日ごとの糧(ハイデルベルク信仰問答 問125)
詩編 第127編1-2節私たちは、何かを食べなくては、生きていくことができません。主イエスが教えてくださった主の祈りの中に、肉の糧を求める祈りがあるのは、当然のことだともいえるでしょう。「肉の糧」といっても、食べ物のことばかりとは限りません。暑さ寒さから体を守る衣服、着るものも必要です。住む家も必要です。「肉の糧」といっているけれども、「魂の糧」も必要です。それは、決して贅沢な暮らしを要求しているのではありません。無駄のない生活をしたとしても、私たちが生きていく上で必要なものは、考えてみるとずいぶんたくさんあると思います。
ハイデルベルク信仰問答が、「日用の糧を与えたまえ」と祈る時に、「恵みにより、肉と命に必要な、すべてのものを、わたしたちに、お与えください。」と祈るのだというのは、本当にその通りのことなのです。
しかし、それだけを祈り求めるのではないということを教えています。続きがあるのです。答の全てを読んでみましょう。
「わたしたちの日々のパンを、今日、わたしたちにお与えください。」です。 それによって、わたしたちは次のことを祈ります。神様の恵みによって、私のこの全存在に必要なものを与えてください。そう祈ることによって、すべてのよいものの源が神様、あなたのみであることを知る、すべてのよいものは神様のもとからしかこないことを知る、その様に教えてくださいと祈るのだというのです。ハイデルベルク信仰問答のこの言葉は、信仰の告白の言葉ともいっていいかもしれません。
恵みにより、肉と命に必要な、すべてのものを、わたしたちに、お与えください。それにより、あなたのみが、すべての良いものの源であり、あなたの祝福なしには、わたしたちの心配も、労働も、あなたの賜物さえも、わたしたちには何の役にも立たない事を、知るように教えてください。
そういうわけで、わたしたちの信頼を、すべての被造物に向けることなく、ただあなたのみに、置くようにしてください、ということです。
さらに、「日用の糧を与えたまえ」と祈ることによって、神様の祝福なしにはすべてがむなしいこと、そのことを知るのだというのです。
私たちは食べるもののことに無関心ではありません。健康な体を維持していくために、きちんと食べる。このことにも、知恵と心配りが必要です。パンを得るために働く。これもまた、当然のことです。信仰問答はそのような心配り、労働というものを否定はしてはいないのです。ただ、生きていく上で大切なそういうことが、神様の祝福なしでは何の役のにもたたなくなる、むなしいものになってしまう、そのことを知る必要があるというのです。しかも、もし、神様の祝福がなかったならば、私たち側の努力がむなしくなるばかりではなく、神様が与えてくださる賜物までもがむなしくなってしまうというのです。
詩編の127編の言葉にも「むなしい」事柄が3つ挙げられています。
主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。家を建てるということは大変な技術を必要とするものです。建物に加わるいろいろな力を考えて、きちんとたてなければ、その家は建つことはできません。また、注意を払って、一つ一つの建材を組み合わせていかなければならないのです。本当に多くの労苦、心遣いを要するのです。しかし、詩人はいうのです。それほどまでに様々な苦労の結果、家を建てたとしても、神様が、主ご自身がその家を建ててくださるのでなければ、その労苦はむなしくなってしまう。その家はむなしくなってしまうというのです。
ここで、むなしいと訳されている言葉は、嘘、偽りとも訳される言葉です。大工が一所懸命に家を建てたとしても、神様の手が加わらなければ、神様の祝福がなければ、それは真実のものにならないというのです。
主御自身が守ってくださるのでなければ 町を守る人が目覚めているのもむなしい。聖書の舞台となった地域では、町といえば高い城壁に囲まれたものでした。外からの侵略者を防ぐためです。そのために、見張りのものがたちます。昼夜を違わずに、敵が攻めてこないか、町の中に異変はないかを見張るのです。交代制をとっていても、かなり神経をすり減らす仕事でしょう。また、危険も伴います。それだけに、任務に就いたものは必死になってその責務を果たしたはずです。
しかし、ここでも詩人はいうのです。神様ご自身が、主自らが町を守ってくださるのでなければ、どんなに一所懸命に見張りをしていたとしても、そこから得られる町の安全、平和は偽りのものになってしまう、空しいものになってしまうのだと。
朝早く起き、夜おそく休み 焦慮してパンを食べる人よ それは、むなしいことではないか朝早く起きて、夜遅くまで働く。その日のパンを得る上では、むしろ必要なことです。そのために朝早くから、夜遅くで働く。「焦慮してパンを食べる」といわれるよりも、「勤勉に働くもの」とほめられてもいいのではないかと考えるかもしれません。
が、詩人はいうのです。それもまた空しいと。あくせくと働いて、生きるためのパンを得るのは、むなしいどころか必要なことです。命をつないでいく上でもっとも大事なことをむなしいというのです。その様にして命をつないでも、その命は偽りのものになってしまうというのです。その理由を詩人は記しています。
主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。「眠り」は私たちに与えられる本当の休息、安全、安らぎです。その本当の休息は主がお与えになるというのです。ですから、私たちが生活する場である家も、町の安全を守るための見張りも、命をつなぐためのパンも、主御自身から来るのでなければ、それらは偽りのものだ、空しいものにすぎないのだというのです。
こうも言い換えられるかもしれません。私たちの労苦が本当の意味を持ってくるのは、私たちが神様の祝福の中を生きていると確信し、それを祈り求める時であると。「私たちは、神様の祝福の中を生きるのだ。」そういわれると、頭の中ではその大切さは十分にわかるが、それはそれで、現実は厳しいのではないかと問う方もあるかと思います。「日用の糧を与えたまえ」を単なる習慣として祈っているのでしょうか。そうではないと思います。「日用の糧を与えたまえ」と心から祈る時に、私たちは確かに神様から飲み、私たちによいものが来ると確信して祈っているでしょう。 ことによると、私たちに与えられている恵みは、物事に疎い自分には感じることのできないくらい小さなものかもしれないし、時には、涙を流して感謝するほど大きい恵みが与えられるかもしれない。
が、与えられる恵みの量に多さ、大きさ、その質といったものは意味を持つものなのでしょうか。いや、その多さ、大きさ、質は、意味を持たないのです。神様から多くの恵みを与えられれば、感謝して、それを豊かに用いることができるでしょう。反対に、神様からいただいた恵みが、人間の目には小さなものであったとしても、その小ささの故に不信仰だ、罪だといって自らを卑しめる必要はないのです。どのような恵みも賜物も、神様の祝福の内に私たちに与えられているものなのです。とすれば、私たちはこの神様に信頼して祈るしかないのです。
祈りましょう。 主イエスキリストの父であり、また、主の故に、私たちも「父」と呼ぶことを赦してくださる御神様。
私たちは、いつでも目先のことに心を奪われます。
あなたから与えられた子の肉体、あなたが吹き込まれた命を保つためのパンを得ようとあくせくし、身を守るための衣服を得ようとし、少しでも幸いな生活を求めて御言葉に耳を傾けようとします。
どうか、私たちに必要なそれらのものを与えてくださいますように。やせ我慢をして、空腹であっても耐えることを良しとするのではなく、むしろ、肉体の飢え、御言葉の飢え乾きには、それを満たすための糧を祈り求めさせてください。 そして、あなたから与えられた恵みで腹を満たして良しとするのではなく、日ごとの糧を求める祈りを通して、そのすべてがあなたから来るものであること、神様の祝福なくしては、すべてがむなしくなってしまうことを、繰り返し心に刻ませてください。
試練にあう時、悲惨なものを目の当たりにする時、神様の存在を疑います。その様な時にこそ、あなたの存在を疑ったり、呪ったりするのではなく、あなたを求める祈りを祈らせてください。
神様の祝福の中を、神様のまなざしの中を歩むものとしてください。
主の御名によって祈り願います。
アーメン
(楠原彰子:2005年3月13日主日礼拝説教より)
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