2007/11/26

命を救う

マルコによる福音書 第8章31節-第9章1節

 主イエスは、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められました。しかも、それを「はっきりとお話になった」と福音書記者はしるしています。公然と、明らかに、あからさまにお話になったのです。これは不思議なことです。なぜなら、ペトロが「あなたはメシアです」と告白したときは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められたのに、主イエスが、公然とこれから御自身について起こることを弟子たちに示されたのです。
 弟子たちにとって、この言葉はどのように響いたのでしょうか。ペトロは「あなたはメシアです」とはっきりと告白しました。「メシア」ヘブル語で「油注がれた者」の意味です。預言者、祭司、救い主としてのキリスト。尊敬し、これぞ私たちのメシアだといった主イエスが、御自身の受難について語られたのです。
 人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される。このような姿のメシアがあるでしょうか。それはあってはならないメシアの姿でした。ペトロは、主イエスを脇にお連れしていさめ始めました。

「先生、その様なあからさまなことをいわれては困ります。あなたは、私たちの希望です。メシアです。人々から排斥されて殺されるなんてことがあってはなりません。そんなことをいわないでください。」と

 主イエスは、すぐ様にふりかえって、その場で、ペトロを叱りました。「弟子たちをみながら」とありますから、弟子たちの目の前で、ペトロを叱ったのです。

「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

「引き下がれ」とは、私の後ろに回れの意味で、私の前に立つなといわれたのです。主イエスは、さらに言われました。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(35-37節)

私の弟子となり、従う者、私をキリストと信じて従う者は、自分を捨てて、私と同じように、自分の十字架を負ってついてきなさいといわれたのです。しかも、この言葉は、限られた弟子たちだけに語られたのではありません。主イエスは、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われたのです。
 この言葉を聞くと、私たちは躊躇します。私は弱い者だ。イエスさまと同じように十字架を負うことなどできない。これはむしろ、特別に信仰深い人の向けて語られたのではないかと思ってしまうのです。しかし、主イエスは弟子のみならず、群衆を呼び寄せて、教えられたのです。誰一人の例外なく、あなたも、あなたも、キリスト者として私についてくるのならば、あなたの十字架を負って私のあとに従いなさいと言われたのです。
 友人一人が洗礼を受けたときに、お祝いに教会からいただいた聖書に、マルコによる福音書8:34の御言葉が記されていました。牧師はこう語ったそうです。
 洗礼のお祝いの聖書に書く御言葉を、祈りながら探しているときに、この人にはこの言葉という示しを受けた。が、しばらくためらってしまった。洗礼を受けて教会の仲間になる方のお祝いの言葉に「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」というキリストの言葉は、あまりに厳しすぎないか。もっと穏やかな、もっと慰めのある、あなたはそのままでいいのですよというような御言葉の方がいいのではないか。しかし、なぜ、自分を捨てること、十字架を負うことが、特別な人にしかできないような辛いこと、厳しいこととしか考えられないのか。ここで主イエスは人々を呼び寄せていわれている。イエスをキリストと呼ぶということは、「私は、あなたのあとに付き従います。」「あなたのいうとおりに生きます。」と言うことである。
 当の友人は、しかし、正直なところ、この御言葉の書かれた聖書を開くことができませんでした。はやり厳しいという思いがどうしてもあったのです。その教会では、受難週の祈祷会は、長老会から指名された教会員が奨励にあたり、みんなで祈るのです。誰もが主の十字架を語るのですが、その誰もが光り輝く十字架を語ったのです。
 確かに、私たちの人間の罪を負って、主イエスは十字架に架かられ死を遂げられた。それで終わりではないのです。死んで墓に葬られ、三日目に復活されるのです。罪の私は、主とともに十字架につけられ、滅ぼされ、主の復活と共に、私たちもまた、新しい命に生きる者とされたのです。奨励を担当した一人一人が証ししたのは、罪の暗い十字架ではなく、復活の輝く十字架でした。福音のために、この復活の十字架を負って、ついてこいと主はいわれるのです。
 主イエスは、決してあなた一人で、あなたの十字架を負って行きなさいとはいわれません。自分の十字架を負って、私のあとに付き従えといわれます。すでに、私たちの前を、主イエスが十字架を負って歩いていらっしゃるから、それに倣っていけばよいのです。福音のために自分の十字架を負ってついていくと、主イエスがそうであったように、どんなに小さなことであっても、自分のためではなく、隣人のため祈ることができるます。主イエスが、人々のために涙を流されたように、自分の悲しみだけではなく、隣人の悲しみも共に悲しむことができます。主イエスが死に打ち勝たれたように、私たちもまた、新しい息を吹き入れられ、まことの命に生きることができるのです。
 自分の十字架を負って主イエスのあとに従いましょう。主が負わせてくださる、まことの命に輝く十字架の光で、この世を照らしていきましょう。
(楠原彰子:2007年11月11日:主日礼拝説教より)

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2007/07/30

耳と口が開く

マルコによる福音書 第7章31-37節

 私たちが、主日ごとに献げる礼拝において願うことは、魂が開かれ、与えられる御言葉を受け入れることができるようになること。語る者も、聞く者も、まず、神によって魂を開かれることを祈り願うことから、礼拝は始まるのです。今、私たちに与えられている御言葉も、主イエスによって魂を開かれた人の奇跡の物語です。
 主イエスは、エルサレムから来た律法学者やファリサイ派の人々と、清さについての論争をされたあと、ずっとイスラエルの辺境の土地を行かれました。そして、そこで出会う、異邦の人々にも、御言葉を告げました。マルコがここで記したかったのは、ユダヤ人よりも異邦の民の方が御言葉を受け入れたとか、都会のエルサレムよりも、田舎に住む素朴な人たちの方が、主イエスを受け入れる心を持っていたとかの話ではありません。神に向かって心を開き、神の言葉を受け入れるとは、どういうことかなのです。
 ここに一人の人が連れてこられました。耳が聞こえず、舌の回らない人です。この人が自分から主イエスのところに来たので
人々が、この人を主イエスのところに連れてきました。耳の聞こえない人は、歩くことはできたし、耳が聞こえなくても、主イエスのことは、知っていたでしょう。では、なぜ、彼は自分から主のもとに行くことをしなかったのでしょう。
 もしかすると、こういう事だったのかもしれません。仮に主の前に行ったとして、自分の願いをどのようにして、主にお伝えすればいいのでしょう。自分は舌が回らないし、イエスさまの前に立ったら、緊張し、舌は硬直して、ますます、話すことが困難になるかもしれない。きちんと願い求めることなんかできないんじゃないか。それを見て、周りの人は笑わないだろうか。…いろいろな思い煩いが、彼を取り巻いていたのでしょう。
 心閉ざしている彼を、主のもとに連れて行ったのは、周りの人々でした。ある説教者は、その中に、悪霊を追い出していただいたものも入っていたのではないかと想像しました。自分は、主の前に、助けてくれと言うこともできなかった。悪霊のために、悪態をつく言葉しか出せなかった。墓場をうろつき、喚き騒ぎ、自分の身体を傷つけることしかできなかった。でも、その様な私を、主は救ってくださった。今、主イエスがこの地方に来られている。さあ、行こう。あなたも癒していただくために、イエスさまの所へ行こう。
 主イエスは、ここでも、人々の信仰をご覧になって、うんと頷かれたに違いないのです。今回、主イエスは、人々の前で癒しのわざを行うのではなく、この人一人を群衆から連れ出されました。宗教改革者、マルチン・ルターはこう語ったそうです。
 回りに弟子たちがいたかもしれないが、この男は、主イエスと二人きりになる。他の人から離されて、「一人神の御前に立つ」。信仰とはそういうものである。一人神の御前に立つところで、信仰は成り立つ。そして、その信仰に根ざす愛に生きる。愛は、とどまっていないで外に出て行く。一人であることを好まず、それどころか、自分のと同じ痛みのある人の所に行って、イエスさまの所に行こうと声をかける。それが「伝道」だ。
 一対一に向き合われた主イエスは、今までは、言葉で癒されていましたが、ここでは、耳に指を入れ、つばをつけた指で舌に触れ、「開け」と命じられました。耳に入れた主イエスの指から、力が流れ出して、この人の中に注入されていく。また、つばは、癒しの薬のようなもの。さらに、「エファタ」これは、呪文の言葉のように、聞こえるかもしれません。が、福音書記者が伝えたかったことは、主イエスから流れ出て、私たちを変えていく神の権威ある力です。
 ここに用いられる「開く」のギリシア語は、押し開いていく様子を意味する言葉です。たとえばルカによる福音書では、よみがえりの主イエスが失望のうちにエマオに向かっていた弟子たちに顕れたとき、また、エルサレムで集まっていた弟子たちに顕れたとき、彼らの心の目を開いて御言葉を悟らせたと記されています。
 私たちは、人間の心はかたくなで、それが「罪」だとも教えられています。そして、自分の力で、そのかたくなな心を開いて、神様の方に向かなければならないと考えてしまうことがあります。あるいは、なかなか教会に足を向けてくれない友人や家族に対して、そのかたくなな心を何とか開こうとがんばってしまう事もあるでしょう。そのときに、石のようなかたくなな心は罪の故だから仕方ないと居直ったり、なじったりする。本当は、主イエスこそが、岩のような私たちの心を砕き、心を打ち開いてくださることを、忘れていないでしょうか。
 ここで主イエスは、もう一つのことを、私たちに示されます。天を仰いで深く息をつかれたのです。天の父に対して、この人の耳と舌を解き放ち、開いてくださるように祈られたのでしょう。そして、この出来事は、主イエスによって、天が裂け、神の御国と地上とが繋がったことを、私たちに思い起こさせるのです。今ここに、またひとつ、神の国が来たことを告げる出来事が起こったのです。
 この人の耳は開かれ、口を縛っていたもが解かれて、はっきりと話すことができるようになりました。彼の耳は、御言葉を聞き、受け入れることができるようになったのです。また、口には、賛美と祈りの言葉が与えられました。
 主イエスは、人々にこれらのことを話すなと禁じらました。福音書記者は、主イエスの真のお姿を知るのは、十字架の死と復活を経た後と考えています。また、先に行った、指を入れる行為、舌に触れること、「エファタ」という言葉が、魔術の所作事や呪文の言葉にならないためです。しかし、人々は、このでき事を話さずにはいられなかった。福音書記者は、まだ主イエスの時は来ていないことを記しながら、しかし、人々の唇に、驚きと、賛美の言葉を神が与えてくださったことも記すのです。
 福音書記者は、苦しんでいる人が癒されることが起きたのではなく、神の民が回復されること、神の国の支配がもう始まっていることをここに記したのです。そして、神の国のご支配は、聖書を通して、今、私たちにもつげ知らされているのです。
(2007年7月8日主日礼拝説教より)

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2007/03/29

いのちの糧

マルコによる福音書 第6章30-44節

 今日、私たちに与えられました御言葉は、主イエスが非常に多くの人々に食べ物をお与えになった奇跡、パンの奇跡の物語です。主イエスのなされた奇跡は、どれもびっくりするような出来事です。その力の大きさに私たちは心を奪われてしまいますが、多くの人々に食べ物をお与えになった奇跡の物語は、もう一つの点で、私たちが注意をひくことがあると言われています。それは、このパンの奇跡は、主イエスが、人々から「パンを与えてください、飢え死にしそうです」と求められてしたものではない、ということです。しかも、「私が用意をしようと」と、主イエスがすぐにその場で、パンの奇跡をされたわけではありません。
 今日の物語は、使徒たちが主イエスもとに帰ってきて、伝道の報告をするところから始まります。これは、6章6節以下の話の続きです。弟子たちのその報告を、主イエスは、ひとつひとつをお聞きになったのです。報告をお聞きになった主イエスは、伝道から帰った使徒たちを休息の場へと招かれます。
 ここに、「人里離れたところ」とあります。「人里離れたところ」と聞いて、すぐに思い浮かぶのは、1章35節で、主イエスが祈るために出て行かれたところでしょう。「人里離れたところ」は、主イエスの祈りの場、すなわち、主なる神と向き合う場で、休息するために、弟子たちを招かれたのです。
 しかし、人びとは主イエスと弟子たちが、人里離れたところに向かっていることに気づき、彼らよりも先回りしてそこへと向かいました。休憩に、すでにおびただしい人々が、彼らを待ち受けていたのです。
 (人里離れたところにおいて弟子たちと)船から上がった主イエスが見たのは、「飼い主のいない羊にような有様の人々」、歩むべき方向、見上げるべき方向も分からない、「飼い主のいない羊」のような存在だったと福音書記者は記しました。歩むべき方向が分からないと、それぞれは身勝手な方向に進んでしまいます。主なる神様の方向を向かない、自分を中心として身勝手な方向に行ってしまう罪の姿を見て、主イエスは、深く憐れまれたのです。私たち人間の罪の痛みを、主イエスご自身が知ってくださったのです。
 主イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められました。
ここでも、主イエスが語られたのは「悔い改めの宣教」でしょう。悔い改めるとは、自分の罪を見つめ続けることではありません。私の罪は、悔いても食いきれないと言って自分自身に呪いをかけることでもありません。身勝手な方向に進んでいくことをやめ、主なる神を見上げる方向に180度方向転換てすることです。ここでも、主イエスは、そのことを教えられました。
 時が過ぎ、弟子のひとりが、提案します。

「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」(36)

しかし、主イエスは、このすすめを断って言うのです。ほかの誰でもない、

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(37)

主イエスは、更に弟子たちを教育されるように、このパンの奇跡に引き込まれたのです。すぐに弟子たちが考えたのは、その場から離れて、食料を調達してくることでした。しかし、そこで主イエスが言われたことは、この場を去ってパンを探しに近くの町に出かけていくことではありませんでした。

イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」(38)

更に、この五つのパンと2匹の魚を配るにあたって主イエスが、弟子たちに命じられたことは、皆を組に分けて、青草の上に座らせることでした。行く先の分からない、勝手な方向に歩み出してしまうような、飼う者のいない羊の群れのようであった人々を、神の民の群れとして、秩序立てて並ばせたのです。人々の様子は、もはや「飼う者のにいない羊」の有様でありません。主の与えられた食べ物で満たされた群れとなったのです。
 しかし、マルコは、弟子たちが悟らなかったと記しました。何を悟ることができなかったのでしょうか。更に、この先の8章では、ペトロの信仰告白の記事が記されていますが、その直後になされた主イエスの受難の予告に対して、ペトロはそれを否定し、主叱責されるのです。そればかりか、主の十字架を目の当たりにして、人々は失望し、主イエスから離れたのです。まさに、「飼い主のいない羊」の有様でした。
 パンの奇跡で示された主の姿は、羊飼いとしての主イエスです。過去のどの預言者よりも力のある方です。大勢の人々食べ物を用意する奇跡を起こす方としてではなく、病を癒す力をお持ちの方としててもなく、また、貧しい者、虐げられている者を解放する指導者としての方ではなく、神の民を主の下に導いていく真の羊飼いとしての主イエスが、ここに示されているのです。この時、弟子たちの悟ることの出来なかったのは、この主イエスのお姿でした。
 しかし、そのままで終わりにならないことを聖書は私たちに示しています。死から復活された主イエスは、まず弟子たちに現れ、再び主イエスに養われる羊の群れ、教会がそこに形成されるのです。
 主イエスは、弟子たちに言われたように私たちにもお命じなります。私の、真のいのちのパンを携えて、この世に出て行きなさい。私の与えたパンを与えなさい。主イエスの御言葉を携えて、この世の歩みへと派遣されようとしています。直接に主イエスの言葉、聖書のことを話す機会は何かもしれません。が、どんな日々の仕事の中に必ず、御言葉の光は現れるます。そのことを信じて、日常茶飯の小さな業も、主の導きの祝福を祈ってなしていきましょう。
(楠原彰子:2007年3月11日主日礼拝説教より)

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2006/04/09

信仰の力

マルコによる福音書 第3章20-30節

 マルコによる福音書の語る主イエスの物語は、次のように進んでいました。
湖の方へ立ち去られた主イエスたち一行を追って、ガリラヤから、エルサレムから、また、異邦の世界から、おびただしい群衆がやってきました。その勢いは、主イエスを押しつぶすようなものでありました。そして主イエスはその群衆から逃れ、逃げておしまいになり、山の上で12人を選んで使徒として任命されました。それは、主イエスのおそばに彼らを置くため、また彼らが、主と共に人々の重荷を担い、神の御言葉を伝えるつとめにつかせるためでした。これらのことの後で、主イエスは再び人々の中に戻ってこられたのです。20節には「イエスが家に帰られると、…」と記されています。どこの、誰の家に帰られたのか。誰もがそう考えるでしょう。すぐに思うことは、まず、間違いなく、ナザレの主イエスがお育ちになった家ではないだろうということです。話の流れら、恐らくこれはガリラヤのシモンの家であっただろうと考えられています。最初に弟子として召されたシモン・ペトロ、そして彼のしゅうとめを癒し、そこに来た多くの病人を癒した、シモンの家です。イエス様が、シモンの家に帰ってこられた。この知らせを聞いて、再び群衆がシモンの家に集まってきたのです。しかし、この時はもう、主イエスはお一人ではありません。山の上で任命された12人の使徒も一緒になって、神の御国ついて語り、人々の病を癒し、汚れた霊を追い出していたのです。
 しかしここに、これらの群衆とは違った2組の人々が登場します。まず、主イエスの身内の人たちです。先ほども言いましたが、「あなたのところのイエスは、気が変になっているよ。おかしな事を言って人々を驚かせている。」と聞いたのです。ちまたのうわさ話であったかもしれないし、心配をした人が知らせたのかもしれません。これ以上、悪い噂が広まってはいけない。とにかく、ナザレの家に連れ帰らなければと、シモンの家に来たのです。
 もう一つは、エルサレムから来た律法学者たちです。彼らは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言いました。すなわち、主イエスは偉大な教師、力を持った預言者などではない。悪霊の頭なのだ。悪霊たちは、頭であるイエスの命令に従って、人々から出て行っているにすぎないのだと言ったのです。さてそこで、主イエスは一つの譬えを人々にお語りになりました。

…「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。(23-27)この短い譬えは、おもしろいと思うのです。

 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
まさにその通りです。だから、律法学者たちがエルサレムから下ってきた、とも考えられます。律法学者たちは、神の律法を守ることで、人間は救いに入れられると考えていました。ですから、神でもないのに人の罪を赦すこと、安息日人を癒すこと、律法に定められた断食を守らないことなど、律法学者たちから見れば、主イエスのされていることは世の秩序を乱す行いでした。彼らは、そのような思い出、主イエスのすることを見張っていたのかもしれません。

  家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
家族についても同様です。調和のとれた平和な家庭が何よりだと、私たちも考えます。その平和をかき乱すような噂や、家族の行いは、できるだけ外に出したくない。そう考えることは、私たちにも理解できることだと思うのです。主イエスの身内の者たちも同じ思いであったと思うのです。だから、「あの男は気が変になっている。」ときかされて、イエスを取り押さえに来たのです。
 この主イエスの言葉を聞いて、
「そのせりふは、私たちの方があなたに対して言いたい言葉なのだ。」
と律法学者もイエスの家族も考えたと思うのです。しかし、どうでしょうか。律法学者たちは、国の秩序を守る、平和を守ると言いながら、神様が行おうとしている大きな変化を見ようとはしていません。突然現れた大工の息子にすぎないイエスに、神の国の一体何がわかるのだ、そのような思いもあったかもしれません。律法学者たちが、律法に対して熱心になればなるほど、いかに自分が正しく、神の義に生きているかに関心が集中していきました。
 また、主の家族は、自分たちの家の平穏を保つ事が、第一となりました。そのために、イエスを取り押さえようとしました。少しでも悪い噂を聞けば、主イエスの言葉を聞くのではなく、そのようなおかしな事を言わないようにと取り押さえに来たのです。
 マルコによる福音書は、ここに心を神に向かって開こうとしない人間の頑なさを描いています。その姿は、主の復活を信じることのできなかった弟子たちの姿でもあり、そしてまた私たちの姿でもあると思うのです。しかし、主イエスの話は、そのようにして人の罪の姿を指摘したところで終わりになるのではありません。

また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。(27)

主が譬えで語られたのは、一つの家を略奪する方法です。一軒の家を丸ごと略奪する、押し入り方です。家は私達のこと、そして押し入る強盗は主イエスご自身です。
 この言葉を読んだ時に、こうも考えました。私たちは、主イエスを自分の心にお迎えしようとする時に、当然の事ながら、自分の心、私たち自身の家を整えておこうと考えます。散らかり、汚れるままに汚れてしまっている家の中を見ながら、
「この家の中を掃除して、きれいになってら、主イエスを迎えよう」
と考えます。今のどうしようもない不信仰な生活から、少しでも信仰的な生活ができるようになったら洗礼を受けよう。もう少しまっとうな人間になってから、教会に行こう。と考えます。しかし、主イエスに待ったはありません。そう言う意味では、主イエスは有無を私たちの家に押し入ってきます。私たちがどうであろうと、私たちの救いのためならば、力ずくで私たちの中に踏み込んでこられるのです。
 要は、きれいになった私たちの家に、主イエスをお迎えすることではない。力ずくで来られる主イエスを受け入れるかどうかなのです。私たちがそのような主イエスを、「私の救い主」として自らの口で告白するかどうかなのです。

 今日は、棕櫚の主日です。主イエスがエルサレムに入られる時、軍馬に乗った戦いの王としてではなく、子ロバに乗った平和の王として来られたことを思う日です。その時、人々が棕櫚の枝や着物をその道にしき、
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
と主イエスを讃えました。棕櫚の主日から翌週のイースターまでの一週間が受難週です。受難週にはいると、私たちは毎年、同じ物語を聴きます。主イエスが十字架の道を歩まれる物語です。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
そう言って、エルサレムに来られた主イエスを讃えた、その同じ人々の口が、
「この男を十字架につけろ」
と叫び、イエスを十字架につけてしまった物語を、十字架の上で主イエスが死なれた物語を聴くのです。
 しかし受難の物語は、主イエスの敗北の物語ではありません。主イエスの十字架の死は同時に私たちの罪の死、そして、主イエスの甦りは、私たちの新しい命です。主イエスの十字架の死と復活は、この世を支配している罪の力を追い払うための、この世を神の国として支配するための神の侵略にほかならないのです。

こうも言えるかもしれません。主イエスは、私たち一人一人の家に押し入り、家の一切を奪ったばかりか、私たちが負っていた罪の重荷をも持って行って、ご自身と共に十字架につけておしまいになった。代わりに、主イエスに与えられた甦りの新しい命を与えてくださる。もはや私たちに残されているのは、主イエスの十字架の死と甦りを信じ、洗礼を受け、信仰告白をすることだ、と。御子を信じるものには、主イエスの甦りと共に新しい命に生きるのだと。

主イエスは、私たちが準備をする、しないにかかわらず、私たちの心の中に押し入ってこられます。そして、支配している罪を縛り上げ、罪の重荷を一切合切、持って行かれるのです。考えてみれば、あのエルサレムに来られた主イエスを迎えた人たちも同様でした。過ぎ越の祭りを祝うために、エルサレムに集まっていた人々は、「これから私たちの王様が来られるのだ」と棕櫚の葉を準備して、主イエスが入ってこられるのを待ちかまえていたのではないのです。主イエスのエルサレム入城もまた、神様の側からの一方的な行進だったのです。

最後に、主イエスは一つの勧告を語られました。

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28-29)

ある意味で厳しい言葉です。この言葉を聞いた人たちは、「赦されない罪」という物もあるのだろうか、と考えました。大切なことは、この勧告がこの言葉だけで語られたのではないことです。先に語られた主のたとえ話から、しっかりと聞き取ることが大切だと思うのです。マルコによる福音書は、こう記しています。

イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。(30)

主イエスの彼らの目の前でなされている業、語られている言葉を、受け入れていないことが罪なのではない。彼らが、主イエスのみ業、言葉を「汚れた霊のせいだ」としていることに、問題があるというのです。主イエスに置いて働く聖霊を認めていない、むしろ否定していることに問題があるというのです。聖霊を汚す、聖霊を汚れた霊だということは赦されない罪だというのです。

心に留めていただきたいのは、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う、といわれた口の渇かないうちに、主イエスはそう言った人たちを滅びの火に投げ込まれてしまってのではないということです。私たちは、このような人たち、そして私たちをも含めて、主が十字架の上で、人々の赦しを神に取りなしたことを思い起こさずにはいられないのです。

私たちも、この主イエスを受け入れましょう。散らかっている家でいい、汚れている家でいい。喜んで主イエスに押し入っていただきましょう。主イエスに私たちの家の頭となっていただくのです。そして、主イエスに侵略され、支配された喜びの恵みを、私たちの愛する家族に、隣人に伝えてきたいと願います。
(楠原彰子:2006年4月9日主日礼拝説教より)

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2006/02/19

神の子に迫る

マルコによる福音書 第3章7-12節

「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。」(7-8)

主イエスの後を追いかけたのは、ガリラヤから来た人たちだけではありませんでした。東西南北、地の果ての町や村、異邦人の土地からも、主イエスの評判を聞きつけて人々が押し寄せてきたのです。この勢いが尋常でないことを、「群衆に押しつぶされないため」(9)と福音書記者は記しています。
 「押しつぶす」という言葉は、「圧迫する」「上から押す」という意味の言葉です。マルコによる福音書以外の聖書の箇所では、「苦しみ、悩み」とも訳されている言葉です。上からぎゅっと、身動きができなくなるくらい激しく押さえつけてくる、群衆は主イエスの上にのしかかってくるような勢いで来た、ということです。福音書記者はさらに、群衆が「イエスに触れようとして、そばに押し寄せた」(10)と記しています。「押し寄せた」という言葉は、「上に落ちる」という意味のギリシア語です。まさに雪崩のごとくに、病を癒してほしい人々が、主イエスの上に、どんどん落ちてくるように押し寄せたというのです。
 この時の主イエスの行動は、とても不思議です。主イエスは、弟子たちに「小舟を用意してほしい」(9)と助けを求められたのです。もし、主イエスが神の子であるならば、大きな力をお持ちのはずです。その力によって、押し寄せてくる群衆をとどめ、その場で病を癒し、汚れた霊どもを追い出してしまうことなど、簡単なことではないでしょうか。しかし、主イエスは、その様なことをなさいませんでした。
 私達がここで、まず心にとめたいことは、人々がこの時求めたのは、「主イエスに触れること」だということです。触れさえすれば、病が癒されると考えていたのです。この群衆からは、「神の子」に触れるという畏れは感じられません。
 次に福音書記者は、このおびただしい群衆には一言もものを言わせていません。そこにいる一人一人の顔が見えてこないのです。ところが、主イエスの前にひれ伏し、ものを言うものが記されています。汚れた霊です。彼らは、主イエスに挑みかかるのではなく、その正体を知っているが故にひれ伏し、「あなたは神の子だ」と告白するのです。
 この記事を記した記者は、このおびただしい群衆の正体をよく知っていたと思うのです。自分の罪の姿すら見えていない、自分を失った者たちの集まりです。「群衆」という言葉を聞いた時に、私たちの頭にまず浮かぶのは、主イエスの裁判の場面ではないでしょうか。そこに於いて、「十字架につけろ」と叫んだのは、群衆でした。この群衆は、一人一人は何をしているのかわからずに「十字架につけろ」と叫んでいたのです。
 今、主イエスの上にのしかかり、主イエスを押しつぶしてしまう勢いでやってくる群衆も、また同じです。マルコによる福音書は、ここに私たちの罪の重さを描いて見せていると思うのです。群衆は、いったい何に触れようとしているのかわからないのです。彼らが触れようとしているのは、神の子、主イエス・キリストです。しかし、一人一人の頭の中にあるのは、病を癒していただくことだけです。それも、ただ主イエスが各地で行った不思議な業を聞きつけてのことでした。福音書記者は、私たち人間が、いかに、神の御前に鈍く、主イエスに対して無理解なものであるかを記すのです。
 マルコによる福音書第3章7節-12節の記事は、続く13節以下の記事と続けて読まれることの多い箇所です。主イエスが、群衆に押しつぶされそうになったことと、12人の使徒を選ばれたこととが深く関わるからです。また、7節-19節までのところは、教会の姿を示しているとも言われます。14-15節には主イエスが十二人の弟子を選び、使徒として任命し、主イエスがされていたこと-神の言葉を伝え、悪霊を追い出す権能を持つことを彼らに与えられたと書かれています。
 私たちの罪、それは神を神としてあがめない、神の前にひれ伏すことのない、神に対する無理解から生まれます。私たちの罪の重さは、救い主である主イエスを押しつぶしてしまうくらいに重いのです。主は、それをその場で蹴散らすことをされないで、弟子たちに「ここから脱出するための小舟を用意するように」と言われました。また、主イエスがされようとしていることの助けをするために、使徒を任命され、それぞれに力を授けられたのです。救われたものが、さらに、全ての人の救いのために、主と共に働くようにと、使徒を任命されたのです。ここに教会の働きが始りました。
 マルコによる福音書は、先にも言いましたが、徹底して、私たち人間の神の子に対する無理解を描きます。しかし同時に、私たちはいつでもくり返し第1章1節になんと記されていたかを思い起こすのです。

「神の子イエス・キリストの福音の初め。」

マルコによる福音書が私たちに示しているのは、神の子、私たちの救い主、主イエス・キリストの物語だということです。主イエスは、神の子でありながら、罪の重さを知っておられるのです。それも一人分ではない、全ての人の罪を負って十字架にかかってくださった方です。しかも、罪の重さに負けてしまわれたのではなく、それを打ち負かして、甦りの命を私たちに与えてくださる方です。
 主イエスを信じる時に、私たちは一人で重荷に悩むことをやめることができます。主イエスが共にになってくださるからです。さらに、教会に集う一人一人が互いに執り成し合うことを主はお求めになりました。教会は、もはや自分を失った群衆ではありません。聖なるものの群れとして、神の御前にひれ伏し、自らの口で「あなたは神の子です」と人々の前に証しすることのできる群れとなるのです。
(楠原彰子:2006年2月19日主日礼拝説教より)

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