2006/04/13

ペトロ

ヨハネによる福音書 第13章36-38節

「主よ、どこへ行かれるのですか。」(36)

 ペトロの問は、33節の主イエスの言葉に対して問い返されたものです。そして、主ご自身が言っているように、同じ言葉をすでにユダヤ人たちに対して言われています(8章)。しかし、この時はまだ主イエスの十字架の死も、復活も起こる前。人々の目は閉ざされているので、主イエスの言葉を人々もペトロも理解することができません。
 私たちはここで不思議なことに気がつきます。人々の欺きも、ペトロの離反も、ユダの裏切りも、そのことが起こる前から、主イエスは知っておられたのです。ならば、なぜ、そのような悲しい出来事を、そのような悲惨な出来事を回避することをされなかったのでしょうか。神の子ならばできたはずです。それとも、人間の愚かさと、神の正しさを人々の前にはっきりさせるためなのでしょうか。
 主イエスに対する人々の欺き、ペトロの離反、どれも主イエスが神の子であるが故に未来のことを予知して予告したのではありません。聖書は、これらのことが初めから定められていたことだとして語るのです。確かに、ペトロが主のためならば命を捨ててもついて行くといった言葉に、嘘はなかったし、また、彼がそういいながらも「イエスを知らない」と三度もいったことも私達の罪の姿としてみることは大切です。しかし、そこで終わるのではないのです。
 主イエスは言われました。

「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」(36)

主は、「あとで付いてくることになる」とはっきりと言われているのです。これから主イエスが行こうとされる所は、神の子であるが故に成し遂げることができるところです。ハイデルベルク信仰問答、問40に次のように記されています。

問40 なぜ、キリストは死ななければならなかったのですか。
答 神様の正義と真理のゆえに、神様のみ子の死による以外には、他の何もわたしたちの罪をあがなうことが出来なかったからです。
私達の罪をあがなうことのできるお方は、神の御子、主イエスお一人だけです。神様の正しさと真理の前に立つことのできるお方は、この方しかおられないからです。

もし、ペトロが、主を否まないような強い信仰の持ち主であったとしても、この場においては主の行くところについて行くことができなかったでしょう。
主の十字架の物語がその死を持って終わらないのと同じように、ペトロの物語もこれで終わりではありません。ペトロは甦りの主に出会うのです。ヨハネによる福音書では、ペトロが主に召された時と同じように、湖で漁をしている時に現れる。主イエスはそこで捕った魚をすぐに料理させ、彼らと一緒に食事をされる。その時、このようなやりとりがなされた。

三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」(21:17)

もはや、ペトロは「あなたはどこに行かれるのか」と言いません。「主よ、あなたは何もかもご存知です。」とだけ答える。
 私達も、主によって知られているのです。私達の喜びも、悲しみも、苦難も、試練も、困難も、全て主はご存知なのである。
 私達は主が定めてくださった食卓に招かれています。これを受ける時に、私達はもう一度自らを顧みます。その時に、心思い起こしましょう。私達のどんな小さな罪も、主は全てご存知です。全て知っておいでの上で、私達をこの食卓へと招いてくださっているのです。私達は、主の食卓を前にして「主キリストは、わたしの神、わたしの救い主」と告白しないわけにはいかないのです。
(楠原彰子:2006年4月13日聖餐制定記念礼拝説教より)

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