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2008/02/29

御言葉を行う- 第六戒 「汝、殺すなかれ」

ヤコブの手紙 第1章19-27節

 「汝、殺すなかれ」との十戒の6番目の言葉が、今日、わたしたちに与えられています。ハイデルベルク信仰問答は告げています。「あなたは殺してはならない」とは、「わたしが、わたしの隣人を、思いや言葉、態度、ましてや行いをもってでも、他の人の助けをもってでも、ののしったり、憎んだり、侮辱したり、殺したりしないことです」と。神様が、「殺すな」とおっしゃるのは、わたしたちに教えるためであって、神様は殺人の根っ子である、「ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心」をお憎みになられる。これら「殺人の根っ子」すべては、神様にとっては隠れた殺人なのである、と。
 ですから、こうも言っています。「殺してはならない」とは、ねたみや、憎しみ、怒りを、わたしたちの中から取り除いて、むしろ、わたしたちが、わたしたちの隣り人を、自分自身のように愛して、忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情をもって、力の限りに隣り人から恥をそらすこと。そして、それは、わたしたちの敵にもまた向けられること。それらを神様はお望みになっておられるというのです。信仰問答書は「殺してはならない」の言葉の中に、これだけのことを見ていたのでした。
 先日、ある方がわたしに、今、人間には「十戒」が欠けている。「殺すな」などまったく欠けているではないか、とおっしゃいました。確かに、ほんの一日、二日の間だけでも、新聞、ラジオ、テレビなどを見ますと、現実の世界にも、虚構の世界にも、殺してはならないどころか、人の命がまったく軽々しく扱われていることを思い知らないではいられないのです。
 なぜ命は大切なのでしょうか。たとえそれが他の人のものであっても、どうして守らなければならないのでしょうか。それは、命は神様がお与え下さったものだからです。ある人は、日本人がただおひとりの神様を知らないから命を大切にしないと言いました。でも、むしろ、旧約聖書の一番最初の創世記4章が、すでにカインによる人類最初の殺人を記しますように、人間は最初から命を大切にできていないのです。
 わたしたちのハイデルベルク信仰問答は第六戒の聖書箇所として、主の兄弟ヤコブという人の手紙を参照しています。

わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。(ヤコブの手紙第1章19、20節)

ヤコブが人の怒りを取り除きなさい、と言ったこと、これが、今日の十戒の言葉、「殺してはならない」につながるのだと思います。宗教改革者マルティン・ルターは、ドイツ語聖書の一つ一つの書物に序文を書いているのですが、実は、このヤコブ書の序文で「わたしの聖書の中では、まことに正しい、主たる書物であるとは考えていない」と軽視しているのです。それは、この手紙が、「わざ」を強調しているからです。ルターは、信仰のみと言って、人間の救いが人間のわざによるのではないと強く主張します。宗教改革のひとつの柱になったのです。しかし、ルターはこうも書いています。「しかし、この書物を大切に思う人たちに対して、わたしは反対意見を言うつもりはない。なぜなら、この書物の中には、(わざの問題を別にすれば)、たいへん良い言葉がたくさん記されているからである。」

だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。(同21、22節)

 ここしばらく、ルターも大切にした、信仰を強調する、使徒パウロの手紙を読み続けて参りましたが、ヤコブの手紙の「行う人であれ」は、少し違った切り込み方です。わたしも、ルターが言う様に、わたしたちの信仰にとって、救いを確かなものとするための、大きな勧めであるとも思うのです。
 主イエスが十字架の道を歩まれたとき、あらゆる苦しみをお受けになりましたが、そのまわりに渦巻いていたのは、人間が持ちうるありとあらゆる憎しみでありました。まず、祭司や律法学者たちの、自分の地位や立場を脅かす主イエスに対しての憎しみです。今すぐにもローマ帝国の支配から解放されると勝手に期待していた人々の失望から来る憎しみもありました。理解できないものに対する、さげすみの感情もありました。また、人間には、別に理由もないのに、抱くことが出来る憎しみもあります。人をさいなむ娯楽です。ただ大勢の人々と同じことをしていれば良いという、たいへん無責任な思いさえあるのです。これら、人間として持つことができる、自分以外の人間をおとしめる、ありとあらゆる感情を主イエスはお受けになったと言えるのではないでしょうか。憎しみ、怒り、「殺してはならない」という言葉を知っているにもかかわらず、自分を殺そうとする人々に対して、主イエスがお示しになったのは、十字架でした。自らが、手を広げて、腕を広げて、それら、人間のあらゆる憎しみをお引き受けになったのです。
 主イエスが十字架におかかりになり、死んで葬られ、復活され、天にのぼられた後、キリストの教会は、この主イエスを殺したのは、他ならぬ、わたしたちであるとの信仰を持つようになったのです。それは、単なる後悔ではありませんでした。生き方、考え方を変えてしまうような信仰だったのです。人に対する憎しみを捨てました。人を愛することを尊びました。主イエスのように、人々の憎しみを悲しみ、時には、それを甘んじて受けた人々さえいたのです。だからこそ、だからこそ、「殺してはならない」をただありがたい言葉として拝むだけでとどまることを良しとしませんでしたし、むしろ、そこから、人を愛すること、隣り人を自分のように愛することの方に目を向けたのでありました。
 主のご受難の季節に「殺してはならない」の言葉を改めて覚えることはたいへん意味のあることだと思います。わたしたちが抱きうるすべての憎しみ、怒りを、むしろご自身でお受けになられた方がおられ、私たちは、そのお方の事を思い、このお方に従っているのであります。
  (楠原博行:2008年2月10日主日礼拝説教より)

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