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2007/09/07

聖餐・喜びの食卓

コリントの信徒への手紙一 第11章23-29節

 コリントの信徒への手紙一第11章23節以下の言葉は、「聖餐制定の言葉」として、聖餐の度ごとに読まれています。聖餐は、説教と共に、主のご臨在を証しするものとして定められ、木更津教会では、毎月の第一主日と、クリスマスなどの特別のお祝いの日に、聖餐礼拝を行っています。説教のあと、主イエスが最後の晩餐でなされたように、パンとブドウの汁を分かち合うのです。
 聖餐は、主イエスが定め、主、ご自身が招いてくださった食卓、恵みの食卓です。23-25節で示される主イエスの言葉は、最後の晩餐の時に弟子たちに語られたものです。その言葉を、教会は主の晩餐を祝うたびに、くりかえし聞き続けてきました。しかし、私たちは、パウロの次の言葉(26)で、立ち止まらざるを得ないのでしょう。

だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(26)

主イエスの昇天から再び来られる時まで、私たちは聖餐を祝うごとに「主の死」を告げ知らされ、心にとめることになります。「祝いの食卓」でありながら、「主の死」を心に刻むのです。なぜ、「聖餐」の場に「主の死」が告げ知らされるのでしょうか。
 当時のコリントの教会は、分裂の危機にありました。人々は、教会の中の中の何人かの有力者たちを指して、私はあの人につく、私はこの人につくと言ってバラバラになっていたのです。主によって建てられた教会が、なぜ分裂するのか。主によって召し集められた聖なる民が分裂してはならない。パウロはそう思い、この手紙をコリントの教会に書き送ったのです。主の晩餐についても、コリントの教会では皆が勝手に食するという状態でした。主の食卓においても教会は分裂していたのです。
 パウロは、まず主イエスが、聖餐を祝うことを命じられた出来事を人々に思い起こさせました。23-25節は、最後の晩餐の席での主イエスの言葉です。十字架の上で裂かれたキリストのからだ、十字架の上で流されたキリストの血は、私たちと主なる神との新しい契約のしるしであることを、繰り返し心に刻むためです。
 23節の「引き渡される」という言葉を聞くと、私たちは最後の晩餐の後、主イエスが人々に裏切られ、押しかけた人々に引き渡されたことを思い出します。しかし、パウロはローマの信徒への手紙の中で、同じ「引き渡す」という言葉を用いて、次のように記しています。

わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。(ロマ8:32-34)

主イエスを引き渡したのは、罪人である私たちすべてであると同時に、神、ご自身です。「神が、私たちのために主イエスを死に渡される夜、イエスはパンを取り…」というのです。つまり、私たちがこの聖餐制定の御言葉を聞くときに、主イエスの十字架の死は、私たちを罪の中から救うための神のご計画であることを深く思わされるのです。

 続く27節以下の御言葉を聞くときにも、いささか戸惑いを感じる人は少なくないでしょう。
従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。(27)

おそらく、聖餐を受けるにあたって、この御言葉を聞き、自らを省みない人は、一人もいないと思うのです。聖餐を受けるときに自らを省みることは、ある意味で正しいことです。しかし、この部分についても、問い直さなくてはなりません。「聖餐を受ける足るふさわしさ」とは何でしょうか。 パウロは、そのことを29節にはっきりと示しています。

主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。(29)

 主の体とは、主イエスを頭とする教会です。聖餐は、新しい契約の民としての教会の一致を現すものです。個人的な赦しを得るものでもなければ、個人的な信仰のわざでもありません。主の食卓を主の民が集い囲むのです。聖餐を受けるときに求められるのは、主イエスによって召し集められ、主の体なる教会に集う信仰の仲間との関わりを心に刻むことです。
 キリストの死も、私個人の罪の赦しに留まらないのです。主イエスは、この世を救うために自らを死に渡されました。パンを受け取るときに、私たちは、この世のために裂かれたキリストの体を思います。キリストが身体を裂かれたから、私たちは生きるのです。杯を受け取るときに、私たちは流されたキリストの血を思います。キリストの血は、神と新しいイスラエルの契約のしるしです。
 この約束を、神は、誇るべきものがないばかりか、むしろ罪のまみれた私たちに、憐れみと恵みのゆえに与えられるのです。これ以上の奇跡はありません。その奇跡を、私たちは聖餐のたびに、見て、味わうのです。
 ならば、私たちは、聖餐を受け取るときに、自らを省みて尻込みをするのではなく、むしろ、神は、その恵みのゆえに主の食卓に私たちを招かれ、キリストの体と血を受ける決意をするように促されるのです。
 讃美歌21、75番を味わってください。1番の歌詞は、次のことをあらわしています。
 私たちは、すべてを納められる、主によって、主の食卓への招きを受けているのです。しかも、罪の衣を脱いで、主の食卓に集うにふさわしい、光の衣をまとうのです。この光の衣は、主イエスの十字架の死と復活が、私とこの世の救いのためであることを信じ告白するものに、与えられるころもです。
 続く2番の歌詞は次のことをあらわしています。
 私たちは、飢え渇きます。その私たちに、主は祝福し聖別したパンと杯を与えられるのです。尻込みする必要はありません。私たちは、自らの罪を知っているゆえに、私たちの救いは、この主イエス・キリストをおいてほかにはないと告白することができるのです。与えられたパンを感謝して受け、主の体に連なり一つとなるのです。

 まだ、洗礼を受けていない方たち、信仰告白式を終えていない方たちへ。主なる神は、あなたの応答を待っています。あなたも、主の食卓に連なるものとなるように、主の体に連なり、一つとなるように。その心で信じ、口で信仰を言いあらわし、洗礼を受けることを、私たちもまた、祈っています。
 そして、すでに信仰を言い表している私たちも、改めて、聖餐に示されている恵みと、はかり知れない奇跡を、心に刻みつづけるのです。
(楠原彰子:2007年8月26日 主日礼拝説教〈修養会開会礼拝説教〉より)

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