平和の神と共に
フィリピの信徒への手紙 第4章2-9節
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(6-7節)
この言葉を聞いた時、そうだ、あれこれと考えて、堂々巡りのようになってしまうことはよくない。すべてを神様に委ねればいいんだ。そう考えて、慰めを受ける人もいます。すべては人間の考えの及ぶことではないのだ。だから、神様だけが知ることなんだ。自分があれこれと気にしてもしょうがないことなのだと、全てを運命として諦めてしまう人もいます。しかし、パウロが伝えようとしているのは、運命として受け止め、諦めてしまうことではありません。
ここに出で来る「思い煩う」は、「心を使う」「心配する」という意味の言葉です。語源を探ると「分ける」という言葉から来ています。ある説教者は「思い煩うことは、心がわれてしまうことだ」と言いました。心がわれて、ああでもない、こうでもないと考えてしまうと、結局のところ、AをとるかBを取るかの話になって、おおかた、自分にとっては心配な方の考えをとってしまう、「これが私の運命だ」と諦めてしまうと言うのです。
パウロは、また、思い煩いをするようなことを無視しろ、忘れてしまえと言っているのでもないのです。何事につけ、求めているものを神に打ち明けよと言っているのです。抱えている困難や問題を、抱え込んで心を割ってしまうのではなく、神に向かって開きなさいと言っているのです。
私たちの心は、何よりも神に向かって開かなければなりません。さらに、打ち明けるに際して、パウロは、「感謝を込めて祈りと願いをささげ」よと言っています。ここに記されている「祈り」と「願い」ということばは、日本語で感じるよりももう少し、はっきりとした意味を持っているかもしれません。もとのギリシア語で言いますと、祈りとは、神に向かって祈るという言葉です。また、願いとは、必要に迫って神に請い求めることを意味する言葉です。つまり、思い煩って、心を割ってしまうのではなく、神に向かって心を注いで、祈り請い求めよと言うのです。
この時に、私たちは少し注意が必要だと思うのです。何でも神様に向かっていっていいのだ、それが祈りなのだと思うと、時として祈りの言葉が、ただの愚痴の羅列になってしまうことがあります。正直に神の御前に、自分の思いを述べているのに、なぜ愚痴を並べるだけのものにしか聞こえないのでしょうか。どうしたらいいのでしょうか。
「祈り」について思いめぐらしながら、いくつかの信仰問答書を読んでみました。どの信仰問答書も祈るときに、私たちに求められている3つのことを示しています。
1.主がお命じになったことを心から呼び求めること。
2.自らの苦しみと惨めさを心から認識して、神の前にへりくだること。
3.主イエス・キリストのゆえに、私たちが祈りにふさわしいものでないのも関わらず、その祈りをたしかに聞き届けてくださるという確信を持つこと。
私たちは祈る時に、誰に対して祈るのでしょうか。また、私たちの祈りの言葉を聞くのは誰なのでしょうか。改めて、この当たり前のようなことを問うてみた時に、どの様に私たちは答えるでしょうか。
礼拝に於いても、祈祷会においても、また、自分の部屋で、たった一人で祈る祈りでも、当然の事ながら、私たちは神に祈るのであって、私たちの祈りの言葉を聞くのは神にほかならないのです。私たちと共に祈ってくださる、主イエスに他ならないのです。
宗教改革者のカルヴァンは、「信仰の手引き」という小さな書物の中で、「祈りについて考慮されねばならぬ事は何か」を書いています。カルヴァンもまた、主を心から呼び求めることから説き起こし始めています。それは、ただ口先だけのものではなく、心のもっとも深いところから、神に請い求めることだというのです。私たちは、いつもいつも、祈る言葉を準備して祈っているわけではく、むしろ、その時、その場で思いつくままに祈ることが多いと思うのです。そのような時にも、私たちは、心から神を請い求める祈りをするのです。
神の御前にへりくだることについては、心の奥深くで自らの罪を認識するならば、同時に、主のみを誇り、ただ「救い賜え」と主の御名を呼ぶというのです。
神が、私たちの祈りを聞き届けてくださる約束を固く信じることについては、もっとも完全な人といえども、主の前に止めどなく溜息をつき、うめき、へりくだりの限りを尽くして主を呼び求めなければならないと、記しました。しかし、そのことは、神自らがお命じになったことなのです。主を信じるものの貧しさ乏しさの重圧から来る溜息も、うめきも、神は祈りとしてお聞きになる、と言い換えてもいいかもしれません。
主イエス・キリストの救いの約束を信じて祈るものは、いつでも傍らにいる主イエスを意識し、信じて祈るのです。私たちの祈りを、願いを、主イエスは、私たちよりももっと深いところで聞いていらっしゃるのです。その事をパウロは、
あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守る(7節)
と記しました。「守る」とは、見守る、凝視するという言葉です。主イエスは私たち一人一人から目を離されずに、見守っていてくださるのです。私たちが、片時も忘れることなく信じているのは、この主イエス・キリストです。この主イエスに守られて祈るときに、私たちの祈りもまた、真の祈りとなるのではないでしょうか。
(楠原彰子:2006年8月27日主日礼拝説教より)
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