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2007/08/04

神の栄光をあらわしなさい

コリントの信徒への手紙一 第6章12-20節

「わたしは何をやってもいいんだ!」
「それでも腹は減るだろう!」
賢い人が自分で選んだ事なら何をしても構わない、というずいぶん都合の良い知恵や哲学をコリントの教会の人々は作り上げていたのです。そして、このようなスローガンを掲げていました。ヘイズという人が、コリントの信徒への手紙一の日本語でも読める注解書の中でおもしろいことを書いていました。コリントの人々は、むしろパウロが自分たちの主張に賛成すると思っていたと言うのです。パウロ先生は古いユダヤ教のしきたりから自由になることを伝えていた。神様の恵みこそがこの上ないものだと教えてくださった。だから良心の咎めとか、良心に反するからしてはいけない等という人間的な事柄は無意味になるはずだ。
 コリントで問題になっていた、父親の妻を自分の元においている男性の事件に、これが極端にあらわれている。コリントの多くの人々が、このような倫理的な問題に対してたいへん寛容であったと言うのです。「娼婦のところにしばしば行くコリントの男性は、前代未聞の新しい自由を主張していたのではな〔く〕...単に自分たちの文化の中では全く普通の愉快な活動を続けて楽しむ権利を主張しただけである(R・B・ヘイズ、現代聖書注解、教団出版局、180頁)。」
 コリントの人々の主張に反対して、対話するような形で書かれているのが、今日のところです。
「コリントの人々:わたしは何をやってもいいんだ!」「パウロ:しかし、すべてのことが益になるわけではない。」
「コリントの人々:わたしは何をやってもいいんだ!」「パウロ:しかし、わたしは何事にも支配されはしない。」
「コリントの人々:それでも腹は減るだろう!」「パウロ:体はみだらな行いのためではなく、主のためにある!」
 パウロはキリスト者の基本的な信仰告白に訴えようとします。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあ〔る〕。」わたしたちの体は主のものである。体が大切であることを、神は、主を復活させることでお示しになった。肉体的なものは劣ったもので、ここから魂だけが脱出して救われるとか。死ねば、魂だけが清いかたちで、平安に至るとかいうのは、わたしたちの信仰には当たらないのです。
 神は、主イエスを、肉体的に復活させられました。そしてわたしたち自身も、肉体として復活させてくださいます。だからこそ、今、この肉体で行うことに意味が生じてくるのです。キリスト者としての証しです。「わたしたち自身の復活の信仰」に生きるなら、わたしたちの肉体を、楽しみに使う道具としてはいけません。

知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい(19-20節)。

あなたがたの体は「聖霊が宿る神殿である」。あなたは「自分の体」で、むしろ「神の栄光を現しなさい」。父親の妻を自分のものとしている人にも、信仰を突きつけます。キリストを、教会が聖なるものである事実を突きつけて、みだらな行いをやめさせようとするのです。それは、そのみだらな行いが、その人、個人を傷つけるだけでなく、キリストの体である、教会を傷つけるからでした。
(楠原博行:2007年7月2日祈祷会奨励より)

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