2007/09/07

聖餐・喜びの食卓

コリントの信徒への手紙一 第11章23-29節

 コリントの信徒への手紙一第11章23節以下の言葉は、「聖餐制定の言葉」として、聖餐の度ごとに読まれています。聖餐は、説教と共に、主のご臨在を証しするものとして定められ、木更津教会では、毎月の第一主日と、クリスマスなどの特別のお祝いの日に、聖餐礼拝を行っています。説教のあと、主イエスが最後の晩餐でなされたように、パンとブドウの汁を分かち合うのです。
 聖餐は、主イエスが定め、主、ご自身が招いてくださった食卓、恵みの食卓です。23-25節で示される主イエスの言葉は、最後の晩餐の時に弟子たちに語られたものです。その言葉を、教会は主の晩餐を祝うたびに、くりかえし聞き続けてきました。しかし、私たちは、パウロの次の言葉(26)で、立ち止まらざるを得ないのでしょう。

だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(26)

主イエスの昇天から再び来られる時まで、私たちは聖餐を祝うごとに「主の死」を告げ知らされ、心にとめることになります。「祝いの食卓」でありながら、「主の死」を心に刻むのです。なぜ、「聖餐」の場に「主の死」が告げ知らされるのでしょうか。
 当時のコリントの教会は、分裂の危機にありました。人々は、教会の中の中の何人かの有力者たちを指して、私はあの人につく、私はこの人につくと言ってバラバラになっていたのです。主によって建てられた教会が、なぜ分裂するのか。主によって召し集められた聖なる民が分裂してはならない。パウロはそう思い、この手紙をコリントの教会に書き送ったのです。主の晩餐についても、コリントの教会では皆が勝手に食するという状態でした。主の食卓においても教会は分裂していたのです。
 パウロは、まず主イエスが、聖餐を祝うことを命じられた出来事を人々に思い起こさせました。23-25節は、最後の晩餐の席での主イエスの言葉です。十字架の上で裂かれたキリストのからだ、十字架の上で流されたキリストの血は、私たちと主なる神との新しい契約のしるしであることを、繰り返し心に刻むためです。
 23節の「引き渡される」という言葉を聞くと、私たちは最後の晩餐の後、主イエスが人々に裏切られ、押しかけた人々に引き渡されたことを思い出します。しかし、パウロはローマの信徒への手紙の中で、同じ「引き渡す」という言葉を用いて、次のように記しています。

わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。(ロマ8:32-34)

主イエスを引き渡したのは、罪人である私たちすべてであると同時に、神、ご自身です。「神が、私たちのために主イエスを死に渡される夜、イエスはパンを取り…」というのです。つまり、私たちがこの聖餐制定の御言葉を聞くときに、主イエスの十字架の死は、私たちを罪の中から救うための神のご計画であることを深く思わされるのです。

 続く27節以下の御言葉を聞くときにも、いささか戸惑いを感じる人は少なくないでしょう。
従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。(27)

おそらく、聖餐を受けるにあたって、この御言葉を聞き、自らを省みない人は、一人もいないと思うのです。聖餐を受けるときに自らを省みることは、ある意味で正しいことです。しかし、この部分についても、問い直さなくてはなりません。「聖餐を受ける足るふさわしさ」とは何でしょうか。 パウロは、そのことを29節にはっきりと示しています。

主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。(29)

 主の体とは、主イエスを頭とする教会です。聖餐は、新しい契約の民としての教会の一致を現すものです。個人的な赦しを得るものでもなければ、個人的な信仰のわざでもありません。主の食卓を主の民が集い囲むのです。聖餐を受けるときに求められるのは、主イエスによって召し集められ、主の体なる教会に集う信仰の仲間との関わりを心に刻むことです。
 キリストの死も、私個人の罪の赦しに留まらないのです。主イエスは、この世を救うために自らを死に渡されました。パンを受け取るときに、私たちは、この世のために裂かれたキリストの体を思います。キリストが身体を裂かれたから、私たちは生きるのです。杯を受け取るときに、私たちは流されたキリストの血を思います。キリストの血は、神と新しいイスラエルの契約のしるしです。
 この約束を、神は、誇るべきものがないばかりか、むしろ罪のまみれた私たちに、憐れみと恵みのゆえに与えられるのです。これ以上の奇跡はありません。その奇跡を、私たちは聖餐のたびに、見て、味わうのです。
 ならば、私たちは、聖餐を受け取るときに、自らを省みて尻込みをするのではなく、むしろ、神は、その恵みのゆえに主の食卓に私たちを招かれ、キリストの体と血を受ける決意をするように促されるのです。
 讃美歌21、75番を味わってください。1番の歌詞は、次のことをあらわしています。
 私たちは、すべてを納められる、主によって、主の食卓への招きを受けているのです。しかも、罪の衣を脱いで、主の食卓に集うにふさわしい、光の衣をまとうのです。この光の衣は、主イエスの十字架の死と復活が、私とこの世の救いのためであることを信じ告白するものに、与えられるころもです。
 続く2番の歌詞は次のことをあらわしています。
 私たちは、飢え渇きます。その私たちに、主は祝福し聖別したパンと杯を与えられるのです。尻込みする必要はありません。私たちは、自らの罪を知っているゆえに、私たちの救いは、この主イエス・キリストをおいてほかにはないと告白することができるのです。与えられたパンを感謝して受け、主の体に連なり一つとなるのです。

 まだ、洗礼を受けていない方たち、信仰告白式を終えていない方たちへ。主なる神は、あなたの応答を待っています。あなたも、主の食卓に連なるものとなるように、主の体に連なり、一つとなるように。その心で信じ、口で信仰を言いあらわし、洗礼を受けることを、私たちもまた、祈っています。
 そして、すでに信仰を言い表している私たちも、改めて、聖餐に示されている恵みと、はかり知れない奇跡を、心に刻みつづけるのです。
(楠原彰子:2007年8月26日 主日礼拝説教〈修養会開会礼拝説教〉より)

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2006/09/24

平和の神と共に

フィリピの信徒への手紙 第4章2-9節

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(6-7節)

 この言葉を聞いた時、そうだ、あれこれと考えて、堂々巡りのようになってしまうことはよくない。すべてを神様に委ねればいいんだ。そう考えて、慰めを受ける人もいます。すべては人間の考えの及ぶことではないのだ。だから、神様だけが知ることなんだ。自分があれこれと気にしてもしょうがないことなのだと、全てを運命として諦めてしまう人もいます。しかし、パウロが伝えようとしているのは、運命として受け止め、諦めてしまうことではありません。
 ここに出で来る「思い煩う」は、「心を使う」「心配する」という意味の言葉です。語源を探ると「分ける」という言葉から来ています。ある説教者は「思い煩うことは、心がわれてしまうことだ」と言いました。心がわれて、ああでもない、こうでもないと考えてしまうと、結局のところ、AをとるかBを取るかの話になって、おおかた、自分にとっては心配な方の考えをとってしまう、「これが私の運命だ」と諦めてしまうと言うのです。
 パウロは、また、思い煩いをするようなことを無視しろ、忘れてしまえと言っているのでもないのです。何事につけ、求めているものを神に打ち明けよと言っているのです。抱えている困難や問題を、抱え込んで心を割ってしまうのではなく、神に向かって開きなさいと言っているのです。
 私たちの心は、何よりも神に向かって開かなければなりません。さらに、打ち明けるに際して、パウロは、「感謝を込めて祈りと願いをささげ」よと言っています。ここに記されている「祈り」と「願い」ということばは、日本語で感じるよりももう少し、はっきりとした意味を持っているかもしれません。もとのギリシア語で言いますと、祈りとは、神に向かって祈るという言葉です。また、願いとは、必要に迫って神に請い求めることを意味する言葉です。つまり、思い煩って、心を割ってしまうのではなく、神に向かって心を注いで、祈り請い求めよと言うのです。
 この時に、私たちは少し注意が必要だと思うのです。何でも神様に向かっていっていいのだ、それが祈りなのだと思うと、時として祈りの言葉が、ただの愚痴の羅列になってしまうことがあります。正直に神の御前に、自分の思いを述べているのに、なぜ愚痴を並べるだけのものにしか聞こえないのでしょうか。どうしたらいいのでしょうか。
 「祈り」について思いめぐらしながら、いくつかの信仰問答書を読んでみました。どの信仰問答書も祈るときに、私たちに求められている3つのことを示しています。

1.主がお命じになったことを心から呼び求めること。
2.自らの苦しみと惨めさを心から認識して、神の前にへりくだること。
3.主イエス・キリストのゆえに、私たちが祈りにふさわしいものでないのも関わらず、その祈りをたしかに聞き届けてくださるという確信を持つこと。

 私たちは祈る時に、誰に対して祈るのでしょうか。また、私たちの祈りの言葉を聞くのは誰なのでしょうか。改めて、この当たり前のようなことを問うてみた時に、どの様に私たちは答えるでしょうか。
 礼拝に於いても、祈祷会においても、また、自分の部屋で、たった一人で祈る祈りでも、当然の事ながら、私たちは神に祈るのであって、私たちの祈りの言葉を聞くのは神にほかならないのです。私たちと共に祈ってくださる、主イエスに他ならないのです。
 宗教改革者のカルヴァンは、「信仰の手引き」という小さな書物の中で、「祈りについて考慮されねばならぬ事は何か」を書いています。カルヴァンもまた、主を心から呼び求めることから説き起こし始めています。それは、ただ口先だけのものではなく、心のもっとも深いところから、神に請い求めることだというのです。私たちは、いつもいつも、祈る言葉を準備して祈っているわけではく、むしろ、その時、その場で思いつくままに祈ることが多いと思うのです。そのような時にも、私たちは、心から神を請い求める祈りをするのです。
 神の御前にへりくだることについては、心の奥深くで自らの罪を認識するならば、同時に、主のみを誇り、ただ「救い賜え」と主の御名を呼ぶというのです。
 神が、私たちの祈りを聞き届けてくださる約束を固く信じることについては、もっとも完全な人といえども、主の前に止めどなく溜息をつき、うめき、へりくだりの限りを尽くして主を呼び求めなければならないと、記しました。しかし、そのことは、神自らがお命じになったことなのです。主を信じるものの貧しさ乏しさの重圧から来る溜息も、うめきも、神は祈りとしてお聞きになる、と言い換えてもいいかもしれません。

主イエス・キリストの救いの約束を信じて祈るものは、いつでも傍らにいる主イエスを意識し、信じて祈るのです。私たちの祈りを、願いを、主イエスは、私たちよりももっと深いところで聞いていらっしゃるのです。その事をパウロは、

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守る(7節)

と記しました。「守る」とは、見守る、凝視するという言葉です。主イエスは私たち一人一人から目を離されずに、見守っていてくださるのです。私たちが、片時も忘れることなく信じているのは、この主イエス・キリストです。この主イエスに守られて祈るときに、私たちの祈りもまた、真の祈りとなるのではないでしょうか。
(楠原彰子:2006年8月27日主日礼拝説教より)

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2005/08/07

神様に従う ー 十戒

「主はこう言われる。/呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし/その心が主を離れ去っている人は。/彼は荒れ地の裸の木。/恵みの雨を見ることなく/人の住めない不毛の地 炎暑の荒れ野を住まいとする。/祝福されよ、主に信頼する人は。/主がその人のよりどころとなられる。/彼は水のほとりに植えられた木。/水路のほとりに根を張り/暑さが襲うのを見ることなく/その葉は青々としている。/干ばつの年にも憂いがなく/実を結ぶことをやめない。(エレミヤ書第17章5-8節)」

 預言者エレミヤはバビロン捕囚のまっただ中に生きた人でありました。国が失われてしまう。多くの人々がよその国へと連れて行かれてしまう。残された人々も行き惑うのです。これからどうすればよいのか。さまざまなことを企てて、まわりの人々を率いようとする人も現れました。人間の企てです。自分たちを虐げようとする人々に力で抵抗する。あるいは力を持っていそうなより大きな国に頼ろうとする人々もいました。そのような中で預言者エレミヤはひたすら神の言葉を語ったのです。なぜ自分たちは今こんな事になっているのか。捕囚という、神様から見捨てられたのではないかと思われる中で、それでも神様が働いていると語り続けたのです。エレミヤは言います。人間の思いに捕らわれ、その心が、主なる神様から離れ去っている人は呪われよと。それは荒れ地にある裸の木のようだと言うのです。しかし主なる神様に信頼する人は、祝福を受けるべきである。水のほとりに植えられた木のようで、暑さが襲うとも、干ばつに襲われようとも、その葉は青々とし、豊かに実を結び続けると告げるのです。

 人間の思いに捕らわれないで主なる神様に信頼する。そのような生き方がわたしたちの十戒に記されています。遠い昔から、多くの教会の礼拝において、モーセの十戒が読まれてきました。それはなぜであったか。それは神様の前で、わたしたちの罪を告白するためなのです。本来ならば、わたしたちがそう生きて行かなければならない生活。本来ならそうあらねばならない姿。そのことが十戒に記されているからです。

十戒
我は汝の神、主、汝をエジプトの地、
その奴隷たる家より導き出せし者なり。
汝わが面の前に我のほか、何物をも神とすべからず。
汝、己れのために、何の偶像をも刻むべからず。
汝の神、主の名をみだりに口にあぐべからず。
安息日をおぼえて、これを聖くすべし。
汝の父母をうやまえ。
汝、殺すなかれ。
汝、姦淫するなかれ。
汝、盗むなかれ。
汝、その隣人に対して偽りの証しを立つるなかれ。
汝、その隣人の家をむさぼるなかれ。                アーメン
 十戒の十の戒めの内容を、主イエスはわかりやすく教えてくださっています。
「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』イエスは言われた。『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。』(マタイによる福音書第22章34-40節)」
 主イエスが教えてくださった二つの掟とは、十戒の二つの板にそれぞれ記されている戒めを意味しています。十戒の第一の板は、四つの戒めを通して「わたしたちが神様に対してどうすれば良いか」を教えています。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というのです。そして第二の板は、六つの戒めを通して、わたしたちが隣人に対してどんな義務があるかを教えます。それは「隣人を自分のように愛しなさい」ということなのです。
 十戒はわたしたちが守るべきものとして神様が与えて下さった戒めです。これらを見てわたしたちは安心するのでしょうか。ひとつひとつ数え上げて、これらすべてを守っていると言って誇ることができるのでしょうか。まったくそうではない。まったく正反対なのです。わたしたちは、神様の栄光のため、まことの信仰から、キリストを通して、心から神様を喜び、あらゆる良い行いに生きること、愛することを求めるのですが、わたしたちに神様が与えてくださった十戒は、むしろわたしたちの罪の真相を明らかにします。この十戒により、わたしたちはわたしたちの罪の姿を認め、ますます強くキリストにおける罪の赦しと義とを求めるのです。そしてたゆまず努力し、神様に聖霊の恵みを求めるのです。
 昨年の主の祈りに続き、同じ三要文の十戒を今年は取り上げるのですが、宗教改革者のマルティン.ルターは三要文のそれぞれの役割について次のように記しています。
「十戒は、人間に自分自身で罪を犯していることを知るようにと教えており...自分が罪深く、不義な者であると知るように教えている。そこで、使徒信条は薬、すなわち、神の恵みを見出すところを人間に示し、教え...主の祈りは、この恵みを慕い、求め、心にうけるように教えている(A.ペリー、『ハイデルベルク信仰問答講解』5頁、序文より)。」十戒は、わたしたちが、自分たちが罪を犯しているのだということを知るようにと教えてくれている。わたしたちが罪深い、正しくない者であることを知るようにと教えてくれているというのです。自分の罪を知ると言うことはやさしいことではないでしょう。できれば自分の、見たくない、触れたくない部分であるかもしれません。しかし素通りしてはならないのです。自分の弱さ、もろさを知るということは、またそのようなわたしをも神様は立ち上がらせて下さるということです。今年の修養会を通して、そのような喜びにあずかりたいのです。
(楠原博行:2005年月報8月号-修養会特集号巻頭説教より)

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2004/09/04

祈ること【2004年夏期修養会特集】

 「天にましますわれらの父よ」子供の頃から親しんで口にしてきたお祈りです。
 神様に愛され生かされていることを知りながらも、人間の思いでどうしようもなく落ち込んでしまったり、何も出来ない自分の無力さに悲しくなってしまいます。
 押しつぶされそうな悲しみの中、私は思うようになりました。神様は何もかも全てのことをご存知だということを。そして私
の祈りは聞き入れられているのだということを。
 私は本当に何も出来ないけれど、自分の言葉で上手に祈ることすら出来ないけれど、『祈りたい』と思ったとき、イエス様が教えてくださった主の祈りをいのるのです。
みこころの天になるごく地にもなさせたまえ!国と力と栄えとは限りなくなんじのものなればなり、と。
 祈ることができる幸せを感謝します。
(2004年夏期修養会:土方 緑)

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2004/09/03

主の祈りと私【2004年夏期修養会特集】

 「主の祈り」との出会いは、小学校4年生の時でした。当時、教会学校も文語訳の聖書でしたので、意味はよく分からずただ暗記したまま祈っておりました。以来どれだけ主の祈りを祈ったか数え切れません。困難に出会った時、辛いことを前にして、神様「助けてください」としか祈れず、自分の言葉で祈れない時主の祈りを祈っておりました。
 このたび、主の祈りについて考えますと「天にまします我らの父よ」と天の父への呼びかけ、そして神についての3つの祈願と人間にいての3つの祈願、最後に讃美頌栄に終わっています。この主の祈りはキリストによって弟子たちに教えられました。祈りは心の中の願い事ではなく、また理想の追求でもありません。主の祈りにはキリストによって何を祈るべきか、いかに祈るべきかが、この祈りの中に示され、私共に与えられたのだと思います。
(2004年教会夏期修養会:伊藤 由美子)

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2004/09/01

子供の頃の思い出 【2004年夏期修養会特集】

 主の祈りについてお願いします、と云われ、簡単に引き受けてしまいました。いざ書くとなるとなかなか書けず、日々が過ぎていくばかり、主の祈りについて教えられたのではなく、中学生の頃の思い出です。
教会学校の中等科(2年生頃だったと思います)で祈祷会をすることになりました。何曜日だったか忘れましたが、学校から帰って来て、夕方5時頃だったと思います。私がかよっていた頃の教会は神学塾という神学校と寮があり、そこの神学生が中等科の先生でした。いつまで続いたのか憶えていません。その祈祷会で一人一人順番にお祈りをします。6・7人いたと思います。だんだん進んでいくうちに一人の方がお祈りでなく主の祈りをするのです。毎週、毎週、主の祈りをするのです。何でこの方はと不思議に思いました。クリスチャンホームの方なのに-。聞くこともなく、年月は過ぎてしまいました。いまだに忘れられない思い出です。
 めぐみの家に大きな額に入った主の祈りが書かれたものがあります。90歳のおばあちゃんがそれを読んで子供の頃教会学校で主の祈りをしたことをおぼえていてとてもなつかしく喜んでいました。利用者さんと一緒に読むこともあります。祈れない時、主の祈りをして慰めを受けています。
(2004年教会夏期修養会:紺野 和子)

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2004/08/31

主の祈りと私【2004年夏期修養会特集】

 祈ることの少ない私にとって、このテーマは重い。昭和20年敗戦後、日本のあるべき姿、自分の生きる道を求めて教会へと足を運んだ。礼拝・祈祷会にはできるだけ出席、その時憶えたのが「主の祈り」であった。始めのうちは全文が書かれたカードと共に、サムエルの祈る名画を机に飾り暗記したものだった。
 日頃、第五の願いに入り「われらに罪をおかす者をわれらがゆるすごとく…」と祈る時に言葉が続かなくなってしまう。今日迄本当に友を許すことができたのかと。
 今回は、マタイ(6:9-13)やルカによる福音書(11:2-4)と共に、「ハイデルベルク信仰問答」(吉田隆訳、1997年新教出版社刊)問116により、より深い内容を学び、日々の祈りの生活をより豊かなものにしたいと願っている。
(2004年教会夏期修養会:作本一成長老)

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2004/08/29

天にましますわれらの父よ【2004年夏期修養会特集】

ルカによる福音書第11章1-13節     楠原博行

 主イエスは祈っておられたのです。そして祈り終えられた。すると弟子の一人がこう願うのです。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。」

そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」(ルカによる福音書11章1-4節)

 主イエスはわたしたちに、祈りの仕方を教えて下さいました。考えてみて下さい。弟子たちの前で、主イエスがひとことひとこと口を開かれるのです。祈りの言葉を、まるで口うつしで与えるかのように教えて下さるのです。そして主イエスはたとえ話を用いて、このように祈りなさいと勧めます。最初のたとえは友人です。パンを3つ貸して下さいと頼むのです。しかし友達だからと言っても与えてはくれません。
「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」(11章8節 )
「しつように頼め」とは「ずうずうしさ」という言葉でもあるのです。それほどの執拗さが、熱心さが聞く者を動かすとまでおっしゃるのです。
「だからあなたがたに言うが。求めなさい。そうすればあなたがたに与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。たたきなさい。そうすれば、開かれる。なぜなら人間でも父は子に良い物を与えることを知っているからである。」(11章9節)
 わたしたちの祈りは誰に向けられるのでしょうか。主イエスがわたしたちにまさに口うつしで与えて下さった主の祈りは、「父よ」という呼びかけではじまるのです。主イエスは、わたしたちの祈りが聞かれるのは、天にいらっしゃいますわたしたちの神様が、わたしたちの父であるからだとおっしゃいます。この部分はとても強い信頼が語られている箇所なのです。「求めなさい」という言葉はもともと祈りの中で求めることであると言われます。人間が人間に対して要求するのではないのです。祈りの中で、「祈り求める」、「神様に祈り求める」、それがここでいう「求めなさい」の言葉の意味なのです。条件などないのです。「与えられる」のだとはっきり語られるのです。それはなぜなのでしょうか。どこからそのような確信が来るのでしょうか。それは父と子であるからなのです。
「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。(11章11-13節)」
この世の人間でも、父親なら自分の子供には良い物を与えるだろう。だから天にいらっしゃる父なる神様が、求める者に良い物をくださる、そうでないはずがないではないかとおっしゃっているのです。
ハイデルベルク信仰問答 問26「わたしは、神、父、全能者、天地の造り主を信じます。」というときには、あなたは何を信じているのですか。答 わたしは次のことを信じているのです。わたしたちの主イエス・キリストの永遠の父が、その御子のゆえに、わたしの神様であり、わたしの父であるということを。神様は、天と地と、その中にあるすべてのものを、何もないところから造られました。そしてこれを、神様の永遠の御心と摂理によって、常に、保ち、支配しておられるのです。その神様に、わたしは、よりたのみ、疑うことをしません。神様が、わたしに、からだと魂に必要な、すべてのものを備えてくださっているということを。また、このなやみの多い世の中において、神様がわたしにお与えになる、どのような不幸でさえも、最もよいものに変えて下さることを。神様は、全能の神様ですから、これをなさることができますし、信頼できるお父さまですから、喜んで、これをしてくださるのです。
 「このなやみの多い世の中において、神様がわたしにお与えになる、どのような不幸でさえも、最もよいものに変えて下さることを」、「神様が、わたしに、からだと魂に必要な、すべてのものを備えてくださっているということを」信じ疑わないというのです。「このなやみの多い世の中」と言っているのです。わたしたちが住む世界は「なやみが多い」とはっきりと理解してくれているのです。信仰問答書は、わたしたちの信仰の教科書なのです。わたしたちの信仰の言葉なのです。「なやみが多い世の中」、悲惨の、苦しみの谷間を通るわたし、しかしそれをも神様がお与えになると告白するとき、信仰によってそのような悲しみを受け入れるとき、もうわたし一人ではなくなってしまうというのです。信仰により、たとえわたしたちがどん底にいると思えるときも、主イエスがいわば下から支えて下さっている。それを信じて疑わないとき、「どのような不幸でさえも、最もよいものに変えて下さる」に違いないというのです。
 「神様は、全能の神様ですから、これをなさることがおできになる。信頼できる、お父さまですから、喜んで、これをしてくださる。」わたしたちが聞かなければならないのは、ここなのです。だからこそ、苦しみの中で、不幸の中で、「父よ」と呼びかける。「父よ」と祈る。主の祈りはまた、人間が危機にあるとき、緊急の祈りとして用いられました。たとえ意識がもうろうとしていても、死に行く時にも、わたしたちの主イエスが口うつしに教えて下さった祈りです。いつでも口をついて出るのです。そしてこの祈りは、わたしたち個人の祈りにとどまりません。主の祈りは、何よりも教会の祈りなのです。わたしたち共同体の祈りなのです。わたしたちは主の祈りを教会で、礼拝で、集う者たち皆が口を合わせて祈るのです。そして最後にアーメンというとき、わたしたちひとりひとりはひとりではありえないのです。
(2004年教会夏期修養会)

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