2007/11/03

復活

コリントの信徒への手紙 第15章1-11節

兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。(コリントの信徒への手紙一第15章1節)
福音とは主イエス・キリストの十字架と復活の出来事のパウロ自身の体験でした。かつて告げ知らせた福音を、パウロはもう一度知らせると言うのです。その福音を、手紙を読んでいる人々は既に受け入れて生活のよりどころとしているだろう。その福音を忘れずにしっかり覚えていなさいとパウロは言うのです。しっかり覚えていれば、あなたがたはその福音によって救われると言っているのです。
 三節から八節に記されています、十字架にかけられ死んで葬られ、復活されたキリストと出会ったこと。これこそ、パウロが受けた福音であって、それが教会の迫害者パウロを使徒パウロに変えたのです。パウロは強い信仰の言葉を記します。
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。(同10節)
むしろ「今あるは神の恵み」という愛唱聖句として知られている箇所ではないでしょうか。パウロは、コリントの人々の信仰のよりどころを、福音について、もう一度明らかに語ろうとしたのだと思います。キリストの十字架と復活を語り、自分にも、そのキリストが現れた。自分は出会ったのだと語った時。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と語らないではいられなかったのだと思うのです。パウロ自身のたいへん力強い、自分はこれで生きているんだ、との信仰告白です。
 コリントの信徒への手紙15章は、パウロが復活ということについて語るところです。それはなぜだったか。今まで、コリントの教会で起きた、さまざまな誤った信仰の言葉を聞いてきました。「キリスト者って何をやってもいいんだ」というスローガンによって、日常の生活と霊的な生活を切り離してしまい、肉的な自分なら何をやっても赦されるという誤った信仰に陥ってしまったこと。「だけど腹は減るだろう」と言って、やはり霊的、信仰的なつつましやかさを離れ、地上的、肉的な放縦、やりたい放題なさまを赦してしまう考え方。パウロはひとつひとつ信仰的にコリントの教会の人びとをいさめてきたのでした。そして復活の問題はその究極です。霊的、哲学的な復活観に陥り、この私の肉体こそが復活するという、パウロが宣べ伝えたキリストの復活に疑いを差し挟む人びとがいたらしいのです。
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。(同3-5節)
これはキリストの十字架の3年以内にさかのぼるという古い信仰告白だと言われます。続く6,7,8節。これはコリントの教会の人びとに死者の復活を語ろうとしていることを考え合わせればわかります。復活されたキリストが500人もの人びとの前に姿を現した。その大部分は今なお生きている。教会の指導者であるヤコブにも現れ、このわたしにも現れた。それなのになぜ疑うのか。というパウロの証しであり問いかけになっているのです。おそらく、これは、この15章をひととおり読み終えた時に、もう一度ふりかえらなければならないことだと思うのですが、繰り返し紹介しています、この書物の注解書を書いたヘイズという人は、「すべてキリスト教の宣言は復活に基づいていなければならない。このことによって信仰は立ちも倒れもする」と記していました。わたしたちの信仰が立つか倒れるか、それは私たちがこの復活の福音の言葉に立っているかいないか--まさに冒頭のパウロの言葉のままなのですが--それにかかっているのだと言うのです。
(楠原博行:2007年9月12日祈祷会より)

|

2007/09/07

聖餐・喜びの食卓

コリントの信徒への手紙一 第11章23-29節

 コリントの信徒への手紙一第11章23節以下の言葉は、「聖餐制定の言葉」として、聖餐の度ごとに読まれています。聖餐は、説教と共に、主のご臨在を証しするものとして定められ、木更津教会では、毎月の第一主日と、クリスマスなどの特別のお祝いの日に、聖餐礼拝を行っています。説教のあと、主イエスが最後の晩餐でなされたように、パンとブドウの汁を分かち合うのです。
 聖餐は、主イエスが定め、主、ご自身が招いてくださった食卓、恵みの食卓です。23-25節で示される主イエスの言葉は、最後の晩餐の時に弟子たちに語られたものです。その言葉を、教会は主の晩餐を祝うたびに、くりかえし聞き続けてきました。しかし、私たちは、パウロの次の言葉(26)で、立ち止まらざるを得ないのでしょう。

だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(26)

主イエスの昇天から再び来られる時まで、私たちは聖餐を祝うごとに「主の死」を告げ知らされ、心にとめることになります。「祝いの食卓」でありながら、「主の死」を心に刻むのです。なぜ、「聖餐」の場に「主の死」が告げ知らされるのでしょうか。
 当時のコリントの教会は、分裂の危機にありました。人々は、教会の中の中の何人かの有力者たちを指して、私はあの人につく、私はこの人につくと言ってバラバラになっていたのです。主によって建てられた教会が、なぜ分裂するのか。主によって召し集められた聖なる民が分裂してはならない。パウロはそう思い、この手紙をコリントの教会に書き送ったのです。主の晩餐についても、コリントの教会では皆が勝手に食するという状態でした。主の食卓においても教会は分裂していたのです。
 パウロは、まず主イエスが、聖餐を祝うことを命じられた出来事を人々に思い起こさせました。23-25節は、最後の晩餐の席での主イエスの言葉です。十字架の上で裂かれたキリストのからだ、十字架の上で流されたキリストの血は、私たちと主なる神との新しい契約のしるしであることを、繰り返し心に刻むためです。
 23節の「引き渡される」という言葉を聞くと、私たちは最後の晩餐の後、主イエスが人々に裏切られ、押しかけた人々に引き渡されたことを思い出します。しかし、パウロはローマの信徒への手紙の中で、同じ「引き渡す」という言葉を用いて、次のように記しています。

わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。(ロマ8:32-34)

主イエスを引き渡したのは、罪人である私たちすべてであると同時に、神、ご自身です。「神が、私たちのために主イエスを死に渡される夜、イエスはパンを取り…」というのです。つまり、私たちがこの聖餐制定の御言葉を聞くときに、主イエスの十字架の死は、私たちを罪の中から救うための神のご計画であることを深く思わされるのです。

 続く27節以下の御言葉を聞くときにも、いささか戸惑いを感じる人は少なくないでしょう。
従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。(27)

おそらく、聖餐を受けるにあたって、この御言葉を聞き、自らを省みない人は、一人もいないと思うのです。聖餐を受けるときに自らを省みることは、ある意味で正しいことです。しかし、この部分についても、問い直さなくてはなりません。「聖餐を受ける足るふさわしさ」とは何でしょうか。 パウロは、そのことを29節にはっきりと示しています。

主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。(29)

 主の体とは、主イエスを頭とする教会です。聖餐は、新しい契約の民としての教会の一致を現すものです。個人的な赦しを得るものでもなければ、個人的な信仰のわざでもありません。主の食卓を主の民が集い囲むのです。聖餐を受けるときに求められるのは、主イエスによって召し集められ、主の体なる教会に集う信仰の仲間との関わりを心に刻むことです。
 キリストの死も、私個人の罪の赦しに留まらないのです。主イエスは、この世を救うために自らを死に渡されました。パンを受け取るときに、私たちは、この世のために裂かれたキリストの体を思います。キリストが身体を裂かれたから、私たちは生きるのです。杯を受け取るときに、私たちは流されたキリストの血を思います。キリストの血は、神と新しいイスラエルの契約のしるしです。
 この約束を、神は、誇るべきものがないばかりか、むしろ罪のまみれた私たちに、憐れみと恵みのゆえに与えられるのです。これ以上の奇跡はありません。その奇跡を、私たちは聖餐のたびに、見て、味わうのです。
 ならば、私たちは、聖餐を受け取るときに、自らを省みて尻込みをするのではなく、むしろ、神は、その恵みのゆえに主の食卓に私たちを招かれ、キリストの体と血を受ける決意をするように促されるのです。
 讃美歌21、75番を味わってください。1番の歌詞は、次のことをあらわしています。
 私たちは、すべてを納められる、主によって、主の食卓への招きを受けているのです。しかも、罪の衣を脱いで、主の食卓に集うにふさわしい、光の衣をまとうのです。この光の衣は、主イエスの十字架の死と復活が、私とこの世の救いのためであることを信じ告白するものに、与えられるころもです。
 続く2番の歌詞は次のことをあらわしています。
 私たちは、飢え渇きます。その私たちに、主は祝福し聖別したパンと杯を与えられるのです。尻込みする必要はありません。私たちは、自らの罪を知っているゆえに、私たちの救いは、この主イエス・キリストをおいてほかにはないと告白することができるのです。与えられたパンを感謝して受け、主の体に連なり一つとなるのです。

 まだ、洗礼を受けていない方たち、信仰告白式を終えていない方たちへ。主なる神は、あなたの応答を待っています。あなたも、主の食卓に連なるものとなるように、主の体に連なり、一つとなるように。その心で信じ、口で信仰を言いあらわし、洗礼を受けることを、私たちもまた、祈っています。
 そして、すでに信仰を言い表している私たちも、改めて、聖餐に示されている恵みと、はかり知れない奇跡を、心に刻みつづけるのです。
(楠原彰子:2007年8月26日 主日礼拝説教〈修養会開会礼拝説教〉より)

|

2007/08/04

神の栄光をあらわしなさい

コリントの信徒への手紙一 第6章12-20節

「わたしは何をやってもいいんだ!」
「それでも腹は減るだろう!」
賢い人が自分で選んだ事なら何をしても構わない、というずいぶん都合の良い知恵や哲学をコリントの教会の人々は作り上げていたのです。そして、このようなスローガンを掲げていました。ヘイズという人が、コリントの信徒への手紙一の日本語でも読める注解書の中でおもしろいことを書いていました。コリントの人々は、むしろパウロが自分たちの主張に賛成すると思っていたと言うのです。パウロ先生は古いユダヤ教のしきたりから自由になることを伝えていた。神様の恵みこそがこの上ないものだと教えてくださった。だから良心の咎めとか、良心に反するからしてはいけない等という人間的な事柄は無意味になるはずだ。
 コリントで問題になっていた、父親の妻を自分の元においている男性の事件に、これが極端にあらわれている。コリントの多くの人々が、このような倫理的な問題に対してたいへん寛容であったと言うのです。「娼婦のところにしばしば行くコリントの男性は、前代未聞の新しい自由を主張していたのではな〔く〕...単に自分たちの文化の中では全く普通の愉快な活動を続けて楽しむ権利を主張しただけである(R・B・ヘイズ、現代聖書注解、教団出版局、180頁)。」
 コリントの人々の主張に反対して、対話するような形で書かれているのが、今日のところです。
「コリントの人々:わたしは何をやってもいいんだ!」「パウロ:しかし、すべてのことが益になるわけではない。」
「コリントの人々:わたしは何をやってもいいんだ!」「パウロ:しかし、わたしは何事にも支配されはしない。」
「コリントの人々:それでも腹は減るだろう!」「パウロ:体はみだらな行いのためではなく、主のためにある!」
 パウロはキリスト者の基本的な信仰告白に訴えようとします。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあ〔る〕。」わたしたちの体は主のものである。体が大切であることを、神は、主を復活させることでお示しになった。肉体的なものは劣ったもので、ここから魂だけが脱出して救われるとか。死ねば、魂だけが清いかたちで、平安に至るとかいうのは、わたしたちの信仰には当たらないのです。
 神は、主イエスを、肉体的に復活させられました。そしてわたしたち自身も、肉体として復活させてくださいます。だからこそ、今、この肉体で行うことに意味が生じてくるのです。キリスト者としての証しです。「わたしたち自身の復活の信仰」に生きるなら、わたしたちの肉体を、楽しみに使う道具としてはいけません。

知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい(19-20節)。

あなたがたの体は「聖霊が宿る神殿である」。あなたは「自分の体」で、むしろ「神の栄光を現しなさい」。父親の妻を自分のものとしている人にも、信仰を突きつけます。キリストを、教会が聖なるものである事実を突きつけて、みだらな行いをやめさせようとするのです。それは、そのみだらな行いが、その人、個人を傷つけるだけでなく、キリストの体である、教会を傷つけるからでした。
(楠原博行:2007年7月2日祈祷会奨励より)

| | コメント (0) | トラックバック (0)