2004/12/22

沈黙から賛歌へ -ルカによる福音書のクリスマス-

 ルカによる福音書はイエス・キリストの誕生の物語から始まります。クリスマスといえば、「喜びの歌声」「楽しい雰囲気」「聖なる光」と言ったものが思い浮かびます。しかし、ルカが伝える物語の始まりは、天のみ使いが人の口を封じる出来事です。
 ここに一組の夫婦がいました。祭司ザカリアと妻エリサベトです。二人は神様の御前に正しい人でありましたが、子供がなかったのです。ザカリアが、祭司の職によって聖所で香をたいているときに、天使ガブリエルが現れました。ガブリエルはザカリアに子が授かること、その子が主に先立っていくものであることを伝えます。み使いの言葉に対してザカリアは問うのです。

「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」(1:18)

人の目には不可能なこと、信じられないことに対して、しるしを求めたのです。御言葉を信じない人間の姿がここに記されています。ガブリエルはつぶやく唇を封じました。
 次に天使が訪ねたのは、マリアです。マリアに対するガブリエルの言葉は、
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(1:28)

という祝福の言葉から始まります。そして、マリアも天使に問うのです。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(1:34)
マリアもまた、信じることができなかったのです。しかし、神の力がマリアに対して働くのだということを知り、彼女は御言葉がその身になるようにと受け入れたのでした。
 マリアの受胎告知は、古くから多くの宗教画家たちの題材となりました。様々な画家たちの作品を見ていると、おもしろいことに気づくのです。天に描かれた父なる神から、鳩がマリアに向かって降りてくる様子が描かれています。マリアに聖霊が降ることを示しています。また、背景にアダムとエパの失楽園の様子が描かれていたり、遠くの丘に三本の十字架が書かれているものもあります。受胎告知が人間の罪の世界のただ中で行われ、既に十字架の死が定められていることを画家たちは描き出しているのです。
 み使いの言葉を信じられない人間、つぶやく言葉しか発しない唇は神の力によって封じられました。が、物語はここで終わりにはなりません。マリアはエリサベトを訪問します。同じように御言葉を身に受けたエリサベトを訪ねたのです。ここから物語は一気に変わります。
 マリアの挨拶を受けたエリサベトは御霊に満たされて声高らかに挨拶をします。本当に大きな声で叫ぶように、エリサベトは神を讃えて挨拶をしたのです。この言葉に響き返すように、マリアの賛歌が記されています。ここでは徹底して神を褒め称える言葉が記されています。取るに足りない者を用いてくださったということに対して、マリア自身が自分を誇っているのではありません。無きに等しい者の唇にも、神が讃美の言葉を備えてくださったことを讃えているのです。
 讃美の歌声はどんどん大きく響いていきます。続く洗礼者ヨハネの誕生の記事の中では、ザカリアが天使が伝えたとおりの名を子に付けたとたんに封じられていた口が解かれ、神から託された預言の言葉を語り出します。さらに、賛歌は野の羊飼いに現れた天使の大群の合唱となり、イエスの神殿奉献のシメオンの賛歌へと続くのです。そして、宗教画家たちが受胎告知に三本の十字架を描いたように、天使の合唱はイエスのエルサレム入城の時に群衆の歓呼として響くのです。
 マリアの賛歌、ザカリアの預言、天使の合唱、シメオンの賛歌。いずれも、古い時代から現代でもなお礼拝の中で、祈りの集いの中で歌われているものです。クリスマスを祝う季節に私たちも、つぶやく唇を閉じて神様の前にひれ伏し、「神を讃える言葉を与えてください」と祈り求めたいと思うのです。
(聖書を読む会の聖書研究より)

osirase.gif聖書を読む会は毎週第2金曜日10時より、教会にて行っています。ルカによる福音書を少しずつ読み進めています。聖書を読むのは初めてという方、もう一度じっくり読んでみたいと思う方。一緒に読んでいきましょう。
木更津教会のクリスマスはこちらへbo_gr_a1w_click.gif

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2004/11/27

アドベントの星

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」...彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。(マタイによる福音書第2章2節、9-10節)
  クリスマスに飾られるたくさんの星の飾りは、聖書の中の占星術の学者たちを導いた星に由来します。わたしたちの木更津教会でもアドベントの季節を迎えて、礼拝堂にアドベントの星が飾り付けられました。この紙でできた星は、「ヘルンフートの星」と呼ばれ、ドイツの東の端、チェコ共和国との国境近くの町、ヘルンフートの名前が冠せられてます。  「日々の聖句(ローズンゲン)」で有名な「ヘルンフート兄弟団」はニコラウス・ルードヴィヒ・ツィンツェンドルフ伯爵と後の宗教改革の先駆となったヤン・フスの系譜にあったチェコのモラビアから逃れて来た人々との出会いの中で生まれました。  およそ150年前、「兄弟団」の宣教者の子弟をあずかる学校の先生のひとりが、アドベントに両親と別れて過ごす子どもたちを慰めるため、厚紙で星を作り、まもなく生徒たちも自分たちで星を作って飾るようになりました。これを起源とする「ヘルンフートの星」は、今では「ヘルンフート兄弟団」の名前とともに有名となり、アドベントには世界各地の教会や家庭で飾られているのです。

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2004/11/19

高く戸を上げよ(讃美歌21 233番)

 ドイツでは、アドベントを迎えると町の広場で開かれるクリスマス市でも、教会の礼拝でも必ず演奏される讃美歌がある。「高く戸を上げよ」だ。「高く戸を上げよ。いざ、門を開け」 わたしたちの家の戸口ではなく、城壁をもった町の門を思い起こしていただきたい。敵の侵入を防ぐために固く閉ざされた城壁の門が、高く上がる時、それは、勝利を収めた王の凱旋する時である。わたしたちにとっての王とは誰か。いうまでもなく、救い主、主イエス・キリストである。
 主イエスのエルサレム入城の記事をわたしたちは、受難週を過ごす中で読むのが普通である。しかしこの同じ物語は、伝統的にアドベントの礼拝を中でも読まれるテキストである。人の子が来る、神の子が来られる、われらの王が来られる。主のエルサレム入城の時、人々は枝を振り、着ているものを道に敷いて主をたたえて迎えたのである。
 固く閉ざされた城壁の門、人間の罪の歴史のただ中に、主イエスキリストは来られた。アドベントを迎えるごとに、わたしたちは自分自身の城壁の戸を高く上げて、神のひとり子を迎えるのである。
 ドイツでは、この曲をトランペットの高らかな音とともに歌うことが多かった。トランペットはないかもしれないが、心を主に向かって高く上げ、皆で高らかにこの讃美歌を歌いたいと願っている。救われたものの喜びの声をこの地に響かせたいと思う。

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2004/05/30

ハイデルベルク信仰問答 第9主日

天の父

わたしたちが用いております、日本語の訳の使徒信条では少し変わっているのですが、本来の使徒信条を読みますと、少し順序が違っているのです。「わたしは、神様、父、全能者、天地の造り主を信じます。」わたしたちは礼拝ごとに、まさに礼拝ごとに神様の前でそう告白しているのです。「わたしは、神様、父、全能者、天地の造り主を信じます。」その時、その時、いったいわたしたちは何を告白しているのでしょうか。わたしたちはいったい何を信じますと言っているのでしょうか。

問26 「わたしは、神、父、全能者、天地の造り主を信じます。」というときには、あなたは何を信じているのですか。  答 わたしは次のことを信じているのです。 わたしたちの主イエス・キリストの永遠の父が、その御子のゆえに、 わたしの神様であり、わたしの父であるということを。  神様は、天と地と、その中にあるすべてのものを、何もないところから造られました。そしてこれを、神様の永遠の御心と摂理によって、常に、保ち、支配しておられるのです。  その神様に、わたしは、よりたのみ、疑うことをしません。 神様が、わたしに、からだと魂に必要な、すべてのものを備えてくださっているということを。 また、このなやみの多い世の中において、神様がわたしにお与えになる、 どのような不幸でさえも、最もよいものに変えて下さることを。  神様は、全能の神様ですから、これをなさることができますし、信頼できる お父さまですから、喜んで、これをしてくださるのです。』

 これは、続きます、ハイデルベルク信仰問答の「神様の摂理」についての問いと答えとあわせて、この信仰問答書の中で、もっともすばらしい問いと答えのひとつであると思うのです。この答えの最初のところ「神様は、天と地と、その中にあるすべてのものを、何もないところから造られました。」は今日読まれました旧約聖書詩編33編から書きあらわされたそういうところです。

主の御言葉は正しく 御業はすべて真実。 主は恵みの業と裁きを愛し 地は主の慈しみに満ちている。 御言葉によって天は造られ 主の口の息吹によって天の万象は造られた。 主は大海の水をせき止め 深淵の水を倉に納められた。                             詩編33編4-7節

神様の御言葉によって天地が創造されたという力強い信仰が語られているのです。
主なる神の御言葉は正しい!神様の御業はすべて真実である!しかし神様の御言葉が正しい、神様の御業が真実であるがゆえに、神様が語られる言葉、神様がなさることが真実であるというわたしたちの信仰の告白、この信仰のゆえに、わたしたちには大きな問題が、わたしたちが、日常の生活の中で、ぶつかってしまうことがあるのです。そのことをハイデルベルク信仰問答は次のように教えてくれているのです。「このなやみの多い世の中において、神様がわたしにお与えになる、どのような不幸でさえも、最もよいものに変えて下さることを」わたしは信じ疑わない、そういうのです。「神様が、わたしに、からだと魂に必要な、すべてのものを備えてくださっているということを」信じ疑わないというのです。「このなやみの多い世の中」と言っているのです。わたしたちが住む世界は「なやみが多い」とはっきり言っている、はっきりと理解してくれているのです。「なやみが多い世の中」というところでは、詩編84編7節の言葉、「嘆きの谷」という言葉が用いられているのです。「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。 雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。」という詩編の言葉、悲惨の谷、困難、悲しみの谷、不幸の谷、そこをわたしたちは通っている、通らないわけにはいかない。しかし一人ではない、そのような悲惨な谷間を通るとき、わたしたち人間だけではいさせないと言っているのです。「神様がわたしにお与えになる、どのような不幸」、それはよく口に出されるような、わたしたちを試みる神様の事が書かれているのではないのです。信仰問答書、キリスト教の、わたしたちの信仰の教科書なのです。わたしたちの信仰の言葉なのです。「なやみが多い世の中」、悲惨の、苦しみの谷間を通るわたし、しかしそれをも、神様がお与えになると、わたしたちが告白するとき、信仰によって、そのような悲しみを受け入れるとき、もうわたし一人ではなくなってしまうというのです。苦しみ、悲しみ、しかしわたしは一人ではない、神様が、わたしたちの主イエスが共におられるのだと、そう教えてくれているのです。そういう信仰なのだ。信仰により、たとえわたしたちがどん底にいると思えるときも、主イエスがいわば下から支えて下さっている。わたしの不幸、わたしの苦しみ、しかし主がともにいて下さることを信じて疑わないとき、「どのような不幸でさえも、最もよいものに変えて下さる」、そうに違いないというのです。
 「神様は、全能の神様ですから、これをなさることがおできになる。信頼できる、お父さまですから、喜んで、これをしてくださる。」ここの部分で、わたしたちはわたしたちの主イエスがわたしたちにかけられた御言葉、あの山上の説教の中の一節にふれないわけにはいかないのです。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」                     マタイによる福音書の7章7-12節

 マタイによる福音書のこの部分は、主イエスの山上の説教の一部分なのです。それはわたしたちにたいへん親しい場所でありますが、これに先立つ「地上に富を積んではならない」とか、「思い悩むな」とか、「人を裁くな」といった強い禁止の言葉、強い「何々をしてはいけない」というイエス様の言葉とは少し違った響きがある部分です。この部分、今日わたしたちに与えられました、この部分は信頼が、とても強い信頼が語られている、そういう箇所なのです。「求めなさい」という言葉はもともと祈りの中で「求める」ことであると言われます。人間が人間に対して要求するのではないのです。祈りの中で、「祈り求める」、「神様に祈り求める」、それがここでいう「求めなさい」の言葉の意味であるというのです。旧約聖書の箴言の中には次のような言葉があるのです。

教えに耳をそむけて聞こうとしない者は その祈りも忌むべきものと見なされる。                            箴言28章9節

神の教え、戒め、これを聞こうとしない者、そんな愚かな者の、そんな者の祈りは聞かれないぞ、聞き届けられないぞ、そう言うのです。
 しかし主イエスの言葉はぜんぜん違うのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。」条件などないのです。「与えられる」のだとはっきり語られるのです。それはなぜなのでしょうか。「求めなさい。そうすれば、与えられる。」どこからそのような確信が来るのでしょうか。それはここで父とその子供のことが語られているからなのです。父と子、この世にある人間でも、その父親なら自分の子供には良い物を与えるだろうと、主イエスはおっしゃるのです。だから天にいらっしゃる父なる神様が、求める者に良い物をくださる、そうでないはずがないではないかとおっしゃっているのです。
 しかしひとつのことを忘れてはなりません。同じハイデルベルク信仰問答の問26の中の言葉です。「わたしたちの主イエス・キリストの永遠の父が、その御子のゆえに、わたしの神様であり、わたしの父であるということを。」わたしたちには主イエスがどうしても必要である。神様と人間との橋渡しになる方、神様の側にもしっかりつながっている。人間の側にもしっかりつながっているお方が必要なのである。わたしたちにはただお一人の救い主が必要であり、そしてまた主イエスだけがわたしたちの救い主となり得るのだということをすでに申しました。そしてこの方、この方お一人を通して、神様の御子、お一人の御子を通してはじめて、この方の父である神様が、わたしの神様になる。わたしの父となる。そう言っているのです。主イエスを通して、わたしたちは天にいらっしゃいます神様を、父と呼ぶことが出来る、それが許されるのです。そしてわたしたちの父である神様が、わたしたちの願いを、祈りを、求めを聞かないはずがおられるであろうか。そう言うのであります。
(楠原博行2004年5月30日ペンテコステ礼拝説教より)

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2004/05/23

神の愛 (ハイデルベルク信仰問答第8主日)

人間が他の人間に「まことの信仰」がいったい何であるかを指し示すことはできないのです。そんなことをするなら、そこには人間的な裁きしかあり得ないのです。信仰にある者が絶対におこなってはならない、しかしややもすると陥ってしまう、ねたみ、憎しみ、あるいは優越感、おごりたかぶりといったものでしかあり得ないのです。それは神様がお示しになるのです。まことの信仰とは、わたしたちに、神様が、神様の御言葉によって示された、お示しになったことを、すべてまことである、ほんとうのことであると受け入れること、そしてそれは知識として知ること、また心から信頼することである。神様の御言葉がすべてまことである、すべてほんとうのことであることを、知識的に知り、そして心から信頼する。知識と信頼、それがたいせつであると、先週の礼拝の中で、説教の中で語られたのでした。信仰が語られる場合、このことは本当に大切なのです。知識的に知る、つまり頭の問題、頭で知る、そして心から信頼する、つまりわたしたちの心の問題、これは私たちが信仰を語るとき、どちらが欠けてもうまくいかない、そういう問題であるのです。
 わたしたちが読み進めていますハイデルベルク信仰問答では、キリスト者が信じなくてはならないこと、その内容は、わたしたちの信仰告白、すなわち「使徒信条」の中に要約されているのだと記されています。

われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。 主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とをさばきたまわん。われは聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。  アーメン

礼拝ごとに、わたしたちが声を出して告白している使徒信条なのです。あたりまえのことだと思うのでしょうか。わたしたちの神様について告白する。わたしたちの主イエス・キリストについて告白する。わたしたちの中ではたらいている聖霊について告白する。礼拝ごとに告白しているから、まったく当たり前のことに思われるのです。
 ここで先ほどの、「まことの信仰」を知識として知り、心から信頼するということが大切になってくるのです。使徒信条を通して、神様のこと、主イエス・キリストのこと、聖霊のこと、日ごとに告白しているのです。ですから知識的には当然のことであると、そうわかっているのです。しかし心からの信頼も重要であると語られました。バランス感覚などというありふれた言葉を使いたくはありません。しかしさきほどの頭の問題と、心の問題、どちらが欠けてもうまくいかないのです。信仰が問題になるとき、どちらが欠けても行き詰まってしまうのです。たとえば、頭ではわたしたちが救われたということを、知識としては知っている、しかし、心の問題が欠けているなら、心からの信頼が欠けていたら、どうでしょうか。論詰めで、非常に、人間の頭の中の具合で、信仰が立ちゆかなくなってしまうのです。より心地よいものを見いだすことがあるでしょう。あるいは人間関係の中の面倒くささ、教会での交わりの面倒くささや、もしかしたら、何かのきっかけで不具合になってしまった人間関係で、わたしたちの信仰そのものが宙ぶらりんになってしまい、崩れ去ってしまう、そういうことがあり得るのです。その逆も言えるのです。もし心だけであったならば、心から、非常に純粋に、主イエス・キリストの救いを、イエス様がわたしを支えてくださっていることが実感できる、これはすばらしいことなのです。しかし、なにか人間的な問題にぶつかってしまって、信仰生活、教会での生活で、人間的な問題にぶつかってしまったとき、それはさまざまなことが考えられます。「何々につまづいた」などと言われるときです。もし心からだけであった場合、頭でも、わたしたちのほんとうの信仰を、信頼というものを理解していないとき、人間的な問題にぶつかって、イエス様がともにおられるという実感がなえてしまう、救いの実感が弱まってしまったとき、やはりわたしたちの信仰そのものが宙ぶらりんになってしまい、崩れ去ってしまう。ですから「まことの信仰」を語るとき、頭と心、両方の部分が、どちらも欠けてはならないと言うのです。どちらが欠けても、わたしたちの信仰そのものが危うくなってしまう。そういうふうに考えますと、もう400年以上前に書かれたという、この信仰問答書が、ちっとも古くない、現代の、今のわたしたちの信仰についても、まさに教えてくれているのだと言うことがわかるのではないでしょうか。わたしたちの信仰、それは頭の部分で、それがどういう内容かを知っていなければならない。そしてそのことについて、心の部分で、心から信頼していなければならない。そのときに、はじめて、揺らぐことのない、日常の生活の中で、また信仰者としての生活の中で、教会での礼拝生活の中で、決して揺らぐことのない、信仰者、キリスト者としての生活をすることができるというのです。
 使徒信条には3つのことが記されているのです。父なる神様、子なる神様、そして聖霊なる神様。ハイデルベルク信仰問答は次のように説明します。


問25 どうしてあなたは、三つ、つまり、父、子、聖霊と呼ぶのですか。
神様はただおひとりであるのに。
答 なぜなら、神様は御自身を、みことばにおいて、その様にあらわされたからです。つまり、この三つの異なった人格が、ただひとりの、本当の、永遠の神であることをあらわされたのです。

つまり聖書を通すと、そうとしか理解できないというのです。

しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、 神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。    テトスへの手紙3章4-7節

 神様の「慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに」と言うのです。しかも「わたしたちが行った義の業によってではなく」、わたしたちが、何をしたか、どのようなすばらしい行いをしたかによってではないと言うのです。ただ神様の、神様ご自身の、「憐れみによって、わたしたちを救って」くださったのです。「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」神様の前で信仰を告白する、教会で、礼拝をしている者たちの前で、「わたしは神様を信じます」という信仰を告白した。そして洗礼を受ける。子供の時、家族の信仰によって、幼児洗礼を受けた者も同じなのです。自分の口から「わたしは神様を、主イエスを、わたしに働く聖霊を信じます」と信仰の告白をするようになる。そのときわたしたちは、聖霊を通して、新しく生まれ、造りかえられた。神様は、「わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いで」くださっている。「:07こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」これは神様についての告白、ひとつの信仰告白であると言います。それが一つ前の節とひとつ後の節とを見ると、さらにはっきりします。3章3節には次のように記されています。

わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。  テトスへの手紙3章3節

 何のとりことなっていたというのでしょうか。何の奴隷になっていたというのでしょうか。中心に神様がおられない、人間的な思い、人間的な欲望の奴隷となっていた。そればかりではない、ひとりひとりがまったく孤立している。しかもお互いに憎しみあっていたというのです。しかし、神様の愛が現れたとき、わたしたちの行いとはまったく正反対に神様の愛が現れた。父なる神様、子なる神様、聖霊なる神様が、わたしたちを救い出し、造りかえて下さった。わたしたちが繰り返し口にしてきた言い方を遣えば、わたしたちのほんとうの救い主、主イエス・キリストのものとされた。かつてわたしたちは人間的なものの奴隷であったと告白するのです。神様の前でいかにわたしたちが見苦しいまでに人間的な思いの奴隷であったかを告白しひれ伏すのです。そしてまことの信仰を、まことの神様がいかなる方であるかを告白する。父であり、子であり、聖霊である神様が、わたしたちを、そのようなみじめであったわたしたちを救い出してくださったことを告白する。そして3章8節です。

この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。 テトスへの手紙3章8節


 まさにわたしたちの礼拝生活がそこにもあるのです。使徒パウロが弟子テトスに対して、牧会的な教えを書き記しているのです。罪が告白される。まことの信仰の告白がある。そしてそれは真実である。まさにアーメンであると言える。
 わたしたちにとってあまりにもなじみのある使徒信条、これについてわたしたちは次の礼拝から、父なる神様についての御言葉を聞きます。そして子なる神様、私たちの主イエスについて、そしてわたしたちに注がれる御霊、聖霊についての御言葉が続くのです。わたしたちは、これらを通して、わたしたちの礼拝で、まさに礼拝ごとに告白している、わたしたちの信仰告白。使徒信条をもっと身近なものとできると確信します。身近といってもただ口になじんでいるだけではないのです。暗記してしまっているとか、ぼうっとしていても間違えないで言えるというのではないのです。一節一節口に出すたびに、私たちの罪の告白に続いて、わたしたちの救いの告白となる。わたしたちのまことの信仰の告白となる、それを実感できる、頭の部分においても、心の部分においても、どちらにかたよることなく、知識として、心からの信頼として、わたしたちのまことの信仰告白として、わたしたちの救いを口にすることができる、そういう礼拝の中での、神様の前での告白として、神様の愛により、わたしたちは救われた。わたしたちは神様を、そのひとり子主イエス・キリストを、聖霊を、わたしたちの全身全霊をもって信じます、実感できますと、神様の前で言い表すことができる、そういうひとことひとことの言葉を神様の前で言い表すことができると確信するのです。神様の御言葉が確かなものである。わたしたちは神様の愛によって救われたと、まことの信仰を神様の前で告白することができるようになるのです。
(楠原博行 5月23日主日礼拝説教より)

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2004/04/28

喜びの手紙

わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです(フィリピの信徒への手紙1章3-5節)。

フィリピの教会を思う時、パウロの心には神様への感謝がすぐに出てくるのです。彼はただ厳しいだけの荒々しい伝道者ではないのです。ともに罪を語り、諭し、そしてまたともに泣き、ともに祈り、ともに感謝し、ともに喜ぶ。そういう彼の姿が読み取れるのではないでしょうか。この手紙は「喜びの手紙」と呼ばれています。パウロにとって喜びといいますのは、うれしい気持ちとかうれしいという感情とかいったものではありません。精神的な高まりや、沈み込み、そういったものをすべて越えてしまう、そういうことがあるのだということを理解することです。それによって喜びを、そしてまた失望を呼び起こす出来事をも受け入れることができるのです。なぜなら人生において、日常の生活において、人が喜ぶとき、そして人が悲しむとき、すべてはイエス・キリストの御手の内にあるからです。うれしいときは喜びなさい、悲しいときは悲しみなさい。キリスト者にとってすべては、喜びも悲しみもキリストのものなのです。なぜパウロは喜びをもって祈るのでしょうか。福音にあずかっているからです。エヴァンゲリオンという言葉は日本語で喜ばしいおとずれと説明されます。しかしそれはパウロにとって人間が変革されるような神の力です。なによりも神様が著者であるからです。パウロが福音と書くとき、パウロも、フィリピの教会の信徒たちも、よく知っているのです。福音とはイエス・キリストを宣べ伝えることです。人々が口々にそれを伝え、またそのことを心に留めて、人々は行う。そうすることにより福音は世界へと広まっていきます。神の新しい創造の業としての福音が宣べ伝えられるということが、フィリピの教会によって押し進められていく、そういう意味なのです。それが「善い業」であることを、パウロは確信しています。パウロとフィリピの教会の信頼関係が目に見えるようです。
(楠原博行 4月28日祈祷会奨励より)

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2004/04/18

新しく生まれる (ハイデルベルク信仰問答第3主日)

 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。創世記1章31節
 神様はお造りになったすべてのものを御覧になったのです。ただ良しとされただけではないのです。「見よ、それは極めて良かった。」「見よ」「見なさい」とあり、また「極めて良かった」とあります。これはとても力強い記し方です。神様がお造りになったすべてのものに神様は「極めて良い」と満足されたのです。ここでひとつのことにぶつかるのです。わたしたちは、イースターの礼拝において、マタイによる福音書の中でわたしたちの主イエスがお示しになった戒めを聞き、しかしこれをすべて守ることがわたしたちにはかなわない。いやむしろそのような惨めな存在であることを、主イエスの戒めを薬として知らされるだけであるということを聞きました。わたしたちは、生まれつき、神様とわたしの隣り人とを憎む傾向にあるそういう存在であるということを聞いたのです。ではなぜなのか。神様はどうしてわたしたち人間をそんなに悪くお造りになったのでしょうか。しかし司会者を通じて読まれました聖書はまったく逆を告げていました。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」見なさい。見てご覧なさい。神様がお造りになったものすべては極めて良かった。そう告げているのです。
 わたしたちが続けて用いております。ハイデルベルク信仰問答は次のような問いを発しています。「神様は人間を、そんなに悪く、正反対なものに、お造りになったのでしょうか。 いいえ、そうではなくて、神様は、人間を、良いもの、つまり、ご自身の姿に似せて、お造りになりました。人間をまことに正しく、聖いものに、お造りになったのですから、人間は、神様を、自分の造り主として正しく知り、心から愛して、神様とともに永遠の祝福の中に生きて、神様をほめたたえるようにして下さっているのです。」神様はわたしたちを「まことに正しく、聖いものに、お造りになった。」だからわたしたちは「神様を、自分の造り主として正しく知り、心から愛して、神様とともに永遠の祝福の中に生きて、神様をほめたたえる」のだ、と言っているのです。
 なのになのにです。ではどうして人間は神に従えないのか。神様が、主イエスが最も重要な掟としてわたしたちに教えてくださいました「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」、これらのことを守れないのでしょうか。いやそればかりか、「生まれつき、神様とわたしの隣り人とを憎む傾向にある。」なぜなのでしょうか。聖書は、キリスト教信仰は、長い歴史にわたって、アダムとエバという最初の人間の名前を挙げるのです。人間の堕落は「わたしたちの第一の祖先、アダムとエバの、楽園での、堕罪と不従順とから起こった。そこで、わたしたちの本質は、毒されてしまい、わたしたちは、皆、罪のうちにはらまれて、生まれるのです。」なぜわたしたちとアダムとエバが関係があるのか。聖書を読む限り避けては通れないのです。聖書が、キリスト教信仰がわたしたちがあまりにも明らかにわかっている自分たちの罪深い姿、それを明らかにしようと努めてきたのです。あまりにもわたしたちの根っこにありすぎる。聖書がわたしたちに告げる、わたしたち人間の初穂である、アダムとエバまでさかのぼり、彼らについて、語らないわけにはいかないのです。
 ハイデルベルク信仰問答は、この罪深いわたしたちについて次のように告げるのです。
「何か良いことに対しては、まったく無能であり、あらゆる悪に対しては、それに向かう傾向がある。それほどに、わたしたちは堕落しているのですか。 そうです。もしも、わたしたちが、神のみ霊によって新しく生まれるのでないのならば。」わたしたちが新しく生まれる、新しく生まれないかぎり、わたしたちは、アダムとエバにまでさかのぼる、わたしたちの本質的な罪の問題、罪深さ、わたしたちが実感しないではいられない、罪から逃れることができないというこの状態から抜け出すことはできないのだと言っているのです。しかし逆に主イエスにある信仰にあるわたしたちには、新しく生まれることができる。新しく生まれ変わることができると言っているのです。主イエスもはっきりおっしゃったはずなのです。Joh3:3「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」イエス様と出会い、洗礼を受け、信仰を告白したわたしたちは、すでに生まれ変わっているのです。まだ洗礼をうけていないものも、そのような生まれ変わりに、まったく新しい人間に作り変えられるようにと、まったく価値観がひっくり返ってしまうような、そういう人間へと招かれているのです。
 今日わたしたちに与えられました聖書の箇所は、まさに作りかえられたわたしたちの生活について、使徒パウロがわたしたちに語っているのです。わたしたちは新しく生まれることができる。パウロははっきり言うのです。わたしたちがかつてどうであったのかを。パウロは言います。
あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。コロサイの信徒への手紙3章7-11節
 まさにわたしたちキリスト者の過去と現在と未来とがならべられているのです。わたしたちはこの世のものにしばられていたのです。パウロはわたしたちにとってあまりにもなじみある事柄をあげるのです。「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」、互いにうそをつくこと。そういうものを、ややもすれば、すぐにわたしたちがしばられてしまう、陥ってしまう、そういうものを捨てなさいと言うのです。主イエスの姿にならう新しい人を身につけよと言うのです。そこには主イエスを知らなかったわたしたちの過去があり、そして主を知り、新しく生まれたわたしたちの現在があります。そして未来が、いやわたしたち今歩むべき道が示されるのです。
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。コロサイの信徒への手紙3章12-15節
この平和、この平和にあずからせるためにわたしたちは教会に、主のもとに招かれひとつの体とされたのです。パウロは平和と言いました。これは私たちが考える限りの、争いも何もない状態、さきほどのパウロの言葉から言えば、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉、互いにうそをつくこと、そんあものが教会には存在しない、それがわたしたちの教会であると言うのです。そのためにわたしたちはひとりひとり招かれひとつの体とされたというのです。
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。   コロサイの信徒への手紙3章16,17節
 感謝の中にある生活。それが可能となるのです。前回、前々回と、礼拝の御言葉の中で語られてきたはずなのです。ひとりであったら絶対にはい出すことができない、抜け出すことができなかった自分、罪深い、罪にまみれたみじめな状態。わたしたちはお互いにそれを知らなければならない。そういう自分のことを考えれば、自分の姿を見れば、互いに許し合わないではいられないのです。慰め、支えあわないではいられないのです。わたしたちはひとつのものとされ、わたしたちが主のものであるという確信、わたしたちが主のものであるという、慰め、力、希望の中に歩むことができる。
問八 何か良いことに対しては、まったく無能であり、あらゆる悪に対しては、それに向かう傾向がある。それほどに、わたしたちは堕落しているのですか。
答 そうです。もしも、わたしたちが、神のみ霊によって新しく生まれるので ないのならば。
主イエスにあること。主イエスなしでは、わたちたちはもうどうすることもできないこと、だからこそわたしたちすべてがもう主のものであることを確信して、神の御霊によって新しく生まれ変わり、それを確信して、あの平和の中に、平和の中に歩みなさいと言っているのです。
(楠原博行:2004年4月18日 主日礼拝説教より)

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2004/04/11

神の戒め (ハイデルベルク信仰問答第2主日)

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイによる福音書22章37-40節)
イエス様は、神様がモーセを通して与えてくださった十戒のことを、わたしたちにわかりやすく教えてくださったのです。
わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
あなたはいかなる像も造ってはならない。
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。
あなたの父母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
隣人に関して偽証してはならない。
隣人の家を欲してはならない。
十戒の前半は、わたしたちが神様になすべきこと、つまり、イエス様があげられた、重要な第一の掟、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』ということであり、後半は『隣人を自分のように愛しなさい。』という二つめの重要な掟を指しているのです。わたしたちは十戒を前にしてどう思うのでしょうか。神様を信じているし、人殺しも、盗みもしたことがない。十戒ぐらい完全にまもっているぞと胸をはることができるのでしょうか。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」と十戒は言います。本当に一日いちにち、毎日の暮らしの中で、「わたしをおいて」、「わたしをおいてほかに神があってはならない」との命令を守っていると言えるのでしょうか。もしかしたら一瞬でも、神様よりも先立つもの、神様よりも大切に思うというような経験があるのではないでしょうか。 「主の名をみだりに唱えてはならない。」と命じれられる時、わたしたちは本当に、神様の名前を、まあいいではないかと、わたしたちの、わたしたちの側の理由をつけて、いいかげんにしてしまっているようなことは絶対にないと言い切れるのでしょうか。「隣人を愛しなさい」とイエス様がおっしゃるとき、本当にわたしたちは「自分のように」愛することができるのでしょうか。まさに十戒は、宗教改革を行ったマルティン・ルターが言っているように、わたしたちに、自分たちが罪を犯しているのだということを教えてくれている先生なのではないでしょうか。  わたしたちはハイデルベルク信仰問答の問一と問二を通して、生きる時も、死ぬ時も、ただひとつの慰め、寄り頼むことができる力、助けとすることができるものを持っていることを学びました。そして、そのような確信の中に祝福されて、生きまた死ぬことができるためには、第一にわたしたちが自分の罪深さ、みじめさを知らなければならない。第二にどのようにして、わたしたちがそこから救われるかということを知らなければならない。そして第三には、 どんなに、この救いを神様に感謝すべきかということ、その三つのことを知らなければならないというのでした。 この書物は言っているのです。わたしたちはみじめであると。みなさんがみじめであると言っているのです。神学者の加藤常昭先生は書いておられます。実際にじぶんのみじめさを知って礼拝に集う者でも、説教者から、あなたはみじめであるなどと言われたら、とんでもないそんなことはありません。少しはましなものですよと言い返すものであると。自分の罪を知り礼拝に集っていても、人からそれを指摘されでもしたら、むしろ怒り出して、そんなことはないと首を振ってしまう、それが普通だと言うのです。そういうわたしたちに対して、この書物は次のように教えてくれます。
問三 何によって、あなたは、あなたのみじめなことを認めるのですか。
答 神の律法によってです。
問四 神の律法は、わたしたちに、何を要求するのですか。
答 キリストは、それを、マタイによる福音書22章の中に、簡潔におまとめになりました。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
問五 あなたは、このすべてを、完全に守ることができますか。
答 できません。なぜならば、生まれつき、神様とわたしの隣り人とを憎む傾向にあるからです。
 これらのことばを聞いて、みなさんはどう思われるのでしょうか。生まれつき、神様とわたしの隣り人とを憎む傾向にあるなどとは、さきほどの説教者のことばのように、違うと、なおさらに言い返せるのでしょうか。いや、そうなのだと、むしろ胸をなでおろすことができる。ほっとすることができるのではないでしょうか。罪深いわたしたち、神様のことばを守れないわたしたち、その弱さを、力のなさを、そうなのだとわからせ、むしろわたしたちの本当の姿を知らせてくれるのではないでしょうか。  今日は主が復活されたイースターなのです。よろこばしい、うれしい、みんながイースターおめでとうと声をかわすすばらしいお祝いの日なのです。そのようなよろこばしい、お祝いの日に、では、なぜ「神の戒め」が長々と語られたかとふしぎに思った方もあるかもしれません。しかししかしです。ではなぜイースターなのか、どうして主は復活されるのか、どうして主が十字架にかかられなければならなかったのでしょうか。それはわたしたちの罪のためであったのではなかったでしょうか。そして何よりも、神様の戒めが、わたしたちがいかに罪深いか、正しくない者であるかを教えてくれているのです。そしてそのような罪深い、正しくない、不完全な、弱いわたしたちを思う時、そのために、そのためにこそ主イエスが十字架につけられ、そこから力強くよみがえられた。そのことを心から喜び、おめでとうとひとりひとりが呼びかけることができるのではないでしょうか。本当に弱いわたしたち、しかし神様がわたしたちを、そのひとり子を十字架にかけてまであがなってくださったのです。今日、その主が復活されたのです。本当ならどうしようもないみじめなわたしたちを神様が助けてくださったのです。この礼拝に集うひとりひとりを神様が救い出してくださったのです。それを知った時、わたしたちはお互いゆるしあわないではいられないのではないでしょうか。主イエスが、隣り人を愛しなさいと命じられても、さばきあってしまうわたしたちです。しかし、神様の戒めにより、ほんとうはわたしたちががみな惨めであると知らされ教えられたら、もうお互いに顔をそむけることなどできないのです。お互いに許し合い、慰め合い、そして、わたしたちのために主が十字架にかかられ、そして今、よみがえられたことを知ったら、喜びの顔を向けあい、おめでとうと声をかけ合わないではいられないのではないでしょうか。
(楠原博行:2004年4月11日 イースター礼拝説教より)

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2004/04/09

主の十字架

マルコによる福音書第15章21-32節
カトリック教会で、あるいは海外へ旅行された時などに主イエスの磔刑像を見たことのある方もあると思います。その姿は大変生々しく、また、イエスの表情も苦痛にゆがんでいます。正直なところ目を背けたくなりますが、わたしたちは、「十字架の死」が持つ意味をきちんと知ることが大切であると思うのです。十字架刑は主イエスが地上の歩みをされた当時、もっとも残酷で、また、もっとも身分の低いものに対して行われた処刑の仕方でした。そして、そこには神の呪いがあります。申命記21章23節に、次のように書かれています。 …木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。…  主イエスが十字架におかかりになったということは、主イエスは神に呪われたも のとして、神に見捨てられたものとして死なれたということです。主イエスは「死」、しかも「神に見捨てられた死」をわたしたちに先立って経験されました。その主が蘇られ、復活されたのです。  主の十字架の死と復活を信じる時、わたしたちに大きな変化が起こります。神を知らずに過ごしていたものが、神を恐れることを知るのです。神に見捨てられたものとして死ぬものが、主の復活によって生きるものとされたからです。これが罪からの解放です。  主の十字架はわたしたちの罪の深さを示すと同時に、神様の愛の証です。神様はひとり子を、神に呪われたもの、見捨てられたものとして十字架に架けられるほどに、わたしたちを愛し、生きるものとしてくださいました。残酷な刑罰であった十字架を、わたしたちの救いの十字架として喜びをもって見上げることができるのです。〈2004年4月9日 祈祷会 楠原彰子〉

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2004/04/08

主の晩餐

マルコによる福音書第14章22-26節

受難週の木曜日は「主の聖晩餐が定められた日」として祝われてきました。これは、主の最後の晩餐の記事に由来するものです。
 マルコによる福音書によれば、主イエスは弟子たちと一緒に過越しの食事をされました。過越しの祭はユダヤ教の三大祭りのひとつで、イスラエルの出エジプトの出来事を記念する祭です。
エジプトの奴隷であったイスラエルの民が、神様の導きによりエジプトを脱出する時のことです。最後の災いを神はエジプトに下されました。イスラエルの民は戸口に屠られた子羊の血塗を塗りました。戸口に血の塗られた家には災いは及ばず過超していきました。最後の災いが下りファラオはイスラエルの民がエジプトを離れることを許可したのです。その祝いの食事、過越しの食事が主イエスの「最後の晩餐」の舞台となりました。イスラエルの民はエジプトの奴隷という縄目からの解放でしたが、主イエスが示された新しい過ぎ越しは、わたしたちに絡みつく罪の縄目からの解放です。
 聖餐において配られるパンは「あなたのために裂かれたキリストの体」であり、杯は「あなたのために流されたキリストの血」なのです。イスラエルの民にとっては、「血」は命そのものでした。旧約聖書の中に次のような記事があります。


生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。(レビ記第17章11節)

罪の贖いとして、犠牲となる動物の血、命を捧げることをイスラエルの民は行いました。この贖いの儀式は、罪の贖いのために自分自身を献げるという意味も持っていたのです。主が言われた「裂かれた体」「流された血」は、これからイエス様が十字架にかかり、そこで体が裂かれ血が流されたと言うことだけではなく、主の十字架の死が、わたしたちの罪の贖い、犠牲として献げられた物であることを、弟子たちにはっきりと示しているのです。
神学生の時に過ごしていた教会で、洗礼を受け、信仰を言い表し、教会員として生活をされているのに、聖餐を受け取らない方がおられました。聖餐の時には聖餐制定のことばとしてコリントの信徒への手紙一第11章23-29節のみことばが読まれます。
その方は、

従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。(27節)

の部分を大変真剣に受け止められ、自分を省み、聖餐を受けること躊躇されていたのでした。しかし、もし、この方が考えられたとおりだとしたら、一体誰が聖餐を受けることができるでしょうか。
 英語の「聖餐」は「感謝」を意味するギリシャ語がその語源となっています。主が感謝の祈りを唱えて、弟子たちにパンと葡萄酒を配られたことに由来するものです。ですから、聖餐は主に対する賛美と感謝をもって受けるものなのです。もちろん、わたしたちの罪の重さを忘れてはなりません。その罪を贖うには、神でありかながら、汚れも罪もない真の人としてこの世に来られた、主の十字架の死が必要であったのですから。
ハイデルベルク信仰問答では、次のように記されている問と答えがあります。

問81 どのような人が、主の食卓に来るべきですか。
答え  自分の罪のために自己を嫌悪しながらも、
キリストの苦難と死とによってそれらが赦され、
残る弱さも覆われることをなおも信じ、
さらにまた、よりいっそうじぶんの信仰が強められ、
自分の生活が正されることを
切に求める人たちです。

しかし、悔い改めないものや偽善者たちは、
自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。(吉田隆/山下正雄訳より)


自分の努力ではありません。自らの罪を深く顧み、主がこの私のために肉を裂かれ血を流されたことを信じること、そして、そのこと故に新しい命に生かされていることを感謝しましょう。そして、ともに赦されたもの同士が、とりなしあい、赦しあって、新しいイスラエル、教会をたてていくのです。
(楠原彰子:2004年4月8日 受難週祈祷会より)

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2004/04/07

わたしの言葉は決して滅びない

マルコによる福音書13章28-31節

 わたしたちは主の日ごとに献げる礼拝の中で、使徒信条によって信仰を言い表しています。その使徒信条の中に、「われはそのひとり子、われらの主イエスキリストを信ず。」というところがあります。

われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。 主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくダリ、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。

この箇所は、わたしたちの信じる主はどのようなお方であるかを示しているのですが、その内容は誕生、すなわちクリスマスの出来事から受難、十字架の死、葬り、よみがえり、昇天までを語るのです。すなわち、わたしたちは復活の主のみならず、主のご受難と死をも信ずると告白しているのです。受難週祈祷会では、「主の十字架のみ苦しみと死を信ずる」というのはどういうことなのか、このことを頭の中において、みことばに耳を傾けてたいと思うのです。
 さて、今日わたしたちに与えられたテキストは「いちじくの木のたとえ」とよばれる、たとえ話です。これをふくめて、主イエスは13章に記されたことを、十字架にかかる直前に弟子たちに語りました。13章はその内容から「(マルコの)小黙示録」とも呼ばれているところです。通して読んでみるとよくわかるのですが、実に不思議な、またある意味では恐ろしい終末の徴、世の終わりのことが続けて記されているのです。
 「小黙示録」の名の通り、ここに書かれている記事をこれから主の受難の記事に重ね合わせて読むこともできるでしょう。神殿の崩壊はイエスの死。戦争、飢饉、世の中の混乱といった終末の徴は、イエス死後の弟子たちの離散、人々の失望、そして主を信じる者たちの殉教と迫害…。主はこれからすぐ起こる出来事を弟子たちに教えたと考えられます。
 しかし、もう一方で主は「惑わされてはならない。目を覚ましていなさい。」と繰り返し言われているのです。目を覚まして「人の子が戸口に近づいていること」(29節)を悟りなさいというのです。人の子が来る。復活の主が再び来られる。それは救いの完成を意味する時です。そのときを「目を覚まして悟れ」と言われるのです。「世の終わり」と聞くと何もかもがなくなってしまうような、すべてのものが無に帰してしまうような印象を受け、恐ろしさばかりを思い描くことが多いのですが、そうではないのです。神様の約束のことばは確かで、朽ちることも消えることもないものなのだと言われるのです。
 最近、わたしたちが耳にするニュースは悲しく、恐ろしいものが多くなってきました。「これこそ、世界の破滅が近い徴である」と言う人たちがいます。不安がないといえば嘘になるでしょう。しかし、そのような不安にとらわれてしまうと、わたしたちは日常の小さな一歩さえ前に踏み出せなくなってしまうのではないでしょうか。

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(31節)

より頼むべき確かな道を、主イエスは十字架を通して示してくださいました。主のゲツセマネの祈りを思い出してください。主はみ苦しみを前にして祈られたのですが、そこには、父なる神に対しての絶対的な信頼がありました。
 わたしたちは、このような十字架の道を示された主イエス・キリストを信じています。主の十字架の死を信じると言うことは、「私のことばは決して滅びない」との主のことばに堅く信頼し、ひたすらに日々の歩みを一歩一歩進めることなのです。(2004年4月7日 祈祷会 楠原彰子)

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