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2007/06/25

主の御心

わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。彼らは”霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。
       (使徒言行録第21章4節)
今、パウロは自由に御言葉を語る使徒として最後の時を迎えているのだと言う人がいました。確かに、まもなくパウロは逮捕拘束され、命を狙われます。でもそれは決して伝道者パウロの歩みが妨げられることではありません。むしろ伝道者パウロの人生の最高点であるという人もいるのです。パウロも弟子として、十字架を担われた主イエス・キリストの歩みに従うのです。
 エルサレムにおいてパウロは捕らえられると、ここ、ティルスの町の小さな教会でも聖霊が語っておられました。教会の人々はパウロを引き留めようとするのです。ある人は言います。目の前にある信仰のための苦難。そんな時、わたしたちの心の中にはいつも当然のように、「だめだ。やめよう」という気持ちが起きるではないかと。神の聖霊によって示される、目の前にある苦難、苦労というものは、だからすぐに「やめなさいという警告」になってしまう。しかしパウロは止められても旅立つのです。神様が私たちに与えられる苦労というものは、すぐに「やめる。断念する」ということには結びつかないからです。優しい言葉、楽しい事柄、耳にやさしい事ばかり語る偽預言者であってはならないからです。
 そのような厳しい場面において、エフェソの大教会ではなく、ティルスの町の小さな教会の人々について記されています。ある人は言います。小さな親しい交わりの中にある教会が、心から、この苦難に向かう使徒パウロを心から送り出すのだと。
しかし、滞在期間が過ぎたとき、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした。彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。(同5、6節)
 探さなければ見つからないような小さな教会でありましたが、教会の人々は、妻や子供を伴い、家族ぐるみで、パウロたち一行を町はずれまで見送ったのです。浜辺でひざまずいて祈り、別れの挨拶を交わしたのです。先ほどの人は言います。「何とすばらしい光景だろう。すべての人々が浜辺でひざまずき、共に祈り、別れをする。そこには子供たちも一緒になって、パウロたち一行を見送るという体験をする。同じ主キリストの体の枝として、何と、これから歩む道が異なっていることだろう。」
 カイサリアに到着したパウロ一行は、フィリポという人の家に滞在します。あの使徒言行録第8章でエチオピアの宦官に旧約聖書イザヤ書を解き明かした弟子、ステファノの殉教の事件の後、危険なエルサレムを離れた一人でありました。たいへん不思議なことです。今やかつての迫害者が、迫害されていた人の客として、しかも同じキリストの兄弟として共にいるのですから。
 ここでもアガボという人が、パウロが縛られ異邦人の手に引き渡されると預言をしました。人びとはパウロを引き留めようとしたのです。ついにパウロは答えます。
「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」(同13節)
 「主イエスの名のためならば」とパウロは言います。今目の前で起きていることは、どうしようもない、どうにもならない出来事ではないということです。今目の前に迫っている困難は「主イエスの名のため」に起きている事柄である。
パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。(同14節)
 「主の御心が行われますように」の言葉はわたしたちにとって大切な言葉です。「主の御心が行われますように。」そしてわたしたちはもう口をつぐむしかないのです。「主の御心が行われますように」と祈り、すべてを神様におゆだねしてしまう。なぜそんなことができるのでしょうか。それは主イエスが「わたしに従いなさい」とおっしゃったことに従うことなのです。それは十字架におかかりになる前の夜、主が必死で祈られた言葉でもあるのです。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
 (マタイによる福音書第26章39節)
 パウロがこの時までにはエルサレムに到着したいと願った五旬祭、ペンテコステの日を今日わたしたちは迎えています。私たちの助け手、聖霊が来てくださった日です。
宗教改革者マルティン・ルターは次のように言っています。「このすべての世界、すべて輝き光るものに対抗して、神様が憐れみ深く、わたしたちをお救いになる方であることを信じること。そしてそのことを口に出して告白することは、今や厳しいことであるかもしれない。」暗いもの。闇ばかりではありません。この世には、輝き光るものがある。しかしそういうものに顔を向けるのではなく、神様の方向に顔を向ける。私は愚かになるかも知れない。罪の問題がある。わたしの弱さの問題がある。いや何よりも死ぬということへの恐れに、わたしはさいなまれる。ルターは言うのです。そんな時「聖霊が来る。聖霊が来てくださる。わたしの心に触れて、聖霊がお話になる。」
 愛し、愛し抜いて従っていた、主イエスが、この地上をお離れになる時、弟子たちの不安はいかなるものであったろうかと思うのです。直接、傍にいて、教え、守り、導いていてくださった、主イエスが、今、自分たちを離れてしまう。ルターは言います。その時、風の音がするというのです。聖書で「霊」と言う言葉は「風」という意味もあるのです。「ヒュー。さあ元気を出しなさい!聖霊はわたしたちに勇気を吹き込んでくださる。わたしたちに親しく、慰め深く話しかけてくださる。」
 不安の中で、どうして主の御心の通りになりますようにと祈れるのでしょうか。それは、この地上において、聖霊が助けて下さることを信じているからなのです。
(2007年5月27日ペンテコステ聖餐礼拝説教より)

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