2007/12/28

光は暗闇の中で輝いている

2007年12月24日に行われた、燭火礼拝の録音です。
   ヨハネによる福音書 第1章9-14節
  「光は暗闇の中で輝いている」 楠原博行牧師
  

Krippe

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2006/01/07

ケルンの町と3人の博士(クリスマス特集)

ドイツのケルンと言えば、大聖堂と答える人が多いのではないでしょうか。実際ドイツ鉄道のケルンKoelnerDom中央駅を降り立つと、ドイツの町ではめずらしく駅の目の前、左手すぐ奥にその大聖堂がそびえています。正式名称ザンクト・ペーター・ウント・マリア教会(聖ペテロとマリア教会)ですが、ドイツでもケルナー・ドム、ケルン大聖堂で通っています。

ケルン大聖堂  

その歴史はローマ時代にまでさかのぼります。かつてはローマの神殿であったのが、ローマ帝国のキリスト教化によって、キリスト教会に改められ、後にアルテ・ドム、旧大聖堂となります。現在の建物の建築は1248年からはじめられ、本来の建築計画が完成したのは1842年から1880年といいますから、600年以上に及ぶ大建築だったのです。ケルン大聖堂はドイツ最大のゴシック様式教会で、1996年にユネスコ世界遺産に指定されました。内部はキリスト教美術の宝庫ですが、ヨーロッパ最古の彫刻のひとつとされるゲロー・クロイツや、特にハイリゲ・ドライ・ケーニゲ・シュラインが有名です。この金色の美しい箱には、お生まれになったばかりの主イエスを訪れた、3人の王様の遺骨がおさめられていると伝えられているのです。
 その遺骨は皇帝ヘレナによってパレスチナからコンスタンチノープルへともたらされ、4世紀の終わりに、その子、コンスタンチン1世によりミラノへ贈られました。それが再発見されるのはようやく1158年になってからのことで、納められた遺骨についての記述があるのです。その外見はまったく損なわれておらず、15歳、30歳、そして60歳くらいの3人の男性の遺骨であると言うのです。1162年、ドイツ皇帝バルバロッサはミラノに攻め込み、1164年には自分の国の宰相でもある、ケルン大司教ラインハルト・フォン・ダッセルへの贈り物として、ケルンへこの遺骨をもたらしたのです。以後ケルンの町は巡礼地として有名になります。ケルンの町の紋章の上部には三つの王冠が記されているゆえんです。

KoelnerDom2大聖堂内部。奥のガラスケースの中にハイリゲ・ドライケーニゲ・シュラインがある。

3王とはいったい何者だったのでしょうか。マタイによる福音書は「占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て」と記すのみで、人数も、また王様についても言っていません。その人数が3人となったのは、黄金、乳香、没薬という贈り物の数から来ていると言われますが、それがさらにカスパール、メルキオール、バルタザールの3王となったのは6世紀になってからだと言います。彼らはペルシャの占星術学者であったとも言いますし、あるいはシリアの祭司たちであったとも言われます。何よりもケルンの遺骨と共にあった布が、2000年前のシリアのパルミラという町の墓地で見つかった布地と一致したというのです。祭司たちにとって、世界で新しい王の誕生というのは興味ある問題でした。パルミラの町のそばには山があり、ここで天体観測が行われ、エルサレムへらくだで駆けつけたとしても、何も矛盾しないというのです。いずれにせよケルンの町が伝える3王の物語とはずいぶん違うのです。

毎年1月6日は顕現日と呼ばれ、国によっては祝日になっていますが、この日に3王が主イエスのもとを訪問したとされています。ドイツでは毎年この日になると、カトリック教会の子供達が3王に扮して家々を回ります。星を掲げて歌を歌うことからシュテルンジンガー(星の歌い手たち)と呼ばれ王様の服装をし、王冠をかぶり、顔を黒く塗る子はアラビアの王様の役目です。募金活動でもあるのですが、家々では子供達に果物やお菓子のプレゼントを用意して待っています。彼らは最後に家の門柱に「20C+M+B06」とチョークで書いて帰って行きますが、それは、カスパール、メルキオール、バルタザールという3人の王様の頭文字であり、またChristus Mansionem Benedicat(クリストス・マンジオーネム・ベネディカート)というラテン語の言葉で、2006年の年に主キリストがこの家を祝福しますようにという意味なのです。

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2005/12/31

神に栄光、地に平和

ルカによる福音書第2章8-21節

静かな夜 聖なる夜!以前にもお話ししました。わたしたちの主イエスがお生まれになった夜のことを。日中はにぎわっていた町の中で、ただひとつ眠らないでいるのはヨセフとマリア、ただ一組の夫婦だけでした。ヨセフとマリア、今、ふたりは家畜小屋の中にいます。そして生まれたばかりの赤ちゃん。わたしたちの主イエスは飼い葉桶に寝かされています。聖書にははっきりと、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と書いてあるのです。
 しかしまた同じ、寝静まった町からは少し離れたところ、野において羊の番をしている人々がいたのです。おそらく夜の間、羊たちと過ごす場所があったのだろうと思われます。交替ごうたいで起きては、外敵から、あるいは羊を傷つける獣から、羊たちを守るのです。
 では、どうして羊飼いたちに最初にイエス様が生まれたことが告げられたのでしょうか。それは羊飼いたちが、もっとも貧しい、町の人々からもうとまれている人たちであったから、神様はこの人たちを、羊飼いたちを選んだのだと説明する人がいますが、わたしはそうではないと思います。またイエス様の祖先であるとされるダビデ王が、また羊飼いであったからだとも言われます。わたしにはむしろそちらの方が正しく思えるのです。
 しかしいずれにせよ、羊飼いたちは野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていたのです。何か特別なことをしていたわけではありません。何かだいそれたことを望んでいた人々でもなければ、何か、神様にとって特別な人々ではなかったろうと思います。
 ただ静かな夜、暗い夜、寂しい夜に、いつものように、毎晩のように、静かに仲間たちと羊の番をしていたのです。羊飼いたちが何を思っていたかはわかりません。寝ずの番をするという、日々の仕事のことを思っていたかも知れません。あるいは家族のこと、日々の生活のことを思いやっていたかも知れません。しかしそこに突然光が差したと言います。主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたと言うのです。ほんの今さっきまで、いつもの夜、暗闇であった、しかしそこに目をくらませるような光が照らしたのです。
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 (ルカによる福音書第2章9節)
羊飼い達は非常に恐れたと言うのです。もともとのギリシャ語では、羊飼いたちは「大きな恐れをもって恐れた」と書いてあります。なぜ恐れるのでしょうか。なぜ恐がるのでしょうか。いや実際恐いと思います。
自分たちのふつうの生活。いつもの生活に、突然、神様の知らせが飛び込んできたのですから、恐くて当たり前だと思うのです。
 主の栄光が周りを照らしたので、人間が恐れる。それはなぜでしょうか。すべてを照らすからだと言われます。わたしたちのすべてが明らかになってしまう。良いところも、悪いところも照らし出されてしまう。
人間にはいろいろな部分があると思うのです。人の前に出して、もっと見て欲しい。もっと理解して欲しい。もっとほめて欲しい部分。そして放っておいて欲しい部分もあります。見られてしまうんだからしょうがない。でも他の人には触れないでいて欲しい。そうっとしておいて欲しい部分。
そしてまた決して人には見られたくない部分もあるはずです。自分のものだとは思いたくない、そんな部分です。
 しかし神様の光を受けてしまえば、それらすべてが、神様の前に明らかになってしまう。恐れるしかない。恐くてあたりまえです。しかし天使は何と言ったでしょうか。
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。(同10節)
 いつもの生活の中で過ごしていた羊飼いたちに、突然神様からの光が差し込んだ。
羊飼いたちは「大きな恐れをもって恐れた。」そして天使は同じ言葉で言うのです。「恐れるな!」そして続けます。わたしは「大きな喜び」を告げる。もともとのギリシャ語ではわたしは「大きな喜びを、喜びのおとずれをもって告げる」と書いてあります。まわりくどい言い方でしょうか。
神の栄光が輝く時、人間の側では、大きな恐れに、恐れるしかない。しかし神様が天使を通して告げるのは、「恐れるな!」のひとことである。そして神様がわたしたちにもたらすのは、「大きな喜びの喜び!」
どんなためらいも、どんなとまどいも、どんなさびしさも、どんな悲しみも、どんな恐れも、どんな恐怖も、たとえ死の恐れも、たとえ死そのものに対しても、喜びがある。
神様が、今、この時、クリスマスの中に告げるのは、「恐れるな!わたしは大いなる喜びを、喜びの言葉をもって告げる」というお言葉なのです。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
          (同11-14節)
今日ダビデの町、ベツレヘムに、わたしたちの救い主がお生まれになったこと、これこそがどんなとまどいも、悲しさも、恐れをも吹き飛ばす、大いなる、大いなる喜びであると言うのです。天使の歌が響きます。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
 平和とはただ争いがないというだけではありません。わたしたちの考えも及ばないような、平安、静けさ、穏やかさ。
わたしたちの心を騒がすようなものがないことです。たとえどんなことがあろうともわたしたちはぐらつくことがない。それはわたしたちがひとりではないからです。
主イエスはわたしたちのそばにおられるのです。羊飼い達が見た救い主は小さな赤ちゃんだった。もっとも小さいところから、もっとも低いところから、わたしたちを支えて下さる方、そのお方が今日お生まれになったとの天使の歌声なのです。
(楠原博行:2005年12月24日クリスマス燭火礼拝説教より)

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2005/11/27

見よ、あなたの王が来る

マタイによる福音書 第21章1-9節

 ほかの誰でもありません。あなたの王があなたのもとにおいでになるのです。キリストがおいでになる。しかもそれがわたしたちにおいて起こる。まさにアドベントの季節がやって来たのです。
 マタイによる福音書の中、主イエスがエルサレムにご入城になるところは、一年に二度、棕櫚の日曜日と、今日、アドベントの最初の主日に、伝統的に教会の中で読まれてきたところです。しかし伝統によらずとも、アドベントに主イエスのエルサレム入城が読まれることは、わたしたちひとりひとりにとりましても意味があることなのです。アドベントとはラテン語で、到着、主がこの世においでになることを意味します。アドベントを迎える最初の主日に、主イエスをどのようにお迎えすることができるのか、みなさんといっしょに読み、味わいたいと思うのです。そしてわたしたちの心を、主のご到来に備えたいのです。

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(マタイによる福音書第21章1-7節)

 主イエスはろばを連れてくるようにと弟子たちにお命じになりました。主に召し出されるろば。『主がお入り用なのです』との言葉に、多くのキリスト者が励まされ、押し出されたのではないでしょうか。御言葉どおりに弟子たちはしました。それは「預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」とマタイは言います。
 「見よ、あなたの王が来る」とはゼカリヤ書9章9節の言葉です。マタイはここで「わたしたちの王は柔和な方である」というところをまん中にすえました。イスラエルの人々は、出エジプトという、ひとつの大きな自分たちのまさに信仰のルーツと呼ぶべき出来事を祝おうとして、過ぎ越しの祭りのために、大勢してエルサレムに集まってきたのです。自分たちを救ってくださる方を、力で、武力で解放してくれる救い主を待ち望んでいたのです。しかしそうではなかった。そうではなくて、柔和なお方を、ろばに乗っていらっしゃった主イエスを、自分たちの王として迎えたのでした。

大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(同8、9節)

 ホサナとは詩篇118編25節の「どうか助けてください」という意味の言葉です。人生の中で、生活の中で、自分自身の本当の救い主、主イエスを見出したのです。そして「助けて下さい」と声をかけるのです。
そしてその王様は「柔和」なお方であった。
「柔和」とは、多くの主イエスを描いた絵画に見るように、主イエスがやさしいとか、静かであるとかいう言葉ではありません。「主がわたしたちの悩みを聞いてくださる」、そういうときの「悩み」、「苦しみ」という意味で、聖書には何度も出てくる言葉なのです。祈祷会で読んでおります、創世記の族長物語でもヤコブやヨセフが使います(31:42, 41:52)。ヨブ記でも、詩篇でも、繰り返し、「悩み」、「貧しさ」、「苦しみ」という意味で出てくる言葉です。
 ある説教者は言いました。「柔和である」というこの言葉は、「決して上から下を見下して、気前が良いとか、周りに対してやさしいとか言う意味では決してなく、ご自身がいつも、もっとも深いところ、苦しみの中、貧しさの中、無力なところにおられるということであり。柔和な方であるということは、貧しいもの、みじめなもの、もっとも小さいもの、もう自分ではどうすることもできないもののことと同じである...主であり、王であるこの人が、ご自身で、絶望しているもの、貧しいもの、小さいものたちのいる、どん底に入って、王様らしい姿、ふるまいを脱ぎ捨て、僕の姿を取られたのである。しかしそれでもなお、王様である。」
 喜びの季節と誰もが口にし、キリスト教をまったく知らない人まで、楽しみ祝うクリスマスの季節です。町の中は、信仰とは関係なくても、楽しく明るく飾り立てられているのです。しかし悩んでいる人がいる。愛する人を失った人がいる。人生の、日常生活の中で苦しんでいる人がいる。病気やさまざまな事情で、体が思い通りにならない人がいる。それは決して無条件で「楽しいうれしいクリスマス」というわけにはいかなかいでしょう。いったいどういうクリスマスだというのでしょうか。「見よ、あなたの王が来る」とは、わたしたちの王様である方は、絶望するもの、いわば人生のどん底にある者のところにも来てくださるという事なのです。いやむしろ神様以外には、何も、誰も、助けてはくれない人のところにこそ主イエスは来てくださる。それが本当のクリスマスだ。そしてそれを心から待ち望む、それがアドベントだと言うことなのです。
 マタイが取り上げた預言者ゼカリヤの言葉は、わたしたち教会に語られた言葉です。たとえどのようなみじめさを経験しても、あなたは決して見捨てられることはないのです。神様の教会はもう決して「かしら」なしではありえない、教会の「かしら」である主イエスが与えられる、おいでになるのだと告げるのです。
 アドベント、主イエスがおいでになる、そしてそれが、ほかならぬ、わたしたちのところへおいでになる。わたしたちにそれを信じ、告白し、そのことを、この時期を、心に刻みながら過ごしたいと思います。
(楠原博行:2005年11月27日主日礼拝説教より)

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2005/01/02

隣人として (ハイデルベルク信仰問答第40主日 問105-107)

第6戒「汝、殺すなかれ。 マタイによる福音書5章21-26節
 ただいま出エジプト記20章に記されております十戒のことばが読まれました。出エジプト記20章はモーセが主なる神様から十戒のことばを直接受け取る場面が描かれているのです。わたしたちは十戒の十の戒めをひとつひとつ味わって参りました。第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」からはじまり、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」までは神様とわたしたちとの関係が戒められています。そして続く「あなたの父母を敬え。」からは、わたしたちが同じ人間に対して、隣人に対してどうあるべきかが戒められる、二枚目の石版に入っているのです。今日わたしたちに与えられた戒めは「殺してはならない」なのです。
 「殺してはならない。」人間を、わたしたちの隣人を殺してはならないことです。人殺しということについて、わたしたちは遠いところにいるでしょうか。あるユダヤ人の話があるのです。第二次世界大戦のとき、ドイツの強制収容所に入れられていたのです。彼は命を失う前に、連合軍に解放されました。しかし同時に、強制収容所の司令官が逃亡してしまったのでした。何年もの間、彼は戦争犯罪者のリストに載り、戦後、逃亡したそのような戦争犯罪者を追うことを仕事とするユダヤ人たちもいたのです。そしてついに捕まったのです。そして強制収容所にいたユダヤ人が、40年もの後、この司令官に会ったのです。多くの友人たち、多くの親戚を殺し、そして自分をも殺そうとした、強制収容所の司令官です。突然このユダヤ人は泣き出したそうです。ようやくこの人が落ち着いたとき、ある人がなぜ泣き出したのかと尋ねたそうです。彼は驚くべき返事をしたそうです。それは捕らえられたドイツ人を見て、怒って泣いたのではなかったのでした。そうではなくて、このユダヤ人が、自分の心の中を見て、泣き出したのです。自分の心の奥底にある憎しみという深みを見た時、どれほど自分があの司令官のようであったかを思ったのです(G.I.ウィリアムソン, The Heidelberg Catechism A Study Guide 188頁)。「復讐するは我にあり。」「復讐はわたしのすること、わたしが報復する(ヘブライ10:30)」復讐は人間のすることではあり得ないという聖書の御言葉に、わたしたちはぶつからざるを得ないのです。
 しかしただ人殺し、殺人という罪を犯してはならないということだけではないとは、主イエスがすでに、さきほど一緒に読まれましたマタイによる福音書5章21節以下でおっしゃっていることでもあるのです。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイによる福音書5章21-26節)
 「殺すな」ではない。「殺すな」では足りない。腹を立ててもいけない。「ばか」とも「愚か者」とも言ってはならない。そのようなものは、裁きを、火の地獄を覚悟せねばならないというのです。厳しさというのでしょうか。わたしたちのハイデルベルク信仰問答もさらにくわしく、わたしたちの殺人の根っこということを言っています。問105では行いばかりでなく、思いや言葉、態度をもって、また他の人を通してでも、人をののしったり、憎んだり、侮辱しないようにと言っています。復讐心を起こすということは、むしろ自分を傷つけることであると言うのです。続く問い106と107には次のように記されています。
問106 それでは、この戒めは、単に殺すことについてのみ語っているのですか。
答 神様は、わたしたちに教えるために、殺人を禁じられました。すなわち、
ねたみ、憎しみ、怒り、そして復讐心は、殺人の根であり、神様は殺人の根を
憎むからです。そして、このすべては神様にとっては隠れた殺人だからです。
問107 わたしたちが、わたしたちの隣人を殺さなければ、この戒めを既に満たしていることになるのですか。
答 いいえ、違います。
 なぜなら神様は、ねたみ、憎しみ、怒りをおゆるしにならず、わたしたちが、隣人をわたしたち自身のように愛して、隣人に対しては忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情を示し、力の限りに隣人から恥をそらし、そして、わたしたちの敵にもまた、良いことをなす事を望んでおられるからです。
 殺人を禁じたのは、教育的な配慮であった。むしろ殺人の根っこを、隠れた殺人をこそ禁じようとされるのだ。すなわち、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心。これら隠れた殺人を神様は憎んでおられるのである。神様はわたしたちにこれら殺人の根っこをお許しにはならない。わたしたちは、わたしたちの隣人をわたしたち自身のように愛さなければならない。隣人に対して、忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情を示さなければならない。力の限りに隣人が恥を受けないように努力しなければならない。そしてそれはわたしたちの敵にも及ぶのである。
 神様は完全をお求めになると言われます。完全なのです。ねたみ、憎しみ、怒り。
そして忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情。多くの言葉があげられました。忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情。すばらしい言葉です。わたしたちはこれに向かって歩まなければならない、いつも念頭において生きていかなければならないと思わせる言葉です。
ねたみ、憎しみ、怒り。そして復讐心もあげられました。ねたみ、憎しみ、怒り。しかしこれらの言葉もわたしたちに決して遠くにはない言葉だともうのです。いやややもすると、ねたみ、憎しみ、怒りは強い、激しい思いとなって、わたしたちに迫ってくる。そして忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情。心惹かれる言葉であり、心を平和にする言葉ではありますが、ねたみ、憎しみ、怒りを乗り越えてしまうような大きな力をわたしたちの内で持ち得るのでしょうか。
 神様はわたしたちに完全をお求めになると言いました。しかしわたしたちは最初に紹介しましたユダヤ人の話のように、ぶつかってしまう。衝突しないではいられないのです。自分の心の奥底にあるものを見て、恐れおののいてしまう。涙を流さないではいられないのです。しかしだいたいどうして正月早々に「殺してはならない」なのか。どうして1月の2日から、わたしたちの心の奥底をさらけ出させようとするのか。もちろん4月からのハイデルベルク信仰問答をかたわらにおいての歩みがあります。今日はその40日目のところを、全体で52日、一年間かけて読むところの40日目にあたり、それは十戒の第6戒にあったているからにほかならないのです。しかしわたしたちはクリスマスの時期を過ごしました。改めて驚いたのは、クリスマス当日を過ぎると、町が、店先ががらっと変わってしまうことです。クリスマスの飾りが大急ぎで取り除かれて、今度は突然しめ縄などの正月の飾りが飾られ、売られる。とてつもないスピードでクリスマスが通り過ぎてしまって、正月に備え、飾られてしまう。しかしわたしたちの教会にはまだクリスマスツリーが飾られている。例年ではクリスマスが終わると片づけられるということでしたが、長老と相談をして、年明けの今日までは飾っておこうとしたのです。それは質素なクリスマスツリーで評判が良かったということもあるでしょうが、しかし改めて、クリスマスの心を考えると、まことにふさわしいことでもあったのです。
 1月6日。今年は今週の木曜日ですが、公現日、あるいは顕現日と言われる、祝日があるのです。カトリックの伝統が強いが、プロテスタントも覚えて祝います。以前住んでいた南ドイツ地方では、1月6日には、町中に仮装した子供たちの姿を見ることができます。お正月の仮装をするわけではありません。王様の服装をするのです。ひとりは顔を黒く塗った王様。3人の王様に一人が棒の先についた星を掲げて、家から家へと歌を歌って回るのです。そして家々の門に20+C+M+B+05と、新しい年の年号とラテン語でクリストス・マンジオーネム・ベネディカート、キリストがこの家を祝福してくださいますようにという言葉を書き記して回るのです。子供たちにはお礼におかしやくだものを用意し、教会への献金がわたされます。東方の3人の博士たちが、この日、主イエスを見つけ出した。この日、主イエスに、黄金、乳香、没薬の贈り物をした。その日を記念する祝日なのです。ベツレヘムの馬小屋に隠されるようにひっそりとお生まれになった主イエスが、今わたしたちの救い主として明らかにされたのです。全世界を代表とする3人の博士の前に、そのお姿を現されることによって、救い主が救い主として、私たちの前に明らかにされたのです。それはお正月が来ても過ぎ去ることはありません。
 なぜ神様は「殺すな」と言われるのか。それは生命を保つためです。神様が創造された生命。ご自身で創造された生命を守ろうとされている。殺すな。殺人の根っこである、ねたみ、憎しみ、怒りをやめよとおっしゃる。神様は完全をお求めになります。しかしその一人子主イエスをお送りくださった。わたしたちは主イエスにとりなしを求めます。そして「殺すな」という神様のみこころを行わせるために、わたしたちのもっとも近いところで、わたしたちを支え、導き、そしていついかなるときも助けてくださるのです。クリスマスツリーは今日で片づけてしまいますが、お正月という日本の祝日を超えて、今なおわたしたちには主イエスが必要なのです。教会ではクリスマスの出来事が過ぎ去ってしまうことはあり得ません。何よりも、主イエスがわたしたちにその姿を見せてくださったその季節に、わたしたちは改めて主イエスに助けを求めたいと思います。そしてそのお苦しみを思い、記念する聖餐にあずかりたいと思います。
(楠原博行:2005年1月2日 主日礼拝説教より)

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2005/01/01

味わい、見よ

詩編34編6-9節
「味わい、見よ、主の恵み深さを。」この御言葉はわたしたちが主日ごとに、みなさんといっしょに守っております礼拝において、その礼拝の一番最初に、礼拝の司式者が読みます招きの言葉において繰り返し読まれてきました御言葉なのです。「味わい、見よ、主の恵み深さを。」味わいなさい。見なさい。主なる神様の恵み深いことをと詩編第34編は歌っているのです。
 詩編第34編はその多くの詩編の中で、特別な詩編として知られています。それはその書き方が特別であるのです。わたしたちはいろはカルタというものを持っています。説明するまでもありません。い、ろ、はのそれぞれの文字を最初にして文を作り、カルタ遊びのことばに使っているのです。カルタの話をしましたのはお正月であるからではありません。詩編第34編は23節ありますが、その一節一節が、詩編、つまり旧約聖書が記されているヘブライ語のアルファベットのひとつひとつの文字ではじめられて一節一節の文が記されているのです。それは2節がアルファベットの最初の文字アレフ、英語で言えばA。3節がふたつめのベート、英語のB。そういうぐあいにABC順に、いってみればいろはの順番に一節いっせつが記されていて、今日わたしたちに与えられました6節はアルファベットのEだという具合なのです。いろはカルタがわかりやすくて、みなが楽しめるためにあるばかりではなく、文字やことばを覚えるためにありますように、やはりこの詩編がそのようにいろはカルタのように記されているのは、ことばを覚えるため、書くことを習うためであると言われます。また一節いっせつの言葉を指折り数えて覚えることができるのです。「味わい、見よ、主の恵み深さを」と神様に対する感謝の言葉が、一節いっせつ指折り数えて記されているのです。
 「主の恵み深さ。」美しい言葉です。ここではもともとの言葉はヘブライ語のトーブ。ふつう「良い」と訳される言葉です。英語で言うgoodなのです。「主の良さ。」この「良い」という言葉は旧約聖書の中ではかぎりなくくりかえし用いられ、いろいろな意味で用いられるのです。「良いものである。」「美しい。」「ここちよい。」「うれしい。」わたしたちにとって神様が「良い」とはどういうことでありましょうか。神様の良さを経験することができる、わたしたち自信が自分の体で知ることができるのです。神様の良さを、わたしたちの新共同訳聖書のように主なる神様の「恵み深さ」という形で知ることができる。わたしたちの生活を豊かに、幸せにしてくれる神様の物質的なたまもので知ることもできるのです。詩編34編は収穫感謝の詩編であると言われ、また収穫感謝の礼拝で読まれる箇所であるのです。
 また1節にダビデが命を救われた時とありますように、人が救われた。神様からの救いを経験して歌う詩編であるとも言われます。7節、8節にありますように、はっきりと詩編34編を歌う者は、神様からの救いを経験しているのです。「苦難から常に救ってくださった」、「守り助けてくださった」とはっきりと自分の救いを、自分の救いが神様から来ていること、ほかの誰でもない神様こそが自分を守ってくださったのだと言っているのです。
この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。(7節)
 そこでは自らを「貧しい人」であると言います。金銭的に富んでいるとか、貧しいと言うだけの意味ではありません。「助ける者がない人々」、「惨めな人々」、「抑圧された人々」、「低いところにいる人々」、「弱い人々」、「貧しい人々」。いやそればかりではありません。自分の助け手として、自分を必ず救い出してくださる方として、神様を信じている人々、神様を求める人々を指しているのです。8節で言葉を換えて言い換えられます。それは「主を畏れる人」のことです。自分を必ず救い出してくださる方として、敬虔に神様を求める人々を指してもいるのです。
 今日同時に読みましたマタイによる福音書の山上の説教からの主イエスの言葉。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
(マタイによる福音書第5章3-6節)」
 ここであげられる貧しい人々と同じであると言われます。主なる神様を畏れる人々。その人を助ける人が一人もないとしても、とても惨めな思いをしていても、抑圧されていても、自分が低いところにいるのではないか、どん底にいるのではないかと思えても、弱さにうちひしがれていても、物の、お金の、何であろうが貧しさの中に苦しんでいても、主イエスは「幸いなるかな」と祝福の声をかけてくださるのです。わたしたちは慰められる。もう天国に属し、それを受け継ぐ者となっている。飢えと渇きはかならず満たされるというのです。
 そうして救われた者、満たされた者、神様により頼んだ者の、感謝の歌が詩編34編であるのです。
主を仰ぎ見る人は光と輝き 辱めに顔を伏せることはない。
この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。
主の使いはその周りに陣を敷き 主を畏れる人を守り助けてくださった。
味わい、見よ、主の恵み深さを。 いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。(詩編第34編6-9節)
 わたしたちを救ってくださるただお一人の方として主なる神様を知る。そしてわたしたちは主なる神様を仰ぎ見るのです。わたしたちは光と輝く。喜びに輝くのです。辱めに顔を伏せることはないとは、わたしたちが礼拝し崇める呼び声が、かならず主なる神様によって聞かれるということです。そして決してわたしたちを見捨てることなく、助けてくださるということです。わたしたち貧しい人、まことの救い主として神様の方を向くわたしたち、たとえ苦しみの中にあろうとも、虐げられている中にあろうとも、悩みの中にあろうとも、貧しさの中にあろうとも、主なる神様は、その中から救ってくださる。いやもう救ってくださっている。わたしたちの周りに、主の御使いが陣を敷いている。主なる神様を畏れて崇めるわたしたちを助け出してくださっている。
味わい、見よ、主の恵み深さを。 いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。(同9節)
 主なる神様のわたしたちに良いことを、その恵み深さ。わたしたちにお与えてくださるもの。それによる喜び。それによる慰めを、味わってみなさいと言うのです。幸いなるかな。山上の説教の主イエスの言葉を思い起こします。いやギリシャ語に直せば、まったく同じ言葉が用いられるべきなのです。幸いなるかな。御もとに身を寄せる人は。幸いなるかな。主なる神様を信頼する者は。
 わたしたちは今日聖餐にあずかろうとしています。聖餐を通して主の恵みを味わおうとしているのです。わたしたちは聖餐のパンと杯がわたしたちに与えられるのをたしかに見ます。それはわたしたちの主イエスが、確かに、十字架において、主の身体がわたしたちのための犠牲として捧げられ、裂かれて、その御血潮がわたしたちのために流されたことを思い起こさせ、確信させるためです。
 そしてそれをわたしたちは、確かに手に受け取り、食べるのです。それは、確かに、主御自身が、わたしたちの魂のため、永遠の生命のために、主の十字架につけられたからだと、流された御血潮とを、わたしたちが食べ、飲むのだということを、思い起こし、確信するためであるのです。
 わたしたちは、信仰に満ちた心をもって、キリストの苦しみと、死を受け入れます。それによって、わたしたちは罪の赦しと永遠の生命とを受け取るのです。聖霊によって、主の聖なるからだと共にますますひとつとなります。わたしたちは、主のからだであるのです。
(楠原博行:2005年1月1日 木更津教会元旦聖餐礼拝説教より)

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2004/12/26

「愛の服従」(ハイデルベルク信仰問答 問104)

エフェソの信徒への手紙 第6章1-4節
 第5戒は「あなたの父母を敬え」です。当たり前の事だと、多くの方が思うでしょう。何もキリスト教に限って、特別にいうことではないかもしれません。自分の親を大切にする事、あるいは親族の年長者を敬うことは当然のこととして私たちは考えていると思います。 そこで、ハイデルベルク信仰問答の言葉に目を向けてみたいと思うのです。
問104 神様は第5戒において、何を求めておられますか。 答 わたしは、わたしの父、わたしの母、そして、わたしの上に立つすべての者に対して、一切の栄誉、愛、忠実を示すこと、そして、すべての良い教えと罰とを従順に受け入れ、また彼らの弱さ、過ちに対しても寛大であることを求めておられるのです。  なぜなら、神様は、わたしたちを、彼らの手を通して、支配することを望んでおられるからです。
 ハイデルベルク信仰問答 問104の言葉は、私たちが敬うべきものは、私たちの両親ばかりか「わたしの上に立つすべての者に対して」敬意を払うことを求めています。ここまで来ると、私たちの心の隅で一つの疑問が持ち上がってくると思うのです。
 神様が私たちをご支配なさることは理解できるのだが、なぜ直接ではなく目上の者の手を通してなのか。自分に横暴をふるう上司だっているし、両親といえども私たちと同じ人間だ、絶対に正しいとは言えないし、従えないこともあるじゃないか。「彼らの弱さ、過ちに対しても寛大であることを求めておられる」とあるけれども、本当にそうか。キリスト教の信仰を持たない両親や目上の者に対しても、敬意を払って従わなくてはならないのか。考えてみれば、ハイデルベルク信仰問答はキリスト教国である外国で編まれたものであって、キリスト者が人口の1%に満たない日本ではあてはまらないのではないか。
 もし、私たちの親子関係、あるいは社会の人間関係を単純に力関係で推し量るならば、この疑問に対する答を見つけることはできないでしょう。ただの力関係で推し量るのではなく、信仰の目でこの問を問い直すことか求められていると思うのです。
 まず第一に、私たちはこの戒めから始まる第5戒から第10戒がが2枚目の板に書かれていることを心に留めたいと思うのです。それは、単に1枚、2枚ということではないのです。1枚目の板が先にあり、2枚目がそれに続いているのです。このことはマタイによる福音書の中で、主イエスが神の律法を次のように要約して教えられたと、記されていることも対応するのです。
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40)
神様との関係がまず第1の掟であり、隣人との関係がそれに続いて記されています。私たちの隣人との関係は、神様と私たちの関係のもとにあるということです。信仰の目で十戒を問い直すということは、神様との関係の中で、私たちの隣人との関係を問い直すことである、といってもよいでありましょう。
 今日の主の日に与えられました御言葉は、エフェソの信徒への手紙 第6章1-4節です。ここでは、子供たちに対して、「親に従うように」と教えているのですが、5章21節から6章9節にかけて、この手紙の著者は妻と夫、子と親、奴隷と主人の3つの関係について記しています。
 まず、妻と夫との関係です。5章21節から33節に記されている部分です。この部分は教会では結婚式の中で、妻に対する教えとして読まれる箇所です。しかし、おもしろいことにこの箇所は古い時代においては夫に対する教えとして結婚式の中で読まれていました。手紙の著者は夫と妻の関係を、キリストと教会との関係になぞらえて、この箇所で語っています。
「また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(24-25節)
ここからだけでも、妻と夫との関係が力関係のうちに置かれていないことが分かります。「教会がキリストに仕えるように」(24節)「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように」(25節)「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(21節)と教えているのです。
 次に、子と親との関係が記されます。私たちに今日の御言葉として与えられている部分です。この勧告の言葉も、親と子の力関係を記しているのではありません。子供たちに対しては「主に結ばれている者として両親に従いなさい。」と語ります。また、親に対しても「主がしつけ諭されるように、育てなさい。」と語ります。親と子という最も親密な関係に置いても、お互いが「主に結ばれている者として」あるということをまず覚えることを求めているのです。
最後に、奴隷と主人の関係が5-9節に記されています。奴隷と主人といえば、その力関係は歴然としています。しかし、ここでも、奴隷に対しては「キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。」(5節)と勧め、主人たちに対しても「同じように奴隷を扱いなさい。」(9節)と求めているのです。それは「彼ら(奴隷たち)にもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらない」からだというのです。
 人間社会には、明らかに上下関係があります。従うものと従えるものの関係があるのです。それを「神様は人を分け隔てなさらないのだから」と人間社会の上下関係を無意味なものとして退けるのではないのです。「神様は、わたしたちを、彼らの手を通して、支配することを望んでおられる」とハイデルベルク信仰問答に記されていましたが、夫婦関係にしても親子関係にしても、社会生活の上下関係は神様がお定めになったことと理解するというのです。
 もちろん、このことは無条件の服従を意味してはいません。神様を誹ること、侮るようなこと、絶対に従い得ないことには「否」をいわざるを得ないでしょう。宗教改革者のカルヴァンが著した「ジュネーブ教会信仰問答」で、第5戒を扱っている中「神がお与えになった場合の他は、父も、王も、その他すべての上の人も、権威がないからであります。」(戸山八郎訳)と記しています。つまり、神様が定められたのでなければ、父であるということも、王であるということも、どうのような地位も権威を持たないというのです。しかし、私たちは慎重でありたいと思うのです。絶対に従い得ないことには「否」をいわざるを得ないとしても、やはり同時に「彼らの弱さ、過ちに対しても寛大であること」が求められていると思うのです。なぜならば、私たちの主イエス・キリストは、すべての人を救うために来られたからです。いまは従い得ない上の人も神様の前に立ち帰る事を、主イエスご自身が忍耐して待っておられるからです。そのような人の命令に従い得ないとしても、私たちがその人を裁いたり、呪ったり、することを主は望んではおられないからです。
 また、神様が目上の者を通して私たちを支配されるということは、目上の者が思いのままに振る舞って良いということを意味していません。神様に委ねられたものを神が私たちにしてくださったように、養い導く義務を負っているということです。
 ここにいる方の中で、いままで一度も両親、目上の親族から怒られたことのない人はいないと思います。反対に、親の立場から、目上の者の立場から、子供たちを叱ったことのない人もいないと思います。叱られた経験、叱った経験を思い出してみると、叱られた経験があるいは叱った経験が100%、神様の愛に基づいた諭しであったでしょうか。 「お母さんはいつも怒ってばかりいる。」多くの子供たちが口をそろえていうのです。「それは、あなたがお母さんとの約束を守らなかったから。」母親にも叱る理由はあるのです。子供自身は、いけないことをして悪かった事はちゃんと分かっているのです。それでもなお、「お母さんはいつも怒ってばかりいる。」というのは、怒る母の顔が教え諭すのではなく、怒りに燃えているからかもしれません。親としてこどもをしつけるのは当然といいながら、感情にまかせて怒りを爆発させる姿にはっとさせられる。誰もが経験していることだと思うのです。『隣人を自分のように愛しなさい。』の教えに従い得ない罪の姿を知らされる思いをしたことも、誰もが経験していると思うのです。「どんなにしても、あの人だけは許すことができない」そういう思いにとらわれたことも、誰もが経験していると思うのです。
 一つの物語を紹介したいと思います。これは、日本基督教団改革長老教会協議会が編纂している「季刊教会」という雑誌の中にも書いたことなのですが、アストリッド・リンドグレーンが書いた「ペレの家出」という話です。リンドグレーンはスウェーデンの児童文学者で、「長靴下のピッピ」「小さなロッタちゃん」「ロッタちゃんのひっこし」などの作品で世界的に有名になりました。
 「ペレの家出」は小さな男の子ペレが、お父さんの万年筆をいたずらしたとの嫌疑をかけられるところから始まります。確かにペレはいたずらっ子で、お父さんの万年筆を隠してしまったことは何回もあるのですが、その日は万年筆を隠したりはしていませんでした。お父さんが別の上着のポケットに刺してタンスに入れたのを忘れていただけなのです。なのに、お父さんもお母さんもペレがしたものと思ってきつく問いただしたものですから、ペレは怒って家を出ることにしました。大きな船に乗ってアフリカに行こう。そこでライオンに食べられるんだ。お父さんもお母さんもきっと悲しむだろう。しかし、アフリカは遠すぎます。ペレは庭の隅にある小屋に家出をすることにしました。そこからならば、お父さんやお母さんの悲しむ様子を十分に見ることもできるからです。
 「お父さんもお母さんも、時には間違ったことをするわ。でも、あなたのことをどんなにか愛しているのよ。」ペレを引き留めるお母さんに、「お父さんが謝らないから、万年筆を無くしたんだよ。」といい、怒りの一瞥をくれると庭の小屋へ出て行きます。しかし、時はクリスマス。ペレはいろいろと考えた末に、郵便屋さんが来たらペレが引っ越したことを伝えてほしいとママに言いに行くのです。そこでお母さんは言うのです。「ペレのいないクリスマス、ペレなしでクリスマスツリー、ペレなしのサンタクロース。」「それなら、別の子供を産めばいいじゃないか。」「私たちにはペレしかいないのよ。あなたを本当に愛しているのよ。イブの夜の間中、お父さんもお母さんも明かりのないクリスマスツリーのそばで泣いて過ごすわ。」この時ペレは、自分のしたことがどんなのひどいことであったかに気づくのです。自分の怒りの感情にまかせて、どんなにかお母さんを悲しませたかに気づくのです。「ごめんなさい」を言ったのはペレのほうからでした。そして、お母さんをぐしょぐしょに濡らすまで、その旨の中で泣いたのです。
 物語の終わりは、仕事から戻ったお父さんがいつものようにペレを呼ぶ場面です。「うちのペレはどこだい。」「ここだよ。」そういってペレはお父さんの胸に飛び込んでいくのです。
 これは不思議な感じのする物語です。本来ならば、謝らなければならないのは嫌疑をペレにかけたお父さんであるはずです。しかし、父親の謝罪の言葉は記されていません。ペレは、むしろ、嫌疑をかけられたことに対する自分の怒りにまかせて、お母さんを悲しませたことを悔いているのです。そして、最後にいつものようにお父さんの胸の中に飛び込んでいたのは、お父さんのしたことを許しているからでしょう。
 子供は親の所有物ではありません。夫婦も同じです。どちらかがもう一方の所有物ではないのです。社会における人間関係も上司が部下を所有しているのではないのです。親子の関係も、夫婦の関係も、社会における人間関係も神様の御心のうちに定められている、主の赦しのまなざしの中にある関係であるのです。
 「あなたの父母を敬え」第5戒の言葉を口にするとき、親であっても、子であっても、妻であっても、夫であっても、人を使う側であっても使われる側であっても、私たちは主イエス交わりの中にお互いの人間関係を再確認させられます。それは、しばしば、愛すること許し合うことよりも、裁きあってしまう自らの罪の姿をはっきりと示される事になるかもしれません。しかし、そこでうなだれることはないのです。自らの罪の姿と同時に、私たちは主イエスが、神様の戒めに従い得ないわたしたちの罪を担ってくださっていること、私が許すことのできない隣人も私同様に、主の赦しと救いに招かれていることをみるからです。私にできないことでも、神様にはできる。私たちは主イエスの愛の服従の中に置かれている。その主イエスを信じて祈り求めるときに、私たちもまた、隣人を許し、隣人を愛するものに変えられていくとの確信が与えられるのです。
祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様。 私たちは、御子の御降誕を多くの方たちとともに祝いました。祝福された時を過ごすことができました。しかし、改めて思うのです。主イエスは大いなる力を持って、私たちの所に来られたのではありません。一人の幼子として、しかも、歴史的にはローマの支配という中に、来られたのです。私たちを救うために、何よりも主自らが謙遜に歩まれたことを思います。私たちは愛すること、人を許すこに疎く、自らの怒りを爆発させることは簡単に行ってしまいます。 しかし、自らの罪の姿に気づくとき、うなだれるのではなく、心からあなたの前に悔い改め、そのような私のために主が来られたことを固く信じさせてください。私が隣人を愛する以上に主がその隣人を愛され、私が隣人を許すことができないときも、主がその人を赦してくださっていることを信じさせてください。主イエスを仰ぎ、信じて歩むときに、私たちの歩みも変えられていくのだと言うことを確信させてください。
主イエス・キリストのみ名により祈り願います。アーメン
(楠原彰子:2004年12月26日主日礼拝説教より 『ペレの家出』の引用箇所はドイツ語訳(Pelle zieht aus und andere Weihnachtsgeschichten: Oetinger Verlag)からの私訳)

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2004/12/24

闇に輝く光

旧約聖書イザヤ書第8章23節から9章1節までの御言葉をお聞き下さい。

今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。 
先に ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 
後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた 
異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見 
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
 つづいてイザヤ書第9章5節。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 
権威が彼の肩にある。 
その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。

 「闇の中を歩む民」とはわたしたちの事であると言われます。闇とは何でしょうか。闇とは光がないということです。闇とは光のない暗闇のことなのです。基本的な意味があると言います。闇とは、わたしたちが知る光のない闇のことです。暗いのです。恐怖を抱かせるのです。そしてまた次のような意味もあるのです。闇とは、わたしたちが何かしようとする時、わたしたちの前途の見通しに対してしょうがいになるもの、妨げになるものであるというのです。闇とはわたしたちに迫る危険であり、わたしたちそれぞれが心に抱く恐怖であると言います。わたしたちにとっての闇があるでしょうか。それは恐ろしいものであるかもしれません。それは避けて通りたいものであるかもしれません。
 クリスマスの喜びを語るのに、なぜ闇について語られなければならないのでしょうか。
いやまずだいたいどうしてわたしたちは礼拝堂を真っ暗にしているのでしょうか。昔の人たちは、特にヨーロッパに住む人々は、長く暗い夜を経験しました。光がないのです。ですから光を待ち望むのです。1年で一番夜の長い時なのです。暗闇の中のろうそくの、光の祭りなのです。礼拝堂を暗くして、燭火礼拝をする。そのようなクリスマスは、明らかに光をこい求める伝統の中にあるのです。
 しかしキリストの誕生を祝うわたしたちの礼拝においても闇について語られます。クリスマスには闇が語られて良いのです。尊敬すべき多くの説教者たちが、クリスマスの礼拝で、わたしたちの闇について語っています。わたしたちの不安です。「わたしたちに襲ってくる出来事が危険をもたらし、滅びをもたらすのではないかという不安...死をもたらす病がひっそりと近づいているのではないかという不安...墜落した航空機の中にいた...人びとが...毎分、毎秒、感じたに違いない...不安、地震が次々と襲ったときに...人々が感じた不安(カール・バルト/「光の降誕祭-20世紀クリスマス名説教集 R.ランダウ編、加藤常昭訳、教文館 1995年229頁)。」「自分で理解できない時代に生きている...あまりにも多くの闇を抱え込んでいる時代に生きている(トゥルンアイゼン 同123頁)。」戦争という闇。事件や事故という闇。社会の乱れという闇。わたしの人生の悩みという闇。病気という闇。仕事の闇。人間関係の闇。
 なぜ闇が語られるのか。それはその闇が打ち破られるからです。なぜ闇を語り、わたしたちの不安が語られるのか。それは光が差し。わたしたちの不安が取り去られるからです。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

 預言者イザヤのこの言葉の中に、わたしたちの信仰の先輩たちは、キリストの誕生を読み取ったのです。わたしたちは「闇の中を歩む民」かもしれない。しかし闇の中を歩くわたしたちは、「大いなる光」を見るに違いない。死の陰に包まれた地に住んでいるのではないかと思うわたしたちに、必ず光が輝くのだと。
 ただいま読みました、新約聖書ルカによる福音書2章の羊飼いたちの物語は夜という暗闇の時間を語っていました。羊飼いたちは野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていたのです。何か特別なことをしていたわけではないのです。何かだいそれたことを望んでいたいた人々でもないのです。ただ静かな夜、暗い夜、寂しい夜に、いつものように静かに仲間たちと羊の番をしていたのです。羊飼いたちが何を思っていたかはわかりません。寝ずの番をするという、日々のつらい仕事のことを思っていたかも知れません。あるいは家族のこと、日々の家族の生活のことを思いやっていたかも知れません。
 しかしそこに突然光が差すのです。主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたと言います。ほんの今さっきまで、暗闇であった、しかしそこに目をくらませるような光が差したのです。人間がすることと言えばただ一つです。恐れるしかない。自分たちが暗闇の中でいつものように過ごしていたと思っていたのに、突然暗闇でなくなってしまった。恐れるしかないのです。
 しかし声がする。力強い天使の声が響いたのです。「恐れるな!」と。闇ではないかと思える世界だと言いました。わたしたちの生活の中で、生きていく社会の中で、闇を感じたことのない人は、みなさんの中でもいないのではないかと思います。戦争という闇。事件や事故という闇。社会の乱れという闇。わたしの人生の悩みという闇。病気という闇。仕事の闇。人間関係の闇。わたしたちが生きていく中で、闇など存在したことはないと自信をもって声を大にして言う事ができる方などおられないのではないかと思うのです。
 天からの声です。わたしたちのはるかに高い所から下ってくる声です。闇の中に光が輝く。しかも「恐れるな」と言うのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」しかも喜びが来る。それは、どこそこに来る、誰彼に来るというのではない。民全体、わたしたち全体に、誰一人としてもれることがない。誰一人としてかける事がない、喜びが、それも大きな喜びが来るというのです。天からの喜びです。人間がこの世で生み出そうとするような、少しでも手に入れようとやっきになっているような、喜びや楽しみではないのです。わたしたちをはるかに超えた所から、大きな喜びがやってくる。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。(ルカによる福音書第2章10-12節)」
 闇の中に光が輝く。しかもあなた方の中に、この地上に住むわたしたちの中に、この世の中を生きているわたしたちの中に、闇の中に生きているのではないかと思わないではいられないわたしたちの中に、光が輝く。それはわたしたちのために救い主がお生まれになったことである。この方こそわたしたちの主キリストである。わたしたちが、わたしたちのすべてをおあずけしてよいお方である。わたしたちの人生を、わたしたちの全生涯をおまかせしてよいお方である。その方が今お生まれになった。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」が、そのお方である。
天からの声がさらに加わります。わたしたちのはるかに高い所から、さらに声が加わる。しかもそれは神様を賛美する声であったのです。それはわたしたち人間が賛美する声ではないのです。はるかに大きな、確かな賛美、それは天からの賛美の声、神様をほめたたえる声なのです。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
いと高きところ、はるかに高いところ、神様のおられる所では、神様に栄光があるように。
地には平和があるように。戦い、争いの中。そのような中に平和があるようにと声が響くのです。しかも他でもない、わたしたちの中に平和があるようにと天から賛美の声がするのです。天使たちは去っていきます。ふたたびはるかに高い所、神様のもとへと去っていきました。羊飼いたちは話し合うのです。
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか(ルカによる福音書第2章15節)」
天使たちの言葉の通り、羊飼いたちは確かに乳飲み子を見つけ出しました。マリヤとヨセフのそばに、飼い葉桶に寝かされていたのです。天使が告げた言葉を羊飼いたちから聞かされた人々はみな不思議に思ったのです。ただマリアだけはすべてを心に留めた。羊飼いたちはすべて天使の話の通りだったので、神様をあがめ、賛美しながら帰って行ったのでした。
 クリスマスを告げる有名な詩があります。羊飼いたちの心になって、お生まれになったキリストを拝みに行こうといううたです。

行こう キリストを拝もう まったき心を このお方に 向けよう 歌おう 喜びに満ちて みな 耳を傾けよ 愛する キリストの民よ

罪も 地獄も 悩むがよい
死も 悪魔も 恥じるがよい
われらは、われらの救いを得た
すべての悩みを投げ捨てよ

見よ 神がお与え下さったもの
そのひとり子 永遠の生命のために
このお方が われらを 高く上げてくださる
悲しみの中から 高き天の喜びへと
(Kommt und last uns Christum ehren パウル・ゲルハルト)

 わたしたちはそこにキリストを見いだすのです。闇の中で、悩みの中で、神様から離れていることを感じるものたちがいます。この世の闇を照らし出してしまう光のことを知らず、神様などいないと言う者もいます。しかしここにいらっしゃるのです。闇の中を歩き続けているように思われても、闇の中に飲み込まれてしまうのではないかと思われても、わたしたちの救い主キリストがおられる。わたしたちはひとりではないのです。あなたは捨てられているということはあり得ない。主イエスはあなたのそばにおられるのです。
お祈りします。
 天にいらっしゃいますわたしたちの父である神様。
 今、わたしたちは、こうしてあなたの前に集まり、御子のお生まれになる日を祝うことができますことを心から感謝いたします。神様、あなたは、わたしたちに救い主を生まれさせて下さいました。すべての民に、大いなる喜びに出会わせてくださいました。わたしたちは祈り願います。神様のお名前に、栄光を与えて下さい。この世に、平安を与えて下さい。この平安は、あなただけがお与えになることができるものなのです。平安はわたしたちの心の中から生まれでてくるべきものです。しかし、わたしたちは、この地上において、まったくの無力、まったくのおろかさの中に立ちつくしているのです。わたしたちはひとつの心となってあなたをあおぎのぞみ、あなたの、助けを待っています。あなたはわたしたちに、みことばをお与えになり、聖なる霊を与えようとしていてくださいます。そしてわたしたちの心は患難の中にあっても甦り、よろこぶのです。わたしたちには、この世に生きなければならぬ限り、自分自身のこと、自分自身が生きるための患難があるのです。あなたが助けていてくださることを、どこにいても気づかせてください。あなたが力を与えていてくださり、わたしたちはそれに身をゆだねることができるのだということに気づかせてください。日ごとに、年ごとに、常に新しく、どんな状況になろうと、あなたは助けを示してくださいます。そのことのゆえにわたしたちは感謝し、み名を崇めるのです。わたしたちが、あなたの御心にかなうものとなるようにしてください。地上にあって、苦しみ、耐え忍ばなければならないものの中で、しっかりとした心を持って、神様からいつも見守られているためには、わたしたちには、そのことが必要なのです。
 神様、主イエス・キリストをこの世に来たらせ、人間の救いの道を開いて下さる神様。
どうぞ、このクリスマスの喜びをわたしたちが分かち合い、喜びの中、わたしたちが、教会にあって、ひとつの交わりの中にあって、その歩みを堅くしていくことができますように。
 クリスマスの喜びの日々を過ごしている私たちの中で、新たに信仰を言い表そうとするもの、洗礼を受けようとするものは、まだこの教会に与えられておりません。しかしどうかわたしたちに祈り求める力を与えて下さい。ここに集いますすべての教会員が、ここに新たな決意をもって、歩みをはじめることができますようにお導き下さい。
 クリスマスの礼拝、この燭火礼拝に、小さな子ども達をあなたが祝福し招いて下さったことを感謝します。どうぞその健康と歩みとを健やかにお保ち下さい。
 ここを思いつつも、集うことのできない方々を思います。耐えられない痛みの中にある方、言い様のない不安の中にある方。あなたはすべてご存じです。どうか、あなたが、
その方たちを慰め、お支えください。
どうか、わたしたち、すべてが、この日、喜びの言葉を分かち合う事ができますように。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた(イザヤ書第9章5節)。」「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネによる福音書第3章16節)。」と。

この祈りを主イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。 アーメン。
(楠原博行:2004年12月24日クリスマス燭火礼拝説教より)

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2004/12/22

沈黙から賛歌へ -ルカによる福音書のクリスマス-

 ルカによる福音書はイエス・キリストの誕生の物語から始まります。クリスマスといえば、「喜びの歌声」「楽しい雰囲気」「聖なる光」と言ったものが思い浮かびます。しかし、ルカが伝える物語の始まりは、天のみ使いが人の口を封じる出来事です。
 ここに一組の夫婦がいました。祭司ザカリアと妻エリサベトです。二人は神様の御前に正しい人でありましたが、子供がなかったのです。ザカリアが、祭司の職によって聖所で香をたいているときに、天使ガブリエルが現れました。ガブリエルはザカリアに子が授かること、その子が主に先立っていくものであることを伝えます。み使いの言葉に対してザカリアは問うのです。

「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」(1:18)

人の目には不可能なこと、信じられないことに対して、しるしを求めたのです。御言葉を信じない人間の姿がここに記されています。ガブリエルはつぶやく唇を封じました。
 次に天使が訪ねたのは、マリアです。マリアに対するガブリエルの言葉は、
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(1:28)

という祝福の言葉から始まります。そして、マリアも天使に問うのです。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(1:34)
マリアもまた、信じることができなかったのです。しかし、神の力がマリアに対して働くのだということを知り、彼女は御言葉がその身になるようにと受け入れたのでした。
 マリアの受胎告知は、古くから多くの宗教画家たちの題材となりました。様々な画家たちの作品を見ていると、おもしろいことに気づくのです。天に描かれた父なる神から、鳩がマリアに向かって降りてくる様子が描かれています。マリアに聖霊が降ることを示しています。また、背景にアダムとエパの失楽園の様子が描かれていたり、遠くの丘に三本の十字架が書かれているものもあります。受胎告知が人間の罪の世界のただ中で行われ、既に十字架の死が定められていることを画家たちは描き出しているのです。
 み使いの言葉を信じられない人間、つぶやく言葉しか発しない唇は神の力によって封じられました。が、物語はここで終わりにはなりません。マリアはエリサベトを訪問します。同じように御言葉を身に受けたエリサベトを訪ねたのです。ここから物語は一気に変わります。
 マリアの挨拶を受けたエリサベトは御霊に満たされて声高らかに挨拶をします。本当に大きな声で叫ぶように、エリサベトは神を讃えて挨拶をしたのです。この言葉に響き返すように、マリアの賛歌が記されています。ここでは徹底して神を褒め称える言葉が記されています。取るに足りない者を用いてくださったということに対して、マリア自身が自分を誇っているのではありません。無きに等しい者の唇にも、神が讃美の言葉を備えてくださったことを讃えているのです。
 讃美の歌声はどんどん大きく響いていきます。続く洗礼者ヨハネの誕生の記事の中では、ザカリアが天使が伝えたとおりの名を子に付けたとたんに封じられていた口が解かれ、神から託された預言の言葉を語り出します。さらに、賛歌は野の羊飼いに現れた天使の大群の合唱となり、イエスの神殿奉献のシメオンの賛歌へと続くのです。そして、宗教画家たちが受胎告知に三本の十字架を描いたように、天使の合唱はイエスのエルサレム入城の時に群衆の歓呼として響くのです。
 マリアの賛歌、ザカリアの預言、天使の合唱、シメオンの賛歌。いずれも、古い時代から現代でもなお礼拝の中で、祈りの集いの中で歌われているものです。クリスマスを祝う季節に私たちも、つぶやく唇を閉じて神様の前にひれ伏し、「神を讃える言葉を与えてください」と祈り求めたいと思うのです。
(聖書を読む会の聖書研究より)

osirase.gif聖書を読む会は毎週第2金曜日10時より、教会にて行っています。ルカによる福音書を少しずつ読み進めています。聖書を読むのは初めてという方、もう一度じっくり読んでみたいと思う方。一緒に読んでいきましょう。
木更津教会のクリスマスはこちらへbo_gr_a1w_click.gif

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2004/12/19

主の日 (ハイデルベルク信仰問答第38主日 問103)

第4戒「安息日をおぼえて、これを聖くすべし。」
コロサイの信徒への手紙第3章16節
 主の日、日曜日を迎える。しかも教会に集い、礼拝を献げる。みなさんはどのような礼拝生活を送っておられるでしょうか。 今日、主の日に礼拝を守るみなさんは、さまざまであると思うのです。毎週かかさず主日には木更津教会に集い礼拝を守っておられる方。日々の仕事の中、やりくりをして礼拝に努めて出ておられる方。日曜日に勤めがあり、休める日をつくり、備えをして教会の礼拝に出ようと努力されている方。さまざまな事情から定期的に通う事が困難で、特別な日をもうけて礼拝に出席されておられる方。しかしわたしたちの教会への思い。木更津教会の礼拝に集う思いはひとつであるはずなのです。 主よ、あなたのいます家 あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います(詩編第26編8節)。 ここでは、わたしたちが礼拝する心を言っているのです。神様がお住みになる所、神様の栄光がおかれるところを、わたしたちは心から愛し求めているというのです。  しかしわたしたちが神様を愛する事は、わたしたちがそれぞれの生活の中で、別々に行う事。それぞれがバラバラに神様を慕っているということではありません。使徒パウロはコロサイの信徒への手紙で、次のように勧めております。 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい(コロサイの信徒への手紙第3章16節)。 パウロがわたしたちに求めるのは礼拝の生活、教会に集い、礼拝を守り、神様を求める生活です。それはわたしたちが一人ひとり勝手に神様を崇めているだけではいけないのです。キリストの言葉がわたしたちの内に豊かに宿るということは別々ではいけない。私たちがお互いに「知恵を尽くして」教え合わなければならない。いや相互に心から相手を思いやるばかりではない。詩編を歌い。讃美歌を歌い。感謝して心から神様をほめたたえなければならないというのです。  何週間かにわたって学んでおります「十戒」、この4つ目の戒め「安息日をおぼえて、これを聖くすべし」について、ハイデルベルク信仰問答は次のように教えています。 問
103 神様は、第四戒において何を求めておられますか。 答 神様は次のことを求めておられます。説教の職務と信仰の教育とが保ち続けられて、わたしが、とりわけ主日においては熱心に、教会の集会に集うこと。  そこで神様の御言葉を学び、聖礼典を守り、公に、主をお呼びして、キリスト教信仰による献金を捧げること。  さらに、わたしの生涯のすべての日において、わたしの悪い行いを休み、主が、そのみ霊によって、わたしたちの内に働いて下さるようにすること。  そうして、この生涯において、もう既に、永遠の安息日を始めることを、神様は求めておられるのです。
 有名な「十戒」という映画の中で知っている、あの神様の指で、石の板に書き付けられた4つめの戒めの中で、これらの事が求められているというのです。神様の御言葉の説教が告げられて、キリスト教の信仰を教え、学ぶことが続けられなければならない。そして日曜日には熱心に教会の集会に集わなければならない。そして安息日を守るということは、それだけにはとどまらない。わたしの生涯のすべての日においてわたしの悪い行いを休むこと。主のみ霊が、わたしたちの内に働いて下さるようにすること。そうしてこの生涯において、もう既に永遠の安息日を始めることを神様は求めておられるというのです。
 わたしの人生、健康である時もあり、病気である時もある。死を目の前にしているときさえあるはずだ。しかしわたしの人生が、もうわたしのものではなくて、主イエスのものであると信じる時、信頼し、確信し、勇気を持って、助けを、守りを、救いを信じて、生きていく事ができる。死んでいく事ができる。それが木更津教会における礼拝生活の、この4月の出発点でありました。しかしそのような信仰の中に生きるために、わたしたちは知らなければならなかったのです。わたしたちが、いかに神様がお命じになる生活とかけ離れているかを。それは、この4つ目の戒めを見るだけで十分なのです。神様は人生の一瞬たりともこれをおろそかにしてはならないとおっしゃります。わたしたちは、まあいいじゃないかと言って、神様を脇に置くということをしかねないのです。本音と建て前。現実の世界に生きているのだから仕方がないと言うことが、絶対にあるのです。現実の世界に生きるわたしたちは、神様の前に胸を張って立つ事ができないのです。もう神様の前では倒れ伏すしかないのです。
しかし、そのようなわたしたちにこそ神様はそのひとり子を与えて下さったのです。神様を信じている。神様に救いを求めている。しかし神様の前で顔をふせるわたしたち。神様に顔をそむけるわたしたち。主イエスはどのような姿をもってこられたでしょうか。たった二人っきりで孤独に夜を過ごす、ヨセフとマリア。日中は人々でにぎわっていました。二人には泊まるところさえなかったのです。しかし大勢の人々は今は眠ってい る。寂しい馬小屋の中で、幼子イエスは母親マリアに抱かれて布にくるまれています。
そして主イエスの誕生が知らされたのは、人里から離れ、寝ずの番をして、羊たちを守っているもっとも小さな人々、貧しい羊飼いたちが最初であったのです。「今日あなたがたのたえに救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
 はるかに高い所におられてここまで来いと命じておられるのではないのです。わたしたちに神様がそのひとり子をお与え下さったということは、わたしたちが神様から離れてしまってはいけないということです。人生の歩みの中でわたしたちの信仰が弱くなってしまうことがあるに違いない。神様が遠く感じられる事があるに違いない。しかしそういうわたしたちを、神様は放ってはおかれないのです。神様の方から来られるのです。神様の方から、この世の生活にあくせくするわたしたちを、ご自分の方に呼び戻そうとされているのです。クリスマスの光は、わたしたちが心の中に思う、この世の暗さ、この世の醜さ、この世のはかなさという、心の中に救っている暗闇のところに届き、これを照らし出してしまうのです。
「あなたは神様を求めて必死になる必要はない。あなたは神様が自分から遠くにあると思う事は許されないのです...神様はおられるのです。布にくるまれ、飼い葉桶に寝ておられる方として、あなたに近くいてくださるのです。すべてのあなたの悩みが、この方に無縁なものではありません。むしろそれをあなたと共に背負い抜くために...ご自身をお与えくださったのです!...このことを信仰において知っている者は、たとえ獄中にあろうとも、死に臨んでいようとも、捨てられてはいません。(マルティン・ニーメラー/「光の降誕祭」加藤常昭訳157頁より)」
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイによる福音書 第11章28節)」の言葉に招かれて、今日わたしたちは聖餐を守ろうとしています。このお方は、主イエスはわたしたちのもとに来て下さった。わたしたちのために十字架にかかり、わたしたちの重荷から休ませてあげようとおっしゃるのです。  礼拝後に、わたしたちはご一緒に、みなで持ち寄った食事でクリスマスのお祝いをし、そして聖書の御言葉をご一緒に読み、讃美歌を歌う、小さなページェントをしたいと思うのです。そしてその最後に、今日、木更津教会に集いますわたしたち全員で、ヨハネによる福音書第3章16節の御言葉を声をそろえて読みたいと思うのです。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである (ヨハネによる福音書第3章16節)。
(楠原博行:2004年12月19日クリスマス聖餐礼拝説教より)

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2004/12/12

真実を語る(ハイデルベルク信仰問答第36,37主日)

「汝の神、主の名をみだりに口にあぐべからず。」これが今日わたしたちに与えられた、主なる神様の戒め、十戒の中の第三戒です。主なる神様の名前をみだりに唱えてはならないとはいったいどういう意味なのでしょうか。

問99 神様は、第三戒において、何を求めておられますか。 答 神様は次のことを求めておられます。 わたしたちが、呪いや偽りの誓いによってだけではなく、不必要な誓いに よって、神様のお名前を、冒涜したり、乱用したりしないこと。  また、わたしたちが、沈黙や傍観によって、この