神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。創世記1章31節
神様はお造りになったすべてのものを御覧になったのです。ただ良しとされただけではないのです。「見よ、それは極めて良かった。」「見よ」「見なさい」とあり、また「極めて良かった」とあります。これはとても力強い記し方です。神様がお造りになったすべてのものに神様は「極めて良い」と満足されたのです。ここでひとつのことにぶつかるのです。わたしたちは、イースターの礼拝において、マタイによる福音書の中でわたしたちの主イエスがお示しになった戒めを聞き、しかしこれをすべて守ることがわたしたちにはかなわない。いやむしろそのような惨めな存在であることを、主イエスの戒めを薬として知らされるだけであるということを聞きました。わたしたちは、生まれつき、神様とわたしの隣り人とを憎む傾向にあるそういう存在であるということを聞いたのです。ではなぜなのか。神様はどうしてわたしたち人間をそんなに悪くお造りになったのでしょうか。しかし司会者を通じて読まれました聖書はまったく逆を告げていました。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」見なさい。見てご覧なさい。神様がお造りになったものすべては極めて良かった。そう告げているのです。
わたしたちが続けて用いております。ハイデルベルク信仰問答は次のような問いを発しています。「神様は人間を、そんなに悪く、正反対なものに、お造りになったのでしょうか。 いいえ、そうではなくて、神様は、人間を、良いもの、つまり、ご自身の姿に似せて、お造りになりました。人間をまことに正しく、聖いものに、お造りになったのですから、人間は、神様を、自分の造り主として正しく知り、心から愛して、神様とともに永遠の祝福の中に生きて、神様をほめたたえるようにして下さっているのです。」神様はわたしたちを「まことに正しく、聖いものに、お造りになった。」だからわたしたちは「神様を、自分の造り主として正しく知り、心から愛して、神様とともに永遠の祝福の中に生きて、神様をほめたたえる」のだ、と言っているのです。
なのになのにです。ではどうして人間は神に従えないのか。神様が、主イエスが最も重要な掟としてわたしたちに教えてくださいました「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」、これらのことを守れないのでしょうか。いやそればかりか、「生まれつき、神様とわたしの隣り人とを憎む傾向にある。」なぜなのでしょうか。聖書は、キリスト教信仰は、長い歴史にわたって、アダムとエバという最初の人間の名前を挙げるのです。人間の堕落は「わたしたちの第一の祖先、アダムとエバの、楽園での、堕罪と不従順とから起こった。そこで、わたしたちの本質は、毒されてしまい、わたしたちは、皆、罪のうちにはらまれて、生まれるのです。」なぜわたしたちとアダムとエバが関係があるのか。聖書を読む限り避けては通れないのです。聖書が、キリスト教信仰がわたしたちがあまりにも明らかにわかっている自分たちの罪深い姿、それを明らかにしようと努めてきたのです。あまりにもわたしたちの根っこにありすぎる。聖書がわたしたちに告げる、わたしたち人間の初穂である、アダムとエバまでさかのぼり、彼らについて、語らないわけにはいかないのです。
ハイデルベルク信仰問答は、この罪深いわたしたちについて次のように告げるのです。
「何か良いことに対しては、まったく無能であり、あらゆる悪に対しては、それに向かう傾向がある。それほどに、わたしたちは堕落しているのですか。 そうです。もしも、わたしたちが、神のみ霊によって新しく生まれるのでないのならば。」わたしたちが新しく生まれる、新しく生まれないかぎり、わたしたちは、アダムとエバにまでさかのぼる、わたしたちの本質的な罪の問題、罪深さ、わたしたちが実感しないではいられない、罪から逃れることができないというこの状態から抜け出すことはできないのだと言っているのです。しかし逆に主イエスにある信仰にあるわたしたちには、新しく生まれることができる。新しく生まれ変わることができると言っているのです。主イエスもはっきりおっしゃったはずなのです。Joh3:3「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」イエス様と出会い、洗礼を受け、信仰を告白したわたしたちは、すでに生まれ変わっているのです。まだ洗礼をうけていないものも、そのような生まれ変わりに、まったく新しい人間に作り変えられるようにと、まったく価値観がひっくり返ってしまうような、そういう人間へと招かれているのです。
今日わたしたちに与えられました聖書の箇所は、まさに作りかえられたわたしたちの生活について、使徒パウロがわたしたちに語っているのです。わたしたちは新しく生まれることができる。パウロははっきり言うのです。わたしたちがかつてどうであったのかを。パウロは言います。
あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。コロサイの信徒への手紙3章7-11節
まさにわたしたちキリスト者の過去と現在と未来とがならべられているのです。わたしたちはこの世のものにしばられていたのです。パウロはわたしたちにとってあまりにもなじみある事柄をあげるのです。「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」、互いにうそをつくこと。そういうものを、ややもすれば、すぐにわたしたちがしばられてしまう、陥ってしまう、そういうものを捨てなさいと言うのです。主イエスの姿にならう新しい人を身につけよと言うのです。そこには主イエスを知らなかったわたしたちの過去があり、そして主を知り、新しく生まれたわたしたちの現在があります。そして未来が、いやわたしたち今歩むべき道が示されるのです。
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。コロサイの信徒への手紙3章12-15節
この平和、この平和にあずからせるためにわたしたちは教会に、主のもとに招かれひとつの体とされたのです。パウロは平和と言いました。これは私たちが考える限りの、争いも何もない状態、さきほどのパウロの言葉から言えば、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉、互いにうそをつくこと、そんあものが教会には存在しない、それがわたしたちの教会であると言うのです。そのためにわたしたちはひとりひとり招かれひとつの体とされたというのです。
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。 コロサイの信徒への手紙3章16,17節
感謝の中にある生活。それが可能となるのです。前回、前々回と、礼拝の御言葉の中で語られてきたはずなのです。ひとりであったら絶対にはい出すことができない、抜け出すことができなかった自分、罪深い、罪にまみれたみじめな状態。わたしたちはお互いにそれを知らなければならない。そういう自分のことを考えれば、自分の姿を見れば、互いに許し合わないではいられないのです。慰め、支えあわないではいられないのです。わたしたちはひとつのものとされ、わたしたちが主のものであるという確信、わたしたちが主のものであるという、慰め、力、希望の中に歩むことができる。
問八 何か良いことに対しては、まったく無能であり、あらゆる悪に対しては、それに向かう傾向がある。それほどに、わたしたちは堕落しているのですか。
答 そうです。もしも、わたしたちが、神のみ霊によって新しく生まれるので
ないのならば。
主イエスにあること。主イエスなしでは、わたちたちはもうどうすることもできないこと、だからこそわたしたちすべてがもう主のものであることを確信して、神の御霊によって新しく生まれ変わり、それを確信して、あの平和の中に、平和の中に歩みなさいと言っているのです。
(楠原博行:2004年4月18日 主日礼拝説教より)