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2007/03/29

いのちの糧

マルコによる福音書 第6章30-44節

 今日、私たちに与えられました御言葉は、主イエスが非常に多くの人々に食べ物をお与えになった奇跡、パンの奇跡の物語です。主イエスのなされた奇跡は、どれもびっくりするような出来事です。その力の大きさに私たちは心を奪われてしまいますが、多くの人々に食べ物をお与えになった奇跡の物語は、もう一つの点で、私たちが注意をひくことがあると言われています。それは、このパンの奇跡は、主イエスが、人々から「パンを与えてください、飢え死にしそうです」と求められてしたものではない、ということです。しかも、「私が用意をしようと」と、主イエスがすぐにその場で、パンの奇跡をされたわけではありません。
 今日の物語は、使徒たちが主イエスもとに帰ってきて、伝道の報告をするところから始まります。これは、6章6節以下の話の続きです。弟子たちのその報告を、主イエスは、ひとつひとつをお聞きになったのです。報告をお聞きになった主イエスは、伝道から帰った使徒たちを休息の場へと招かれます。
 ここに、「人里離れたところ」とあります。「人里離れたところ」と聞いて、すぐに思い浮かぶのは、1章35節で、主イエスが祈るために出て行かれたところでしょう。「人里離れたところ」は、主イエスの祈りの場、すなわち、主なる神と向き合う場で、休息するために、弟子たちを招かれたのです。
 しかし、人びとは主イエスと弟子たちが、人里離れたところに向かっていることに気づき、彼らよりも先回りしてそこへと向かいました。休憩に、すでにおびただしい人々が、彼らを待ち受けていたのです。
 (人里離れたところにおいて弟子たちと)船から上がった主イエスが見たのは、「飼い主のいない羊にような有様の人々」、歩むべき方向、見上げるべき方向も分からない、「飼い主のいない羊」のような存在だったと福音書記者は記しました。歩むべき方向が分からないと、それぞれは身勝手な方向に進んでしまいます。主なる神様の方向を向かない、自分を中心として身勝手な方向に行ってしまう罪の姿を見て、主イエスは、深く憐れまれたのです。私たち人間の罪の痛みを、主イエスご自身が知ってくださったのです。
 主イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められました。
ここでも、主イエスが語られたのは「悔い改めの宣教」でしょう。悔い改めるとは、自分の罪を見つめ続けることではありません。私の罪は、悔いても食いきれないと言って自分自身に呪いをかけることでもありません。身勝手な方向に進んでいくことをやめ、主なる神を見上げる方向に180度方向転換てすることです。ここでも、主イエスは、そのことを教えられました。
 時が過ぎ、弟子のひとりが、提案します。

「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」(36)

しかし、主イエスは、このすすめを断って言うのです。ほかの誰でもない、

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(37)

主イエスは、更に弟子たちを教育されるように、このパンの奇跡に引き込まれたのです。すぐに弟子たちが考えたのは、その場から離れて、食料を調達してくることでした。しかし、そこで主イエスが言われたことは、この場を去ってパンを探しに近くの町に出かけていくことではありませんでした。

イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」(38)

更に、この五つのパンと2匹の魚を配るにあたって主イエスが、弟子たちに命じられたことは、皆を組に分けて、青草の上に座らせることでした。行く先の分からない、勝手な方向に歩み出してしまうような、飼う者のいない羊の群れのようであった人々を、神の民の群れとして、秩序立てて並ばせたのです。人々の様子は、もはや「飼う者のにいない羊」の有様でありません。主の与えられた食べ物で満たされた群れとなったのです。
 しかし、マルコは、弟子たちが悟らなかったと記しました。何を悟ることができなかったのでしょうか。更に、この先の8章では、ペトロの信仰告白の記事が記されていますが、その直後になされた主イエスの受難の予告に対して、ペトロはそれを否定し、主叱責されるのです。そればかりか、主の十字架を目の当たりにして、人々は失望し、主イエスから離れたのです。まさに、「飼い主のいない羊」の有様でした。
 パンの奇跡で示された主の姿は、羊飼いとしての主イエスです。過去のどの預言者よりも力のある方です。大勢の人々食べ物を用意する奇跡を起こす方としてではなく、病を癒す力をお持ちの方としててもなく、また、貧しい者、虐げられている者を解放する指導者としての方ではなく、神の民を主の下に導いていく真の羊飼いとしての主イエスが、ここに示されているのです。この時、弟子たちの悟ることの出来なかったのは、この主イエスのお姿でした。
 しかし、そのままで終わりにならないことを聖書は私たちに示しています。死から復活された主イエスは、まず弟子たちに現れ、再び主イエスに養われる羊の群れ、教会がそこに形成されるのです。
 主イエスは、弟子たちに言われたように私たちにもお命じなります。私の、真のいのちのパンを携えて、この世に出て行きなさい。私の与えたパンを与えなさい。主イエスの御言葉を携えて、この世の歩みへと派遣されようとしています。直接に主イエスの言葉、聖書のことを話す機会は何かもしれません。が、どんな日々の仕事の中に必ず、御言葉の光は現れるます。そのことを信じて、日常茶飯の小さな業も、主の導きの祝福を祈ってなしていきましょう。
(楠原彰子:2007年3月11日主日礼拝説教より)

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