見よ、新しいことを私は行う
イザヤ書 第43章19節
一年のはじめの1月1日には、多くの国々で人々は教会に集まり礼拝を守ります。祝福に満ちたクリスマスの季節を過ごすと、今度は新年を迎えるのです。その新しい年が健康な、また実りの多い年になりますようにという祝福の言葉が、新しい年に向かって与えられるのです。新しい一年が幸せなものとなりますようにという願いが込められています。
毎年、ひとつの御言葉を選んで、その御言葉を携えながら教会の一年の歩みを続けています。今年選ばれました御言葉は旧約聖書イザヤ書43章19節です。
見よ、新しいことをわたしは行う。/今や、それは芽生えている。/あなたたちはそれを悟らないのか...
これに先立つ16節以下には次のように記されているのです。
主はこう言われる。/海の中に道を通し/恐るべき水の中に通路を開かれた方/戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し/彼らを倒して再び立つことを許さず/灯心のように消え去らせた方。(同16、17節)
海の中に道を通す。水の中に通路を開く。また戦車や軍隊を倒し消え去らせた。これはわたしたちが良く知っています出エジプトの物語です。「十戒」の映画で知っています神様が紅海の水を割って道を通し、イスラエルの人々をエジプトの国から脱出させた出来事。あるいは追い迫ってきたエジプト王ファラオの軍隊の上に、紅海の水をもとに戻してイスラエルの人々を助けた出来事なのです。イスラエルの人々だけでなく後のたくさんのキリスト者が神様の大いなるわざとして語り継ぎ、また映画やミュージカルなどで描いた大きな出来事を、今、神様ご自身が口にされる、そういう部分なのです。しかしその次の一節を見るとわたしたちは驚くしかありません。
初めからのことを思い出すな。/昔のことを思いめぐらすな(同18節)。
出エジプト。イスラエルの人々が紅海を渡る。エジプトの軍隊が打ち破られる。そういうわたしたちキリスト者も神の御業として語り継ぐような大いなる出来事を神様がお語りになったその直後に、初めからのことを思い出すなとおっしゃっている。「初めからのこと」とは、信仰の原点としての出エジプトのことと取れます。また聖書がその一番最初に語っている天地創造の出来事を言っているとも理解できます。しかし、その大切な「初めからのこと」を、そしてそれにとどまらない「昔のこと」を思いめぐらすなと神様ご自身がおっしゃっているのです。「海の中に道を通し」とか「戦車や馬、強大な軍隊」を倒したと神様ご自身がおっしゃれば、わたしたちは考えるに違いないのです。神様の御業、わたしたちの先人たちがどのように歩み、わたしたちの先輩たちがどのような教会を築いてきたかを。だからこそわたしたちは18節を読むとびっくりしてしまうのです。
神様ご自身が、初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな、とおっしゃっておられる。それはいったいどうしてなのでしょうか。ここで19節の言葉が来るのです。
見よ、新しいことをわたしは行う。/今や、それは芽生えている...(同19節)
神様ご自身が、わたしと言って、新しいことを行うとおっしゃる。しかも、その新しいことが、いつ来るのか、いつ来るかというのではなくて、今もう始まっている。いやその新しいことが新しい芽となって、芽生えているとさえおっしゃっている。
なぜ神様はそこまで言わなければならなかったのでしょうか。歴史背景を考えてみればわかるのです。イザヤ書が語っている時代。すでにイスラエルとユダの国々は滅んでいます。人びとはバビロニアという北の大国へと連れて行かれて長い捕囚の時を過ごしました。しかし状況が変わった。今やバビロンの国も力を失い。ペルシャの時代になった。ついに解放の時が訪れたのです。イスラエルの地に帰還しても良い。ふるさとである故郷へと帰ることができる。しかし何が起こったでしょう。長く続いた外国での生活。奴隷状態にあったわけでもない。普通の生活が営まれていたのです。今更、イスラエルの地に帰還することもない。自分たちは十分やっていける。こういう声がイスラエルの人々の間に聞かれたと言います。
...わたしの道は主に隠されている...
わたしの裁きは神に忘れられた...
(同40章27節)
主なる神様とわたしはもう関係ないのではないか。神様はわたしのことなど忘れてしまっておられるではないか。そうではない。そうではないという神様の声こそが、「見よ、新しいことをわたしは行う。/今や、それは芽生えている。/あなたたちはそれを悟らないのか...」との言葉なのです。
新年を迎えるにあたりわたしたちはいろいろと思いを巡らします。それは仕事のことであるかもしれません。勉強のことであるかもしれません。家庭のこともそうでしょう。自分の人生について、年が新しくなって、思いを巡らすに違いありません。今日、この教会に集いましたわたしたち、その思いをめぐらすことをする中に、すでに、しっかりと神様が真中にお立ちになっていることを忘れてはならないし、お立ちになっておられるからこそ、私たち自身、支えられ、力づけられることを思い起こしたいと思うのです。
見よ、新しいことをわたしは行う。/今や、それは芽生えている。/あなたたちはそれを悟らないのか...
「あなたたちはそれを悟らないのか」と主なる神様は厳しい言葉をもかけられます。何よりも、「見よ、新しいことをわたしは行う」と、神様ご自身が、わたしたちの内に新しいことを行おうとされていることを覚えたいのです。人生、職業、家庭、すべてにおいて、神様は、信仰ということをその中核において、新しいことを行うとおっしゃっておられます。そしてそのことにわたしたちが気づく前に、はっきりと認識する前に、すでに「今や、それは芽生えている」ともおっしゃっておられる。このことを心に留め、また支えとして、2007年の新しい年を迎えたいと願います。
(楠原博行:2007年1月1日元旦礼拝説教より)
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