2007/10/27

あなたもキリスト者に

使徒言行録 第26章19-32節

「わたしをキリスト信者にしてしまうつもりか」。アグリッパ王はついにこの言葉を口にしました。この時、キリストの信仰をあなたは持ちますか?キリストを信じますか?とアグリッパ王はパウロから突き詰められたと感じたに違いないのです。
 キリスト信者になるということは、わたしたちが経験しますような、何かの会員への勧誘ではありません。わたしがまだ20歳頃の話ですが、集っていました教会の長老が、教会の会員になっても、この世的には何の利益もないとおっしゃったことを覚えているのです。キリスト教会の会員になっても、お金をたくさんもうけることができるとか、何か特別な力を得るとか、特典があるわけではありません。そのような俗世間的なものと教会とは関係ありませんとおっしゃりたかったのだと思うのです。
 でも、それから20年以上たった、今、果たしてそうなのかなとも思うのです。地上でなどと言い方をしなくても、こうして日々生活をしていて、こうして生きていて、本当に実感する様な益はないのだろうか、と思うのです。おととしハイデルベルク信仰問答をご一緒にお読みしまして、繰り返し申し上げましたことは、信仰問答書が、繰り返しくりかえし、キリスト信仰により「何の益になりますか?」と問うていたことでした。益があるのです!わたしは申し上げました。信仰問答書がこう問います時、それは、信仰を持つことによって、あなたの生き方がこう変わりますよ。あなたの考え方がこう変わりますよ、と繰り返し説き聞かせるように言っているのですと。
 いや、今、語っているパウロ自身がそうでした。エルサレムで命を失ってしまうかもしれない。自分の人生が、残酷にも、ここで奪われてしまうかも知れない。そう思わないではいられない。そのような危険の中にも、私の人生は死で終わりはしない。死を乗り越えてしまう信仰を持っていると言える。このような裁判の席においても、崩れることなく、自分の信仰を語ることができる。それは、私と共に、キリストがいてくださる。キリストが生きておられるからだ。パウロ自身が、自分の生き方、考え方が、こう変わった。こうすばらしいものに変えられたと語っているのに違いないのです。
 パウロの語る言葉は、次に聞く者をも変えてしまおうとします。そこでアグリッパ王は言わないではいられなかったのです。

アグリッパはパウロに言った。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」(同28節)

パウロのキリスト者としての迫力。伝道者としての迫力にアグリッパ王は圧倒されたからではなかったでしょうか。「わかった。わかった。もうその話はやめてくれ。もう言わないでも分かっているから」と言うのではないのです。そうではなくて、パウロの言葉に引き込まれそうになった。「あなたもキリスト者に」というパウロの言葉が自分の中に響き、「わたしもキリスト者として」という言葉が心の内に起こったからではなかったかと、わたしは思うのです。パウロ先生の生き方、生き様というものが、まさに自分を引き込んでしまう。この人こそがキリスト者だと思い。わたしもこの人のように歩みたい。「わたしもキリスト者として」と思う瞬間だったのではないでしょうか。
 聖書のこの箇所を読んでいて、もう十何年も前の出来事を思い出すのです。私が伝道師をしていた教会の年配の方です。そのお方は、また一方で、私が、まだ高校を出たばかりの大学生の時、たいへん親しくしてくださった教会の長老のお父様でいらした方ですが、若いころのお話をしてくださり、それが本当に楽しく、また豊かな思い出であったことから、良く聞いてくれたと、聞いているわたしにまで感謝してくださったことがあったのです。そのお方は、若い頃、一時期、かの賀川豊彦の鞄持ちをしたことがあり。この伝道者が伝道の仕事に出かける時、自分も付いて行って、どれだけ、それが今の自分の信仰の源になっているかを、本当に楽しそうに、もう60年以上昔のことだったろうと思うのですが、ひとりの若者が、あのすぐれた伝道者と旅をして戻ってきた時に、あたかも、自分の友人に話して聞かせるように、それこそ60歳は離れている私に話して下さったのでした。
 すぐれた伝道者の生き方、また人と接する時の迫力が、どれほど人を変えるのか、と思わないではいられませんでした。キリスト者との出会いが自分の生き方にとって大きいものとなるか、それとも何も残らないのか。その違いは大きいと思います。そのような出会いを、ひとりでも多くの人にして欲しいと願います。自分の殻に閉じこもったり、限られた世界の中にいて、これが自分の信仰だなどと思わないで欲しいと思うのです。パウロは、ましてやキリストと直接出会いました。自分が出会ったキリストについて、友人に、家族に、町の人々に語り聞かせる時、パウロの顔は輝き、おそらく聞く人を変えてしまうような力を持っていたに違いないのです。
 「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」と言うアグリッパ王に対して、「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります(同29節)」とパウロは告げます。時間をかけて読んで参りました、裁判の場面も、「あなたも、私のようにキリスト者に。多くの人が恐れる死を乗り越え。いかなる時も生きておられるキリストが助けて下さるという信仰を持つ、キリスト者になりませんか」という伝道の大きな機会としたのでありました。
 人々は、パウロに罪を認めません。むしろ、皇帝に上訴する訴えを起こしていさえしなければ、すぐにでも釈放されて、自由の身になっていたろうにと、口々に言い合うのです。しかしパウロは、そのような可能性、今、釈放されて自由になることなどはまったく望んではいませんでした。いよいよ、この後、パウロの本来の目的地、ローマへの旅が始まります。世界の中心と呼ばれていたローマにおいても、声高らかにキリストの御言葉を語る。パウロの生涯最後の仕事へと向かうのです。
(楠原博行:2007年9月23日主日礼拝説教より)

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2007/06/25

主の御心

わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。彼らは”霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。
       (使徒言行録第21章4節)
今、パウロは自由に御言葉を語る使徒として最後の時を迎えているのだと言う人がいました。確かに、まもなくパウロは逮捕拘束され、命を狙われます。でもそれは決して伝道者パウロの歩みが妨げられることではありません。むしろ伝道者パウロの人生の最高点であるという人もいるのです。パウロも弟子として、十字架を担われた主イエス・キリストの歩みに従うのです。
 エルサレムにおいてパウロは捕らえられると、ここ、ティルスの町の小さな教会でも聖霊が語っておられました。教会の人々はパウロを引き留めようとするのです。ある人は言います。目の前にある信仰のための苦難。そんな時、わたしたちの心の中にはいつも当然のように、「だめだ。やめよう」という気持ちが起きるではないかと。神の聖霊によって示される、目の前にある苦難、苦労というものは、だからすぐに「やめなさいという警告」になってしまう。しかしパウロは止められても旅立つのです。神様が私たちに与えられる苦労というものは、すぐに「やめる。断念する」ということには結びつかないからです。優しい言葉、楽しい事柄、耳にやさしい事ばかり語る偽預言者であってはならないからです。
 そのような厳しい場面において、エフェソの大教会ではなく、ティルスの町の小さな教会の人々について記されています。ある人は言います。小さな親しい交わりの中にある教会が、心から、この苦難に向かう使徒パウロを心から送り出すのだと。
しかし、滞在期間が過ぎたとき、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした。彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。(同5、6節)
 探さなければ見つからないような小さな教会でありましたが、教会の人々は、妻や子供を伴い、家族ぐるみで、パウロたち一行を町はずれまで見送ったのです。浜辺でひざまずいて祈り、別れの挨拶を交わしたのです。先ほどの人は言います。「何とすばらしい光景だろう。すべての人々が浜辺でひざまずき、共に祈り、別れをする。そこには子供たちも一緒になって、パウロたち一行を見送るという体験をする。同じ主キリストの体の枝として、何と、これから歩む道が異なっていることだろう。」
 カイサリアに到着したパウロ一行は、フィリポという人の家に滞在します。あの使徒言行録第8章でエチオピアの宦官に旧約聖書イザヤ書を解き明かした弟子、ステファノの殉教の事件の後、危険なエルサレムを離れた一人でありました。たいへん不思議なことです。今やかつての迫害者が、迫害されていた人の客として、しかも同じキリストの兄弟として共にいるのですから。
 ここでもアガボという人が、パウロが縛られ異邦人の手に引き渡されると預言をしました。人びとはパウロを引き留めようとしたのです。ついにパウロは答えます。
「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」(同13節)
 「主イエスの名のためならば」とパウロは言います。今目の前で起きていることは、どうしようもない、どうにもならない出来事ではないということです。今目の前に迫っている困難は「主イエスの名のため」に起きている事柄である。
パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。(同14節)
 「主の御心が行われますように」の言葉はわたしたちにとって大切な言葉です。「主の御心が行われますように。」そしてわたしたちはもう口をつぐむしかないのです。「主の御心が行われますように」と祈り、すべてを神様におゆだねしてしまう。なぜそんなことができるのでしょうか。それは主イエスが「わたしに従いなさい」とおっしゃったことに従うことなのです。それは十字架におかかりになる前の夜、主が必死で祈られた言葉でもあるのです。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
 (マタイによる福音書第26章39節)
 パウロがこの時までにはエルサレムに到着したいと願った五旬祭、ペンテコステの日を今日わたしたちは迎えています。私たちの助け手、聖霊が来てくださった日です。
宗教改革者マルティン・ルターは次のように言っています。「このすべての世界、すべて輝き光るものに対抗して、神様が憐れみ深く、わたしたちをお救いになる方であることを信じること。そしてそのことを口に出して告白することは、今や厳しいことであるかもしれない。」暗いもの。闇ばかりではありません。この世には、輝き光るものがある。しかしそういうものに顔を向けるのではなく、神様の方向に顔を向ける。私は愚かになるかも知れない。罪の問題がある。わたしの弱さの問題がある。いや何よりも死ぬということへの恐れに、わたしはさいなまれる。ルターは言うのです。そんな時「聖霊が来る。聖霊が来てくださる。わたしの心に触れて、聖霊がお話になる。」
 愛し、愛し抜いて従っていた、主イエスが、この地上をお離れになる時、弟子たちの不安はいかなるものであったろうかと思うのです。直接、傍にいて、教え、守り、導いていてくださった、主イエスが、今、自分たちを離れてしまう。ルターは言います。その時、風の音がするというのです。聖書で「霊」と言う言葉は「風」という意味もあるのです。「ヒュー。さあ元気を出しなさい!聖霊はわたしたちに勇気を吹き込んでくださる。わたしたちに親しく、慰め深く話しかけてくださる。」
 不安の中で、どうして主の御心の通りになりますようにと祈れるのでしょうか。それは、この地上において、聖霊が助けて下さることを信じているからなのです。
(2007年5月27日ペンテコステ聖餐礼拝説教より)

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2007/02/26

信じる喜び

使徒言行録 第16章11-40

フィリピの町で起こった出来事を読み味わっています。信じる喜びについて語られるのです。パウロとリディアという女性の出会いが記されていました。彼女の家族が皆洗礼を受け、フィリピの教会が誕生しました。まさに信じる喜びが語られるのです。
 しかしその一方で何が起こったでしょうか。パウロたちは捕らえられ、残虐な仕打ちを受けます。牢獄の中での出来事も記されます。彼らが助け出されることも記されるのですが、今や、逆の立場について。つまりパウロたちが救出される事は、牢獄の看守たちにとっては一大事なのです。職務を全うできず、責任を感じた看守たちが自殺までしようとする事が記されるのです。
 言われのない罪で逮捕投獄されるパウロたち。一方で思いもよらない出来事で職場でミスを犯し、その悩みから命を絶とうとする人々。信仰の喜びはどこにあるのかと問い返さざるを得ません。不当な仕打ちでひどい目に遭わされると言うことがわたしたちにも起こります。職場でのつまづき、疲れから、命を絶つ人がどれほど多いのか。わたしたちは日々、耳を閉ざしたくなるほどに聞くのです。
 事件のきっかけはパウロが占いをする霊を女奴隷から追い出した事でした。占いが出来ないのですから、持ち主からしてみれば大損害です。そこで人びとをそそのかしてパウロに仕返しをしたのです。オカルト的な力で占いをする力が失われたと言っても、金品が奪われたり、壊されたのではありません。裁判しようがないとも思われます。だからパウロたちが受けた仕打ちは行き過ぎであり、もしかしたらよそ者を嫌う、みにくい感情が込められていたのかもしれないとも言われるのです。
 パウロとシラスの二人は、いちばん奥にある牢の中に入れられたとあります。重罪人として、木の足枷まで付けられました。パウロたちはそういう身じろぎもできない様な所に押し込められました。わたしたちも、日々の歩みの中で、そういう経験をする事があるに違いない。そこで語られることがまずひとつ。キリスト者にある信じる喜びです。おとしめられ、たとえそれが全く不当な事であったとしても、うなだれ下を向くだけである必要がないとの事です。

真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた(使徒言行録第16章25節)。

 重罪人として、最も深い牢屋に入れられて、足枷までかけられている二人が、顔を上げ、天を仰ぎみて、神様を礼拝している。他の囚人たちまでもが二人の声に耳を傾けるのです。美しい声に心惹かれたのでしょうか。パウロたちの信仰に引き込まれる。そういう体験です。教会はそういうところでありたいと願います。少しでも力強い賛美の歌を、少しでも人を励ます、信仰の言葉が、わたしたちの教会でも語られるならば、とわたしたちは願っているのです。牢の中にいた囚人たちがパウロとシラスの声に耳を傾ける。いったい何を思うのでありましょうか。たとえ犯罪を犯した囚人たちであっても、明日を思うのでしょうか。自分の境遇をなげくのでしょうか。それとも犯した罪を悔いるのでしょうか。神を讃える歌が、人々を、立ち直らせ、新しい歩みを始めさせる、そのきっかけとなることは、わたしたちにとっても同じなのです。
 虐げられても上を見上げる事ができる、信じる喜び。そしてたとえどんな理由、いきさつがあったとしても、悲しみ沈む人びとを励ます力を持つ。これも信じる喜びです。さて牢屋の看守たちにとって思いがけない事が起こります。

突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった(同26節)。

 囚人たちが逃げてしまえばたいへんな失態です。看守たちはすぐに剣を抜いて自殺をしようとしたのです。パウロは大声で叫びます。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」もうこれ以上進めない、もうこれ以上生きることができない、そのぎりぎりのところで、パウロが叫ぶのです。パウロの叫び声を、命を絶とうとするぎりぎりのところで看守たちは聞いたのです。わたしたちにそういう声が聞こえるでしょうか。わたしたちにも、もうこれ以上生きることができないというぎりぎりのところがあるに違いない。しかしそこで声をかけてくれる人がいるのです。
 看守は、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏します。何の震えなのでしょうか。恐怖であったかもしれない。自分たちに理解できないことを目の前に見ている震えであったかもしれません。思い詰め、死のうとして、そのぎりぎりのところで止められた震えです。生きろと叫ぶ声を目の前にしたときの震えです。わたしたちも経験したことがあるはずの震えです。自分の力だけでは生きることができないことを知った震えです。看守は尋ねます。

「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った(同31、32節)。

 確信に満ちた言葉。信仰に満ちた言葉です。信仰を求めている人びとに、力強く語られる言葉です。まだ真夜中であったにもかかわらず、しかも罪人として牢屋に入れられていたにもかかわらず、看守はパウロとシラスの二人を連れ出して怪我の治療をしてやるのです。まだ真夜中であったにもかかわらず、自分も家族も皆、すぐその場で洗礼を受けたと記されています。家族すべてが手を取り合って喜ぶ姿が描かれます。信じる喜びが、信仰を持つことになった喜びが語られるのです。
 そして最後に、もうひとつの信じる喜び、信仰の交わり、教会の中にある喜びが語られているのです。この町で起きたひとつひとつの出来事の背後にフィリピの教会があった。フィリピの教会のリディアたちの祈りがあったことを忘れてはなりません。

牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した(同40節)。

 励まされ、励ます。支え合う教会と信徒たちです。わたしたちが常に求めるまことの教会の姿です。
(楠原博行:2007年2月18日主日礼拝説教より)

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2006/11/02

神に栄光を

使徒言行録 第12章20-25節

 「神に栄光を」の言葉は、わたしたちが聖書やキリスト信仰の書物を読むとき頻繁に目にする言葉です。10月最終の主日、わたしたちは宗教改革を記念する礼拝を祝いますが、「神のみに栄光を-soli deo gloria-」とは改革者たちが標語にして教会の信仰を問い直したことばでもあります。彼らの系譜にあることをはっきり言い表すわたしたち改革派と呼ばれる教会では、教会の旗印でもあるのです。わたしたちは祈りをささげます。わたしたち自身が祈る、祈りの中で、実はわたしたち自身の口からもうすでに「神様に栄光がありますように」との言葉が繰り返し出て来ているのではないでしょうか。
  でも神様の栄光とはいかなるものだろうかと考えると、それほど一筋縄ではいかないのです。しかし、実のところ、この栄光が、別の言葉で言えば、栄誉、ほまれというものが人間についてのことであれば、これは良くわかることがらなのです。わたしたちのほまれです。わたしたちの名誉についてです。わたしたち人間としての誉れについては、大きな関心事です。社会で生きている限り、ほまれというものを気にします。名誉というほどではないにしても、自分が、働いて生活をしている、職場、社会において、他の人が、自分をどのように見ているのか。職場での地位については、考査とか、もっと現実的な問題を伴って参ります。
 キリスト者といえども、自分自身のほまれの問題からは逃れにくいということです。神様の栄光ということを平気で口にしつつ、自分の栄光の問題の方にも目を向けてしまうということです。今日わたしたちに与えられております聖書の御言葉から、ひとつの典型例、自らの誉れをこの上なく求めてしまった人の姿を読むことになるのです。主人公は、先週ご一緒にお読みしましたところで、ヤコブ、ペトロに迫害の刃を向けた、ヘロデ王なのです。

 ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた(使徒言行録第12章20-22節)。

 王から目をつけられた住民が、嘆願をしたというわけです。しかも王の側近に取り入るという手段を使わなければならないほど、王から目をつけられ、怒りを持って扱われた人々なのです。ようやく王と面会がかないます。ヘロデ王が王座について演説をします。演説を聞いた人々が、ほめそやすのです。「これは神の声だ。なんと神々しいことか。何と栄光に満ちた声だろうか。語るのはヘロデ王だが人間の声ではない」と言うのです。それは住民たちの演出であったに違いありません。食糧の問題、自分たちの生き死にが関わっているのです。ようやく面会がかない、ようやく和解の言葉がヘロデ王の口から発せられようとしている。ティルスとシドンの住民たちは、少しでもヘロデ王の機嫌を取って、少しでも有利な言葉を引き出したい。「神の声だ。人間の声ではない」という叫びも、そういう計算づくめの、いやらしさで満ちています。
 しかし自分を褒めそやす言葉を聞いて快く思うのは人の常です。それが「神様のようだ」という信仰の根幹を揺るがすような言葉でも、受け入れてしまうことがあるのです。「神様に栄光がありますように」と祈る口を持っている人が、「あなたは神様のようだ」というほまれの言葉を受け入れてしまう恐ろしさです。

 するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた(同23節)。

 天罰だと言うのでしょうか。神の罰が降ったとさげすんで見るのでしょうか。しかし、わたしたちがここに見るのは、人間の心の闇だと思います。わたしたちひとりひとりにひとしく関わってくる暗闇に違いないのです。人間の栄光。人の誉れを語る時、そこには暗闇しか存在し得ないのだと思います。この暗闇のような世界を生きるわたしたちと言いながら、時には、その暗闇を、わたしたち自身が作り出そうとしているのです。もしそれに気がついたら、自分の生活の一片にでも、そのような暗闇を見つけ出したとしたら...
 ヘロデ王の物語は、わたしたちが人間的な思いによって、陥ってしまう暗闇です。わたしたちが陥ってしまいかねない暗闇なのです。しかし、このような突然倒れ伏してしまうような暗闇でなくても、わたしたちの信仰の歩みの中で経験する暗闇というものがあると思います。
 信仰生活ということを考えるとき、いろいろな言葉が発せられるのです。洗礼を受けた時の感激が、いつしか薄れ、あのときの輝きはどこへいってしまったのかと嘆く声です。神様、神様と呼びかけながら、どうしてもその神様が生きておられるということに深い感動を持って生活することができないという嘆きです。また愛に生きる。光の中を歩むと言いながら、いつしか闇の中を歩んでいるのではないかという思いにとらわれている自分がいるという嘆きです。わたしたちは光を見たいと願うのです。自分の中に、あるいはすぐそばに暗闇がある。わたしたちに与えられた使徒言行録 12章の物語は、ヤコブの惨殺。ペトロの投獄と救出。そしてその迫害を行った張本人、ヘロデ王の死を語った後、それとはまるで対照的に次のように記すのです。
 神の言葉はますます栄え、広がって行った。バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った(同24、25節)。
 人間が陥る闇の物語とは対照的な言葉です。神の言葉は止まないと言うことです。人間の側にどんな闇があろうが、神の言葉は栄え、広がるしかないということです。教会の業はいかなることがあろうとも止まらないということです。バルナバとサウロは遣いの任務を果たし、アンティオキアへと帰って行くのです。二人による最初の宣教旅行がいよいよ始まります。神の栄光のために。
(楠原博行:2006年9月24日主日礼拝説教より)

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2006/07/04

わたしが選んだ

使徒言行録 第9章1-19節

 サウロはキリストの教会を滅ぼそうとしていました。しかもエルサレムの教会だけではおさまらず、さらにダマスコへと旅をして、キリスト者を逮捕しようとしたのです。脅しと殺しの臭いをぷんぷんさせて旅をするサウロです。しかしダマスコへとたどり着く直前、自分の周りが光に満たされ、この人は地に倒れ伏してしまいます。そのとき主イエスは「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかけたのでした。ダマスコのキリスト者を暴力的に捕らえるという悪い計画が実現する、そのぎりぎりのところで、主イエスご自身がサウロをお止めになったのでした。
 印象的なのはサウロの姿です。あれほど残酷で、あれだけ鼻息荒かった彼が、どうして何も言わなくなってしまったのでしょう。サウロは「主よ」と呼びかけます。自分に起きていることが、神様のみわざであるということがわかったということです。主イエスは「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」とおっしゃいました。サウロの沈黙は、まずこの言葉に聞き従ったということです。そしてただひたすらに祈るのです。サウロは目が見えません。食べることも飲むこともしないで、ただ静かに祈って待つのです。それは3日間であったと記されています。
 自分がこれこそ最高だと思い描いていた計画が、成就する直前に壊れてしまったサウロです。3日間は長いでしょうか。わたしは長いと思うのです。性急に、活動的にダマスコへ向かったサウロにとって、何もできない暗闇、しかもこれから何をすれば良いかもわからない、ただ待つしかない3日間は、必死で祈るサウロには永遠にさえ思えたに違いないのです。しかしそのような、自分は捨てられてしまったのではないか、自分はもうこれから暗闇の中を生き続けるしかしょうがないのではないのかという3日間は、また神様が働いておられる3日間でもあるということです。

 「ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、『アナニア』と呼びかけると、アナニアは、『主よ、ここにおります』と言った。すると、主は言われた。『立って、〈直線通り〉と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。』(使徒言行録第9章10-12節)」

 しかしアナニアという人はすぐには従いません。いやできないのです。彼はサウロの悪事を聞いています。今アナニアが住んでいるダマスコにも、サウロは自分を含めたキリスト者を捕らえに来たのだと知っているのです。しかしそれでも「行け」とキリストはお命じになります。キリストはサウロを選んだのだとおっしゃいます。すべての人々に「わたしの名」、「キリストの名前」を宣べ伝えるために、キリストご自身がサウロをお選びになったのです。
 ダマスコの町は世界でもっとも古い町のひとつであると言われます。旧約聖書のアブラハム物語にすでに出て参ります。ユダヤの国の北。シリアの砂漠のへりにあるオアシスが町の元となったそうです。アバナ川という川のほとりにあり、碁盤の目にしかれた道の中に、二本の大通りがあったそうです。一本は町の人々でにぎわう市場とジュピター神をまつる神殿を結ぶ大通り。そしてもう一本は町を貫き、劇場と王宮に沿って通る、「まっすぐな道--直線通り」という名前の大通りでありました。その大通りにあるユダの家にサウロはいる。サウロは今なお祈っているのです。

 「そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。』すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した(同17-19節)。」

 目からうろこがおちる。まさに魚のうろこという言葉が使われています。生き方を見失うという意味でも、また実際に視力を失っていると言う意味でも、今サウロは見えるようになるのです。サウロはただちに洗礼を受けます。食事をして元気を取り戻します。これから生きて行くという意味においても、人生の目的を、人生の意味を見いだしたのです。
 アナニアはサウロが聖霊に満たされるようにと言いました。わたしたちは今日、教会に最初に聖霊が降った日、ペンテコステを祝う日をおぼえて礼拝を守っています。思えば一年前のイースターの頃からルカによる福音書を、続いて使徒言行録を読み始め、昨年のペンテコステには、まさにそのペンテコステの出来事についての聖書の御言葉をご一緒に礼拝で読み味わいました。一年間、使徒言行録を通じて、キリストの弟子達の歩みを読み続け、そして今日、このペンテコステの日に、キリストとキリストの教会に徹底的に反抗し、逆らったサウロ、しかしその伝道旅行により、世界中へとキリストを宣べ伝えた、後のパウロが洗礼を受け、まさに聖霊を受ける者となったことをごいっしょにお読みすることができるのは恵み深いことであると思います。
 二回続けてわたしたちが読み味わいましたサウロの回心の物語。それは一人の人の人生がそれこそひっくり返ってしまうほど大きく変わる出来事でした。それほど人がキリストと出会うということは大きいことなのです。わたしたちは襟をたださなければなりません。キリストとの出会いが、わたしたちをそれほどまでに大きく変えているだろうか。いや変わらなければならないのです。反発し、抵抗し、しかしキリストとの出会いが、自分の生き方を、思い描いていた自分の生き方とは全然違うように作り替えられてしまという経験なのです。
 キリストはサウロを選んだとおっしゃいました。アナニアを選んだのもキリストご自身です。わたしたちひとりひとりもキリストに選ばれ召し出されているのです。ペンテコステの日に、さらなる聖霊の注ぎを祈り、わたしたちの教会の歩みがさらに強められることを、その伝道のわざが力づけられることを、祈り願います。
(楠原博行:2006年6月4日ペンテコステ聖餐礼拝説教より)

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2006/05/28

入信への道

使徒言行録 第8章26-40節

 いささか仰々しい仕方で「エチオピアの女王カンダケの高官」という人が出て参ります。エチオピアは世界で最も古い王国のひとつです。ここで言うのは、ナイル川の上流のメロエという町を首都としたヌビア王国のことで、カンダケとは、ファラオという名前のように、その国の女王たちの一般的な呼び名であったようなのです。そのカンダケの高官だった、しかも女王の全財産の管理をしていたと言うのですから、かなりの地位にある人でした。その人がエルサレムに礼拝に来たというのです。ユダヤの教えに従い、ユダヤ教の信徒となっていた人が、世界各地にいて、エルサレムに巡礼すると言うことがありました。この人もそういう人々の中の一人だったのでした。長い旅路を経てエルサレムの神殿を詣でた帰りだったのです。そしてまさにその時、聖霊がフィリポに「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と命じた時に、このエチオピアの高官は預言者イザヤの書を朗読していたというのです。
 フィリポは問います。「読んでいることがお分かりになりますか。」宦官は答えます。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう。」この人が読んでいたのは旧約聖書イザヤ書53章の言葉でした。それは一人の人のことを言っています。たとえ辱められても、まともな裁判も行われずに屠り場へ、つまり命を奪われるところへと連れて行かれるのに、口を開き、抵抗することがなかった一人の人。苦難の僕と呼ばれるこの人について語っているのです。エチオピアの宦官は、イザヤ書53章を読んでいて、これはいったい誰のことを言っているのですかとフィリポに尋ねるのです。

そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」(使徒言行録第8章35、36節)

 エチオピアの宦官の決心は早かったのです。目の前に水がある。洗礼を受けるのに、いったい何の妨げがあるでしょうかと言うのです。なぜこのエチオピアの宦官は洗礼を受ける決心をしたのでしょう。この人がキリストを信じるようになる、入信の道は何だったのでしょうか。それは聖書の御言葉でした。それを解き明かして、イエス様のことを話してくれたフィリポとの出会いでした。いや何よりも、聖書の御言葉、フィリポを通して、主イエス・キリストと出会ったのです。
 自分がはるばるエルサレムへと礼拝に来ていた神様。そして自分で聖書を読んで、神様のことを知ろうとしていた。しかしひとりだけではどうしようもなかったのです。聖書の解き明かしを受ける。力強い説教を聞く。まさにイザヤ書53章が語っているように、屠り場へと引かれていく羊のように、十字架にかかられたキリスト、そしてそれはすべて、わたしたちの罪のためであった。わたしたちにはこのお方を信じることが必要である。フィリポはこの人の傍らに座り、馬車に揺られながら熱心に語ったのだと思います。わたしたちも同じです。一人で思いめぐらしているだけでは力が足りない。教会に来てはじめて、キリストを信じるということがどういうことかがわかる。信じている人の姿を見ることが出来る。信じている。信仰を持っているということは、こういうことなんだと分かることができる。
 新約聖書を読んでいて、そういうことがあるのですが、わたしたちの聖書には37節がありません。新約聖書はギリシャ語からの翻訳です。その翻訳した聖書にはなかったと言うことです。しかしかぎりなくたくさんの聖書が伝えられていて、その中には、このわたしたちの聖書にはない部分も伝えられているのです。わたしたちの聖書にも使徒言行録の一番最後の所に、それが書き記されています。37節は、

フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。

となっているのです。決心したエチオピアの宦官とフィリポとの間の会話が、わたしたちが洗礼を受ける時に口にする洗礼の誓約の言葉になっているのです。
 宦官は馬車を止めさせると、すぐにフィリポから洗礼を受けました。そして不思議なことにフィリポの姿は見えなくなってしまいます。しかしエチオピアの宦官にとって、それは驚きであったでしょうが、重要なことではなかったのです。洗礼を受け、喜びにあふれて、自分の国へと旅を続けたと言います。
 わたしたちはどうだったでしょう。どのようにキリストと出会い、信じるようになったのでしょうか。さまざまだと思うのです。さまざまな出会いがあったと思います。人を通してであったかもしれない。教会に集うことによって出会ったかも知れません。ただひとつはエチオピアの宦官と同じであったと思うのです。聖書、人、教会を通してキリストと出会い、そして、自分の口で、他の人々の前で「わたしはイエス・キリストを神の子であると信じます」と告白した。そして洗礼を受けた。そして喜びにあふれて、自分がしていたこと、自分の毎日の生活、人生へと帰って行く。今すぐでなくても、いつかは洗礼を受けると考えている方にも、おすすめをしたいと思うのです。今、キリストが、あなたも、招いておられます。
 このようなことが、ひとつひとつと起きる。わたしたちの教会も、そういう教会でありたいと願います。キリストと出会える教会。キリストを信じるようになれる教会。キリストを信じて、洗礼を受け、喜びに満ちて、自分が生きている世界へとまた帰って行く。
 はじめての人がわたしたちの教会へといらっしゃる。そこでキリストの教会とはどういう教会なのかを実感して感じることができる。そこに集っている人々を見、話し、キリストを信じるとはこういうことだと知ることが出来る。そしてわたしもキリストを信じたいと思うようになる。そういう教会になりたいと願います。
(楠原博行:2006年5月21日主日礼拝説教より)

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2006/04/16

殉 教

使徒言行録 第7章54節-第8章3節

ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。(使徒言行録第7章55-58節)

 ステファノは人々の前で説教をしたのでした。前回のところで「あなたがたはかたくなである」と語りました。それは「首がかたい」という言葉でした。神様がこちらを見なさいと呼びかけても首がかたくて動かないのです。神様を見ていないと言われて人々は怒るのです。自分は神様の方をしっかり向いている。神様に従っている。そう信じているから人々は憎むのです。
 聖霊に満たされ、ステファノは語ります。しかし人々は聞きたくありません。耳を手でふさぐのはそういうことです。大きな声を出して、自分の声でステファノの言葉が聞こえないようにする。ステファノの言葉が自分の体に入ってくることに絶えられないのです。
 聖書を読んでいて、ああ、ここには今、わたしに必要な言葉が書いてあるなと思う事が必ずあるはずです。聖書は長い。聖書は大きい。聖書を読んでいるうちに眠ってしまうこともあるのです。しかしそれでも読み続けていると、ここで今読んでいる事は私にあてはまると感じる事があるはずです。自分にしみ込んでくる。神さまの言葉が自分にしみ込んでくる。これは本当にすばらしいことですから、わたしたちはそれを求めたいのです。
 しかしここでステファノに起こっているのは、力づくで、出来る限りのことをして、神さまの言葉が自分に入ってくるのを拒絶しよう、拒否しようとする人々の出来事です。語られる言葉に逆らう最終手段は、こうすればもう語られることがなくなってしまうだろうということは、言葉を語る者を亡き者にすることです。人々はステファノに襲いかかり、町の外へと引きずり出してしまいます。そしてステファノに向かって石を投げるのです。しかもその人が一言も言葉を発せなくなるまで、その人が命を失うまで、皆で石を投げつけるのです。聖書はこうしてステファノの最後を記します。

人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。(第7章59、60節)

 今まさに死に向かおうとする中で、ステファノは「わたしの霊をお受けください」と主イエスに呼びかけたのです。そして自分の命を奪おうとする者たちに、その罪をどうか負わせないでくださいと叫んだのです。わたしたちはこの一週間、いやこの受難の季節の間、ずっと十字架上の主イエスの死を思い、祈りをもって聖書の御言葉を読み続けて参りました。まさに主イエスの十字架上の死を思い起こさないではいられないステファノの言葉です。

「ステファノはこう言って、眠りについた(第7章60節)」と聖書は静かに記します。そしてキリストの弟子たちの悲しみが続いて記されます。「信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ(第8章2節)。」

 キリストの弟子たちは、今、愛する人の死を迎えたのです。しかも残酷的な仕方で奪われた命でありました。そしてこれは「殉教」と呼ばれます。「殉教」という言葉を聞いてみなさんはどのように感じられるでしょうか。たいへん重い言葉であると思うのです。いや死ぬということに対しても、わたしたちは重い事であると思わないではいられないのです。主イエスが死に対してどういう言葉をおかけになったのか。それは「復活」という言葉です。
 教会の庭の駐車場から入ってこられた方はもうお気づきだと思いますが、小さな飾りを作ってみました。小さな泉に卵を飾る、イースターの飾り付けです。そこになぜ卵が飾られるのか。卵というものが復活のシンボルであるからです。卵の殻が打ち破られる。死という閉ざされたところから、そこにとどまり悲しみ、うち沈むことなく、打ち破られる。そういうシンボルであるからです。
 大切なことは、固まらない事。先ほどの言葉を使えば、かたくなであってはならないということなのです。そして繰り返しますが、わたしたちは死というものが重いと言いますけれども、主イエスが復活されたこと、そこで身をもってお示しになられたことによって、わたしたちはもうそのような殻の中に閉じこもっている必要はないということなのです。
 「殉教」という言葉を使いました。キリストにすべてを捧げるということです。信仰を持っている人は、ここに集っている信仰者は、キリストにすでにわたしたち自身を捧げているのです。ですからこのように暴力的な死を遂げた人を前にしても、いやわたしたちの仲間、わたしたちの先輩の悲しい死を前にしても、それにうちひしがれて、殻の中に閉じこもってしまうということはあり得ないのです。
 しかばねを乗り越えてなどという、悲壮な、厳しいことではありません。聖書はあまりにも静かに、このステファノの死を記しています。そしてその後、弟子たちは何をしたでしょうか。御言葉を伝えたということなのです。わたしたちの教会では生き死には絶対的なことではありません。死はわたしたちの終わりではないし、ましてや教会のわざ、御言葉を伝えるわざがわたしたちの死によって中断されるということもあってはならないのです。過去も未来も、それが10年だろうが、100年だろうが、1000年、2000年に及んでも、死というものがわたしたちを分け隔てするということはありません。わたしたちは御言葉と共に生き続けることができるからです。
 主イエスが語り、そして復活されたというこの希望を、ほんとうに計り知ることのできないくらいにたくさんの人たちが信じ、これに励まされ、支えられたように、わたしたちも共に生き続ける事ができるのです。この希望により、喜びによって、今日新たに歩き出すことが出来るのです。
(楠原博行:2006年4月16日イースター聖餐礼拝説教より)

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2006/03/19

神の救い

使徒言行録 第7章20-25節

 エジプト王の命令で、生まれた男の子はすべて殺されなければならない。しかし母親によってかごに入れられナイル川に流されて、それが他ならぬエジプトの王女の手によって育てられることになった。成人するとこのエジプトの王子は、自分の出生を知り、今や奴隷となっているイスラエルの人々を救い出すために立てられる。歴史に残るスペクタクル映画になる物語です。心惹かれ、いったいどうなるのだろうと思わせる物語です。そして主人公モーセに共感します。人間の運命と苦難と、そして大きな使命と歴史の中に翻弄される姿。主人公モーセの人生は、「十戒」の映画と古代エジプトを紹介するさまざまな催しによって、モーセと言えばこういう人であるというイメージができあがっているのです。
 わたしたちは主日礼拝において使徒言行録を読み続けています。今や最初のキリストの教会は大きな転機にさしかかっています。使徒たちは捕らえられ、警告や脅迫を受けるのです。しかしそれでもわたしたちの教会は大きくなり続けます。しかし聖書は次第に抜き差しならなくなっていく状況を描きます。主イエスが十字架にかけられた時のように、あることないこと、今裁判にかけられているステファノに不利なことがらが並べ立てられていくのです。
 ステファノは御言葉を語り続けます。まず神様の命令により旅立ったアブラハム。この人を通して神様の約束がわたしたちに与えられたことを告げました。そしてヨセフ。アブラハムへの約束がさらにヨセフへと受け継がれたのです。しかしそこには家族の崩壊がありました。ねたみがあり苦難がヨセフを襲うのです。兄達に売り飛ばされてしまったヨセフがどうして神様の約束を継ぐことができたのか。それはヨセフを神様が離れることがなかったからであるとステファノは告げました。ヨセフはエジプトの大臣となり、エジプト中にイスラエルの人々が満ちたのです。しかしヨセフを知らない王がエジプト王になると。一転してイスラエルは奴隷へとおとしめられてしまったのでした。

このときに、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです。そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。(使徒言行録第7章20-22節)

 以前、ある集会でモーセの話をしたことがあります。神の戒めを受けた人、預言者とモーセのさまざまな姿をお話ししたのですが、特に人間モーセというところに反響がありました。来週ご一緒に味わうことになりますモーセの召命の後のことですが、出エジプト記4章には神様の召しをひたすら拒むモーセの姿が描かれています。
 神の救いが今来る。そのことをイスラエルの人々のところへ行って告げよという命令に、「自分は弁が立たない。だれかほかの人を見つけて下さい」と繰り返し拒み、ついには神様にしかられてしまうモーセです。そこには第一の預言者モーセの姿はありません。映画で見るような英雄的なモーセではなく、神様の召しに尻込みしてしまう。神様の命令に、誰か他の人をと言ってしまう。わたしたち弱い人間の姿を見るのです。苦しみながら、神様の御言葉を取り次ごうとするモーセ。その姿に大きく共感した、そういう言葉をいただいたのです。
 ステファノはモーセの登場を語りながら、実はもうひとつの大きなテーマ。モーセの物語の底に流れている「神様に逆らい続ける人間」ということが、説教の表面に少しずつ出てくるのです。ステファノは語りました。神様の約束を。神様は離れないことを。しかしそれでも人間は神様に逆らうのです。それでも神様に逆らい続けるのだという、いわば説教の核心へと入っていくのです。それが今日のところからすでに読めるのです。モーセは成長し、自覚したと言います。神様が自分を通してイスラエルの人々を助けようとしておられることを自覚したというのです。イスラエルの人々が苦しんでいる中、奇跡的なあり方でエジプトの王子の地位を得たモーセです。そのモーセが人々を助けようとするのです。しかし意外なことに人々は理解してくれなかったのです。

次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました。(使徒言行録第7章26-29節)

 神様の約束がある。神様は絶対に離れない。しかしそれでも人間は神様に逆らおうとする。モーセはエジプトの国から逃げ出すことになります。いわばモーセは人間を救う神様と神様に逆らう人間との間で板挟みになります。信仰とこの世からはなれることのできない人間との間の板挟みです。それは人と人との間だけではありません。自分の中にも存在するかも知れない。自分の心の中で、このことは神様のご命令だと確信しながら、どうか今だけはそうっとしておいて欲しいと言い訳をする自分がいるのです。
 3月になって受難節に入りました。この時期わたしたちは自分の信仰を問い返し続けなければならないのです。復活祭を祝うことは、また自分の人生を思い、またいつかは迎えなければならない、わたしたちの死を思うことでもあります。罪と死、そこには、間違いなくそれを見たくない、できればもっと他の事を考えたい自分がかならずいると思うのです。しかし十字架がわたしたちの真ん中に立てられなければなりません。罪深い自分から逃れることはできないのです。わたしたちは心を合わせて祈りたいのです。自分の信仰が揺らぐことのない様に。そしてキリストが命じられた言葉を、今、恐れることなく、ステファノが人々に語り続けたように、語り続ける事を。

(楠原博行:2006年3月19日主日礼拝説教より)

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2005/06/19

「神から遣わされた方」

使徒言行録 第2章22-24節

説教を聞くときわたしたちはどうするでしょうか。わたしたちは今ペトロの説教に耳を傾けております。主イエスが待ちなさいと弟子たちに命じられた約束されたもの、すなわち聖霊が、主イエスが天に昇られた後に、弟子たちに降りました。その様子に驚いて集まって来た人々、聖霊を受けた弟子たちが、さまざまなほかの国々の言葉で語りだしたのに驚いた人々に対して、今ペトロは語っているのです。わたしたちは、この説教を何回かにわけて、詳しく聞いているのです。

ペトロは語ります。今起こっている出来事が、人間が行っていることではなく、神がなさっていることであることを。そしてそれが、預言者ヨエルを通して、神様のご計画として語られていたことであることを。ペトロは、起きた出来事を、神がなさった事として驚き恐れる人々に、この出来事が、むやみに恐れるべき事ではなく、神様がお約束通りに、
ご自分のご計画を確かに行っておられる事を語るのです。そして彼らは酔っぱらっているだけだとさげすむ人々に対して、起きていることが、人間によるものではない、神様によるものであることをはっきりと断言するのです。

ペトロが前にした、二種類の人々。彼らの姿を思い描くだけでも、神様の御業を前にした人々の、いや私たちの、弱さ、頼りなさを思うのです。それに比べて、神様の御業は計り知れないのです。預言者ヨエルを通して語られる言葉は、限りなく力強いのです。

『主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

神様はなお私たちの前に救いの道を示して下さるのです。主の御名を呼び求める者に対しては、救いの道を用意して下さるのです。多くの人間が惨めさの中に、悲しみの深さに覆い尽くされようとも、そこから逃れる道がまだ与えられているというのです。神様は例外なく、すべての者を救いへと招いておられます。神様を求めることを妨げられる者は誰もおりません。もしあるとすれば、もし私たちが救いへと入ることを妨げるものがあるとしたら、それは私たち自身の、不信仰、私たち自身が信じない、というところにあるに違いないのです。ペトロはヨエルの預言の言葉を人々に語ることにより、それを聞く人々の信仰を呼び覚まそう、呼び起こそうとするのです。

ペトロは、今目の前で起こった恐るべき業が、神様の御業であることを明らかにしました。そしてそのみ業が、今度は逆に、他ならぬペトロの説教を聞く者たちの側の問題へと向けられていくのです。集まって来た人々が、逆に問いかけられてしまう。集まって来た人々が、いわばまな板の上にのせられて、罪が明らかにされてしまうのです。今日わたしたちに与えられた使徒言行録2章22節で、ペトロは再び、人々に呼びかけます。

イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。(22節)

ペトロは呼びかけます、「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。」ペトロは今日のここではじめて、主イエスの事を口にします。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。」ペトロはいきなり、主イエスは救い主である、主イエスはキリストである、メシアであるとは言わないのです。ペトロの語り口はゆっくりとしています。ペトロはイエスが神から遣わされた方であると、まず語り、そしてこの方がどういうお方であるかを旧約聖書を通じて、神様の預言の言葉を通じて、明らかにしていくのです。それはゆっくりとした足取りですが、確実なのです。

ペトロは「ナザレの人イエス」と言います。ナザレとは主イエスの出身地である町です。また「ナザレの人」あるいは「ナザレ人」という時、それはまた、キリストの信仰をもった最初の人々を指す言葉でもありました。多くの人々がすでに知っていたはずなのです。たくさんの人々をいやし、たくさんの奇跡を行った方を知っていたに違いないのです。ペトロが「あなたがた自身が既に知っているとおりです」と言う通りなのです。

「神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。」

神のみ業を行われたのです。それは奇跡です。そのことに私たちは心動かされ、また驚くのです。不思議な業です。そしてそれは、驚くばかりではない。ただ人を驚かすだけではなく、私たちを、より高いところへと目を向けさせるのです。すなわち神様へと目を向けさせるのです。ですからこれは、しるしです。まさに偉大なる業を行った主イエス。そしてその主イエスを、ペトロの話を聞いている人々は知っているのです。

ここで「神から遣わされた方」の「遣わされた」と訳されている言葉は、「本物であることを証明する」とか「本物であるという証明書を持たせて派遣する」という意味の言葉です。つまり「ナザレの人イエス」、主イエスは、わけの分からない所から来られたのではない。人間に理解できないような所から、超人的な仕方で来られたのではないと言うのです。主イエスは、確かに神様から、正真正銘の神様から派遣された方であるという事を、ペトロはこの言葉を用いてはっきりと語るのです。なぜそんな必要があるのでしょうか。なぜその事をはっきりさせなければならないのでしょうか。それは続く23節を読めばわかるのです。

このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。(23節)

「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」他ならぬあなたがたが、このイエスを、十字架につけて殺してしまったのだと、
その罪を断罪するためであったのです。神様のもとから来られた方を、あなたがたは殺してしまった。人を殺してしまったというだけではないのです。他ならぬ神様のもとから来られた方を殺してしまった。わたしたちはおののくしかないのです。わたしたちは驚き恐れるしかない。神の一人子が殺されたのだというのです。

以前、ちょうど一年くらい前だと思いますが、三浦綾子の塩狩峠の一節を紹介しました。あの中で主人公が「あなたがイエスを殺したのですよ」と言われて即座に「そんなことをしたおぼえはありません」と打ち消す場面があると言いました。この小説では、後に主人公が、自分こそがイエスを十字架につけたのだと告白ができるようになる。そのことが、主人公の信仰の大きな転換点となるのですが、キリスト者にとって、自分こそが、主イエスを十字架につけたものであると告白することはとても大切な事なのです。

使徒言行録のこの部分では、ペトロはユダヤ人に語っています。ですから主イエスを十字架につけたのは、ユダヤ人であって、自分たちではないと思いがちなのです。いやキリスト教信仰では、大変大切なところであるから、自分は罪深い、主イエスを十字架にかけたのは、この私です。わたしは本当に罪深い者なのです、と言うことも出来るかも知れません。しかし、本当に、この手で、まさに自分自身の手で、主イエスを殺したことを知り、告白することができる人がどれだけいるでありましょうか。わたしたち自身が、あなたがた自身が、手をかけたのであります。わたしたちが何をしようとも取り返しはつかないのです。わたしたちが、いかにその罪をつぐなおうとしても、決して、絶対に、その罪がなくなることはあり得ないのです。いったいわたしたちはどうすれば良いのか、いったいわたしたちはどうなってしまうのか。ペトロの断罪の言葉はまっすぐです。ペトロの罪の宣告の刃には一点の曇りもないのです。

しかしペトロはこうも言っています。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのです」。これしかなかったのです。私たちが救われるためには、預言者ヨエルの「主の名を呼び求める者は皆、救われる」との神様のご計画が成就するためには、それしかなかったのです。いや、それしかないほど、わたしたちの罪は重いというべきでしょう。罪深い、私たちのために、神様はただ一つの救いの道を用意して下さった。それこそが、神の一人子が十字架にかかる、しかも私たちの手で、殺されるという恐ろしいご計画だったのす。

ペトロの断罪は厳しいですが、何よりも、その厳しさは、自分自身の罪深さを、主を3度も否んだ、3回もイエスなど知らないと言い放った、ペトロ本人が、自分の罪の恐ろしさを知っていたからではないでしょうか。主イエスは私たちの罪のゆえに十字架にかかられた。私たち自身が、十字架にかけて殺したのだ、その事実を、ペトロ自身思い知っていますし、私たちも思い知るべきなのです。

しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。(24節)

しかし神様は、この主イエスを、甦らされました。復活させられたのです。主イエスが死に支配されたままでおられるなどということはありえなかったからだとペトロは言います。それに続けてペトロはダビデの詩編を通して、この事実を語ろうとします。この詩編については、今日あわせ読みましたが、これは次回、新約聖書の御言葉と一緒に読むことになります。今日ここでは、ペトロが語る24節の言葉を深く味わいたいのです。

神の一人子を死が支配するなどということはあり得ません。神様は主イエスを死の苦しみから解放したとペトロは言います。ある注解者はこの「苦しみ」という言葉は、むしろ「産みの苦しみ」「出産の時の苦しみ」を意味する言葉であることを強調しています。

そうなのです。まずわたしたちは、主の御苦しみを、絶えることの出来ない、人間がこうむることのできる、最も激しい痛み、最も苦しい苦しみであったことを、福音書の中の受難の記事を通して読んでまいりました。何故、主はお苦しみにならねばならないのか。何故、主は、本当は神から呪われたものがかからなければならない、十字架の上の死をこうむらねばならないのか。それは、本当は私たちが負うべきであったものを、代わりに担って下さったのです。私たちの代わりに、神様の激しい怒りを、神様の呪いを、担って下さったのです。本当なら、私たちが!ということを忘れてはならないのです。そしてそのお苦しみこそが、私たちの救いの道を開く、唯一の方法であったこと、他には道がなかったこと、繰り返して申しますが、他にはないのです。私たちが救われるためには、十字架にかかられた主イエスを通してしか考えられないのです。

これは産みの苦しみです。何とかして私たちの救いの道を残そうとされる、神様のご計画の産みの苦しみです。わたしたちは、これを軽々しく扱ってはならないのです。本当なら私たちが、本当なら私たちが、という思いを、決して忘れてはならないのであります。
そしてそのことが分かったとき、いかに大きなことを、いかに恵みに満ちあふれた業を、神様が、主イエスがなしてくださったかをわたしたちは知るのです。

ペトロの説教はまだ続きます。わたしたちは礼拝ごとにそれを読み進めています。ペトロの説教は、まずナザレの人イエスが神から遣わされた方であることを明らかにして、わたしたちの目を神様に向けました。そしてペトロはわたしたちの目をさらに神様の御業へと向かわせます。このイエスが、ただ神様から派遣された任務を負った人ではなく、神様の一人子であること、わたしたちのただおひとりの救い主であることこそ、ペトロが、これから目指そうとしている事なのです。この方はメシアであると、ペトロが指し示すとき、聞く者は、それに心打たれ、わたしたちはどうすればよいのですかと問いかけるのです。

ペトロの説教が目指しているのは、私たちが答えることです。私たちはどうすればよいのですかと、他ならぬ自分自身のこととして、私たちの人生の大問題として、キリストの出来事を捕らえることなのです。わたしたちはキリストということについて慣れっこになってしまっていることはないでしょうか。そうではない。それはわたしたちの生き死ににかかわる問題なのです。わたしたちの生き死ににかかわるお方なのです。
(楠原博行:2005年6月19日主日礼拝説教より)

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2005/06/05

主の名を呼び求める者

使徒言行録 第2章17-21節

 「立ち上がる。」それはどういうときでありましょうか。何かをしようとするときです。
まわりに人がいるのです。自分ひとりだけではないのです。しかもまわりにいる人は、
いつも自分の味方ではありません。まわりにいる人は、いつも自分を助けてはくれないのです。しかし立ち上がらなければならないのです。今、立ち上がって、仕事を始めなければならないのです。話を聞きたいと、耳を傾けてくれる人々がいます。しかしまた、目の前には自分をあざけるものがいます。最初から耳を閉ざして、相手をおとしめることによって、無視しようとする人たちです。その様な中でペトロは立ち上がりました。始めなければならない。御言葉を語らなければならないのです。ペトロは立ち上がらなければならないのです。しかしペトロのそばには十一人の使徒たちが共におります。そして何よりも、自分の力で、自分だけの力で立ち上がらなければならないのではないのです。神様が、主なる神様が立ち上がらせてくださる。信仰があるからです。神様を信じているからです。もう自分の力だけで生きていこうというのではないのです。弱い人間。くずおれてしまうようなもろい人間。これをも神様は助けてくださる。立ち上がらせてくださる。そしてしなければならないこと。神様の仕事に携わることをなさせてくださるのです。ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めるのです。知ってもらいたいことがある。聞いて欲しいことがあると声を張り上げて言うのです。
 聖霊が、間違いなくペトロの中で働いています。ペトロを立ち上がらせ、語らせているのは聖霊なのです。わたしたちは忘れてはなりません。聖霊が確かに、主イエスの弟子たちの中に、すなわち教会の中で働いている事を。わたしたちは、その教会の中に確かにいます。何よりも、この主の日、教会に集う私たちには、そのことがよくわかる。心から実感できるはずなのです。わたしたちの力ではないのです。わたしたちの側にはそれはないのです。もし自分の力に頼るなら、わたしたちはつぶされてしまうでしょう。そのような力弱い存在であるからです。しかし、教会の中に、信ずる者の中には、聖霊が確かに働いている。わたしたちが信仰を持ち続けることができるのは、何よりも聖霊の働きなのです。
 ペトロは語ります。「知っていただきたいことがある。」聖霊が降りました。キリストの弟子たちが、さまざまな国の言葉でみ言葉を語るのです。それは驚くべき出来事である。奇跡的な出来事である。しかしただ驚くだけで済ましてしまってはならない。驚き怪しむだけで終わってはならないのです。それは他ならぬ私たちに関わることである。私たちの救いに関わる出来事である。そうペトロは言いたいのです。
 ペトロは預言者ヨエルの言葉を引用します。旧約聖書の中に記される預言者ヨエルの言葉を語るのです。聞く者がその言葉と何の関わりがあるのか。聞く者がその言葉をどう理解すればよいのか。そして聞く者がその言葉によってどう変えられるのかを語るのです。
まさに説教なのです。

 預言者ヨエルが生きた時代、それは紀元前5世紀、あるいは4世紀初頭であったと言わ
れています。ヨエル書は全部で4章。それほど長いものではありません。通してお読みになるのも良いと思います。そこではいなごによる農作物の被害が最初に語られます。食べるものがなくなるのです。人々が飢えるのです。そして終わりの日、主の日が来ます。
その中でこの書物は何よりも人々に悔い改めを求めます。「わたしに立ち帰れ」、「主に立ち帰れ」との言葉が繰り返しかけられるのです。呼びかけがあります。「民を呼び集め」、「長老を集合させ」、祭司に「主よ、あなたの民を憐れんでください」と言うように命じるのです。そして、主なる神様が自分の国を強く愛して、その民を深く憐れまれたことが告げられます。その中で、語られるのが、使徒言行録に記されます、ペトロが用いた一節です。新共同訳聖書では、旧約聖書のヨエル書3章1-5節です。

旧約聖書と新約聖書とを読み比べて見ると、ペトロが、旧約の中のこの預言の言葉を、どう解釈し、どう人々に語ろうとしたかが、よくわかります。

『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。(使徒2:17-18)

 旧約聖書の中でヨエルは「その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」とだけ言っているのです。ペトロはここに「神は言われる」と付け加え、ヨエルの口を通して神様が語られることを示します。「その後」とはいつなのか、それを「終わりの時に」と言い換えて、それは神様の救いのみ業の完成の時のことである。その最初に起こる出来事であると、はっきり告げ知らせようとします。
 ヨエルはまた「わたしは 奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」と言いますが、「奴隷」との言葉も、ペトロは神様の奴隷のことである、すなわち神のしもべのことであると説明するために、「わたしの僕やはしため」と「わたしを」を書き加え、さらに「わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」と、このヨエルの預言の中に、はっきりと、ペンテコステの出来事、聖霊が降り、さまざまな国の言葉で、弟子たちが語った出来事が記されているではないかと説明するのです。
 このようにペトロは、聖書の御言葉を語り、そして、それがいかなる意味を持つのか。いや今自分たちの目の前で起こっているこの出来事が、すなわち、神様があらかじめ聖書の中ではっきりと語っておられることであることを、力強くあかししているのです。

上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。(使徒2:19-20)

 ヨエルは「天と地に、しるしを示す。」と言うだけですが、ペトロは「上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。」と述べて、「天の不思議な業」と、「地の徴」とを並べて正確に語るのです。今や教会がなり、自分たちの中だけではない、外の世界、外国の国々、キリストを知らない世界を前にする時、このことははっきりと示されなければなりませんでした。聖書の出来事は、なにか神秘的なもの、人間とかけ離れたところで起こることではないのです。奇跡的な、驚くべき事が、人間とはぜんぜん関係ないところで起こっている、そんなものではありません。それは地に対して、すなわち人間のいるところに、わたしたち人間が生きているところに神様が働いている。神様が人間に対してそのみ業を示されている。わたしたち人間に直接関わってくることなのです。
 「上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。」
新約聖書の中に度々現れる終わりの時の様子は、読む者を恐れさせるかもしれません。
しかし、終わりの時、それは、主イエスが、再び来られるときです。それは審きのときとも言われます。私たちは恐ろしくなるかもしれません。しかしキリストを信じる者には、主イエスというお方が、わたしたちを弁護して下さる方として与えられているのです。
罪深いわたしたちは、そのままでは神様の前に立つことは出来ません。しかし、神様と私たちの間に、主イエスが、キリストが立って、取りなしてくださるのです。ですから、キリスト者にとって、終わりの時は恐れおののく時ではありません。むしろ、待ち望んで良いときなのです。そしてそのことが、最後の一節

主の名を呼び求める者は皆、救われる。(使徒2:21)

に深く関わって参ります。ペトロが語るヨエルの言葉の中のこの一節はとても大切なことばなのです。「主の名を呼び求める」「呼ぶ」という言葉は「名前」という言葉と密接に関わる言葉であって、「神様に訴える」「キリストに訴える」「祈りの中で神様のおなまえを、キリストのおなまえを呼ぶ」という意味で用いられる言葉です。旧約聖書の時代から、用いられる言い方ですが、この言葉はまた特に使徒言行録の中に多く見ることが出来るのです。ただ「呼ぶ」というのではない。神様に、救い主に祈り願う。しかも誰が神様であり、誰が救い主であるかがはっきりされなければならない。そういう言葉であるのです。

 ここでペンテコステの聖霊が降る出来事から終わりの時までに、「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と宣言されるのです。このことは、この後の38節のペトロの呼びかけにも深く関わって参ります。37節で、ペトロの説教を聞いた人々が、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問うのです。すると、ペトロは彼らに答えます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

 ペトロは聖霊が降る出来事を見て集まってきた人々、いったいこれは何が起こったのかと問うた人々に向かって語り始めたのでありました。ですから、ペトロの説教の目的がここにあると言って良いのです。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」とペトロが語り、そして人々は「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問うのです。そしてペトロは答えます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」まさに私たちも知っている教会の姿がここに示されているのです。ペトロの説教は、ペンテコステの出来事を、神様の救いのみ業を告げるものでした。しかしそれが、直接、聞く者ひとりひとりの救いの問題に関わってくるのです。聞く者自分自身の信仰の問題なのであります。
 「主の名を呼び求める者は皆、救われる」だから、わたしたちは...
 「主の名を呼び求める者は皆、救われる」だから、あなたがたは...
ペトロの口を通して、語られるとき、神の言葉が、わたしたちに直接関わってくるのです。神の言葉が、みなさんを変えようとするのです。神の言葉が、みなさんの人生、生活の中に、入り込んでくるのです。そして神の言葉が、わたしたちの拠り所となり、支えとなり、
慰めとなるのです。
 ペトロの口を通して、キリストの出来事と結びつけられたとき、この言葉は、わたしたちにはっきりと問いかけます。あなたの救い主は誰か、キリストではないか。主イエス・キリストを求めている者は、受け入れなさい。キリストを信じる者は、救いの約束を受け、救いの保証を持ちなさいと。
 ある注解者のことばがあります。「たくさんの人間が惨めさの中に、悲しみの深さに覆い尽くされてしまっても、その前に、そこから逃れる道が、まだ与えられているのです。わたしたちは『皆、すべてのもの』と言う言葉をその中に見つけることが出来るのです。神様は例外なく、すなわちすべての者を、救いへと招いておられるのです...だから神様を求めることを妨げられる者は誰もいないし、救いの門はすべてのものに対して開かれています。何者も、わたしたちがそこから入ることを妨げる者はいません。もしあるとすれば、それは私たちの不信仰、私たちが信じないということなのです。福音によって、神様がみずからをお顕しになったのは、すべてのものに対してなのです。救いは私たちが神様の名を呼びもとめることにより確かなものとなるのです...そして呼びもとめるということは、何よりもわたしたちの信仰によるのです。私たちはキリストを通して祈り願うことができるのです。ヨハネによる福音書16:24の言葉の通りです。『今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。』」

 預言者ヨエルの書は、ぺトロの引用した部分の後、敵対する者たちに対する、裁きの言葉が続きます。そして最後に、誰が神であるかを知るといって閉じられるのです。ペトロが語ることも全く同じなのです。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」、「わたしたちはどうしたらよいのか」、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
(楠原博行:2005.06.05主日礼拝説教より)

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2005/05/08

主の復活の証人

使徒言行録 第1章12-26節
 主イエスが天に昇られる前、弟子たちにお命じになりました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」エルサレムを離れてはいけない。父が約束されたもの、聖霊を待ちなさいとおっしゃったのでした。まだ弟子たちは派遣されません。「待ちなさい。」これが命令です。復活の主イエスと出会った。主イエスが十字架において苦しまれた、しかし復活されたことを経験しただけではだめだとおっしゃったのです。あのエマオへ向かっていた弟子たちのように「心が燃えた」だけではだめだとおっしゃったのでした。父なる神様が約束されたもの。助け主、聖霊が送られる。それを待たなければならない、そうでなければならないのだと、主イエスはおっしゃったのでした。
 なぜ主と出会った感動。主と出会って心が燃えただけではだめなのだ。それこそがわたしの原動力、力になっているのに。そうおっしゃる方もあるかもしれないと申し上げました。しかし、「待ちなさい。」これが主イエスのご命令なのです。人間の力だけではだめなのです。そしてそのことは、主イエスを信じる信仰においてさえも同じなのです。

パウロは手紙の中で言っています。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです(1コリ12)。」と。信仰とは、信じるということは、人間の側の問題であると考えがちです。しかし、そうではないのです。聖霊による助けがなければ、信仰者は立ちゆかないのです。しかし力弱い不完全な人間を補うため、助け手としての聖霊があるというのではありません。助け主、聖霊を信ずる、わたしたちの主イエスを信じる、父なる神様を信ずる、その根っこにこそ、聖霊の働きがあるのです。

今日わたしたちに与えられました聖書の個所は、聖霊が降る出来事、ペンテコステの出来事のすぐ前のところです。「待ちなさい」と命じられた弟子たちの姿が記されているのです。ルカによる福音書から使徒言行録へと読み続けますとき、弟子たちの変化をはっきりと見ることができるのです。

 使徒言行録は、ルカによる福音書で記されていたように、主イエスと出会った人々の、今度は主イエスの弟子となった人々の歩みなのでした。かつてはバラバラであった弟子たち。主イエスの12人の弟子たちとよばれますが、実際は、誰がいちばん偉いかの争い、牢獄へまでも共に参りますと言い切ったペトロ、主の復活を信ずることのできないトマス。さまざまな出来事を通して、弟子たちの姿が読みとれます。それぞれの思い、それぞれの行動が、なぜひとつへと向かっていったのか、なぜ、父の約束されたものを待ち、共に祈る姿へと変えられたのか、それは、キリストの復活を通してとしか言いようがないのです。

 それぞれの思いで動いていた弟子たちがひとつとなった。「主の復活の証人」としての歩みを始めるには、個々の弟子たちの力や、資質といったものは関係なかったのです。むしろそういったものが打ち壊されて、本当の信仰、イエス・キリストこそ、まことの主、まことの救い主という確信があって、はじめて可能となったと言えるのではないでしょうか。

「待ちなさい。」と命じられた通りに弟子たちは待ちました。そして主は天に昇られました。行動が先に出るペトロの姿はもうありません。イエスの言葉に疑いまどう弟子たちの姿もありません。

 使徒言行録は、続いて、エルサレムに戻った弟子たちの姿を描きます。12人の弟子たちが泊まっていた家の上の部屋に集まって熱心に祈るのです。バラバラに、それぞれの思いで行動していた弟子たちがひとつになるのです。わたしたちはそこに大きな変化を見ることができ