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2007/07/30

耳と口が開く

マルコによる福音書 第7章31-37節

 私たちが、主日ごとに献げる礼拝において願うことは、魂が開かれ、与えられる御言葉を受け入れることができるようになること。語る者も、聞く者も、まず、神によって魂を開かれることを祈り願うことから、礼拝は始まるのです。今、私たちに与えられている御言葉も、主イエスによって魂を開かれた人の奇跡の物語です。
 主イエスは、エルサレムから来た律法学者やファリサイ派の人々と、清さについての論争をされたあと、ずっとイスラエルの辺境の土地を行かれました。そして、そこで出会う、異邦の人々にも、御言葉を告げました。マルコがここで記したかったのは、ユダヤ人よりも異邦の民の方が御言葉を受け入れたとか、都会のエルサレムよりも、田舎に住む素朴な人たちの方が、主イエスを受け入れる心を持っていたとかの話ではありません。神に向かって心を開き、神の言葉を受け入れるとは、どういうことかなのです。
 ここに一人の人が連れてこられました。耳が聞こえず、舌の回らない人です。この人が自分から主イエスのところに来たので
人々が、この人を主イエスのところに連れてきました。耳の聞こえない人は、歩くことはできたし、耳が聞こえなくても、主イエスのことは、知っていたでしょう。では、なぜ、彼は自分から主のもとに行くことをしなかったのでしょう。
 もしかすると、こういう事だったのかもしれません。仮に主の前に行ったとして、自分の願いをどのようにして、主にお伝えすればいいのでしょう。自分は舌が回らないし、イエスさまの前に立ったら、緊張し、舌は硬直して、ますます、話すことが困難になるかもしれない。きちんと願い求めることなんかできないんじゃないか。それを見て、周りの人は笑わないだろうか。…いろいろな思い煩いが、彼を取り巻いていたのでしょう。
 心閉ざしている彼を、主のもとに連れて行ったのは、周りの人々でした。ある説教者は、その中に、悪霊を追い出していただいたものも入っていたのではないかと想像しました。自分は、主の前に、助けてくれと言うこともできなかった。悪霊のために、悪態をつく言葉しか出せなかった。墓場をうろつき、喚き騒ぎ、自分の身体を傷つけることしかできなかった。でも、その様な私を、主は救ってくださった。今、主イエスがこの地方に来られている。さあ、行こう。あなたも癒していただくために、イエスさまの所へ行こう。
 主イエスは、ここでも、人々の信仰をご覧になって、うんと頷かれたに違いないのです。今回、主イエスは、人々の前で癒しのわざを行うのではなく、この人一人を群衆から連れ出されました。宗教改革者、マルチン・ルターはこう語ったそうです。
 回りに弟子たちがいたかもしれないが、この男は、主イエスと二人きりになる。他の人から離されて、「一人神の御前に立つ」。信仰とはそういうものである。一人神の御前に立つところで、信仰は成り立つ。そして、その信仰に根ざす愛に生きる。愛は、とどまっていないで外に出て行く。一人であることを好まず、それどころか、自分のと同じ痛みのある人の所に行って、イエスさまの所に行こうと声をかける。それが「伝道」だ。
 一対一に向き合われた主イエスは、今までは、言葉で癒されていましたが、ここでは、耳に指を入れ、つばをつけた指で舌に触れ、「開け」と命じられました。耳に入れた主イエスの指から、力が流れ出して、この人の中に注入されていく。また、つばは、癒しの薬のようなもの。さらに、「エファタ」これは、呪文の言葉のように、聞こえるかもしれません。が、福音書記者が伝えたかったことは、主イエスから流れ出て、私たちを変えていく神の権威ある力です。
 ここに用いられる「開く」のギリシア語は、押し開いていく様子を意味する言葉です。たとえばルカによる福音書では、よみがえりの主イエスが失望のうちにエマオに向かっていた弟子たちに顕れたとき、また、エルサレムで集まっていた弟子たちに顕れたとき、彼らの心の目を開いて御言葉を悟らせたと記されています。
 私たちは、人間の心はかたくなで、それが「罪」だとも教えられています。そして、自分の力で、そのかたくなな心を開いて、神様の方に向かなければならないと考えてしまうことがあります。あるいは、なかなか教会に足を向けてくれない友人や家族に対して、そのかたくなな心を何とか開こうとがんばってしまう事もあるでしょう。そのときに、石のようなかたくなな心は罪の故だから仕方ないと居直ったり、なじったりする。本当は、主イエスこそが、岩のような私たちの心を砕き、心を打ち開いてくださることを、忘れていないでしょうか。
 ここで主イエスは、もう一つのことを、私たちに示されます。天を仰いで深く息をつかれたのです。天の父に対して、この人の耳と舌を解き放ち、開いてくださるように祈られたのでしょう。そして、この出来事は、主イエスによって、天が裂け、神の御国と地上とが繋がったことを、私たちに思い起こさせるのです。今ここに、またひとつ、神の国が来たことを告げる出来事が起こったのです。
 この人の耳は開かれ、口を縛っていたもが解かれて、はっきりと話すことができるようになりました。彼の耳は、御言葉を聞き、受け入れることができるようになったのです。また、口には、賛美と祈りの言葉が与えられました。
 主イエスは、人々にこれらのことを話すなと禁じらました。福音書記者は、主イエスの真のお姿を知るのは、十字架の死と復活を経た後と考えています。また、先に行った、指を入れる行為、舌に触れること、「エファタ」という言葉が、魔術の所作事や呪文の言葉にならないためです。しかし、人々は、このでき事を話さずにはいられなかった。福音書記者は、まだ主イエスの時は来ていないことを記しながら、しかし、人々の唇に、驚きと、賛美の言葉を神が与えてくださったことも記すのです。
 福音書記者は、苦しんでいる人が癒されることが起きたのではなく、神の民が回復されること、神の国の支配がもう始まっていることをここに記したのです。そして、神の国のご支配は、聖書を通して、今、私たちにもつげ知らされているのです。
(2007年7月8日主日礼拝説教より)

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