復活
コリントの信徒への手紙 第15章1-11節
兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。(コリントの信徒への手紙一第15章1節)
福音とは主イエス・キリストの十字架と復活の出来事のパウロ自身の体験でした。かつて告げ知らせた福音を、パウロはもう一度知らせると言うのです。その福音を、手紙を読んでいる人々は既に受け入れて生活のよりどころとしているだろう。その福音を忘れずにしっかり覚えていなさいとパウロは言うのです。しっかり覚えていれば、あなたがたはその福音によって救われると言っているのです。
三節から八節に記されています、十字架にかけられ死んで葬られ、復活されたキリストと出会ったこと。これこそ、パウロが受けた福音であって、それが教会の迫害者パウロを使徒パウロに変えたのです。パウロは強い信仰の言葉を記します。
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。(同10節)
むしろ「今あるは神の恵み」という愛唱聖句として知られている箇所ではないでしょうか。パウロは、コリントの人々の信仰のよりどころを、福音について、もう一度明らかに語ろうとしたのだと思います。キリストの十字架と復活を語り、自分にも、そのキリストが現れた。自分は出会ったのだと語った時。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と語らないではいられなかったのだと思うのです。パウロ自身のたいへん力強い、自分はこれで生きているんだ、との信仰告白です。
コリントの信徒への手紙15章は、パウロが復活ということについて語るところです。それはなぜだったか。今まで、コリントの教会で起きた、さまざまな誤った信仰の言葉を聞いてきました。「キリスト者って何をやってもいいんだ」というスローガンによって、日常の生活と霊的な生活を切り離してしまい、肉的な自分なら何をやっても赦されるという誤った信仰に陥ってしまったこと。「だけど腹は減るだろう」と言って、やはり霊的、信仰的なつつましやかさを離れ、地上的、肉的な放縦、やりたい放題なさまを赦してしまう考え方。パウロはひとつひとつ信仰的にコリントの教会の人びとをいさめてきたのでした。そして復活の問題はその究極です。霊的、哲学的な復活観に陥り、この私の肉体こそが復活するという、パウロが宣べ伝えたキリストの復活に疑いを差し挟む人びとがいたらしいのです。
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。(同3-5節)
これはキリストの十字架の3年以内にさかのぼるという古い信仰告白だと言われます。続く6,7,8節。これはコリントの教会の人びとに死者の復活を語ろうとしていることを考え合わせればわかります。復活されたキリストが500人もの人びとの前に姿を現した。その大部分は今なお生きている。教会の指導者であるヤコブにも現れ、このわたしにも現れた。それなのになぜ疑うのか。というパウロの証しであり問いかけになっているのです。おそらく、これは、この15章をひととおり読み終えた時に、もう一度ふりかえらなければならないことだと思うのですが、繰り返し紹介しています、この書物の注解書を書いたヘイズという人は、「すべてキリスト教の宣言は復活に基づいていなければならない。このことによって信仰は立ちも倒れもする」と記していました。わたしたちの信仰が立つか倒れるか、それは私たちがこの復活の福音の言葉に立っているかいないか--まさに冒頭のパウロの言葉のままなのですが--それにかかっているのだと言うのです。
(楠原博行:2007年9月12日祈祷会より)
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