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2008/01/05

人間を照らす光

ヨハネによる福音書 第1章1-5、14節

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(ヨハネによる福音書 第1章1-3節)

 神様のもとに、あるものがあったと告げられます。聖書が記されているギリシャ語でロゴスという言葉を、どう言いあらわそうかとたくさんの人々がつとめたのです。わたしたちの新共同訳聖書では「ことば」と訳されていますが、もともとそう読まない字で記されています。「言」という字に、「ことば」とふりがながふられています。この「ことば」が「はっぱ」のように薄っぺらでないからだとも説明されるのです。
 初めにあったのは、「神様がお現れになること」だと言う人もいます。初めに、神様ご自身が、みずからをおあらわしになった。そして、神様は世界を創造されたのだと言うのです。神様のみわざと言っても良いかもしれません。一つひとつのみわざではなくて、神様のご意志、このようにされるとの、ご計画こそが最初にあったのです。

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(同4、5節)

 神様のみわざの中に命が宿ります。それはわたしたち人間を照らす光でありました。その光は暗闇の中でも輝くのですが、逆に、その光に照らされた暗闇は、その光が何かを理解しなかったというのです。新約聖書で夜とは、わたしたちが生き、生活する今のことを言うことがあると、先週申し上げました。新約聖書は、それほどまでに、自分たちが生きている時代の暗さを、夜ということをひしひしと感じていたのです。そしてまた、これから朝が来なければならないこと、いや、今、まさに長く続いた夜が明けて朝になろうとしていることを、はっきりと言いあらわそうとしたのです。暗闇という言葉も特別な意味合いを持っています。倫理、道徳的な堕落について言うのです。道徳的に誤っている人の生き方を言います。そういう人は暗闇の中を歩いているのだと。そしてそのような人は、これからも闇の中にいつづけるのだし、さらには、もっともっと深い闇の中へ放り捨てられるとさえ言われるのです。だから暗闇とは、倫理、道徳的に誤った人に対する罰であり、死であり、人々からうち捨てられることさえも意味したのです。
 わたしたちが暮らしている世界が暗闇であることについて、しばしば言われることをわたしたちは良く知っています。明らかに、人間が悪意をもって、あるいは、自分の利益だけを求めたことによって、他の人々を突き落とすと言うこともあるでしょう。文字通り、闇の中を歩む人たちです。聖書が言うように、人の道に反した暗闇です。人間が落ち込んでしまって、もう抜け出すことができない暗闇です。自暴自棄という暗闇も知っています。それは、他人をも巻き込むのです。ほんのしばらく前、命が奪われ、命が捨てられるのを、わたしたちはテレビや新聞を通して見たのではないでしょうか。ある新聞記事で読みました。「人間はどうせ死ぬんだ。どうせ死ぬんだから。死ぬまでに何か大きなことをやってやればいいんだ。」そう考えていた人が、残酷な事件を起こしたというのです。暗闇は、人を引きずり込むばかりか、回りの人まで、何の関係もなく、幸せな日々を過ごしていた人さえ巻き込むことがあるのです。そればかりではない、突然、押し寄せてくる、事件、事故という暗闇があります。その背後には、人間の無責任、人間の限界というものがあるでしょうが、さけきれず、巻き込まれ、悲しみの底へと突き落とされてしまうのです。痛ましい事故についても、私たちが昨日、今日、聞き知った出来事も数多いのです。一方で、人間の力で、そのような闇から、抜けだそうとする人もいます。人には見えないものを見る人がいて、アドバイスをする人もいます。お金が要求されることもあるでしょう。これさえ、昨日、今日、報道され事件となっています。
皆が暗闇を知っているのです。少なくとも、そのような暗闇から逃れたいという思いは、誰にもあるのです。時には、特別な手だてをあつらえても、お金を積み上げてでもと、人は思うのです。
 「ことば」とは何のことなのか。命とは何のことか。人間を照らす光とは何のことか。どうして、ヨハネという人は、ここから書き始めたのか。ある人は言います。ヨハネは、イエス・キリストというお方が、いったいどういうお方か、わたしたち人間にとってどういうお方なのかについて、まず書きたかったのだと。マリアとヨセフの旅についても、ベツレヘムでお生まれになった時の出来事よりも、羊飼いたちや、東方の博士たちが礼拝したことよりも、もっと、書き記さなければならないことがあったというのです。伝えなければならない大切なこと。それは、主イエスがわたしたちにお与え下さったものでも、主イエスが人びとの間でなさったことでも、主イエスの生い立ち、生涯でもなくて、この驚くべき主イエスというお方ご自身、主イエスそのものなのだということ、それを最も大切なこととして伝えたかったからだと言うのです(W・デ・ボーア)。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(同14節)

 その「ことば」こそ、わたしたちが知っている、わたしたちの主イエス・キリストなのだ。わたしたちの主イエス・キリストは、初めに、神様と共にあり、神様のところから来られ、わたしたちのところに宿られた。これは驚くべきことではないか。これこそが、ヨハネがわたしたちに伝えたかった、キリストの福音であったのです。
 今日、わたしたちに与えられた聖書の箇所を挙げて、これこそがクリスマスのメッセージだと言った人がいます(トゥルンアイゼン)。そのクリスマスのメッセージとは、イエス・キリストが、神と共にあった世界から私たちのところにきてくださったということです。そして父なる神様と共にあるこうした世界があるということです。そしてわたしたちの主イエス・キリストを通して、この父なる神様の子としてわたしたちが召されているということです。神様がわたしたちのところに出てこられる。暗闇ということについてお話ししましたが、その暗闇の世界へと神様ご自身が出ておいでになるのです。この人は、神様が、そこにとどまっておいでになることもできたのだとも言っています。わたしたちのところに来る言。わたしたちの救い、神様と共にある救いが、神様の所から来る。人間の力で何とかしようというのでもない。知恵を積んでとか、財をつんで、何とかしようというのでもない。神様の救いのみわざが、神様の所から、わたしたちの所に来る。ただ、神様の所から来る救いを信じ続ける。この言葉を心に刻み、クリスマスを祝いたいと願います。(楠原博行:2007年12月23日クリスマス礼拝説教より

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2008/01/04

わたしが生きているので、あなた方も生きる

2008年1月1日に行われた、元旦礼拝の録音です。

  ヨハネによる福音書 第14章15-19節
  「わたしが生きているので、あなた方も生きる」楠原博行
  

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