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2007/11/26

命を救う

マルコによる福音書 第8章31節-第9章1節

 主イエスは、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められました。しかも、それを「はっきりとお話になった」と福音書記者はしるしています。公然と、明らかに、あからさまにお話になったのです。これは不思議なことです。なぜなら、ペトロが「あなたはメシアです」と告白したときは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められたのに、主イエスが、公然とこれから御自身について起こることを弟子たちに示されたのです。
 弟子たちにとって、この言葉はどのように響いたのでしょうか。ペトロは「あなたはメシアです」とはっきりと告白しました。「メシア」ヘブル語で「油注がれた者」の意味です。預言者、祭司、救い主としてのキリスト。尊敬し、これぞ私たちのメシアだといった主イエスが、御自身の受難について語られたのです。
 人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される。このような姿のメシアがあるでしょうか。それはあってはならないメシアの姿でした。ペトロは、主イエスを脇にお連れしていさめ始めました。

「先生、その様なあからさまなことをいわれては困ります。あなたは、私たちの希望です。メシアです。人々から排斥されて殺されるなんてことがあってはなりません。そんなことをいわないでください。」と

 主イエスは、すぐ様にふりかえって、その場で、ペトロを叱りました。「弟子たちをみながら」とありますから、弟子たちの目の前で、ペトロを叱ったのです。

「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

「引き下がれ」とは、私の後ろに回れの意味で、私の前に立つなといわれたのです。主イエスは、さらに言われました。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(35-37節)

私の弟子となり、従う者、私をキリストと信じて従う者は、自分を捨てて、私と同じように、自分の十字架を負ってついてきなさいといわれたのです。しかも、この言葉は、限られた弟子たちだけに語られたのではありません。主イエスは、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われたのです。
 この言葉を聞くと、私たちは躊躇します。私は弱い者だ。イエスさまと同じように十字架を負うことなどできない。これはむしろ、特別に信仰深い人の向けて語られたのではないかと思ってしまうのです。しかし、主イエスは弟子のみならず、群衆を呼び寄せて、教えられたのです。誰一人の例外なく、あなたも、あなたも、キリスト者として私についてくるのならば、あなたの十字架を負って私のあとに従いなさいと言われたのです。
 友人一人が洗礼を受けたときに、お祝いに教会からいただいた聖書に、マルコによる福音書8:34の御言葉が記されていました。牧師はこう語ったそうです。
 洗礼のお祝いの聖書に書く御言葉を、祈りながら探しているときに、この人にはこの言葉という示しを受けた。が、しばらくためらってしまった。洗礼を受けて教会の仲間になる方のお祝いの言葉に「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」というキリストの言葉は、あまりに厳しすぎないか。もっと穏やかな、もっと慰めのある、あなたはそのままでいいのですよというような御言葉の方がいいのではないか。しかし、なぜ、自分を捨てること、十字架を負うことが、特別な人にしかできないような辛いこと、厳しいこととしか考えられないのか。ここで主イエスは人々を呼び寄せていわれている。イエスをキリストと呼ぶということは、「私は、あなたのあとに付き従います。」「あなたのいうとおりに生きます。」と言うことである。
 当の友人は、しかし、正直なところ、この御言葉の書かれた聖書を開くことができませんでした。はやり厳しいという思いがどうしてもあったのです。その教会では、受難週の祈祷会は、長老会から指名された教会員が奨励にあたり、みんなで祈るのです。誰もが主の十字架を語るのですが、その誰もが光り輝く十字架を語ったのです。
 確かに、私たちの人間の罪を負って、主イエスは十字架に架かられ死を遂げられた。それで終わりではないのです。死んで墓に葬られ、三日目に復活されるのです。罪の私は、主とともに十字架につけられ、滅ぼされ、主の復活と共に、私たちもまた、新しい命に生きる者とされたのです。奨励を担当した一人一人が証ししたのは、罪の暗い十字架ではなく、復活の輝く十字架でした。福音のために、この復活の十字架を負って、ついてこいと主はいわれるのです。
 主イエスは、決してあなた一人で、あなたの十字架を負って行きなさいとはいわれません。自分の十字架を負って、私のあとに付き従えといわれます。すでに、私たちの前を、主イエスが十字架を負って歩いていらっしゃるから、それに倣っていけばよいのです。福音のために自分の十字架を負ってついていくと、主イエスがそうであったように、どんなに小さなことであっても、自分のためではなく、隣人のため祈ることができるます。主イエスが、人々のために涙を流されたように、自分の悲しみだけではなく、隣人の悲しみも共に悲しむことができます。主イエスが死に打ち勝たれたように、私たちもまた、新しい息を吹き入れられ、まことの命に生きることができるのです。
 自分の十字架を負って主イエスのあとに従いましょう。主が負わせてくださる、まことの命に輝く十字架の光で、この世を照らしていきましょう。
(楠原彰子:2007年11月11日:主日礼拝説教より)

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2007/11/03

復活

コリントの信徒への手紙 第15章1-11節

兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。(コリントの信徒への手紙一第15章1節)
福音とは主イエス・キリストの十字架と復活の出来事のパウロ自身の体験でした。かつて告げ知らせた福音を、パウロはもう一度知らせると言うのです。その福音を、手紙を読んでいる人々は既に受け入れて生活のよりどころとしているだろう。その福音を忘れずにしっかり覚えていなさいとパウロは言うのです。しっかり覚えていれば、あなたがたはその福音によって救われると言っているのです。
 三節から八節に記されています、十字架にかけられ死んで葬られ、復活されたキリストと出会ったこと。これこそ、パウロが受けた福音であって、それが教会の迫害者パウロを使徒パウロに変えたのです。パウロは強い信仰の言葉を記します。
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。(同10節)
むしろ「今あるは神の恵み」という愛唱聖句として知られている箇所ではないでしょうか。パウロは、コリントの人々の信仰のよりどころを、福音について、もう一度明らかに語ろうとしたのだと思います。キリストの十字架と復活を語り、自分にも、そのキリストが現れた。自分は出会ったのだと語った時。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と語らないではいられなかったのだと思うのです。パウロ自身のたいへん力強い、自分はこれで生きているんだ、との信仰告白です。
 コリントの信徒への手紙15章は、パウロが復活ということについて語るところです。それはなぜだったか。今まで、コリントの教会で起きた、さまざまな誤った信仰の言葉を聞いてきました。「キリスト者って何をやってもいいんだ」というスローガンによって、日常の生活と霊的な生活を切り離してしまい、肉的な自分なら何をやっても赦されるという誤った信仰に陥ってしまったこと。「だけど腹は減るだろう」と言って、やはり霊的、信仰的なつつましやかさを離れ、地上的、肉的な放縦、やりたい放題なさまを赦してしまう考え方。パウロはひとつひとつ信仰的にコリントの教会の人びとをいさめてきたのでした。そして復活の問題はその究極です。霊的、哲学的な復活観に陥り、この私の肉体こそが復活するという、パウロが宣べ伝えたキリストの復活に疑いを差し挟む人びとがいたらしいのです。
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。(同3-5節)
これはキリストの十字架の3年以内にさかのぼるという古い信仰告白だと言われます。続く6,7,8節。これはコリントの教会の人びとに死者の復活を語ろうとしていることを考え合わせればわかります。復活されたキリストが500人もの人びとの前に姿を現した。その大部分は今なお生きている。教会の指導者であるヤコブにも現れ、このわたしにも現れた。それなのになぜ疑うのか。というパウロの証しであり問いかけになっているのです。おそらく、これは、この15章をひととおり読み終えた時に、もう一度ふりかえらなければならないことだと思うのですが、繰り返し紹介しています、この書物の注解書を書いたヘイズという人は、「すべてキリスト教の宣言は復活に基づいていなければならない。このことによって信仰は立ちも倒れもする」と記していました。わたしたちの信仰が立つか倒れるか、それは私たちがこの復活の福音の言葉に立っているかいないか--まさに冒頭のパウロの言葉のままなのですが--それにかかっているのだと言うのです。
(楠原博行:2007年9月12日祈祷会より)

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