2005/03/13

日ごとの糧(ハイデルベルク信仰問答 問125)

詩編 第127編1-2節
 私たちは、何かを食べなくては、生きていくことができません。主イエスが教えてくださった主の祈りの中に、肉の糧を求める祈りがあるのは、当然のことだともいえるでしょう。「肉の糧」といっても、食べ物のことばかりとは限りません。暑さ寒さから体を守る衣服、着るものも必要です。住む家も必要です。「肉の糧」といっているけれども、「魂の糧」も必要です。それは、決して贅沢な暮らしを要求しているのではありません。無駄のない生活をしたとしても、私たちが生きていく上で必要なものは、考えてみるとずいぶんたくさんあると思います。
 ハイデルベルク信仰問答が、「日用の糧を与えたまえ」と祈る時に、「恵みにより、肉と命に必要な、すべてのものを、わたしたちに、お与えください。」と祈るのだというのは、本当にその通りのことなのです。
 しかし、それだけを祈り求めるのではないということを教えています。続きがあるのです。答の全てを読んでみましょう。
「わたしたちの日々のパンを、今日、わたしたちにお与えください。」です。 それによって、わたしたちは次のことを祈ります。
恵みにより、肉と命に必要な、すべてのものを、わたしたちに、お与えください。それにより、あなたのみが、すべての良いものの源であり、あなたの祝福なしには、わたしたちの心配も、労働も、あなたの賜物さえも、わたしたちには何の役にも立たない事を、知るように教えてください。
そういうわけで、わたしたちの信頼を、すべての被造物に向けることなく、ただあなたのみに、置くようにしてください、ということです。
神様の恵みによって、私のこの全存在に必要なものを与えてください。そう祈ることによって、すべてのよいものの源が神様、あなたのみであることを知る、すべてのよいものは神様のもとからしかこないことを知る、その様に教えてくださいと祈るのだというのです。ハイデルベルク信仰問答のこの言葉は、信仰の告白の言葉ともいっていいかもしれません。
 さらに、「日用の糧を与えたまえ」と祈ることによって、神様の祝福なしにはすべてがむなしいこと、そのことを知るのだというのです。
 私たちは食べるもののことに無関心ではありません。健康な体を維持していくために、きちんと食べる。このことにも、知恵と心配りが必要です。パンを得るために働く。これもまた、当然のことです。信仰問答はそのような心配り、労働というものを否定はしてはいないのです。ただ、生きていく上で大切なそういうことが、神様の祝福なしでは何の役のにもたたなくなる、むなしいものになってしまう、そのことを知る必要があるというのです。しかも、もし、神様の祝福がなかったならば、私たち側の努力がむなしくなるばかりではなく、神様が与えてくださる賜物までもがむなしくなってしまうというのです。
 詩編の127編の言葉にも「むなしい」事柄が3つ挙げられています。
主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。
 家を建てるということは大変な技術を必要とするものです。建物に加わるいろいろな力を考えて、きちんとたてなければ、その家は建つことはできません。また、注意を払って、一つ一つの建材を組み合わせていかなければならないのです。本当に多くの労苦、心遣いを要するのです。しかし、詩人はいうのです。それほどまでに様々な苦労の結果、家を建てたとしても、神様が、主ご自身がその家を建ててくださるのでなければ、その労苦はむなしくなってしまう。その家はむなしくなってしまうというのです。
 ここで、むなしいと訳されている言葉は、嘘、偽りとも訳される言葉です。大工が一所懸命に家を建てたとしても、神様の手が加わらなければ、神様の祝福がなければ、それは真実のものにならないというのです。
主御自身が守ってくださるのでなければ 町を守る人が目覚めているのもむなしい。
聖書の舞台となった地域では、町といえば高い城壁に囲まれたものでした。外からの侵略者を防ぐためです。そのために、見張りのものがたちます。昼夜を違わずに、敵が攻めてこないか、町の中に異変はないかを見張るのです。交代制をとっていても、かなり神経をすり減らす仕事でしょう。また、危険も伴います。それだけに、任務に就いたものは必死になってその責務を果たしたはずです。
 しかし、ここでも詩人はいうのです。神様ご自身が、主自らが町を守ってくださるのでなければ、どんなに一所懸命に見張りをしていたとしても、そこから得られる町の安全、平和は偽りのものになってしまう、空しいものになってしまうのだと。
朝早く起き、夜おそく休み 焦慮してパンを食べる人よ それは、むなしいことではないか
朝早く起きて、夜遅くまで働く。その日のパンを得る上では、むしろ必要なことです。そのために朝早くから、夜遅くで働く。「焦慮してパンを食べる」といわれるよりも、「勤勉に働くもの」とほめられてもいいのではないかと考えるかもしれません。
 が、詩人はいうのです。それもまた空しいと。あくせくと働いて、生きるためのパンを得るのは、むなしいどころか必要なことです。命をつないでいく上でもっとも大事なことをむなしいというのです。その様にして命をつないでも、その命は偽りのものになってしまうというのです。その理由を詩人は記しています。
主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
 「眠り」は私たちに与えられる本当の休息、安全、安らぎです。その本当の休息は主がお与えになるというのです。ですから、私たちが生活する場である家も、町の安全を守るための見張りも、命をつなぐためのパンも、主御自身から来るのでなければ、それらは偽りのものだ、空しいものにすぎないのだというのです。
 こうも言い換えられるかもしれません。私たちの労苦が本当の意味を持ってくるのは、私たちが神様の祝福の中を生きていると確信し、それを祈り求める時であると。「私たちは、神様の祝福の中を生きるのだ。」そういわれると、頭の中ではその大切さは十分にわかるが、それはそれで、現実は厳しいのではないかと問う方もあるかと思います。「日用の糧を与えたまえ」を単なる習慣として祈っているのでしょうか。そうではないと思います。「日用の糧を与えたまえ」と心から祈る時に、私たちは確かに神様から飲み、私たちによいものが来ると確信して祈っているでしょう。  ことによると、私たちに与えられている恵みは、物事に疎い自分には感じることのできないくらい小さなものかもしれないし、時には、涙を流して感謝するほど大きい恵みが与えられるかもしれない。
 が、与えられる恵みの量に多さ、大きさ、その質といったものは意味を持つものなのでしょうか。いや、その多さ、大きさ、質は、意味を持たないのです。神様から多くの恵みを与えられれば、感謝して、それを豊かに用いることができるでしょう。反対に、神様からいただいた恵みが、人間の目には小さなものであったとしても、その小ささの故に不信仰だ、罪だといって自らを卑しめる必要はないのです。どのような恵みも賜物も、神様の祝福の内に私たちに与えられているものなのです。とすれば、私たちはこの神様に信頼して祈るしかないのです。
祈りましょう。 主イエスキリストの父であり、また、主の故に、私たちも「父」と呼ぶことを赦してくださる御神様。
私たちは、いつでも目先のことに心を奪われます。
あなたから与えられた子の肉体、あなたが吹き込まれた命を保つためのパンを得ようとあくせくし、身を守るための衣服を得ようとし、少しでも幸いな生活を求めて御言葉に耳を傾けようとします。
どうか、私たちに必要なそれらのものを与えてくださいますように。やせ我慢をして、空腹であっても耐えることを良しとするのではなく、むしろ、肉体の飢え、御言葉の飢え乾きには、それを満たすための糧を祈り求めさせてください。 そして、あなたから与えられた恵みで腹を満たして良しとするのではなく、日ごとの糧を求める祈りを通して、そのすべてがあなたから来るものであること、神様の祝福なくしては、すべてがむなしくなってしまうことを、繰り返し心に刻ませてください。
試練にあう時、悲惨なものを目の当たりにする時、神様の存在を疑います。その様な時にこそ、あなたの存在を疑ったり、呪ったりするのではなく、あなたを求める祈りを祈らせてください。
神様の祝福の中を、神様のまなざしの中を歩むものとしてください。
主の御名によって祈り願います。
アーメン
(楠原彰子:2005年3月13日主日礼拝説教より)

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2005/01/23

祝福を祈る(ハイデルベルク信仰問答 第43主日 問112)

ペトロの手紙一 第3章8-9節
「汝、その隣人に対して偽りの証をたつるなかれ。」
 十戒の第9戒はこのように記されています。私たちが私たちの隣人に対して嘘の証言をしてはならないという戒めです。嘘の証言をしない、嘘をつかないということは、これもまた、当たり前のことです。そんなことは誰でもがしてはいけないことだと理解しています。この当たり前のことを、十戒は神様のみ前で私たちに繰り返し問うているのです。ハイデルベルク信仰問答がこの戒めについて教えているのは、第9戒の言葉もまた、私たちがただ嘘の証言をする、嘘をつくということを戒めているだけではないということです。
「誰に対しても、自分の言葉を曲げることなく、陰口をすることなく、中傷しないことを求めている」
 思慮のある言葉。感情にまかせてはき出される言葉。人を励ます言葉。たしなめる言葉。弁明する言葉。人をおとしめる言葉。日常生活の中で、私たちはいろいろな言葉を使います。考えてみると思慮深い言葉というのは、なかなか出てこないものです。反対に、感情にまかせて出てくる言葉は止まることを知りません。ポンポンと出てきます。特に、怒りにまかせて出てくる言葉は、その口から雪崩のように吹き出し、人を傷つけてしまいます。自分の意識する、しないにかかわらず人を傷つけてしまうことも、しばしばです。何気ない言葉によっても人を傷つけてしまう。それが悪意のあることではなくて、うっかりいってしまったことでも、「ああ、あんなことを言わなければよかった。」と後悔することはよくあると思うのです。自分自身が意識しないところで、うっかり言ってしまった言葉が人を傷つけ、人をおとしめているなら、私たちがある意図を持って人をおとしめることを語ることはなおさらです。舌は悪魔的な力をまき散らすことになります。
「誰の言うことも聞き入れないで、軽はずみに罪に定めることを助けないこと。」 「すべての、嘘やごまかしを、悪魔のしわざとして、神様の大いなる怒りをおそれるがゆえに、避けること。」
も同様です。人を欺くような悪い言葉、人をおとしめることに容易く同意することも、第9戒は戒めているのだと説明します。これも分かり切ったことです。にもかかわらず、私たちは簡単に人を罪に定めてしまいます。人を罪に定めること、裁くことはとてもたやすくしてしまうのに、私たちは人を許すことができない、と感じることがあります。「あの人が悪い。人間の体だって悪いところは手術でとってしまうではないか。あの人さえいなければここはもっとよくなる。」人を罪に定めることで、自分はちゃんとした道を歩いているという安心が生まれます。しかし、その安心は真の平安ではない。そう、信仰問答は教えるのです。  このことは同時に、隣人に対して耳障りのいい言葉のみを語れといっているのではありません。「舌を制する」と同じく、預言者の書の多くの記されているのは、その時代の王が耳障りのいい預言を語る宮廷預言者を重んじ、厳しい裁きの言葉を語る預言者を退けていることです。激しい裁きの言葉を預言者は語りますが、そこに顕れているのは、神の民、イスラエルを回復される神の救いの言葉でもあるのです。神様の真理は曲げてはならないのです。ハイデルベルク信仰問答は記しています。
「法廷においても、また他の場所においても、わたしが、真理を愛し、正直に語り、告白し、また、わたしの隣人の名誉と名声を、力の限り、救い、また増やすことを求めている」
証言しなければならない法廷においても、また、生活のあらゆる場面においても、真理は正直に語らなければならない。同時にそのことによって隣人を罪に定めるのではなく、困難なところから救うために、その隣人の名誉と名声を、力の限り救い増やすことを、第9戒は私たちに求めるのだというのです。

 ペトロの手紙一は迫害の中にあった教会の人々に宛てた手紙とされています。ローマ帝国の支配のもとにあって、「迫害に負けずに神の民として聖なる国民として生きよ」と手紙の著者は励まし、勧めています。手紙の中には、「皆がバラバラになるのではなく一つ思いを抱くように」とも勧めています。迫害という試練にさらされている状態は想像するしかないのですが、場合によってはローマ帝国に対して力を持って抗することがあったかもしれません。激しい迫害の中、信仰を捨てた仲間に対する誹謗中傷があったかもしれません。
 そこで、手紙の著者くは繰り返し、お互いが裁きあうのではなく、心を一つにして聖なる生活をするということを記しました。主イエスがそうであったように、聖なる神の民として、誠実に生活することによってキリスト者としての証を立てよと記しているのです。それは、主イエスがみ足の跡に続くようにと模範を残されたからだ(2:21)と記しています。信仰者としての生活が迫害するものに対する答えでありました。
 神様の真理を語ることは、時には隣人に対して厳しい言葉を語ることにもなるでしょう。しかし、厳しい言葉を語ることと、人を呪うことは違うのです。隣人を呪ってはならい。侮辱してはならない。呪いの言葉、侮辱の言葉は、隣人に対する私たちの感情からくるのです。第9戒が私たちに求めているのは、自らの感情はなくて、神様のまなざしの中に私自身をおいて語れということです。裁きは神様のなさることであって、私たちは隣人に対して祝福を祈ることが求められているというのです。
 ハイデルベルク信仰問答が、嘘やごまかしに対して、私たちが神様のみ前にあるという視点から解き明かしているのは、このためです。道徳にてらして「嘘やごまかしを避けろ」というのではなく、「神様の大いなる怒りをおそれるがゆえ」嘘やごまかしを避けるように。すると私たちは、神様の真理を愛し、隣人に対しては、それがたとえ私たちの敵であったとしてもその人の救いを求めるようになるというのです。
 私たちはもう一度、この信仰問答書が問一から貫いて語られていることを、改めて心に刻みたいと思います。それは主イエスと私たちの関係です。問112で語られていることを私たちは私と私の隣人の関係の中で読みます。しかし、これはまた、主イエスと私との関係でもあるのではないでしょうか。
 私たちは世の終わりに神様のみ前で裁かれるのですが、そのときにはすべてが明らかにされるといわれます。つまり、良いことも悪いこともすべて隠されることなく明らかにされるのです。そして、神様は正しいお方ですから、罪に対してはそのあがないを求められるのです。一切の掛け値はありません。神様の義は貫かれ、私たちは正しく裁かれるのです。しかし、そのとき、私たちはたった一人で神様のみ前に出るのではないのです。主イエスが私たちと神様の執り成しをする仲保者としておられるというのです。主イエスの血が流されねばならないほど、神様に背く私たちの罪は重いのです。しかし、主はその私たちを罪に定めるのではなく、回復するために裁きの場で力の限り弁護するといわれるのです。
 主イエスは「私に倣え」といわれます。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように」と主イエスはいわれます。私たちは改めて主に問われます。主イエスは人を侮辱したことがあるでしょうか、ののしったことがあるでしょうか。神様の御心をはからずに悔い改めないものたちを主は激しく戒められました。また、神殿で商売をするものたちに対しては激しく憤られました。しかし、人を呪ったことは一度もありません。いや、その反対です。そのように自分すら制することのできない私たちのために、主は十字架にかかられました。そしてよみがえって、世の終わりの裁きの時には、そのような私たちのための弁護者となってくださるのです。ですから、私たちも隣人に対して偽りを語ることをやめ、裁くことをやめ、むしろ隣人の救いと主の祝福を祈ることが求められているのです。

「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」(8節)

 ペトロの手紙の著者が記していることは、すべて主イエスが私たちにしてくださったことです。
「主イエスが、私たちにしてくださったこと。私たちのお手本になってくださったことはわかる。しかし、私にそれができるだろうか。果たして、そんなことができるのだろうか。」いつも私たちにつきまとってくる、問であると思います。
「罪人である私、不信仰な私には、そんなことはできるわけがない。」そのように思われる方があるかもしれません。
「私が、隣人を愛することができず、許すことができず、傷つけるのは、私の信仰が足りないせいだ。」そうも考える方があるかもしれません。
 この手紙の著者も、福音書記者も、主イエスも、聖書も私たちにできないことを勧めているのではありません。心を一つにすることも、隣人を思いやることも、愛することも、謙虚になることも、できるのです。確かにそれは、私たち自身の努力だけでは不可能ですが、主とともにあるときに、それが可能となるのです。主と共にある時、主イエスがそれを可能としてくださるのです。それが信仰の力です。

祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神。
汝、その隣人に対して偽りの証をたつるなかれ。
この戒めを口にする度に、自らの罪を思わされます。隣人を愛し、その人のために祝福を祈らなければならないのに、私たちの口から出る言葉は、自分を高くするために人をおとしめ、自分を正当化するために人を中傷する言葉です。
主イエスは、このような私たちのために私たちの罪を担ってくださいました。そして、終わりの時にはあなたのみ前で私たちの名誉を回復するために仲保者となってくださいます。そのような主のみ足の跡を私たちもたどれ、私に倣えと主は言われました。
あなたのまなざしの中に我が身を置く時に、私たちはあなたを心から恐れ、悪魔の業を退けることができます。主イエスを信じ、主と共にある時に、人を愛し、その人のために祝福を祈る者へと変えられていきます。
どうか私たちを、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報い」ず、隣人の祝福を祈る者へと変えてくださいますように。祝福を受け継ぐために私たち一人一人は、あなたからのお召しをうけていることを悟らせてください。
この祈りを主いえ・キリストのみ名によって、祈り願います。
アーメン
(楠原彰子:2005年1月23日主日礼拝説教より)

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2005/01/16

隣人に対して (ハイデルベルク信仰問答第42主日 問110、111)

第8戒「汝、盗むなかれ。」 マタイによる福音書 第7章7-12節

 十戒というものは十の戒めというよりも、神様の十の言葉であると言われます。ああしてはいけない、こうしてはいけないと、神様が禁じておられるのではないのです。むしろ十の言葉をそのままわたしたちにお示しになる。

汝わが面の前に我のほか、何物をも神とすべからず。 
汝、己れのために、何の偶像をも刻むべからず。
汝の神、主の名をみだりに口にあぐべからず。
安息日をおぼえて、これを聖くすべし。

これがわたしたち人間の本来あらねばならない姿である。そうお示しになられるのです。そうわたしたちは本来あらねばならないのであると。
汝の父母をうやまえ。
汝、殺すなかれ。
汝、姦淫するなかれ。
汝、盗むなかれ。
汝、その隣人に対して偽りの証しを立つるなかれ。
汝、その隣人の家をむさぼるなかれ。

 しかしそれはわたしたちがいったいいかなるものであるのか。いったいわたしたち人間はどういう生き方をしているかを示しておられるのでもある。これら十の言葉を前にして、そして今日は、「汝、盗むなかれ。」の言葉を前にして、わたしたちは胸を張るのでしょうか。いやむしろ頭をたれて、神様に、わたしたちの主イエスに、とりなしを求めざるを得ないのではないでしょうか。加えて与えられております、ハイデルベルク信仰問答の言葉は、「汝、盗むなかれ」の言葉を、さらに詳しく、はっきりとわたしたちに示すのです。どうか週報の裏に記されております、ハイデルベルク信仰問答の言葉をごらんください。
問百十 神様は第八戒において、何を禁じておられますか。
答 神様は単に、裁判所が罰する盗みや略奪を禁じているだけではありません。神様は、また、すべての計略や企てをも、盗みと呼ばれるのです。つまり、わたしたちが、暴力や見せかけの権力を伴って、策略をもって、わたしたちの隣人の財産を自分のものにしようとすること、たとえば、不正な目方や物差し、偽物の品物やお金、さらに不当な利子や策、そして、神の禁じられたものなど、すべてを神様は盗みと呼ばれます。また、神様はすべての貪欲、神様の恵みの無駄な浪費をも禁じておられます。
問百十一 ならば、神様はこの戒めにおいて、何を命じておられるのですか。
答 わたしが、わたしのできる限りにおいて、わたしの隣人の利益を助け、そして、隣人に対して、人がわたしにして欲しいようにすることです。また、わたしが困っている人を、その苦しみから助けることができるようにと、熱心に努力することです。

十戒の8つめの戒め、8つめの言葉、「汝、盗むなかれ」ということばを通して、神様はわたしたちに、どのような手段をもっても、わたしたちの隣人の財産を自分のものにしようとすること、これを禁じておられるというのです。つまるところ「汝、盗むなかれ」の言葉はわたしたちがわたしたちの隣人にどう対するかにつきるのです。それはできる限り、できる限りにおいて、わたしたちがわたしたちの隣人の益になるように助けることである。
わたしたちが、わたしたちの隣人に対して、人がわたしたちにして欲しいようにすることである。そして困っている人を、その苦しみから助けることができるように熱心に努力することである。
 それは今日同時に与えられましたマタイによる福音書の山上の説教の中のわたしたちの主イエスの言葉の通りなのです。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイによる福音書第7章12節)

「汝、盗むなかれ。」それはわたしたちの隣人のものを奪ってはならないということにとどまらない。むしろ、隣人のものを奪わないだけではなく、隣人に与えなさい。自分がしてもらいたいと思うことを隣人にしなさいということであるというのです。「これこそ律法と預言者である」とは旧約聖書を指しているのです。聖書全体を通じてわたしたちにそう教えていると主イエスはおっしゃるのです。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(同7節)

 昨年の教会修養会におきまして、ルカによる福音書の中のまったく同じ言葉を読んだのです。キリスト者でなくても知っている。いや最近は名言として教会へいったことのない子供たちでも知っている、あの有名な「求めなさい。そうすれば与えられる」、「求めよ、さらば与えられん」というところは、とても強い信頼が語られている。「求めなさい」という言葉はもともと祈りの中で求めることである。人間が人間に対して要求するのではなく、祈りの中で、「祈り求める」、「神様に祈り求める」、それがここでいう「求めなさい」の言葉の意味なのです。条件などないのです。「与えられる」のだとはっきり語られるのです。それはなぜなのか。どこからそのような確信が来るのか。それは父と子の関係であるからなのでした。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」そうでないはずがないではないかと主イエスがおっしゃっているのです。
 そしてもう前にご一緒にお読みしましたハイデルベルク信仰問答の問26です。神様が主イエスのゆえにわたしの神様であり、お父様である。そして「なやみが多い世の中」、悲惨の、苦しみの谷間を通るわたし、しかしそれをも神様がお与えになると告白するとき、信仰によってそのような悲しみを受け入れるとき、もうわたし一人ではなくなってしまうというのです。信仰により、たとえわたしたちがどん底にいると思えるときも、主イエスがいわば下から支えて下さっている。それを信じて疑わないとき、「どのような不幸でさえも、最もよいものに変えて下さる」に違いない。そして大切なところ。「神様は、全能の神様ですから、これをなさることがおできになる。信頼できる、お父さまですから、喜んで、これをしてくださる。」わたしたちが聞かなければならないのは、ここだとかつて申し上げました。だからこそ、苦しみの中で、不幸の中で、「父よ」と呼びかける。「父よ」と祈る。これこそが、「父よ」という呼びかけ。わたしたちが祈りの中で、天の父である神様と呼びかける理由に他ならなかったのでした。
 十戒の言葉を礼拝ごと、礼拝ごとに読み味わう。それにとまどいをおぼえて来られた、今もとまどわれている方もあるかもしれません。いやひとつひとつ十の戒めを数えるように読み味わうばかりではないのです。十戒の言葉は有名で、「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」などとそらんじているかもしれない。しかしその戒めの言葉が解き明かされ、詳しく示される。わたしたちが、たとえば「殺すな」という言葉から知っていることではとどまらないのです。それよるはるかに遡る。わたしたちの心の奥にまで遡って、「殺すな」とは、ねたみ、憎しみ、怒りをも、神様はおゆるしにならないということであると言うのです。わたしたちの心の奥にまで遡って、そのような隠れた殺人、ねたみ、憎しみ、怒りをも捨てよとおっしゃる。わたしたちの心の奥底まで遡るのです。わたしたちの心の中に潜む罪を明らかにする。わたしたちの罪の真相を明らかにする。わたしたちの罪の姿を認めると言われるゆえんなのです。わたしたちにはわかっている。神様を信じる。主イエスを信じる信仰が、わたしたちに愛を求めさせるのだということを。しかしわたしたちの罪が明らかにされてしまう。わたしたちが主イエスによる罪のゆるしと救いとを求めるしかないのです。しかもそれにとどまらない。たとえば「殺すな」なら、「殺すな」とはねたみ、憎しみ、怒りを捨てよということであると、わたしたちの心の中を遡るだけではない。むしろわたしたちが、隣人をわたしたち自身のように愛さなければならない。そして隣人に対して、忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情を示さなければならない。わたしたちの木更津教会では礼拝の中で十戒が読まれる機会は少ないですし、今までもそうであったかもしれません。ですから改めて十戒が解き明かされる、十戒がわたしたちの心の奥底に潜むものまでさらけ出させようとする事は、わたしたちは戸惑わせ、いや苦しみ、悩ますかもしれません。
 十戒について記された書物はいろいろあると思います。「殺すな」の戒めについて、以前紹介しましたユダヤ人の話。これは英語で書かれたハイデルベルク信仰問答のガイドブックの中から紹介させていただきましたが、この中では「盗むな」の戒めについては、次のようなことも書かれているのです。「盗むな」と言えば、ギャンブルも禁止するのであると。その収益金がチャリティに使われているなどというのはかくれみのである。あらゆる手段を通して、隣人の財産を奪ってはならないとは、ギャンブルによって、損をしたり、益を得たりするのもいけないと言うことだ。それは正当な労働の報酬ではないではないかというのです。それが制度やシステムになってるのはもっと良くない。たとえば地方の宝くじではないかというわけです。確かに、解釈には程度というものがあります。わたしは説教者として、宝くじやくじびきまで、悪であるからやめろとは言わないし思いません。しかしなるほどそこまで考えることもできるのだとも思うのです。十戒の言葉はわたしたちの罪の真相を明らかにするとはまさにこのことだと思うのです。日常の生活、人生の中で、信仰者として何が正しいか、何が誤っているかを判断するときに、やはり十戒は大きな意味をもっていると思うのです。そして罪を気づかせ、わたしたちの人生を変えさせる力です。やはり十戒の「盗むな」について挙げられた次のような物語があります。
 
その若い主人公は、いわゆるスリです。人から物をすって生活しているそういう若者なのです。ドイツには療養のための町というものがあります。温泉があり病院があり、病気療養のため滞在するそういう町です。有名なバーデン・バーデンや、ヴィース・バーデン、そんな町が舞台なのです。年配の、しかもお金を持っている人が結構いる町ですから、人の物をすって生活をするには最適な町なのです。しかしその日は、暑い日でした。町の通りには人っ子ひとりいない。獲物などいないのです。そのため彼は不満げに町中でズボンのポケットに手をつっこんで腐っていた。しかしそのとき、非常に年老いた、しかも病気のため顔色のわるい老人が、しかもふらふらと今にも倒れそうに家から通りに出てきたのです。若者は考えました。後をつけようかと。すると突然その老人が自分の方に向かって来た。そして話しかけてきたのです。「君がいてくれて良かった。たのみたいことがあるのだ。」そう言うのです。教会の牧師に手紙を届けたい。アイネ・リーベ・エアヴァイゼン。あなたの愛を、好意を親切をお願いして良いかと、この老人は問うているのです。牧師のところに手紙を届けたい。しかし自分は病気でもうそうする力がないようだ。牧師の家がどこにあるか知っているかと聞いてくる。若者は知っていると答える。すると老人はおだやかな口調で言ったのでした。「この手紙をぜひ今日中にも牧師に手渡したいのだよ。病気の子供たちへの献金が入っているんだ。」老人がこういうとき、若者は老人の目が輝くのを見たと言います。そうして老人は静かに若者を見つめて、自分の手を若者の頭の上において言ったそうです。「この献金を君を信用して手渡そう。きっと君はこれを牧師に手渡してくれるだろう。」そう言うのです。
 若者は約束して手紙を持って歩き始めました。暑いさなか、町の中で立っていた甲斐があったのです。もちろん牧師のところへなんて行くわけがありません。しかし彼が今日の獲物のことを考えれば考えるほど、手に持った手紙が熱くなっていくように感じられたと言います。まるでそれは真っ赤に燃える石炭のようであったと言うのです。ついに手紙をポケットに入れないではいれなかったといいます。しかし今度は手紙がしゃべり始めたのです。「いいかね、この献金を君を信用して手渡そう。きっと...」「ああ手紙がしゃべるはずがない。」そう若者は自分に言い聞かせるのです。どこか静かな所へ行って、いくら入っているか見てやろうと。しかしそうしようとしたまさにそのとき手紙がまたはっきりと声を出したのです。まるであの疲れた病気の老人の「君を信用しよう」という声を聞いたかと思ったほどでした。あの優しい手を感じたのです。そしてあの老人はなんと言ったか。「君の親切をお願いしたい。」ついに若者は大きな声で叫んだのです。「だめだ」と。あの人をだましてはだめだ。そして考え直す前に、牧師館に向かって走っていって、手紙を手渡したのでした。牧師の手を見たとき、ああなんと彼の心は軽くなり、うれしくなったことでしょうか。仲間に馬鹿にされるかもしれない。しかしはじめて誠実であったことの喜びの方がずっと大きかったのでした。
 そして次の日の午後、若者はあの老人の家の前にいました。またあの老人が出てこないかと思ったのでした。しかしその家は、昨日よりも静かで、窓の多くにはカーテンが降りていたのでした。するとひとつの窓が開き、黒い服を着た女性が顔を出し、彼に「誰かを待っているのですか」と問いかけたのでした。若者は言いました。昨日の手紙の事で、この家のご主人とお話がしたいのだと。婦人はこの若者が何か特別なものを感じて、優しく言ったのでした。「あの人と話をすることはもうできませんが、会うことはできますよ」と。そして若者はカーテンの降りた部屋に案内されたのでした。確かにあの病気の老人が眠っていました。しかしそれは永遠の眠りであったのです。昨日彼に手紙を渡してしまうと、老人はふらふらになって家に戻り、そのままベッドに横になり、亡くなってしまったのでした。
 若者はふるえながらベッドの脇に立ちつくし、泣きながら、感謝の言葉を老人に言ったそうです。しかしもう老人は話を聞くことができない。そこで自分を家に入れてくれた、老人の妹に、心から、自分の一生について、悪いことをたくさんしてしまったことを話したのです。そしてあの手紙のこと。老人が自分を信用してくれた。そのおかげで自分の中に良心が目覚め、手紙をちゃんと届けないではいれなかったこと。そして自分は決心した。新しい生き方を始めようと。そして婦人は言ったのでした。それではわたしがそのお手伝いをしましょう。きっと兄はあなたのことを頼むと言っているのです。そうして婦人は若者の決心を実現するために手助けをしたということです。

 十戒の「盗むな」に対して、ある書物で紹介されていた物語です。いかがでしょうか。よくある話。あるいはスリの若者というわたしたちとは無縁の物語でしょうか。しかし思うのです。良心など持ち得なかった。周りの人間はスリの獲物以外の何者でもなかったこの若者は、ただ一回の老人から受けた信頼に対して、自分の中で埋もれていた良心を目覚めさせたのです。ただ一人の人から与えられた信頼。これによって人生を新しく始めることを決心したのでした。
それは実はわたしたちキリスト者にとっても同じであると思うのです。ハイデルベルク信仰問答が教える、わたしたちの信仰の根源、それはわたしたちが主イエスのものであること。そして神様への信仰です。そしてまた主イエスが、神様が、信仰にあるわたしたちを信頼し、決して見捨てないと言うことでもあります。もともと十戒の言葉、それは「...してはならない」という意味だけではなく、「...してはならない。あなたは...するはずがない」の意味である。つまり「盗むな」とは「あなたは盗んではならない。あなたは盗むはずがない」であるのだと言われるのです。十戒のひとつひとつの言葉は、わたしたちの罪の真相を明らかにするものである。しかしまたそれは神様がわたしたちにお与えになった。わたしたちは本来こうあるはずだという信頼、信用でもあるはずなのです。それはわたしたちの父である神様の「わたしはあなたを信用しよう」という、あの老人の言葉と同じ言葉であると言えるかもしれません。それにぶつかったとき、そして十戒の言葉をすべて読み味わったとき、わたしたちも、神様の前にひれ伏し、さらなる新しい生き方を始めることができると思うのです。
(楠原博行:2005年1月16日主日礼拝説教より)

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2005/01/02

隣人として (ハイデルベルク信仰問答第40主日 問105-107)

第6戒「汝、殺すなかれ。 マタイによる福音書5章21-26節
 ただいま出エジプト記20章に記されております十戒のことばが読まれました。出エジプト記20章はモーセが主なる神様から十戒のことばを直接受け取る場面が描かれているのです。わたしたちは十戒の十の戒めをひとつひとつ味わって参りました。第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」からはじまり、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」までは神様とわたしたちとの関係が戒められています。そして続く「あなたの父母を敬え。」からは、わたしたちが同じ人間に対して、隣人に対してどうあるべきかが戒められる、二枚目の石版に入っているのです。今日わたしたちに与えられた戒めは「殺してはならない」なのです。
 「殺してはならない。」人間を、わたしたちの隣人を殺してはならないことです。人殺しということについて、わたしたちは遠いところにいるでしょうか。あるユダヤ人の話があるのです。第二次世界大戦のとき、ドイツの強制収容所に入れられていたのです。彼は命を失う前に、連合軍に解放されました。しかし同時に、強制収容所の司令官が逃亡してしまったのでした。何年もの間、彼は戦争犯罪者のリストに載り、戦後、逃亡したそのような戦争犯罪者を追うことを仕事とするユダヤ人たちもいたのです。そしてついに捕まったのです。そして強制収容所にいたユダヤ人が、40年もの後、この司令官に会ったのです。多くの友人たち、多くの親戚を殺し、そして自分をも殺そうとした、強制収容所の司令官です。突然このユダヤ人は泣き出したそうです。ようやくこの人が落ち着いたとき、ある人がなぜ泣き出したのかと尋ねたそうです。彼は驚くべき返事をしたそうです。それは捕らえられたドイツ人を見て、怒って泣いたのではなかったのでした。そうではなくて、このユダヤ人が、自分の心の中を見て、泣き出したのです。自分の心の奥底にある憎しみという深みを見た時、どれほど自分があの司令官のようであったかを思ったのです(G.I.ウィリアムソン, The Heidelberg Catechism A Study Guide 188頁)。「復讐するは我にあり。」「復讐はわたしのすること、わたしが報復する(ヘブライ10:30)」復讐は人間のすることではあり得ないという聖書の御言葉に、わたしたちはぶつからざるを得ないのです。
 しかしただ人殺し、殺人という罪を犯してはならないということだけではないとは、主イエスがすでに、さきほど一緒に読まれましたマタイによる福音書5章21節以下でおっしゃっていることでもあるのです。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイによる福音書5章21-26節)
 「殺すな」ではない。「殺すな」では足りない。腹を立ててもいけない。「ばか」とも「愚か者」とも言ってはならない。そのようなものは、裁きを、火の地獄を覚悟せねばならないというのです。厳しさというのでしょうか。わたしたちのハイデルベルク信仰問答もさらにくわしく、わたしたちの殺人の根っこということを言っています。問105では行いばかりでなく、思いや言葉、態度をもって、また他の人を通してでも、人をののしったり、憎んだり、侮辱しないようにと言っています。復讐心を起こすということは、むしろ自分を傷つけることであると言うのです。続く問い106と107には次のように記されています。
問106 それでは、この戒めは、単に殺すことについてのみ語っているのですか。
答 神様は、わたしたちに教えるために、殺人を禁じられました。すなわち、
ねたみ、憎しみ、怒り、そして復讐心は、殺人の根であり、神様は殺人の根を
憎むからです。そして、このすべては神様にとっては隠れた殺人だからです。
問107 わたしたちが、わたしたちの隣人を殺さなければ、この戒めを既に満たしていることになるのですか。
答 いいえ、違います。
 なぜなら神様は、ねたみ、憎しみ、怒りをおゆるしにならず、わたしたちが、隣人をわたしたち自身のように愛して、隣人に対しては忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情を示し、力の限りに隣人から恥をそらし、そして、わたしたちの敵にもまた、良いことをなす事を望んでおられるからです。
 殺人を禁じたのは、教育的な配慮であった。むしろ殺人の根っこを、隠れた殺人をこそ禁じようとされるのだ。すなわち、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心。これら隠れた殺人を神様は憎んでおられるのである。神様はわたしたちにこれら殺人の根っこをお許しにはならない。わたしたちは、わたしたちの隣人をわたしたち自身のように愛さなければならない。隣人に対して、忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情を示さなければならない。力の限りに隣人が恥を受けないように努力しなければならない。そしてそれはわたしたちの敵にも及ぶのである。
 神様は完全をお求めになると言われます。完全なのです。ねたみ、憎しみ、怒り。
そして忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情。多くの言葉があげられました。忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情。すばらしい言葉です。わたしたちはこれに向かって歩まなければならない、いつも念頭において生きていかなければならないと思わせる言葉です。
ねたみ、憎しみ、怒り。そして復讐心もあげられました。ねたみ、憎しみ、怒り。しかしこれらの言葉もわたしたちに決して遠くにはない言葉だともうのです。いやややもすると、ねたみ、憎しみ、怒りは強い、激しい思いとなって、わたしたちに迫ってくる。そして忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情。心惹かれる言葉であり、心を平和にする言葉ではありますが、ねたみ、憎しみ、怒りを乗り越えてしまうような大きな力をわたしたちの内で持ち得るのでしょうか。
 神様はわたしたちに完全をお求めになると言いました。しかしわたしたちは最初に紹介しましたユダヤ人の話のように、ぶつかってしまう。衝突しないではいられないのです。自分の心の奥底にあるものを見て、恐れおののいてしまう。涙を流さないではいられないのです。しかしだいたいどうして正月早々に「殺してはならない」なのか。どうして1月の2日から、わたしたちの心の奥底をさらけ出させようとするのか。もちろん4月からのハイデルベルク信仰問答をかたわらにおいての歩みがあります。今日はその40日目のところを、全体で52日、一年間かけて読むところの40日目にあたり、それは十戒の第6戒にあったているからにほかならないのです。しかしわたしたちはクリスマスの時期を過ごしました。改めて驚いたのは、クリスマス当日を過ぎると、町が、店先ががらっと変わってしまうことです。クリスマスの飾りが大急ぎで取り除かれて、今度は突然しめ縄などの正月の飾りが飾られ、売られる。とてつもないスピードでクリスマスが通り過ぎてしまって、正月に備え、飾られてしまう。しかしわたしたちの教会にはまだクリスマスツリーが飾られている。例年ではクリスマスが終わると片づけられるということでしたが、長老と相談をして、年明けの今日までは飾っておこうとしたのです。それは質素なクリスマスツリーで評判が良かったということもあるでしょうが、しかし改めて、クリスマスの心を考えると、まことにふさわしいことでもあったのです。
 1月6日。今年は今週の木曜日ですが、公現日、あるいは顕現日と言われる、祝日があるのです。カトリックの伝統が強いが、プロテスタントも覚えて祝います。以前住んでいた南ドイツ地方では、1月6日には、町中に仮装した子供たちの姿を見ることができます。お正月の仮装をするわけではありません。王様の服装をするのです。ひとりは顔を黒く塗った王様。3人の王様に一人が棒の先についた星を掲げて、家から家へと歌を歌って回るのです。そして家々の門に20+C+M+B+05と、新しい年の年号とラテン語でクリストス・マンジオーネム・ベネディカート、キリストがこの家を祝福してくださいますようにという言葉を書き記して回るのです。子供たちにはお礼におかしやくだものを用意し、教会への献金がわたされます。東方の3人の博士たちが、この日、主イエスを見つけ出した。この日、主イエスに、黄金、乳香、没薬の贈り物をした。その日を記念する祝日なのです。ベツレヘムの馬小屋に隠されるようにひっそりとお生まれになった主イエスが、今わたしたちの救い主として明らかにされたのです。全世界を代表とする3人の博士の前に、そのお姿を現されることによって、救い主が救い主として、私たちの前に明らかにされたのです。それはお正月が来ても過ぎ去ることはありません。
 なぜ神様は「殺すな」と言われるのか。それは生命を保つためです。神様が創造された生命。ご自身で創造された生命を守ろうとされている。殺すな。殺人の根っこである、ねたみ、憎しみ、怒りをやめよとおっしゃる。神様は完全をお求めになります。しかしその一人子主イエスをお送りくださった。わたしたちは主イエスにとりなしを求めます。そして「殺すな」という神様のみこころを行わせるために、わたしたちのもっとも近いところで、わたしたちを支え、導き、そしていついかなるときも助けてくださるのです。クリスマスツリーは今日で片づけてしまいますが、お正月という日本の祝日を超えて、今なおわたしたちには主イエスが必要なのです。教会ではクリスマスの出来事が過ぎ去ってしまうことはあり得ません。何よりも、主イエスがわたしたちにその姿を見せてくださったその季節に、わたしたちは改めて主イエスに助けを求めたいと思います。そしてそのお苦しみを思い、記念する聖餐にあずかりたいと思います。
(楠原博行:2005年1月2日 主日礼拝説教より)

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2005/01/01

味わい、見よ

詩編34編6-9節
「味わい、見よ、主の恵み深さを。」この御言葉はわたしたちが主日ごとに、みなさんといっしょに守っております礼拝において、その礼拝の一番最初に、礼拝の司式者が読みます招きの言葉において繰り返し読まれてきました御言葉なのです。「味わい、見よ、主の恵み深さを。」味わいなさい。見なさい。主なる神様の恵み深いことをと詩編第34編は歌っているのです。
 詩編第34編はその多くの詩編の中で、特別な詩編として知られています。それはその書き方が特別であるのです。わたしたちはいろはカルタというものを持っています。説明するまでもありません。い、ろ、はのそれぞれの文字を最初にして文を作り、カルタ遊びのことばに使っているのです。カルタの話をしましたのはお正月であるからではありません。詩編第34編は23節ありますが、その一節一節が、詩編、つまり旧約聖書が記されているヘブライ語のアルファベットのひとつひとつの文字ではじめられて一節一節の文が記されているのです。それは2節がアルファベットの最初の文字アレフ、英語で言えばA。3節がふたつめのベート、英語のB。そういうぐあいにABC順に、いってみればいろはの順番に一節いっせつが記されていて、今日わたしたちに与えられました6節はアルファベットのEだという具合なのです。いろはカルタがわかりやすくて、みなが楽しめるためにあるばかりではなく、文字やことばを覚えるためにありますように、やはりこの詩編がそのようにいろはカルタのように記されているのは、ことばを覚えるため、書くことを習うためであると言われます。また一節いっせつの言葉を指折り数えて覚えることができるのです。「味わい、見よ、主の恵み深さを」と神様に対する感謝の言葉が、一節いっせつ指折り数えて記されているのです。
 「主の恵み深さ。」美しい言葉です。ここではもともとの言葉はヘブライ語のトーブ。ふつう「良い」と訳される言葉です。英語で言うgoodなのです。「主の良さ。」この「良い」という言葉は旧約聖書の中ではかぎりなくくりかえし用いられ、いろいろな意味で用いられるのです。「良いものである。」「美しい。」「ここちよい。」「うれしい。」わたしたちにとって神様が「良い」とはどういうことでありましょうか。神様の良さを経験することができる、わたしたち自信が自分の体で知ることができるのです。神様の良さを、わたしたちの新共同訳聖書のように主なる神様の「恵み深さ」という形で知ることができる。わたしたちの生活を豊かに、幸せにしてくれる神様の物質的なたまもので知ることもできるのです。詩編34編は収穫感謝の詩編であると言われ、また収穫感謝の礼拝で読まれる箇所であるのです。
 また1節にダビデが命を救われた時とありますように、人が救われた。神様からの救いを経験して歌う詩編であるとも言われます。7節、8節にありますように、はっきりと詩編34編を歌う者は、神様からの救いを経験しているのです。「苦難から常に救ってくださった」、「守り助けてくださった」とはっきりと自分の救いを、自分の救いが神様から来ていること、ほかの誰でもない神様こそが自分を守ってくださったのだと言っているのです。
この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。(7節)
 そこでは自らを「貧しい人」であると言います。金銭的に富んでいるとか、貧しいと言うだけの意味ではありません。「助ける者がない人々」、「惨めな人々」、「抑圧された人々」、「低いところにいる人々」、「弱い人々」、「貧しい人々」。いやそればかりではありません。自分の助け手として、自分を必ず救い出してくださる方として、神様を信じている人々、神様を求める人々を指しているのです。8節で言葉を換えて言い換えられます。それは「主を畏れる人」のことです。自分を必ず救い出してくださる方として、敬虔に神様を求める人々を指してもいるのです。
 今日同時に読みましたマタイによる福音書の山上の説教からの主イエスの言葉。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
(マタイによる福音書第5章3-6節)」
 ここであげられる貧しい人々と同じであると言われます。主なる神様を畏れる人々。その人を助ける人が一人もないとしても、とても惨めな思いをしていても、抑圧されていても、自分が低いところにいるのではないか、どん底にいるのではないかと思えても、弱さにうちひしがれていても、物の、お金の、何であろうが貧しさの中に苦しんでいても、主イエスは「幸いなるかな」と祝福の声をかけてくださるのです。わたしたちは慰められる。もう天国に属し、それを受け継ぐ者となっている。飢えと渇きはかならず満たされるというのです。
 そうして救われた者、満たされた者、神様により頼んだ者の、感謝の歌が詩編34編であるのです。
主を仰ぎ見る人は光と輝き 辱めに顔を伏せることはない。
この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。
主の使いはその周りに陣を敷き 主を畏れる人を守り助けてくださった。
味わい、見よ、主の恵み深さを。 いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。(詩編第34編6-9節)
 わたしたちを救ってくださるただお一人の方として主なる神様を知る。そしてわたしたちは主なる神様を仰ぎ見るのです。わたしたちは光と輝く。喜びに輝くのです。辱めに顔を伏せることはないとは、わたしたちが礼拝し崇める呼び声が、かならず主なる神様によって聞かれるということです。そして決してわたしたちを見捨てることなく、助けてくださるということです。わたしたち貧しい人、まことの救い主として神様の方を向くわたしたち、たとえ苦しみの中にあろうとも、虐げられている中にあろうとも、悩みの中にあろうとも、貧しさの中にあろうとも、主なる神様は、その中から救ってくださる。いやもう救ってくださっている。わたしたちの周りに、主の御使いが陣を敷いている。主なる神様を畏れて崇めるわたしたちを助け出してくださっている。
味わい、見よ、主の恵み深さを。 いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。(同9節)
 主なる神様のわたしたちに良いことを、その恵み深さ。わたしたちにお与えてくださるもの。それによる喜び。それによる慰めを、味わってみなさいと言うのです。幸いなるかな。山上の説教の主イエスの言葉を思い起こします。いやギリシャ語に直せば、まったく同じ言葉が用いられるべきなのです。幸いなるかな。御もとに身を寄せる人は。幸いなるかな。主なる神様を信頼する者は。
 わたしたちは今日聖餐にあずかろうとしています。聖餐を通して主の恵みを味わおうとしているのです。わたしたちは聖餐のパンと杯がわたしたちに与えられるのをたしかに見ます。それはわたしたちの主イエスが、確かに、十字架において、主の身体がわたしたちのための犠牲として捧げられ、裂かれて、その御血潮がわたしたちのために流されたことを思い起こさせ、確信させるためです。
 そしてそれをわたしたちは、確かに手に受け取り、食べるのです。それは、確かに、主御自身が、わたしたちの魂のため、永遠の生命のために、主の十字架につけられたからだと、流された御血潮とを、わたしたちが食べ、飲むのだということを、思い起こし、確信するためであるのです。
 わたしたちは、信仰に満ちた心をもって、キリストの苦しみと、死を受け入れます。それによって、わたしたちは罪の赦しと永遠の生命とを受け取るのです。聖霊によって、主の聖なるからだと共にますますひとつとなります。わたしたちは、主のからだであるのです。
(楠原博行:2005年1月1日 木更津教会元旦聖餐礼拝説教より)

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2004/12/26

「愛の服従」(ハイデルベルク信仰問答 問104)

エフェソの信徒への手紙 第6章1-4節
 第5戒は「あなたの父母を敬え」です。当たり前の事だと、多くの方が思うでしょう。何もキリスト教に限って、特別にいうことではないかもしれません。自分の親を大切にする事、あるいは親族の年長者を敬うことは当然のこととして私たちは考えていると思います。 そこで、ハイデルベルク信仰問答の言葉に目を向けてみたいと思うのです。
問104 神様は第5戒において、何を求めておられますか。 答 わたしは、わたしの父、わたしの母、そして、わたしの上に立つすべての者に対して、一切の栄誉、愛、忠実を示すこと、そして、すべての良い教えと罰とを従順に受け入れ、また彼らの弱さ、過ちに対しても寛大であることを求めておられるのです。  なぜなら、神様は、わたしたちを、彼らの手を通して、支配することを望んでおられるからです。
 ハイデルベルク信仰問答 問104の言葉は、私たちが敬うべきものは、私たちの両親ばかりか「わたしの上に立つすべての者に対して」敬意を払うことを求めています。ここまで来ると、私たちの心の隅で一つの疑問が持ち上がってくると思うのです。
 神様が私たちをご支配なさることは理解できるのだが、なぜ直接ではなく目上の者の手を通してなのか。自分に横暴をふるう上司だっているし、両親といえども私たちと同じ人間だ、絶対に正しいとは言えないし、従えないこともあるじゃないか。「彼らの弱さ、過ちに対しても寛大であることを求めておられる」とあるけれども、本当にそうか。キリスト教の信仰を持たない両親や目上の者に対しても、敬意を払って従わなくてはならないのか。考えてみれば、ハイデルベルク信仰問答はキリスト教国である外国で編まれたものであって、キリスト者が人口の1%に満たない日本ではあてはまらないのではないか。
 もし、私たちの親子関係、あるいは社会の人間関係を単純に力関係で推し量るならば、この疑問に対する答を見つけることはできないでしょう。ただの力関係で推し量るのではなく、信仰の目でこの問を問い直すことか求められていると思うのです。
 まず第一に、私たちはこの戒めから始まる第5戒から第10戒がが2枚目の板に書かれていることを心に留めたいと思うのです。それは、単に1枚、2枚ということではないのです。1枚目の板が先にあり、2枚目がそれに続いているのです。このことはマタイによる福音書の中で、主イエスが神の律法を次のように要約して教えられたと、記されていることも対応するのです。
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40)
神様との関係がまず第1の掟であり、隣人との関係がそれに続いて記されています。私たちの隣人との関係は、神様と私たちの関係のもとにあるということです。信仰の目で十戒を問い直すということは、神様との関係の中で、私たちの隣人との関係を問い直すことである、といってもよいでありましょう。
 今日の主の日に与えられました御言葉は、エフェソの信徒への手紙 第6章1-4節です。ここでは、子供たちに対して、「親に従うように」と教えているのですが、5章21節から6章9節にかけて、この手紙の著者は妻と夫、子と親、奴隷と主人の3つの関係について記しています。
 まず、妻と夫との関係です。5章21節から33節に記されている部分です。この部分は教会では結婚式の中で、妻に対する教えとして読まれる箇所です。しかし、おもしろいことにこの箇所は古い時代においては夫に対する教えとして結婚式の中で読まれていました。手紙の著者は夫と妻の関係を、キリストと教会との関係になぞらえて、この箇所で語っています。
「また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(24-25節)
ここからだけでも、妻と夫との関係が力関係のうちに置かれていないことが分かります。「教会がキリストに仕えるように」(24節)「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように」(25節)「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(21節)と教えているのです。
 次に、子と親との関係が記されます。私たちに今日の御言葉として与えられている部分です。この勧告の言葉も、親と子の力関係を記しているのではありません。子供たちに対しては「主に結ばれている者として両親に従いなさい。」と語ります。また、親に対しても「主がしつけ諭されるように、育てなさい。」と語ります。親と子という最も親密な関係に置いても、お互いが「主に結ばれている者として」あるということをまず覚えることを求めているのです。
最後に、奴隷と主人の関係が5-9節に記されています。奴隷と主人といえば、その力関係は歴然としています。しかし、ここでも、奴隷に対しては「キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。」(5節)と勧め、主人たちに対しても「同じように奴隷を扱いなさい。」(9節)と求めているのです。それは「彼ら(奴隷たち)にもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらない」からだというのです。
 人間社会には、明らかに上下関係があります。従うものと従えるものの関係があるのです。それを「神様は人を分け隔てなさらないのだから」と人間社会の上下関係を無意味なものとして退けるのではないのです。「神様は、わたしたちを、彼らの手を通して、支配することを望んでおられる」とハイデルベルク信仰問答に記されていましたが、夫婦関係にしても親子関係にしても、社会生活の上下関係は神様がお定めになったことと理解するというのです。
 もちろん、このことは無条件の服従を意味してはいません。神様を誹ること、侮るようなこと、絶対に従い得ないことには「否」をいわざるを得ないでしょう。宗教改革者のカルヴァンが著した「ジュネーブ教会信仰問答」で、第5戒を扱っている中「神がお与えになった場合の他は、父も、王も、その他すべての上の人も、権威がないからであります。」(戸山八郎訳)と記しています。つまり、神様が定められたのでなければ、父であるということも、王であるということも、どうのような地位も権威を持たないというのです。しかし、私たちは慎重でありたいと思うのです。絶対に従い得ないことには「否」をいわざるを得ないとしても、やはり同時に「彼らの弱さ、過ちに対しても寛大であること」が求められていると思うのです。なぜならば、私たちの主イエス・キリストは、すべての人を救うために来られたからです。いまは従い得ない上の人も神様の前に立ち帰る事を、主イエスご自身が忍耐して待っておられるからです。そのような人の命令に従い得ないとしても、私たちがその人を裁いたり、呪ったり、することを主は望んではおられないからです。
 また、神様が目上の者を通して私たちを支配されるということは、目上の者が思いのままに振る舞って良いということを意味していません。神様に委ねられたものを神が私たちにしてくださったように、養い導く義務を負っているということです。
 ここにいる方の中で、いままで一度も両親、目上の親族から怒られたことのない人はいないと思います。反対に、親の立場から、目上の者の立場から、子供たちを叱ったことのない人もいないと思います。叱られた経験、叱った経験を思い出してみると、叱られた経験があるいは叱った経験が100%、神様の愛に基づいた諭しであったでしょうか。 「お母さんはいつも怒ってばかりいる。」多くの子供たちが口をそろえていうのです。「それは、あなたがお母さんとの約束を守らなかったから。」母親にも叱る理由はあるのです。子供自身は、いけないことをして悪かった事はちゃんと分かっているのです。それでもなお、「お母さんはいつも怒ってばかりいる。」というのは、怒る母の顔が教え諭すのではなく、怒りに燃えているからかもしれません。親としてこどもをしつけるのは当然といいながら、感情にまかせて怒りを爆発させる姿にはっとさせられる。誰もが経験していることだと思うのです。『隣人を自分のように愛しなさい。』の教えに従い得ない罪の姿を知らされる思いをしたことも、誰もが経験していると思うのです。「どんなにしても、あの人だけは許すことができない」そういう思いにとらわれたことも、誰もが経験していると思うのです。
 一つの物語を紹介したいと思います。これは、日本基督教団改革長老教会協議会が編纂している「季刊教会」という雑誌の中にも書いたことなのですが、アストリッド・リンドグレーンが書いた「ペレの家出」という話です。リンドグレーンはスウェーデンの児童文学者で、「長靴下のピッピ」「小さなロッタちゃん」「ロッタちゃんのひっこし」などの作品で世界的に有名になりました。
 「ペレの家出」は小さな男の子ペレが、お父さんの万年筆をいたずらしたとの嫌疑をかけられるところから始まります。確かにペレはいたずらっ子で、お父さんの万年筆を隠してしまったことは何回もあるのですが、その日は万年筆を隠したりはしていませんでした。お父さんが別の上着のポケットに刺してタンスに入れたのを忘れていただけなのです。なのに、お父さんもお母さんもペレがしたものと思ってきつく問いただしたものですから、ペレは怒って家を出ることにしました。大きな船に乗ってアフリカに行こう。そこでライオンに食べられるんだ。お父さんもお母さんもきっと悲しむだろう。しかし、アフリカは遠すぎます。ペレは庭の隅にある小屋に家出をすることにしました。そこからならば、お父さんやお母さんの悲しむ様子を十分に見ることもできるからです。
 「お父さんもお母さんも、時には間違ったことをするわ。でも、あなたのことをどんなにか愛しているのよ。」ペレを引き留めるお母さんに、「お父さんが謝らないから、万年筆を無くしたんだよ。」といい、怒りの一瞥をくれると庭の小屋へ出て行きます。しかし、時はクリスマス。ペレはいろいろと考えた末に、郵便屋さんが来たらペレが引っ越したことを伝えてほしいとママに言いに行くのです。そこでお母さんは言うのです。「ペレのいないクリスマス、ペレなしでクリスマスツリー、ペレなしのサンタクロース。」「それなら、別の子供を産めばいいじゃないか。」「私たちにはペレしかいないのよ。あなたを本当に愛しているのよ。イブの夜の間中、お父さんもお母さんも明かりのないクリスマスツリーのそばで泣いて過ごすわ。」この時ペレは、自分のしたことがどんなのひどいことであったかに気づくのです。自分の怒りの感情にまかせて、どんなにかお母さんを悲しませたかに気づくのです。「ごめんなさい」を言ったのはペレのほうからでした。そして、お母さんをぐしょぐしょに濡らすまで、その旨の中で泣いたのです。
 物語の終わりは、仕事から戻ったお父さんがいつものようにペレを呼ぶ場面です。「うちのペレはどこだい。」「ここだよ。」そういってペレはお父さんの胸に飛び込んでいくのです。
 これは不思議な感じのする物語です。本来ならば、謝らなければならないのは嫌疑をペレにかけたお父さんであるはずです。しかし、父親の謝罪の言葉は記されていません。ペレは、むしろ、嫌疑をかけられたことに対する自分の怒りにまかせて、お母さんを悲しませたことを悔いているのです。そして、最後にいつものようにお父さんの胸の中に飛び込んでいたのは、お父さんのしたことを許しているからでしょう。
 子供は親の所有物ではありません。夫婦も同じです。どちらかがもう一方の所有物ではないのです。社会における人間関係も上司が部下を所有しているのではないのです。親子の関係も、夫婦の関係も、社会における人間関係も神様の御心のうちに定められている、主の赦しのまなざしの中にある関係であるのです。
 「あなたの父母を敬え」第5戒の言葉を口にするとき、親であっても、子であっても、妻であっても、夫であっても、人を使う側であっても使われる側であっても、私たちは主イエス交わりの中にお互いの人間関係を再確認させられます。それは、しばしば、愛すること許し合うことよりも、裁きあってしまう自らの罪の姿をはっきりと示される事になるかもしれません。しかし、そこでうなだれることはないのです。自らの罪の姿と同時に、私たちは主イエスが、神様の戒めに従い得ないわたしたちの罪を担ってくださっていること、私が許すことのできない隣人も私同様に、主の赦しと救いに招かれていることをみるからです。私にできないことでも、神様にはできる。私たちは主イエスの愛の服従の中に置かれている。その主イエスを信じて祈り求めるときに、私たちもまた、隣人を許し、隣人を愛するものに変えられていくとの確信が与えられるのです。
祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様。 私たちは、御子の御降誕を多くの方たちとともに祝いました。祝福された時を過ごすことができました。しかし、改めて思うのです。主イエスは大いなる力を持って、私たちの所に来られたのではありません。一人の幼子として、しかも、歴史的にはローマの支配という中に、来られたのです。私たちを救うために、何よりも主自らが謙遜に歩まれたことを思います。私たちは愛すること、人を許すこに疎く、自らの怒りを爆発させることは簡単に行ってしまいます。 しかし、自らの罪の姿に気づくとき、うなだれるのではなく、心からあなたの前に悔い改め、そのような私のために主が来られたことを固く信じさせてください。私が隣人を愛する以上に主がその隣人を愛され、私が隣人を許すことができないときも、主がその人を赦してくださっていることを信じさせてください。主イエスを仰ぎ、信じて歩むときに、私たちの歩みも変えられていくのだと言うことを確信させてください。
主イエス・キリストのみ名により祈り願います。アーメン
(楠原彰子:2004年12月26日主日礼拝説教より 『ペレの家出』の引用箇所はドイツ語訳(Pelle zieht aus und andere Weihnachtsgeschichten: Oetinger Verlag)からの私訳)

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2004/12/24

闇に輝く光

旧約聖書イザヤ書第8章23節から9章1節までの御言葉をお聞き下さい。

今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。 
先に ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 
後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた 
異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見 
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
 つづいてイザヤ書第9章5節。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 
権威が彼の肩にある。 
その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。

 「闇の中を歩む民」とはわたしたちの事であると言われます。闇とは何でしょうか。闇とは光がないということです。闇とは光のない暗闇のことなのです。基本的な意味があると言います。闇とは、わたしたちが知る光のない闇のことです。暗いのです。恐怖を抱かせるのです。そしてまた次のような意味もあるのです。闇とは、わたしたちが何かしようとする時、わたしたちの前途の見通しに対してしょうがいになるもの、妨げになるものであるというのです。闇とはわたしたちに迫る危険であり、わたしたちそれぞれが心に抱く恐怖であると言います。わたしたちにとっての闇があるでしょうか。それは恐ろしいものであるかもしれません。それは避けて通りたいものであるかもしれません。
 クリスマスの喜びを語るのに、なぜ闇について語られなければならないのでしょうか。
いやまずだいたいどうしてわたしたちは礼拝堂を真っ暗にしているのでしょうか。昔の人たちは、特にヨーロッパに住む人々は、長く暗い夜を経験しました。光がないのです。ですから光を待ち望むのです。1年で一番夜の長い時なのです。暗闇の中のろうそくの、光の祭りなのです。礼拝堂を暗くして、燭火礼拝をする。そのようなクリスマスは、明らかに光をこい求める伝統の中にあるのです。
 しかしキリストの誕生を祝うわたしたちの礼拝においても闇について語られます。クリスマスには闇が語られて良いのです。尊敬すべき多くの説教者たちが、クリスマスの礼拝で、わたしたちの闇について語っています。わたしたちの不安です。「わたしたちに襲ってくる出来事が危険をもたらし、滅びをもたらすのではないかという不安...死をもたらす病がひっそりと近づいているのではないかという不安...墜落した航空機の中にいた...人びとが...毎分、毎秒、感じたに違いない...不安、地震が次々と襲ったときに...人々が感じた不安(カール・バルト/「光の降誕祭-20世紀クリスマス名説教集 R.ランダウ編、加藤常昭訳、教文館 1995年229頁)。」「自分で理解できない時代に生きている...あまりにも多くの闇を抱え込んでいる時代に生きている(トゥルンアイゼン 同123頁)。」戦争という闇。事件や事故という闇。社会の乱れという闇。わたしの人生の悩みという闇。病気という闇。仕事の闇。人間関係の闇。
 なぜ闇が語られるのか。それはその闇が打ち破られるからです。なぜ闇を語り、わたしたちの不安が語られるのか。それは光が差し。わたしたちの不安が取り去られるからです。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

 預言者イザヤのこの言葉の中に、わたしたちの信仰の先輩たちは、キリストの誕生を読み取ったのです。わたしたちは「闇の中を歩む民」かもしれない。しかし闇の中を歩くわたしたちは、「大いなる光」を見るに違いない。死の陰に包まれた地に住んでいるのではないかと思うわたしたちに、必ず光が輝くのだと。
 ただいま読みました、新約聖書ルカによる福音書2章の羊飼いたちの物語は夜という暗闇の時間を語っていました。羊飼いたちは野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていたのです。何か特別なことをしていたわけではないのです。何かだいそれたことを望んでいたいた人々でもないのです。ただ静かな夜、暗い夜、寂しい夜に、いつものように静かに仲間たちと羊の番をしていたのです。羊飼いたちが何を思っていたかはわかりません。寝ずの番をするという、日々のつらい仕事のことを思っていたかも知れません。あるいは家族のこと、日々の家族の生活のことを思いやっていたかも知れません。
 しかしそこに突然光が差すのです。主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたと言います。ほんの今さっきまで、暗闇であった、しかしそこに目をくらませるような光が差したのです。人間がすることと言えばただ一つです。恐れるしかない。自分たちが暗闇の中でいつものように過ごしていたと思っていたのに、突然暗闇でなくなってしまった。恐れるしかないのです。
 しかし声がする。力強い天使の声が響いたのです。「恐れるな!」と。闇ではないかと思える世界だと言いました。わたしたちの生活の中で、生きていく社会の中で、闇を感じたことのない人は、みなさんの中でもいないのではないかと思います。戦争という闇。事件や事故という闇。社会の乱れという闇。わたしの人生の悩みという闇。病気という闇。仕事の闇。人間関係の闇。わたしたちが生きていく中で、闇など存在したことはないと自信をもって声を大にして言う事ができる方などおられないのではないかと思うのです。
 天からの声です。わたしたちのはるかに高い所から下ってくる声です。闇の中に光が輝く。しかも「恐れるな」と言うのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」しかも喜びが来る。それは、どこそこに来る、誰彼に来るというのではない。民全体、わたしたち全体に、誰一人としてもれることがない。誰一人としてかける事がない、喜びが、それも大きな喜びが来るというのです。天からの喜びです。人間がこの世で生み出そうとするような、少しでも手に入れようとやっきになっているような、喜びや楽しみではないのです。わたしたちをはるかに超えた所から、大きな喜びがやってくる。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。(ルカによる福音書第2章10-12節)」
 闇の中に光が輝く。しかもあなた方の中に、この地上に住むわたしたちの中に、この世の中を生きているわたしたちの中に、闇の中に生きているのではないかと思わないではいられないわたしたちの中に、光が輝く。それはわたしたちのために救い主がお生まれになったことである。この方こそわたしたちの主キリストである。わたしたちが、わたしたちのすべてをおあずけしてよいお方である。わたしたちの人生を、わたしたちの全生涯をおまかせしてよいお方である。その方が今お生まれになった。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」が、そのお方である。
天からの声がさらに加わります。わたしたちのはるかに高い所から、さらに声が加わる。しかもそれは神様を賛美する声であったのです。それはわたしたち人間が賛美する声ではないのです。はるかに大きな、確かな賛美、それは天からの賛美の声、神様をほめたたえる声なのです。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
いと高きところ、はるかに高いところ、神様のおられる所では、神様に栄光があるように。
地には平和があるように。戦い、争いの中。そのような中に平和があるようにと声が響くのです。しかも他でもない、わたしたちの中に平和があるようにと天から賛美の声がするのです。天使たちは去っていきます。ふたたびはるかに高い所、神様のもとへと去っていきました。羊飼いたちは話し合うのです。
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか(ルカによる福音書第2章15節)」
天使たちの言葉の通り、羊飼いたちは確かに乳飲み子を見つけ出しました。マリヤとヨセフのそばに、飼い葉桶に寝かされていたのです。天使が告げた言葉を羊飼いたちから聞かされた人々はみな不思議に思ったのです。ただマリアだけはすべてを心に留めた。羊飼いたちはすべて天使の話の通りだったので、神様をあがめ、賛美しながら帰って行ったのでした。
 クリスマスを告げる有名な詩があります。羊飼いたちの心になって、お生まれになったキリストを拝みに行こうといううたです。

行こう キリストを拝もう まったき心を このお方に 向けよう 歌おう 喜びに満ちて みな 耳を傾けよ 愛する キリストの民よ

罪も 地獄も 悩むがよい
死も 悪魔も 恥じるがよい
われらは、われらの救いを得た
すべての悩みを投げ捨てよ

見よ 神がお与え下さったもの
そのひとり子 永遠の生命のために
このお方が われらを 高く上げてくださる
悲しみの中から 高き天の喜びへと
(Kommt und last uns Christum ehren パウル・ゲルハルト)

 わたしたちはそこにキリストを見いだすのです。闇の中で、悩みの中で、神様から離れていることを感じるものたちがいます。この世の闇を照らし出してしまう光のことを知らず、神様などいないと言う者もいます。しかしここにいらっしゃるのです。闇の中を歩き続けているように思われても、闇の中に飲み込まれてしまうのではないかと思われても、わたしたちの救い主キリストがおられる。わたしたちはひとりではないのです。あなたは捨てられているということはあり得ない。主イエスはあなたのそばにおられるのです。
お祈りします。
 天にいらっしゃいますわたしたちの父である神様。
 今、わたしたちは、こうしてあなたの前に集まり、御子のお生まれになる日を祝うことができますことを心から感謝いたします。神様、あなたは、わたしたちに救い主を生まれさせて下さいました。すべての民に、大いなる喜びに出会わせてくださいました。わたしたちは祈り願います。神様のお名前に、栄光を与えて下さい。この世に、平安を与えて下さい。この平安は、あなただけがお与えになることができるものなのです。平安はわたしたちの心の中から生まれでてくるべきものです。しかし、わたしたちは、この地上において、まったくの無力、まったくのおろかさの中に立ちつくしているのです。わたしたちはひとつの心となってあなたをあおぎのぞみ、あなたの、助けを待っています。あなたはわたしたちに、みことばをお与えになり、聖なる霊を与えようとしていてくださいます。そしてわたしたちの心は患難の中にあっても甦り、よろこぶのです。わたしたちには、この世に生きなければならぬ限り、自分自身のこと、自分自身が生きるための患難があるのです。あなたが助けていてくださることを、どこにいても気づかせてください。あなたが力を与えていてくださり、わたしたちはそれに身をゆだねることができるのだということに気づかせてください。日ごとに、年ごとに、常に新しく、どんな状況になろうと、あなたは助けを示してくださいます。そのことのゆえにわたしたちは感謝し、み名を崇めるのです。わたしたちが、あなたの御心にかなうものとなるようにしてください。地上にあって、苦しみ、耐え忍ばなければならないものの中で、しっかりとした心を持って、神様からいつも見守られているためには、わたしたちには、そのことが必要なのです。
 神様、主イエス・キリストをこの世に来たらせ、人間の救いの道を開いて下さる神様。
どうぞ、このクリスマスの喜びをわたしたちが分かち合い、喜びの中、わたしたちが、教会にあって、ひとつの交わりの中にあって、その歩みを堅くしていくことができますように。
 クリスマスの喜びの日々を過ごしている私たちの中で、新たに信仰を言い表そうとするもの、