光は暗闇の中で輝いている
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ドイツのケルンと言えば、大聖堂と答える人が多いのではないでしょうか。実際ドイツ鉄道のケルン
中央駅を降り立つと、ドイツの町ではめずらしく駅の目の前、左手すぐ奥にその大聖堂がそびえています。正式名称ザンクト・ペーター・ウント・マリア教会(聖ペテロとマリア教会)ですが、ドイツでもケルナー・ドム、ケルン大聖堂で通っています。
ケルン大聖堂
その歴史はローマ時代にまでさかのぼります。かつてはローマの神殿であったのが、ローマ帝国のキリスト教化によって、キリスト教会に改められ、後にアルテ・ドム、旧大聖堂となります。現在の建物の建築は1248年からはじめられ、本来の建築計画が完成したのは1842年から1880年といいますから、600年以上に及ぶ大建築だったのです。ケルン大聖堂はドイツ最大のゴシック様式教会で、1996年にユネスコ世界遺産に指定されました。内部はキリスト教美術の宝庫ですが、ヨーロッパ最古の彫刻のひとつとされるゲロー・クロイツや、特にハイリゲ・ドライ・ケーニゲ・シュラインが有名です。この金色の美しい箱には、お生まれになったばかりの主イエスを訪れた、3人の王様の遺骨がおさめられていると伝えられているのです。
その遺骨は皇帝ヘレナによってパレスチナからコンスタンチノープルへともたらされ、4世紀の終わりに、その子、コンスタンチン1世によりミラノへ贈られました。それが再発見されるのはようやく1158年になってからのことで、納められた遺骨についての記述があるのです。その外見はまったく損なわれておらず、15歳、30歳、そして60歳くらいの3人の男性の遺骨であると言うのです。1162年、ドイツ皇帝バルバロッサはミラノに攻め込み、1164年には自分の国の宰相でもある、ケルン大司教ラインハルト・フォン・ダッセルへの贈り物として、ケルンへこの遺骨をもたらしたのです。以後ケルンの町は巡礼地として有名になります。ケルンの町の紋章の上部には三つの王冠が記されているゆえんです。
大聖堂内部。奥のガラスケースの中にハイリゲ・ドライケーニゲ・シュラインがある。
3王とはいったい何者だったのでしょうか。マタイによる福音書は「占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て」と記すのみで、人数も、また王様についても言っていません。その人数が3人となったのは、黄金、乳香、没薬という贈り物の数から来ていると言われますが、それがさらにカスパール、メルキオール、バルタザールの3王となったのは6世紀になってからだと言います。彼らはペルシャの占星術学者であったとも言いますし、あるいはシリアの祭司たちであったとも言われます。何よりもケルンの遺骨と共にあった布が、2000年前のシリアのパルミラという町の墓地で見つかった布地と一致したというのです。祭司たちにとって、世界で新しい王の誕生というのは興味ある問題でした。パルミラの町のそばには山があり、ここで天体観測が行われ、エルサレムへらくだで駆けつけたとしても、何も矛盾しないというのです。いずれにせよケルンの町が伝える3王の物語とはずいぶん違うのです。
毎年1月6日は顕現日と呼ばれ、国によっては祝日になっていますが、この日に3王が主イエスのもとを訪問したとされています。ドイツでは毎年この日になると、カトリック教会の子供達が3王に扮して家々を回ります。星を掲げて歌を歌うことからシュテルンジンガー(星の歌い手たち)と呼ばれ王様の服装をし、王冠をかぶり、顔を黒く塗る子はアラビアの王様の役目です。募金活動でもあるのですが、家々では子供達に果物やお菓子のプレゼントを用意して待っています。彼らは最後に家の門柱に「20C+M+B06」とチョークで書いて帰って行きますが、それは、カスパール、メルキオール、バルタザールという3人の王様の頭文字であり、またChristus Mansionem Benedicat(クリストス・マンジオーネム・ベネディカート)というラテン語の言葉で、2006年の年に主キリストがこの家を祝福しますようにという意味なのです。
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ルカによる福音書第2章8-21節
静かな夜 聖なる夜!以前にもお話ししました。わたしたちの主イエスがお生まれになった夜のことを。日中はにぎわっていた町の中で、ただひとつ眠らないでいるのはヨセフとマリア、ただ一組の夫婦だけでした。ヨセフとマリア、今、ふたりは家畜小屋の中にいます。そして生まれたばかりの赤ちゃん。わたしたちの主イエスは飼い葉桶に寝かされています。聖書にははっきりと、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と書いてあるのです。
しかしまた同じ、寝静まった町からは少し離れたところ、野において羊の番をしている人々がいたのです。おそらく夜の間、羊たちと過ごす場所があったのだろうと思われます。交替ごうたいで起きては、外敵から、あるいは羊を傷つける獣から、羊たちを守るのです。
では、どうして羊飼いたちに最初にイエス様が生まれたことが告げられたのでしょうか。それは羊飼いたちが、もっとも貧しい、町の人々からもうとまれている人たちであったから、神様はこの人たちを、羊飼いたちを選んだのだと説明する人がいますが、わたしはそうではないと思います。またイエス様の祖先であるとされるダビデ王が、また羊飼いであったからだとも言われます。わたしにはむしろそちらの方が正しく思えるのです。
しかしいずれにせよ、羊飼いたちは野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていたのです。何か特別なことをしていたわけではありません。何かだいそれたことを望んでいた人々でもなければ、何か、神様にとって特別な人々ではなかったろうと思います。
ただ静かな夜、暗い夜、寂しい夜に、いつものように、毎晩のように、静かに仲間たちと羊の番をしていたのです。羊飼いたちが何を思っていたかはわかりません。寝ずの番をするという、日々の仕事のことを思っていたかも知れません。あるいは家族のこと、日々の生活のことを思いやっていたかも知れません。しかしそこに突然光が差したと言います。主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたと言うのです。ほんの今さっきまで、いつもの夜、暗闇であった、しかしそこに目をくらませるような光が照らしたのです。
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 (ルカによる福音書第2章9節)
羊飼い達は非常に恐れたと言うのです。もともとのギリシャ語では、羊飼いたちは「大きな恐れをもって恐れた」と書いてあります。なぜ恐れるのでしょうか。なぜ恐がるのでしょうか。いや実際恐いと思います。
自分たちのふつうの生活。いつもの生活に、突然、神様の知らせが飛び込んできたのですから、恐くて当たり前だと思うのです。
主の栄光が周りを照らしたので、人間が恐れる。それはなぜでしょうか。すべてを照らすからだと言われます。わたしたちのすべてが明らかになってしまう。良いところも、悪いところも照らし出されてしまう。
人間にはいろいろな部分があると思うのです。人の前に出して、もっと見て欲しい。もっと理解して欲しい。もっとほめて欲しい部分。そして放っておいて欲しい部分もあります。見られてしまうんだからしょうがない。でも他の人には触れないでいて欲しい。そうっとしておいて欲しい部分。
そしてまた決して人には見られたくない部分もあるはずです。自分のものだとは思いたくない、そんな部分です。
しかし神様の光を受けてしまえば、それらすべてが、神様の前に明らかになってしまう。恐れるしかない。恐くてあたりまえです。しかし天使は何と言ったでしょうか。
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。(同10節)
いつもの生活の中で過ごしていた羊飼いたちに、突然神様からの光が差し込んだ。
羊飼いたちは「大きな恐れをもって恐れた。」そして天使は同じ言葉で言うのです。「恐れるな!」そして続けます。わたしは「大きな喜び」を告げる。もともとのギリシャ語ではわたしは「大きな喜びを、喜びのおとずれをもって告げる」と書いてあります。まわりくどい言い方でしょうか。
神の栄光が輝く時、人間の側では、大きな恐れに、恐れるしかない。しかし神様が天使を通して告げるのは、「恐れるな!」のひとことである。そして神様がわたしたちにもたらすのは、「大きな喜びの喜び!」
どんなためらいも、どんなとまどいも、どんなさびしさも、どんな悲しみも、どんな恐れも、どんな恐怖も、たとえ死の恐れも、たとえ死そのものに対しても、喜びがある。
神様が、今、この時、クリスマスの中に告げるのは、「恐れるな!わたしは大いなる喜びを、喜びの言葉をもって告げる」というお言葉なのです。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
(同11-14節)
今日ダビデの町、ベツレヘムに、わたしたちの救い主がお生まれになったこと、これこそがどんなとまどいも、悲しさも、恐れをも吹き飛ばす、大いなる、大いなる喜びであると言うのです。天使の歌が響きます。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
平和とはただ争いがないというだけではありません。わたしたちの考えも及ばないような、平安、静けさ、穏やかさ。
わたしたちの心を騒がすようなものがないことです。たとえどんなことがあろうともわたしたちはぐらつくことがない。それはわたしたちがひとりではないからです。
主イエスはわたしたちのそばにおられるのです。羊飼い達が見た救い主は小さな赤ちゃんだった。もっとも小さいところから、もっとも低いところから、わたしたちを支えて下さる方、そのお方が今日お生まれになったとの天使の歌声なのです。
(楠原博行:2005年12月24日クリスマス燭火礼拝説教より)
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マタイによる福音書 第21章1-9節
ほかの誰でもありません。あなたの王があなたのもとにおいでになるのです。キリストがおいでになる。しかもそれがわたしたちにおいて起こる。まさにアドベントの季節がやって来たのです。
マタイによる福音書の中、主イエスがエルサレムにご入城になるところは、一年に二度、棕櫚の日曜日と、今日、アドベントの最初の主日に、伝統的に教会の中で読まれてきたところです。しかし伝統によらずとも、アドベントに主イエスのエルサレム入城が読まれることは、わたしたちひとりひとりにとりましても意味があることなのです。アドベントとはラテン語で、到着、主がこの世においでになることを意味します。アドベントを迎える最初の主日に、主イエスをどのようにお迎えすることができるのか、みなさんといっしょに読み、味わいたいと思うのです。そしてわたしたちの心を、主のご到来に備えたいのです。
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(マタイによる福音書第21章1-7節)
主イエスはろばを連れてくるようにと弟子たちにお命じになりました。主に召し出されるろば。『主がお入り用なのです』との言葉に、多くのキリスト者が励まされ、押し出されたのではないでしょうか。御言葉どおりに弟子たちはしました。それは「預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」とマタイは言います。
「見よ、あなたの王が来る」とはゼカリヤ書9章9節の言葉です。マタイはここで「わたしたちの王は柔和な方である」というところをまん中にすえました。イスラエルの人々は、出エジプトという、ひとつの大きな自分たちのまさに信仰のルーツと呼ぶべき出来事を祝おうとして、過ぎ越しの祭りのために、大勢してエルサレムに集まってきたのです。自分たちを救ってくださる方を、力で、武力で解放してくれる救い主を待ち望んでいたのです。しかしそうではなかった。そうではなくて、柔和なお方を、ろばに乗っていらっしゃった主イエスを、自分たちの王として迎えたのでした。
大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(同8、9節)
ホサナとは詩篇118編25節の「どうか助けてください」という意味の言葉です。人生の中で、生活の中で、自分自身の本当の救い主、主イエスを見出したのです。そして「助けて下さい」と声をかけるのです。
そしてその王様は「柔和」なお方であった。
「柔和」とは、多くの主イエスを描いた絵画に見るように、主イエスがやさしいとか、静かであるとかいう言葉ではありません。「主がわたしたちの悩みを聞いてくださる」、そういうときの「悩み」、「苦しみ」という意味で、聖書には何度も出てくる言葉なのです。祈祷会で読んでおります、創世記の族長物語でもヤコブやヨセフが使います(31:42, 41:52)。ヨブ記でも、詩篇でも、繰り返し、「悩み」、「貧しさ」、「苦しみ」という意味で出てくる言葉です。
ある説教者は言いました。「柔和である」というこの言葉は、「決して上から下を見下して、気前が良いとか、周りに対してやさしいとか言う意味では決してなく、ご自身がいつも、もっとも深いところ、苦しみの中、貧しさの中、無力なところにおられるということであり。柔和な方であるということは、貧しいもの、みじめなもの、もっとも小さいもの、もう自分ではどうすることもできないもののことと同じである...主であり、王であるこの人が、ご自身で、絶望しているもの、貧しいもの、小さいものたちのいる、どん底に入って、王様らしい姿、ふるまいを脱ぎ捨て、僕の姿を取られたのである。しかしそれでもなお、王様である。」
喜びの季節と誰もが口にし、キリスト教をまったく知らない人まで、楽しみ祝うクリスマスの季節です。町の中は、信仰とは関係なくても、楽しく明るく飾り立てられているのです。しかし悩んでいる人がいる。愛する人を失った人がいる。人生の、日常生活の中で苦しんでいる人がいる。病気やさまざまな事情で、体が思い通りにならない人がいる。それは決して無条件で「楽しいうれしいクリスマス」というわけにはいかなかいでしょう。いったいどういうクリスマスだというのでしょうか。「見よ、あなたの王が来る」とは、わたしたちの王様である方は、絶望するもの、いわば人生のどん底にある者のところにも来てくださるという事なのです。いやむしろ神様以外には、何も、誰も、助けてはくれない人のところにこそ主イエスは来てくださる。それが本当のクリスマスだ。そしてそれを心から待ち望む、それがアドベントだと言うことなのです。
マタイが取り上げた預言者ゼカリヤの言葉は、わたしたち教会に語られた言葉です。たとえどのようなみじめさを経験しても、あなたは決して見捨てられることはないのです。神様の教会はもう決して「かしら」なしではありえない、教会の「かしら」である主イエスが与えられる、おいでになるのだと告げるのです。
アドベント、主イエスがおいでになる、そしてそれが、ほかならぬ、わたしたちのところへおいでになる。わたしたちにそれを信じ、告白し、そのことを、この時期を、心に刻みながら過ごしたいと思います。
(楠原博行:2005年11月27日主日礼拝説教より)
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第6戒「汝、殺すなかれ。 マタイによる福音書5章21-26節ただいま出エジプト記20章に記されております十戒のことばが読まれました。出エジプト記20章はモーセが主なる神様から十戒のことばを直接受け取る場面が描かれているのです。わたしたちは十戒の十の戒めをひとつひとつ味わって参りました。第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」からはじまり、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」までは神様とわたしたちとの関係が戒められています。そして続く「あなたの父母を敬え。」からは、わたしたちが同じ人間に対して、隣人に対してどうあるべきかが戒められる、二枚目の石版に入っているのです。今日わたしたちに与えられた戒めは「殺してはならない」なのです。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイによる福音書5章21-26節)「殺すな」ではない。「殺すな」では足りない。腹を立ててもいけない。「ばか」とも「愚か者」とも言ってはならない。そのようなものは、裁きを、火の地獄を覚悟せねばならないというのです。厳しさというのでしょうか。わたしたちのハイデルベルク信仰問答もさらにくわしく、わたしたちの殺人の根っこということを言っています。問105では行いばかりでなく、思いや言葉、態度をもって、また他の人を通してでも、人をののしったり、憎んだり、侮辱しないようにと言っています。復讐心を起こすということは、むしろ自分を傷つけることであると言うのです。続く問い106と107には次のように記されています。
問106 それでは、この戒めは、単に殺すことについてのみ語っているのですか。殺人を禁じたのは、教育的な配慮であった。むしろ殺人の根っこを、隠れた殺人をこそ禁じようとされるのだ。すなわち、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心。これら隠れた殺人を神様は憎んでおられるのである。神様はわたしたちにこれら殺人の根っこをお許しにはならない。わたしたちは、わたしたちの隣人をわたしたち自身のように愛さなければならない。隣人に対して、忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情を示さなければならない。力の限りに隣人が恥を受けないように努力しなければならない。そしてそれはわたしたちの敵にも及ぶのである。
答 神様は、わたしたちに教えるために、殺人を禁じられました。すなわち、
ねたみ、憎しみ、怒り、そして復讐心は、殺人の根であり、神様は殺人の根を
憎むからです。そして、このすべては神様にとっては隠れた殺人だからです。
問107 わたしたちが、わたしたちの隣人を殺さなければ、この戒めを既に満たしていることになるのですか。
答 いいえ、違います。
なぜなら神様は、ねたみ、憎しみ、怒りをおゆるしにならず、わたしたちが、隣人をわたしたち自身のように愛して、隣人に対しては忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情を示し、力の限りに隣人から恥をそらし、そして、わたしたちの敵にもまた、良いことをなす事を望んでおられるからです。
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詩編34編6-9節「味わい、見よ、主の恵み深さを。」この御言葉はわたしたちが主日ごとに、みなさんといっしょに守っております礼拝において、その礼拝の一番最初に、礼拝の司式者が読みます招きの言葉において繰り返し読まれてきました御言葉なのです。「味わい、見よ、主の恵み深さを。」味わいなさい。見なさい。主なる神様の恵み深いことをと詩編第34編は歌っているのです。
この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。(7節)そこでは自らを「貧しい人」であると言います。金銭的に富んでいるとか、貧しいと言うだけの意味ではありません。「助ける者がない人々」、「惨めな人々」、「抑圧された人々」、「低いところにいる人々」、「弱い人々」、「貧しい人々」。いやそればかりではありません。自分の助け手として、自分を必ず救い出してくださる方として、神様を信じている人々、神様を求める人々を指しているのです。8節で言葉を換えて言い換えられます。それは「主を畏れる人」のことです。自分を必ず救い出してくださる方として、敬虔に神様を求める人々を指してもいるのです。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。ここであげられる貧しい人々と同じであると言われます。主なる神様を畏れる人々。その人を助ける人が一人もないとしても、とても惨めな思いをしていても、抑圧されていても、自分が低いところにいるのではないか、どん底にいるのではないかと思えても、弱さにうちひしがれていても、物の、お金の、何であろうが貧しさの中に苦しんでいても、主イエスは「幸いなるかな」と祝福の声をかけてくださるのです。わたしたちは慰められる。もう天国に属し、それを受け継ぐ者となっている。飢えと渇きはかならず満たされるというのです。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
(マタイによる福音書第5章3-6節)」
主を仰ぎ見る人は光と輝き 辱めに顔を伏せることはない。わたしたちを救ってくださるただお一人の方として主なる神様を知る。そしてわたしたちは主なる神様を仰ぎ見るのです。わたしたちは光と輝く。喜びに輝くのです。辱めに顔を伏せることはないとは、わたしたちが礼拝し崇める呼び声が、かならず主なる神様によって聞かれるということです。そして決してわたしたちを見捨てることなく、助けてくださるということです。わたしたち貧しい人、まことの救い主として神様の方を向くわたしたち、たとえ苦しみの中にあろうとも、虐げられている中にあろうとも、悩みの中にあろうとも、貧しさの中にあろうとも、主なる神様は、その中から救ってくださる。いやもう救ってくださっている。わたしたちの周りに、主の御使いが陣を敷いている。主なる神様を畏れて崇めるわたしたちを助け出してくださっている。
この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。
主の使いはその周りに陣を敷き 主を畏れる人を守り助けてくださった。
味わい、見よ、主の恵み深さを。 いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。(詩編第34編6-9節)
味わい、見よ、主の恵み深さを。 いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。(同9節)主なる神様のわたしたちに良いことを、その恵み深さ。わたしたちにお与えてくださるもの。それによる喜び。それによる慰めを、味わってみなさいと言うのです。幸いなるかな。山上の説教の主イエスの言葉を思い起こします。いやギリシャ語に直せば、まったく同じ言葉が用いられるべきなのです。幸いなるかな。御もとに身を寄せる人は。幸いなるかな。主なる神様を信頼する者は。
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エフェソの信徒への手紙 第6章1-4節第5戒は「あなたの父母を敬え」です。当たり前の事だと、多くの方が思うでしょう。何もキリスト教に限って、特別にいうことではないかもしれません。自分の親を大切にする事、あるいは親族の年長者を敬うことは当然のこととして私たちは考えていると思います。 そこで、ハイデルベルク信仰問答の言葉に目を向けてみたいと思うのです。
問104 神様は第5戒において、何を求めておられますか。 答 わたしは、わたしの父、わたしの母、そして、わたしの上に立つすべての者に対して、一切の栄誉、愛、忠実を示すこと、そして、すべての良い教えと罰とを従順に受け入れ、また彼らの弱さ、過ちに対しても寛大であることを求めておられるのです。 なぜなら、神様は、わたしたちを、彼らの手を通して、支配することを望んでおられるからです。ハイデルベルク信仰問答 問104の言葉は、私たちが敬うべきものは、私たちの両親ばかりか「わたしの上に立つすべての者に対して」敬意を払うことを求めています。ここまで来ると、私たちの心の隅で一つの疑問が持ち上がってくると思うのです。
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40)神様との関係がまず第1の掟であり、隣人との関係がそれに続いて記されています。私たちの隣人との関係は、神様と私たちの関係のもとにあるということです。信仰の目で十戒を問い直すということは、神様との関係の中で、私たちの隣人との関係を問い直すことである、といってもよいでありましょう。
「また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(24-25節)ここからだけでも、妻と夫との関係が力関係のうちに置かれていないことが分かります。「教会がキリストに仕えるように」(24節)「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように」(25節)「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(21節)と教えているのです。
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旧約聖書イザヤ書第8章23節から9章1節までの御言葉をお聞き下さい。
今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。つづいてイザヤ書第9章5節。
先に ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが
後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた
異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。(ルカによる福音書第2章10-12節)」闇の中に光が輝く。しかもあなた方の中に、この地上に住むわたしたちの中に、この世の中を生きているわたしたちの中に、闇の中に生きているのではないかと思わないではいられないわたしたちの中に、光が輝く。それはわたしたちのために救い主がお生まれになったことである。この方こそわたしたちの主キリストである。わたしたちが、わたしたちのすべてをおあずけしてよいお方である。わたしたちの人生を、わたしたちの全生涯をおまかせしてよいお方である。その方が今お生まれになった。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」が、そのお方である。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」いと高きところ、はるかに高いところ、神様のおられる所では、神様に栄光があるように。
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか(ルカによる福音書第2章15節)」天使たちの言葉の通り、羊飼いたちは確かに乳飲み子を見つけ出しました。マリヤとヨセフのそばに、飼い葉桶に寝かされていたのです。天使が告げた言葉を羊飼いたちから聞かされた人々はみな不思議に思ったのです。ただマリアだけはすべてを心に留めた。羊飼いたちはすべて天使の話の通りだったので、神様をあがめ、賛美しながら帰って行ったのでした。
行こう キリストを拝もう まったき心を このお方に 向けよう 歌おう 喜びに満ちて みな 耳を傾けよ 愛する キリストの民よ罪も 地獄も 悩むがよい
死も 悪魔も 恥じるがよい
われらは、われらの救いを得た
すべての悩みを投げ捨てよ見よ 神がお与え下さったもの
そのひとり子 永遠の生命のために
このお方が われらを 高く上げてくださる
悲しみの中から 高き天の喜びへと
(Kommt und last uns Christum ehren パウル・ゲルハルト)
わたしたちはそこにキリストを見いだすのです。闇の中で、悩みの中で、神様から離れていることを感じるものたちがいます。この世の闇を照らし出してしまう光のことを知らず、神様などいないと言う者もいます。しかしここにいらっしゃるのです。闇の中を歩き続けているように思われても、闇の中に飲み込まれてしまうのではないかと思われても、わたしたちの救い主キリストがおられる。わたしたちはひとりではないのです。あなたは捨てられているということはあり得ない。主イエスはあなたのそばにおられるのです。
お祈りします。
天にいらっしゃいますわたしたちの父である神様。
今、わたしたちは、こうしてあなたの前に集まり、御子のお生まれになる日を祝うことができますことを心から感謝いたします。神様、あなたは、わたしたちに救い主を生まれさせて下さいました。すべての民に、大いなる喜びに出会わせてくださいました。わたしたちは祈り願います。神様のお名前に、栄光を与えて下さい。この世に、平安を与えて下さい。この平安は、あなただけがお与えになることができるものなのです。平安はわたしたちの心の中から生まれでてくるべきものです。しかし、わたしたちは、この地上において、まったくの無力、まったくのおろかさの中に立ちつくしているのです。わたしたちはひとつの心となってあなたをあおぎのぞみ、あなたの、助けを待っています。あなたはわたしたちに、みことばをお与えになり、聖なる霊を与えようとしていてくださいます。そしてわたしたちの心は患難の中にあっても甦り、よろこぶのです。わたしたちには、この世に生きなければならぬ限り、自分自身のこと、自分自身が生きるための患難があるのです。あなたが助けていてくださることを、どこにいても気づかせてください。あなたが力を与えていてくださり、わたしたちはそれに身をゆだねることができるのだということに気づかせてください。日ごとに、年ごとに、常に新しく、どんな状況になろうと、あなたは助けを示してくださいます。そのことのゆえにわたしたちは感謝し、み名を崇めるのです。わたしたちが、あなたの御心にかなうものとなるようにしてください。地上にあって、苦しみ、耐え忍ばなければならないものの中で、しっかりとした心を持って、神様からいつも見守られているためには、わたしたちには、そのことが必要なのです。
神様、主イエス・キリストをこの世に来たらせ、人間の救いの道を開いて下さる神様。
どうぞ、このクリスマスの喜びをわたしたちが分かち合い、喜びの中、わたしたちが、教会にあって、ひとつの交わりの中にあって、その歩みを堅くしていくことができますように。
クリスマスの喜びの日々を過ごしている私たちの中で、新たに信仰を言い表そうとするもの、洗礼を受けようとするものは、まだこの教会に与えられておりません。しかしどうかわたしたちに祈り求める力を与えて下さい。ここに集いますすべての教会員が、ここに新たな決意をもって、歩みをはじめることができますようにお導き下さい。
クリスマスの礼拝、この燭火礼拝に、小さな子ども達をあなたが祝福し招いて下さったことを感謝します。どうぞその健康と歩みとを健やかにお保ち下さい。
ここを思いつつも、集うことのできない方々を思います。耐えられない痛みの中にある方、言い様のない不安の中にある方。あなたはすべてご存じです。どうか、あなたが、
その方たちを慰め、お支えください。
どうか、わたしたち、すべてが、この日、喜びの言葉を分かち合う事ができますように。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた(イザヤ書第9章5節)。」「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネによる福音書第3章16節)。」と。
この祈りを主イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。 アーメン。
(楠原博行:2004年12月24日クリスマス燭火礼拝説教より)
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ルカによる福音書はイエス・キリストの誕生の物語から始まります。クリスマスといえば、「喜びの歌声」「楽しい雰囲気」「聖なる光」と言ったものが思い浮かびます。しかし、ルカが伝える物語の始まりは、天のみ使いが人の口を封じる出来事です。
ここに一組の夫婦がいました。祭司ザカリアと妻エリサベトです。二人は神様の御前に正しい人でありましたが、子供がなかったのです。ザカリアが、祭司の職によって聖所で香をたいているときに、天使ガブリエルが現れました。ガブリエルはザカリアに子が授かること、その子が主に先立っていくものであることを伝えます。み使いの言葉に対してザカリアは問うのです。
「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」(1:18)
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(1:28)
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(1:34)マリアもまた、信じることができなかったのです。しかし、神の力がマリアに対して働くのだということを知り、彼女は御言葉がその身になるようにと受け入れたのでした。
聖書を読む会は毎週第2金曜日10時より、教会にて行っています。ルカによる福音書を少しずつ読み進めています。聖書を読むのは初めてという方、もう一度じっくり読んでみたいと思う方。一緒に読んでいきましょう。
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第4戒「安息日をおぼえて、これを聖くすべし。」主の日、日曜日を迎える。しかも教会に集い、礼拝を献げる。みなさんはどのような礼拝生活を送っておられるでしょうか。 今日、主の日に礼拝を守るみなさんは、さまざまであると思うのです。毎週かかさず主日には木更津教会に集い礼拝を守っておられる方。日々の仕事の中、やりくりをして礼拝に努めて出ておられる方。日曜日に勤めがあり、休める日をつくり、備えをして教会の礼拝に出ようと努力されている方。さまざまな事情から定期的に通う事が困難で、特別な日をもうけて礼拝に出席されておられる方。しかしわたしたちの教会への思い。木更津教会の礼拝に集う思いはひとつであるはずなのです。 主よ、あなたのいます家 あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います(詩編第26編8節)。 ここでは、わたしたちが礼拝する心を言っているのです。神様がお住みになる所、神様の栄光がおかれるところを、わたしたちは心から愛し求めているというのです。 しかしわたしたちが神様を愛する事は、わたしたちがそれぞれの生活の中で、別々に行う事。それぞれがバラバラに神様を慕っているということではありません。使徒パウロはコロサイの信徒への手紙で、次のように勧めております。 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい(コロサイの信徒への手紙第3章16節)。 パウロがわたしたちに求めるのは礼拝の生活、教会に集い、礼拝を守り、神様を求める生活です。それはわたしたちが一人ひとり勝手に神様を崇めているだけではいけないのです。キリストの言葉がわたしたちの内に豊かに宿るということは別々ではいけない。私たちがお互いに「知恵を尽くして」教え合わなければならない。いや相互に心から相手を思いやるばかりではない。詩編を歌い。讃美歌を歌い。感謝して心から神様をほめたたえなければならないというのです。 何週間かにわたって学んでおります「十戒」、この4つ目の戒め「安息日をおぼえて、これを聖くすべし」について、ハイデルベルク信仰問答は次のように教えています。 問
コロサイの信徒への手紙第3章16節
103 神様は、第四戒において何を求めておられますか。 答 神様は次のことを求めておられます。説教の職務と信仰の教育とが保ち続けられて、わたしが、とりわけ主日においては熱心に、教会の集会に集うこと。 そこで神様の御言葉を学び、聖礼典を守り、公に、主をお呼びして、キリスト教信仰による献金を捧げること。 さらに、わたしの生涯のすべての日において、わたしの悪い行いを休み、主が、そのみ霊によって、わたしたちの内に働いて下さるようにすること。 そうして、この生涯において、もう既に、永遠の安息日を始めることを、神様は求めておられるのです。有名な「十戒」という映画の中で知っている、あの神様の指で、石の板に書き付けられた4つめの戒めの中で、これらの事が求められているというのです。神様の御言葉の説教が告げられて、キリスト教の信仰を教え、学ぶことが続けられなければならない。そして日曜日には熱心に教会の集会に集わなければならない。そして安息日を守るということは、それだけにはとどまらない。わたしの生涯のすべての日においてわたしの悪い行いを休むこと。主のみ霊が、わたしたちの内に働いて下さるようにすること。そうしてこの生涯において、もう既に永遠の安息日を始めることを神様は求めておられるというのです。
「あなたは神様を求めて必死になる必要はない。あなたは神様が自分から遠くにあると思う事は許されないのです...神様はおられるのです。布にくるまれ、飼い葉桶に寝ておられる方として、あなたに近くいてくださるのです。すべてのあなたの悩みが、この方に無縁なものではありません。むしろそれをあなたと共に背負い抜くために...ご自身をお与えくださったのです!...このことを信仰において知っている者は、たとえ獄中にあろうとも、死に臨んでいようとも、捨てられてはいません。(マルティン・ニーメラー/「光の降誕祭」加藤常昭訳157頁より)」「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイによる福音書 第11章28節)」の言葉に招かれて、今日わたしたちは聖餐を守ろうとしています。このお方は、主イエスはわたしたちのもとに来て下さった。わたしたちのために十字架にかかり、わたしたちの重荷から休ませてあげようとおっしゃるのです。 礼拝後に、わたしたちはご一緒に、みなで持ち寄った食事でクリスマスのお祝いをし、そして聖書の御言葉をご一緒に読み、讃美歌を歌う、小さなページェントをしたいと思うのです。そしてその最後に、今日、木更津教会に集いますわたしたち全員で、ヨハネによる福音書第3章16節の御言葉を声をそろえて読みたいと思うのです。
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「汝の神、主の名をみだりに口にあぐべからず。」これが今日わたしたちに与えられた、主なる神様の戒め、十戒の中の第三戒です。主なる神様の名前をみだりに唱えてはならないとはいったいどういう意味なのでしょうか。
問99 神様は、第三戒において、何を求めておられますか。 答 神様は次のことを求めておられます。 わたしたちが、呪いや偽りの誓いによってだけではなく、不必要な誓いに よって、神様のお名前を、冒涜したり、乱用したりしないこと。 また、わたしたちが、沈黙や傍観によって、この