2007/02/03

十字架のほかに誇る所あらざれ

「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない(ガラテヤの信徒への手紙第6章9節、口語訳)。」

 加藤常昭先生は「善を行う」とは「互いに重荷を担い合う」ことだとおっしゃいました。ガラテヤ書のこの箇所の説教でかつて次のように語られたのです。「私たちは教会の交わりと言えば、教会とは、自分のことを誰かが親切にかまってくれるところ、自分の思う通りにしてくれるところだとのみ考えてしまう。そういう甘えが私たちの中にある。甘えのこころがあると、そのこころが満たされないままに不平や不満が生まれてしまう。パウロはそんなことを言っているのではなくて、教会というのは、むしろ自主自立の人間の集団であって、自分自身の重荷は自分で負う人間の集まりである。けれども自分の重荷を自分で負うことを知った人間は、神様のみまえに、ひとり立つことを覚えた人間であって、そのような人こそ、また神様のみまえにあって他者の重荷を負うために手を差し伸べることができるようになる(加藤常昭説教全集21教文館)。」

「然(さ)れど我には我らの主イエス・キリストの十字架のほかに誇る所あらざれ。(同14節、文語訳)」

 ガラテヤ書の講読も終わりに近づいて、わたしたちの心に響く勧めの言葉が続くのです。わたしたちはパウロの言葉にうなだれて耳を傾けざるを得ないと思うのです。この十字架によって世はわたしに対してはりつけにされている。わたしも世に対してはりつけにされている、ともパウロは言います。わたしたちがこの世を本当の意味で生きるとは、この世にしばられないことなのです。すべてを主イエスにゆだねる生き方こそがキリスト者が本当に生きるということなのです。この世的な、わたしの思いにとらわれて生きるならば、それも本当の意味で生きると言うことではないでしょう。
 「十字架のほかに誇る所あらざれ。」それはたいへん重い。時にはたいへんつらい言葉となるかもしれません。割礼の問題しかり。律法の問題しかり。わたしたち自身の問題としても、人間としてのわざ、思い...わたしたちの教会で、長老会で、あるいは信徒個人の間の問題でぶつかるもの、その多くは、肉にある人間の思いと、キリストにあって十字架のみにより頼む信仰との衝突に違いないと思うのです。結局は人間の思いによる見えでしかない。わたしたちがいかに、キリストの十字架を建て前にしてしまっているのか。まさにありとあらゆるものが「十字架のほかに誇る所あらざれ」との信仰をさいなみかねないのです。しかし、そうではいけない。まことの信仰に立ち返れ、キリストに立ち返れ、肉にあってではなく、キリストにあれ、とパウロは言うのです。
 祈祷会で出会ったこのふたつの言葉がなぜ多くのキリスト者に愛唱されて来たのでしょうか。それはただ自分の看板のように家の前に出して、満足するためではなかったと思うのです。キリスト者として歩み、悩み、涙する中で、心の中で繰り返して来た、そういう言葉であった。慰め、励ます言葉であったに違いないと思うのです。

兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。(同18節)

 この「アーメン」という言葉。ガラテヤ書の最後にパウロ自身が「アーメン」と書き記したことにも意味があると言われます。わたしたちには、もしかしたら、ここに「アーメン」とあることが普通に思われるかもしれませんが、実際、パウロの手紙の最後に、「アーメン」と記されているのは、ガラテヤ書以外には、意外に思えるかもしれませんがローマの信徒への手紙だけなのです。しかもガラテヤ書ではパウロ自身が「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いて(同11節)」いる。「アーメン」と書いている。そこにはこの手紙を聞くあなたがたは「アーメン」と言えるかと問いかけているパウロが、いや、これは信仰の本当に大切なことだから「アーメン」、「その通りです」と声をあわせなければならないというパウロのとても強い意志が働いているに違いないと考えられるのです。
(楠原博行:2007年1月10日祈祷会より)
   

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