしてやるのです。まだ真夜中であったにもかかわらず、自分も家族も皆、すぐその場で洗礼を受けたと記されています。家族すべてが手を取り合って喜ぶ姿が描かれます。信じる喜びが、信仰を持つことになった喜びが語られるのです。
 そして最後に、もうひとつの信じる喜び、信仰の交わり、教会の中にある喜びが語られているのです。この町で起きたひとつひとつの出来事の背後にフィリピの教会があった。フィリピの教会のリディアたちの祈りがあったことを忘れてはなりません。

牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した(同40節)。

 励まされ、励ます。支え合う教会と信徒たちです。わたしたちが常に求めるまことの教会の姿です。
(楠原博行:2007年2月18日主日礼拝説教より)

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2007/02/01

見よ、新しいことを私は行う

イザヤ書 第43章19節

 一年のはじめの1月1日には、多くの国々で人々は教会に集まり礼拝を守ります。祝福に満ちたクリスマスの季節を過ごすと、今度は新年を迎えるのです。その新しい年が健康な、また実りの多い年になりますようにという祝福の言葉が、新しい年に向かって与えられるのです。新しい一年が幸せなものとなりますようにという願いが込められています。
 毎年、ひとつの御言葉を選んで、その御言葉を携えながら教会の一年の歩みを続けています。今年選ばれました御言葉は旧約聖書イザヤ書43章19節です。

見よ、新しいことをわたしは行う。/今や、それは芽生えている。/あなたたちはそれを悟らないのか...

 これに先立つ16節以下には次のように記されているのです。

主はこう言われる。/海の中に道を通し/恐るべき水の中に通路を開かれた方/戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し/彼らを倒して再び立つことを許さず/灯心のように消え去らせた方。(同16、17節)

 海の中に道を通す。水の中に通路を開く。また戦車や軍隊を倒し消え去らせた。これはわたしたちが良く知っています出エジプトの物語です。「十戒」の映画で知っています神様が紅海の水を割って道を通し、イスラエルの人々をエジプトの国から脱出させた出来事。あるいは追い迫ってきたエジプト王ファラオの軍隊の上に、紅海の水をもとに戻してイスラエルの人々を助けた出来事なのです。イスラエルの人々だけでなく後のたくさんのキリスト者が神様の大いなるわざとして語り継ぎ、また映画やミュージカルなどで描いた大きな出来事を、今、神様ご自身が口にされる、そういう部分なのです。しかしその次の一節を見るとわたしたちは驚くしかありません。

初めからのことを思い出すな。/昔のことを思いめぐらすな(同18節)。

 出エジプト。イスラエルの人々が紅海を渡る。エジプトの軍隊が打ち破られる。そういうわたしたちキリスト者も神の御業として語り継ぐような大いなる出来事を神様がお語りになったその直後に、初めからのことを思い出すなとおっしゃっている。「初めからのこと」とは、信仰の原点としての出エジプトのことと取れます。また聖書がその一番最初に語っている天地創造の出来事を言っているとも理解できます。しかし、その大切な「初めからのこと」を、そしてそれにとどまらない「昔のこと」を思いめぐらすなと神様ご自身がおっしゃっているのです。「海の中に道を通し」とか「戦車や馬、強大な軍隊」を倒したと神様ご自身がおっしゃれば、わたしたちは考えるに違いないのです。神様の御業、わたしたちの先人たちがどのように歩み、わたしたちの先輩たちがどのような教会を築いてきたかを。だからこそわたしたちは18節を読むとびっくりしてしまうのです。
 神様ご自身が、初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな、とおっしゃっておられる。それはいったいどうしてなのでしょうか。ここで19節の言葉が来るのです。

見よ、新しいことをわたしは行う。/今や、それは芽生えている...(同19節)

 神様ご自身が、わたしと言って、新しいことを行うとおっしゃる。しかも、その新しいことが、いつ来るのか、いつ来るかというのではなくて、今もう始まっている。いやその新しいことが新しい芽となって、芽生えているとさえおっしゃっている。
 なぜ神様はそこまで言わなければならなかったのでしょうか。歴史背景を考えてみればわかるのです。イザヤ書が語っている時代。すでにイスラエルとユダの国々は滅んでいます。人びとはバビロニアという北の大国へと連れて行かれて長い捕囚の時を過ごしました。しかし状況が変わった。今やバビロンの国も力を失い。ペルシャの時代になった。ついに解放の時が訪れたのです。イスラエルの地に帰還しても良い。ふるさとである故郷へと帰ることができる。しかし何が起こったでしょう。長く続いた外国での生活。奴隷状態にあったわけでもない。普通の生活が営まれていたのです。今更、イスラエルの地に帰還することもない。自分たちは十分やっていける。こういう声がイスラエルの人々の間に聞かれたと言います。

...わたしの道は主に隠されている...
  わたしの裁きは神に忘れられた...
           (同40章27節)

 主なる神様とわたしはもう関係ないのではないか。神様はわたしのことなど忘れてしまっておられるではないか。そうではない。そうではないという神様の声こそが、「見よ、新しいことをわたしは行う。/今や、それは芽生えている。/あなたたちはそれを悟らないのか...」との言葉なのです。
 新年を迎えるにあたりわたしたちはいろいろと思いを巡らします。それは仕事のことであるかもしれません。勉強のことであるかもしれません。家庭のこともそうでしょう。自分の人生について、年が新しくなって、思いを巡らすに違いありません。今日、この教会に集いましたわたしたち、その思いをめぐらすことをする中に、すでに、しっかりと神様が真中にお立ちになっていることを忘れてはならないし、お立ちになっておられるからこそ、私たち自身、支えられ、力づけられることを思い起こしたいと思うのです。

見よ、新しいことをわたしは行う。/今や、それは芽生えている。/あなたたちはそれを悟らないのか...

 「あなたたちはそれを悟らないのか」と主なる神様は厳しい言葉をもかけられます。何よりも、「見よ、新しいことをわたしは行う」と、神様ご自身が、わたしたちの内に新しいことを行おうとされていることを覚えたいのです。人生、職業、家庭、すべてにおいて、神様は、信仰ということをその中核において、新しいことを行うとおっしゃっておられます。そしてそのことにわたしたちが気づく前に、はっきりと認識する前に、すでに「今や、それは芽生えている」ともおっしゃっておられる。このことを心に留め、また支えとして、2007年の新しい年を迎えたいと願います。
(楠原博行:2007年1月1日元旦礼拝説教より)

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2006/11/02

神に栄光を

使徒言行録 第12章20-25節

 「神に栄光を」の言葉は、わたしたちが聖書やキリスト信仰の書物を読むとき頻繁に目にする言葉です。10月最終の主日、わたしたちは宗教改革を記念する礼拝を祝いますが、「神のみに栄光を-soli deo gloria-」とは改革者たちが標語にして教会の信仰を問い直したことばでもあります。彼らの系譜にあることをはっきり言い表すわたしたち改革派と呼ばれる教会では、教会の旗印でもあるのです。わたしたちは祈りをささげます。わたしたち自身が祈る、祈りの中で、実はわたしたち自身の口からもうすでに「神様に栄光がありますように」との言葉が繰り返し出て来ているのではないでしょうか。
  でも神様の栄光とはいかなるものだろうかと考えると、それほど一筋縄ではいかないのです。しかし、実のところ、この栄光が、別の言葉で言えば、栄誉、ほまれというものが人間についてのことであれば、これは良くわかることがらなのです。わたしたちのほまれです。わたしたちの名誉についてです。わたしたち人間としての誉れについては、大きな関心事です。社会で生きている限り、ほまれというものを気にします。名誉というほどではないにしても、自分が、働いて生活をしている、職場、社会において、他の人が、自分をどのように見ているのか。職場での地位については、考査とか、もっと現実的な問題を伴って参ります。
 キリスト者といえども、自分自身のほまれの問題からは逃れにくいということです。神様の栄光ということを平気で口にしつつ、自分の栄光の問題の方にも目を向けてしまうということです。今日わたしたちに与えられております聖書の御言葉から、ひとつの典型例、自らの誉れをこの上なく求めてしまった人の姿を読むことになるのです。主人公は、先週ご一緒にお読みしましたところで、ヤコブ、ペトロに迫害の刃を向けた、ヘロデ王なのです。

 ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた(使徒言行録第12章20-22節)。

 王から目をつけられた住民が、嘆願をしたというわけです。しかも王の側近に取り入るという手段を使わなければならないほど、王から目をつけられ、怒りを持って扱われた人々なのです。ようやく王と面会がかないます。ヘロデ王が王座について演説をします。演説を聞いた人々が、ほめそやすのです。「これは神の声だ。なんと神々しいことか。何と栄光に満ちた声だろうか。語るのはヘロデ王だが人間の声ではない」と言うのです。それは住民たちの演出であったに違いありません。食糧の問題、自分たちの生き死にが関わっているのです。ようやく面会がかない、ようやく和解の言葉がヘロデ王の口から発せられようとしている。ティルスとシドンの住民たちは、少しでもヘロデ王の機嫌を取って、少しでも有利な言葉を引き出したい。「神の声だ。人間の声ではない」という叫びも、そういう計算づくめの、いやらしさで満ちています。
 しかし自分を褒めそやす言葉を聞いて快く思うのは人の常です。それが「神様のようだ」という信仰の根幹を揺るがすような言葉でも、受け入れてしまうことがあるのです。「神様に栄光がありますように」と祈る口を持っている人が、「あなたは神様のようだ」というほまれの言葉を受け入れてしまう恐ろしさです。

 するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた(同23節)。

 天罰だと言うのでしょうか。神の罰が降ったとさげすんで見るのでしょうか。しかし、わたしたちがここに見るのは、人間の心の闇だと思います。わたしたちひとりひとりにひとしく関わってくる暗闇に違いないのです。人間の栄光。人の誉れを語る時、そこには暗闇しか存在し得ないのだと思います。この暗闇のような世界を生きるわたしたちと言いながら、時には、その暗闇を、わたしたち自身が作り出そうとしているのです。もしそれに気がついたら、自分の生活の一片にでも、そのような暗闇を見つけ出したとしたら...
 ヘロデ王の物語は、わたしたちが人間的な思いによって、陥ってしまう暗闇です。わたしたちが陥ってしまいかねない暗闇なのです。しかし、このような突然倒れ伏してしまうような暗闇でなくても、わたしたちの信仰の歩みの中で経験する暗闇というものがあると思います。
 信仰生活ということを考えるとき、いろいろな言葉が発せられるのです。洗礼を受けた時の感激が、いつしか薄れ、あのときの輝きはどこへいってしまったのかと嘆く声です。神様、神様と呼びかけながら、どうしてもその神様が生きておられるということに深い感動を持って生活することができないという嘆きです。また愛に生きる。光の中を歩むと言いながら、いつしか闇の中を歩んでいるのではないかという思いにとらわれている自分がいるという嘆きです。わたしたちは光を見たいと願うのです。自分の中に、あるいはすぐそばに暗闇がある。わたしたちに与えられた使徒言行録 12章の物語は、ヤコブの惨殺。ペトロの投獄と救出。そしてその迫害を行った張本人、ヘロデ王の死を語った後、それとはまるで対照的に次のように記すのです。
 神の言葉はますます栄え、広がって行った。バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った(同24、25節)。
 人間が陥る闇の物語とは対照的な言葉です。神の言葉は止まないと言うことです。人間の側にどんな闇があろうが、神の言葉は栄え、広がるしかないということです。教会の業はいかなることがあろうとも止まらないということです。バルナバとサウロは遣いの任務を果たし、アンティオキアへと帰って行くのです。二人による最初の宣教旅行がいよいよ始まります。神の栄光のために。
(楠原博行:2006年9月24日主日礼拝説教より)

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2006/09/26

熱心な祈りを

使徒言行録 第12章1-19節

 そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた(使徒言行録第12章1-5節)。

 なぜ信仰のために迫害に耐えることができるのでしょう。なぜ信仰のために、ヤコブは死に、ペトロも牢に入れられる事に甘んじるのでしょうか。片や、迫害をするヘロデ王の方は、人が喜ぶから、ユダヤ人が歓声を挙げるからという、ただそれだけの理由で、尊い命をもてあそんでいるのです。
 なぜ信仰のゆえに、自分の命さえささげることができるのか。この世に執着がないということです。この世において富を築き、その富の中でたたえられる豊かな生活をしたい。この世において何か大きな記念碑を建て、その前でたたえられる者となりたい、そういうことを目指すのではないからだと思います。百何十年か前にはこの国ではまだ迫害が行われていたのです。わたしたちの教会においてもまたそうでありました。わたしたちは、時に、その先輩たちをたたえたり、その功績をもてはやしたりする罪に陥ることがあり得ると思うのです。彼らは、後にたたえられたり、持ち上げられたりするために信仰の戦いを戦ったわけではなかったはずです。時には妨害の中で、迫害と呼んで良い状況の中で、このエルサレムの教会のように熱心に祈り続けたのは、名声や、後の顕彰のためではなく、神様への信仰のゆえであったことを私たちは忘れてはなりません。もし、そうでなかったとしたら、この世において不利な立場に追いやられたり、時にはこの世を去るということに直面しなければならない、そんな信仰のゆえの迫害に耐えることなどできないはずなのです。
 水曜日に開かれております祈祷会に、多くの方がなかなか参加することができないのが残念です。先日、2年近くかけまして、旧約聖書の創世記全巻を読み終えました。特にここ何週間か、創世記後半の族長ヤコブの物語、特に、ヤコブが、あるいは息子のヨセフが、この世を去っていく物語をご一緒にお読みしたのです。族長ヤコブは、この世を去る時にいったい何をしたでしょうか。息子たちをひとりひとり祝福し、神さまの約束をはっきりと言い表し、それを子供たちに指し示して息を引き取ったのでありました。自分は、約束の地を、自分の墓所であるほんのひとかけらの土地をカナンの地に持っていただけでした。息子はエジプトという大国で、ファラオに次ぐ地位を持つ大臣となっています。それでもエジプトを出て、その一片の土地に葬られることを望みました。それはどうしてでしょうか。それは自分が死んだ後も、信仰が、神様の約束が決してなくなることはないと確信していたからに違いありません。そしてそのことをしっかりと子供たちに受け渡すことこそ自分の役目であると信じていたからに他ありません。
 使徒言行禄は、ヘロデ王の迫害に続いて、捕らえられたペトロについて記すのです。このペトロに不思議なことが起こるのです。天使が現れ、鎖をはずし、牢獄の門を開き、自分には今何が起こっているのかわからないような仕方で、ペトロに対して次々と救いのわざが成就していくのです。つながれていた鎖から、牢獄から解き放たれて町の中に戻って来た、その時になってはじめて、ああ、自分が助けられたのだということにペトロは気づくのです。そして教会の人々のところへと向かいます。

 こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。 門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた(同12-14節)。

 信仰が守られるようにと教会は祈り続けます。そして、まさにその時、ペトロがその建物の扉をたたいたのです。不思議な描き方がなされます。中では今なお熱心にペトロの安否を気遣っている人々がいて、そのペトロ本人が扉の戸をたたいているのです。ペトロ自身がもうすでに扉の向こうにいるわけですから、まことに喜ばしい状況なのです。ところが喜びのあまり扉を開けもしないで、このロデという人はペトロを放っておいて家の中に駆け込んでしまうのです。ペトロは待ちぼうけです。しかも他の人々はペトロが助かったということが信じられません。女中はペトロだと言い張って、人々はヤコブのようにペトロも殺されてしまうと恐れながら祈り続けるばかりです。ペトロは今なお玄関の所で扉を叩き続けているのです。
 迫害という重い出来事の中で祈り続ける教会。信仰を守るため耐え続ける教会です。しかし教会と言うことに思いを巡らすならば、わたしたちはこの世に捕らえられていてはならないとも申し上げたのです。そしてまた、時を越え、わたしたちの生き死にを越え、確かに受け継がれていくものがあるという、アブラハム、イサク、ヤコブの信仰を思い起こしました。その時、私たちは本当の意味で失望することはあり得ません。そしてそのことがまた何よりも大きな心の支えとなり、勇気となるのです。
 ペトロの救出がそうであったように、悲しみ、苦しみ、必死の祈りの中で、不思議なまでの喜びがあるに違いないのです。わたしたちの思いを越えて、私たちを追い越していってしまうほどの喜びが来るということです。神様のご計画、神様のみわざが、私たち人間の思いをはるかに超えているということでもあります。人間は、時には、そのご計画の前でたじろいだり、右往左往してしまうことがあるかもしれません。しかし、私たちの想像も及ばぬ所に、支えがあり、助けがある。そしてこれほどの喜びが来ることを、今いちど心に刻みたいのです。驚くような喜びを、私たちも待ち望みたい、そう祈り願うのです。
(楠原博行:2006年9月17日主日礼拝説教)

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2006/09/24

平和の神と共に

フィリピの信徒への手紙 第4章2-9節

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(6-7節)

 この言葉を聞いた時、そうだ、あれこれと考えて、堂々巡りのようになってしまうことはよくない。すべてを神様に委ねればいいんだ。そう考えて、慰めを受ける人もいます。すべては人間の考えの及ぶことではないのだ。だから、神様だけが知ることなんだ。自分があれこれと気にしてもしょうがないことなのだと、全てを運命として諦めてしまう人もいます。しかし、パウロが伝えようとしているのは、運命として受け止め、諦めてしまうことではありません。
 ここに出で来る「思い煩う」は、「心を使う」「心配する」という意味の言葉です。語源を探ると「分ける」という言葉から来ています。ある説教者は「思い煩うことは、心がわれてしまうことだ」と言いました。心がわれて、ああでもない、こうでもないと考えてしまうと、結局のところ、AをとるかBを取るかの話になって、おおかた、自分にとっては心配な方の考えをとってしまう、「これが私の運命だ」と諦めてしまうと言うのです。
 パウロは、また、思い煩いをするようなことを無視しろ、忘れてしまえと言っているのでもないのです。何事につけ、求めているものを神に打ち明けよと言っているのです。抱えている困難や問題を、抱え込んで心を割ってしまうのではなく、神に向かって開きなさいと言っているのです。
 私たちの心は、何よりも神に向かって開かなければなりません。さらに、打ち明けるに際して、パウロは、「感謝を込めて祈りと願いをささげ」よと言っています。ここに記されている「祈り」と「願い」ということばは、日本語で感じるよりももう少し、はっきりとした意味を持っているかもしれません。もとのギリシア語で言いますと、祈りとは、神に向かって祈るという言葉です。また、願いとは、必要に迫って神に請い求めることを意味する言葉です。つまり、思い煩って、心を割ってしまうのではなく、神に向かって心を注いで、祈り請い求めよと言うのです。
 この時に、私たちは少し注意が必要だと思うのです。何でも神様に向かっていっていいのだ、それが祈りなのだと思うと、時として祈りの言葉が、ただの愚痴の羅列になってしまうことがあります。正直に神の御前に、自分の思いを述べているのに、なぜ愚痴を並べるだけのものにしか聞こえないのでしょうか。どうしたらいいのでしょうか。
 「祈り」について思いめぐらしながら、いくつかの信仰問答書を読んでみました。どの信仰問答書も祈るときに、私たちに求められている3つのことを示しています。

1.主がお命じになったことを心から呼び求めること。
2.自らの苦しみと惨めさを心から認識して、神の前にへりくだること。
3.主イエス・キリストのゆえに、私たちが祈りにふさわしいものでないのも関わらず、その祈りをたしかに聞き届けてくださるという確信を持つこと。

 私たちは祈る時に、誰に対して祈るのでしょうか。また、私たちの祈りの言葉を聞くのは誰なのでしょうか。改めて、この当たり前のようなことを問うてみた時に、どの様に私たちは答えるでしょうか。
 礼拝に於いても、祈祷会においても、また、自分の部屋で、たった一人で祈る祈りでも、当然の事ながら、私たちは神に祈るのであって、私たちの祈りの言葉を聞くのは神にほかならないのです。私たちと共に祈ってくださる、主イエスに他ならないのです。
 宗教改革者のカルヴァンは、「信仰の手引き」という小さな書物の中で、「祈りについて考慮されねばならぬ事は何か」を書いています。カルヴァンもまた、主を心から呼び求めることから説き起こし始めています。それは、ただ口先だけのものではなく、心のもっとも深いところから、神に請い求めることだというのです。私たちは、いつもいつも、祈る言葉を準備して祈っているわけではく、むしろ、その時、その場で思いつくままに祈ることが多いと思うのです。そのような時にも、私たちは、心から神を請い求める祈りをす