信じる喜び
使徒言行録 第16章11-40
フィリピの町で起こった出来事を読み味わっています。信じる喜びについて語られるのです。パウロとリディアという女性の出会いが記されていました。彼女の家族が皆洗礼を受け、フィリピの教会が誕生しました。まさに信じる喜びが語られるのです。
しかしその一方で何が起こったでしょうか。パウロたちは捕らえられ、残虐な仕打ちを受けます。牢獄の中での出来事も記されます。彼らが助け出されることも記されるのですが、今や、逆の立場について。つまりパウロたちが救出される事は、牢獄の看守たちにとっては一大事なのです。職務を全うできず、責任を感じた看守たちが自殺までしようとする事が記されるのです。
言われのない罪で逮捕投獄されるパウロたち。一方で思いもよらない出来事で職場でミスを犯し、その悩みから命を絶とうとする人々。信仰の喜びはどこにあるのかと問い返さざるを得ません。不当な仕打ちでひどい目に遭わされると言うことがわたしたちにも起こります。職場でのつまづき、疲れから、命を絶つ人がどれほど多いのか。わたしたちは日々、耳を閉ざしたくなるほどに聞くのです。
事件のきっかけはパウロが占いをする霊を女奴隷から追い出した事でした。占いが出来ないのですから、持ち主からしてみれば大損害です。そこで人びとをそそのかしてパウロに仕返しをしたのです。オカルト的な力で占いをする力が失われたと言っても、金品が奪われたり、壊されたのではありません。裁判しようがないとも思われます。だからパウロたちが受けた仕打ちは行き過ぎであり、もしかしたらよそ者を嫌う、みにくい感情が込められていたのかもしれないとも言われるのです。
パウロとシラスの二人は、いちばん奥にある牢の中に入れられたとあります。重罪人として、木の足枷まで付けられました。パウロたちはそういう身じろぎもできない様な所に押し込められました。わたしたちも、日々の歩みの中で、そういう経験をする事があるに違いない。そこで語られることがまずひとつ。キリスト者にある信じる喜びです。おとしめられ、たとえそれが全く不当な事であったとしても、うなだれ下を向くだけである必要がないとの事です。
真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた(使徒言行録第16章25節)。
重罪人として、最も深い牢屋に入れられて、足枷までかけられている二人が、顔を上げ、天を仰ぎみて、神様を礼拝している。他の囚人たちまでもが二人の声に耳を傾けるのです。美しい声に心惹かれたのでしょうか。パウロたちの信仰に引き込まれる。そういう体験です。教会はそういうところでありたいと願います。少しでも力強い賛美の歌を、少しでも人を励ます、信仰の言葉が、わたしたちの教会でも語られるならば、とわたしたちは願っているのです。牢の中にいた囚人たちがパウロとシラスの声に耳を傾ける。いったい何を思うのでありましょうか。たとえ犯罪を犯した囚人たちであっても、明日を思うのでしょうか。自分の境遇をなげくのでしょうか。それとも犯した罪を悔いるのでしょうか。神を讃える歌が、人々を、立ち直らせ、新しい歩みを始めさせる、そのきっかけとなることは、わたしたちにとっても同じなのです。
虐げられても上を見上げる事ができる、信じる喜び。そしてたとえどんな理由、いきさつがあったとしても、悲しみ沈む人びとを励ます力を持つ。これも信じる喜びです。さて牢屋の看守たちにとって思いがけない事が起こります。
突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった(同26節)。
囚人たちが逃げてしまえばたいへんな失態です。看守たちはすぐに剣を抜いて自殺をしようとしたのです。パウロは大声で叫びます。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」もうこれ以上進めない、もうこれ以上生きることができない、そのぎりぎりのところで、パウロが叫ぶのです。パウロの叫び声を、命を絶とうとするぎりぎりのところで看守たちは聞いたのです。わたしたちにそういう声が聞こえるでしょうか。わたしたちにも、もうこれ以上生きることができないというぎりぎりのところがあるに違いない。しかしそこで声をかけてくれる人がいるのです。
看守は、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏します。何の震えなのでしょうか。恐怖であったかもしれない。自分たちに理解できないことを目の前に見ている震えであったかもしれません。思い詰め、死のうとして、そのぎりぎりのところで止められた震えです。生きろと叫ぶ声を目の前にしたときの震えです。わたしたちも経験したことがあるはずの震えです。自分の力だけでは生きることができないことを知った震えです。看守は尋ねます。
「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った(同31、32節)。
確信に満ちた言葉。信仰に満ちた言葉です。信仰を求めている人びとに、力強く語られる言葉です。まだ真夜中であったにもかかわらず、しかも罪人として牢屋に入れられていたにもかかわらず、看守はパウロとシラスの二人を連れ出して怪我の治療をしてやるのです。まだ真夜中であったにもかかわらず、自分も家族も皆、すぐその場で洗礼を受けたと記されています。家族すべてが手を取り合って喜ぶ姿が描かれます。信じる喜びが、信仰を持つことになった喜びが語られるのです。
そして最後に、もうひとつの信じる喜び、信仰の交わり、教会の中にある喜びが語られているのです。この町で起きたひとつひとつの出来事の背後にフィリピの教会があった。フィリピの教会のリディアたちの祈りがあったことを忘れてはなりません。
牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した(同40節)。
励まされ、励ます。支え合う教会と信徒たちです。わたしたちが常に求めるまことの教会の姿です。
(楠原博行:2007年2月18日主日礼拝説教より)
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