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2007/02/26

信じる喜び

使徒言行録 第16章11-40

フィリピの町で起こった出来事を読み味わっています。信じる喜びについて語られるのです。パウロとリディアという女性の出会いが記されていました。彼女の家族が皆洗礼を受け、フィリピの教会が誕生しました。まさに信じる喜びが語られるのです。
 しかしその一方で何が起こったでしょうか。パウロたちは捕らえられ、残虐な仕打ちを受けます。牢獄の中での出来事も記されます。彼らが助け出されることも記されるのですが、今や、逆の立場について。つまりパウロたちが救出される事は、牢獄の看守たちにとっては一大事なのです。職務を全うできず、責任を感じた看守たちが自殺までしようとする事が記されるのです。
 言われのない罪で逮捕投獄されるパウロたち。一方で思いもよらない出来事で職場でミスを犯し、その悩みから命を絶とうとする人々。信仰の喜びはどこにあるのかと問い返さざるを得ません。不当な仕打ちでひどい目に遭わされると言うことがわたしたちにも起こります。職場でのつまづき、疲れから、命を絶つ人がどれほど多いのか。わたしたちは日々、耳を閉ざしたくなるほどに聞くのです。
 事件のきっかけはパウロが占いをする霊を女奴隷から追い出した事でした。占いが出来ないのですから、持ち主からしてみれば大損害です。そこで人びとをそそのかしてパウロに仕返しをしたのです。オカルト的な力で占いをする力が失われたと言っても、金品が奪われたり、壊されたのではありません。裁判しようがないとも思われます。だからパウロたちが受けた仕打ちは行き過ぎであり、もしかしたらよそ者を嫌う、みにくい感情が込められていたのかもしれないとも言われるのです。
 パウロとシラスの二人は、いちばん奥にある牢の中に入れられたとあります。重罪人として、木の足枷まで付けられました。パウロたちはそういう身じろぎもできない様な所に押し込められました。わたしたちも、日々の歩みの中で、そういう経験をする事があるに違いない。そこで語られることがまずひとつ。キリスト者にある信じる喜びです。おとしめられ、たとえそれが全く不当な事であったとしても、うなだれ下を向くだけである必要がないとの事です。

真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた(使徒言行録第16章25節)。

 重罪人として、最も深い牢屋に入れられて、足枷までかけられている二人が、顔を上げ、天を仰ぎみて、神様を礼拝している。他の囚人たちまでもが二人の声に耳を傾けるのです。美しい声に心惹かれたのでしょうか。パウロたちの信仰に引き込まれる。そういう体験です。教会はそういうところでありたいと願います。少しでも力強い賛美の歌を、少しでも人を励ます、信仰の言葉が、わたしたちの教会でも語られるならば、とわたしたちは願っているのです。牢の中にいた囚人たちがパウロとシラスの声に耳を傾ける。いったい何を思うのでありましょうか。たとえ犯罪を犯した囚人たちであっても、明日を思うのでしょうか。自分の境遇をなげくのでしょうか。それとも犯した罪を悔いるのでしょうか。神を讃える歌が、人々を、立ち直らせ、新しい歩みを始めさせる、そのきっかけとなることは、わたしたちにとっても同じなのです。
 虐げられても上を見上げる事ができる、信じる喜び。そしてたとえどんな理由、いきさつがあったとしても、悲しみ沈む人びとを励ます力を持つ。これも信じる喜びです。さて牢屋の看守たちにとって思いがけない事が起こります。

突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった(同26節)。

 囚人たちが逃げてしまえばたいへんな失態です。看守たちはすぐに剣を抜いて自殺をしようとしたのです。パウロは大声で叫びます。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」もうこれ以上進めない、もうこれ以上生きることができない、そのぎりぎりのところで、パウロが叫ぶのです。パウロの叫び声を、命を絶とうとするぎりぎりのところで看守たちは聞いたのです。わたしたちにそういう声が聞こえるでしょうか。わたしたちにも、もうこれ以上生きることができないというぎりぎりのところがあるに違いない。しかしそこで声をかけてくれる人がいるのです。
 看守は、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏します。何の震えなのでしょうか。恐怖であったかもしれない。自分たちに理解できないことを目の前に見ている震えであったかもしれません。思い詰め、死のうとして、そのぎりぎりのところで止められた震えです。生きろと叫ぶ声を目の前にしたときの震えです。わたしたちも経験したことがあるはずの震えです。自分の力だけでは生きることができないことを知った震えです。看守は尋ねます。

「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った(同31、32節)。

 確信に満ちた言葉。信仰に満ちた言葉です。信仰を求めている人びとに、力強く語られる言葉です。まだ真夜中であったにもかかわらず、しかも罪人として牢屋に入れられていたにもかかわらず、看守はパウロとシラスの二人を連れ出して怪我の治療をしてやるのです。まだ真夜中であったにもかかわらず、自分も家族も皆、すぐその場で洗礼を受けたと記されています。家族すべてが手を取り合って喜ぶ姿が描かれます。信じる喜びが、信仰を持つことになった喜びが語られるのです。
 そして最後に、もうひとつの信じる喜び、信仰の交わり、教会の中にある喜びが語られているのです。この町で起きたひとつひとつの出来事の背後にフィリピの教会があった。フィリピの教会のリディアたちの祈りがあったことを忘れてはなりません。

牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した(同40節)。

 励まされ、励ます。支え合う教会と信徒たちです。わたしたちが常に求めるまことの教会の姿です。
(楠原博行:2007年2月18日主日礼拝説教より)

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2007/02/03

十字架のほかに誇る所あらざれ

「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない(ガラテヤの信徒への手紙第6章9節、口語訳)。」

 加藤常昭先生は「善を行う」とは「互いに重荷を担い合う」ことだとおっしゃいました。ガラテヤ書のこの箇所の説教でかつて次のように語られたのです。「私たちは教会の交わりと言えば、教会とは、自分のことを誰かが親切にかまってくれるところ、自分の思う通りにしてくれるところだとのみ考えてしまう。そういう甘えが私たちの中にある。甘えのこころがあると、そのこころが満たされないままに不平や不満が生まれてしまう。パウロはそんなことを言っているのではなくて、教会というのは、むしろ自主自立の人間の集団であって、自分自身の重荷は自分で負う人間の集まりである。けれども自分の重荷を自分で負うことを知った人間は、神様のみまえに、ひとり立つことを覚えた人間であって、そのような人こそ、また神様のみまえにあって他者の重荷を負うために手を差し伸べることができるようになる(加藤常昭説教全集21教文館)。」

「然(さ)れど我には我らの主イエス・キリストの十字架のほかに誇る所あらざれ。(同14節、文語訳)」

 ガラテヤ書の講読も終わりに近づいて、わたしたちの心に響く勧めの言葉が続くのです。わたしたちはパウロの言葉にうなだれて耳を傾けざるを得ないと思うのです。この十字架によって世はわたしに対してはりつけにされている。わたしも世に対してはりつけにされている、ともパウロは言います。わたしたちがこの世を本当の意味で生きるとは、この世にしばられないことなのです。すべてを主イエスにゆだねる生き方こそがキリスト者が本当に生きるということなのです。この世的な、わたしの思いにとらわれて生きるならば、それも本当の意味で生きると言うことではないでしょう。
 「十字架のほかに誇る所あらざれ。」それはたいへん重い。時にはたいへんつらい言葉となるかもしれません。割礼の問題しかり。律法の問題しかり。わたしたち自身の問題としても、人間としてのわざ、思い...わたしたちの教会で、長老会で、あるいは信徒個人の間の問題でぶつかるもの、その多くは、肉にある人間の思いと、キリストにあって十字架のみにより頼む信仰との衝突に違いないと思うのです。結局は人間の思いによる見えでしかない。わたしたちがいかに、キリストの十字架を建て前にしてしまっているのか。まさにありとあらゆるものが「十字架のほかに誇る所あらざれ」との信仰をさいなみかねないのです。しかし、そうではいけない。まことの信仰に立ち返れ、キリストに立ち返れ、肉にあってではなく、キリストにあれ、とパウロは言うのです。
 祈祷会で出会ったこのふたつの言葉がなぜ多くのキリスト者に愛唱されて来たのでしょうか。それはただ自分の看板のように家の前に出して、満足するためではなかったと思うのです。キリスト者として歩み、悩み、涙する中で、心の中で繰り返して来た、そういう言葉であった。慰め、励ます言葉であったに違いないと思うのです。

兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。(同18節)

 この「アーメン」という言葉。ガラテヤ書の最後にパウロ自身が「アーメン」と書き記したことにも意味があると言われます。わたしたちには、もしかしたら、ここに「アーメン」とあることが普通に思われるかもしれませんが、実際、パウロの手紙の最後に、「アーメン」と記されているのは、ガラテヤ書以外には、意外に思えるかもしれませんがローマの信徒への手紙だけなのです。しかもガラテヤ書ではパウロ自身が「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いて(同11節)」いる。「アーメン」と書いている。そこにはこの手紙を聞くあなたがたは「アーメン」と言えるかと問いかけているパウロが、いや、これは信仰の本当に大切なことだから「アーメン」、「その通りです」と声をあわせなければならないというパウロのとても強い意志が働いているに違いないと考えられるのです。
(楠原博行:2007年1月10日祈祷会より)
   

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2007/02/01

見よ、新しいことを私は行う

イザヤ書 第43章19節

 一年のはじめの1月1日には、多くの国々で人々は教会に集まり礼拝を守ります。祝福に満ちたクリスマスの季節を過ごすと、今度は新年を迎えるのです。その新しい年が健康な、また実りの多い年になりますようにという祝福の言葉が、新しい年に向かって与えられるのです。新しい一年が幸せなものとなりますようにという願いが込められています。
 毎年、ひとつの御言葉を選んで、その御言葉を携えながら教会の一年の歩みを続けています。今年選ばれました御言葉は旧約聖書イザヤ書43章19節です。

見よ、新しいことをわたしは行う。/今や、それは芽生えている。/あなたたちはそれを悟らないのか...

 これに先立つ16節以下には次のように記されているのです。

主はこう言われる。/海の中に道を通し/恐るべき水の中に通路を開かれた方/戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し/彼らを倒して再び立つことを許さず/灯心のように消え去らせた方。(同16、17節)

 海の中に道を通す。水の中に通路を開く。また戦車や軍隊を倒し消え去らせた。これはわたしたちが良く知っています出エジプトの物語です。「十戒」の映画で知っています神様が紅海の水を割って道を通し、イスラエルの人々をエジプトの国から脱出させた出来事。あるいは追い迫ってきたエジプト王ファラオの軍隊の上に、紅海の水をもとに戻してイスラエルの人々を助けた出来事なのです。イスラエルの人々だけでなく後のたくさんのキリスト者が神様の大いなるわざとして語り継ぎ、また映画やミュージカルなどで描いた大きな出来事を、今、神様ご自身が口にされる、そういう部分なのです。しかしその次の一節を見るとわたしたちは驚くしかありません。

初めからのことを思い出すな。/昔のことを思いめぐらすな(同18節)。

 出エジプト。イスラエルの人々が紅海を渡る。エジプトの軍隊が打ち破られる。そういうわたしたちキリスト者も神の御業として語り継ぐような大いなる出来事を神様がお語りになったその直後に、初めからのことを思い出すなとおっしゃっている。「初めからのこと」とは、信仰の原点としての出エジプトのことと取れます。また聖書がその一番最初に語っている天地創造の出来事を言っているとも理解できます。しかし、その大切な「初めからのこと」を、そしてそれにとどまらない「昔のこと」を思いめぐらすなと神様ご自身がおっしゃっているのです。「海の中に道を通し」とか「戦車や馬、強大な軍隊」を倒したと神様ご自身がおっしゃれば、わたしたちは考えるに違いないのです。神様の御業、わたしたちの先人たちがどのように歩み、わたしたちの先輩たちがどのような教会を築いてきたかを。だからこそわたしたちは18節を読むとびっくりしてしまうのです。
 神様ご自身が、初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな、とおっしゃっておられる。それはいったいどうしてなのでしょうか。ここで19節の言葉が来るのです。

見よ、新しいことをわたしは行う。/今や、それは芽生えている...(同19節)

 神様ご自身が、わたしと言って、新しいことを行うとおっしゃる。しかも、その新しいことが、いつ来るのか、いつ来るかというのではなくて、今もう始まっている。いやその新しいことが新しい芽となって、芽生えているとさえおっしゃっている。
 なぜ神様はそこまで言わなければならなかったのでしょうか。歴史背景を考えてみればわかるのです。イザヤ書が語っている時代。すでにイスラエルとユダの国々は滅んでいます。人びとはバビロニアという北の大国へと連れて行かれて長い捕囚の時を過ごしました。しかし状況が変わった。今やバビロンの国も力を失い。ペルシャの時代になった。ついに解放の時が訪れたのです。イスラエルの地に帰還しても良い。ふるさとである故郷へと帰ることができる。しかし何が起こったでしょう。長く続いた外国での生活。奴隷状態にあったわけでもない。普通の生活が営まれていたのです。今更、イスラエルの地に帰還することもない。自分たちは十分やっていける。こういう声がイスラエルの人々の間に聞かれたと言います。

...わたしの道は主に隠されている...
  わたしの裁きは神に忘れられた...
           (同40章27節)

 主なる神様とわたしはもう関係ないのではないか。神様はわたしのことなど忘れてしまっておられるではないか。そうではない。そうではないという神様の声こそが、「見よ、新しいことをわたしは行う。/今や、それは芽生えている。/あなたたちはそれを悟らないのか...」との言葉なのです。
 新年を迎えるにあたりわたしたちはいろいろと思いを巡らします。それは仕事のことであるかもしれません。勉強のことであるかもしれません。家庭のこともそうでしょう。自分の人生について、年が新しくなって、思いを巡らすに違いありません。今日、この教会に集いましたわたしたち、その思いをめぐらすことをする中に、すでに、しっかりと神様が真中にお立ちになっていることを忘れてはならないし、お立ちになっておられるからこそ、私たち自身、支えられ、力づけられることを思い起こしたいと思うのです。

見よ、新しいことをわたしは行う。/今や、それは芽生えている。/あなたたちはそれを悟らないのか...

 「あなたたちはそれを悟らないのか」と主なる神様は厳しい言葉をもかけられます。何よりも、「見よ、新しいことをわたしは行う」と、神様ご自身が、わたしたちの内に新しいことを行おうとされていることを覚えたいのです。人生、職業、家庭、すべてにおいて、神様は、信仰ということをその中核において、新しいことを行うとおっしゃっておられます。そしてそのことにわたしたちが気づく前に、はっきりと認識する前に、すでに「今や、それは芽生えている」ともおっしゃっておられる。このことを心に留め、また支えとして、2007年の新しい年を迎えたいと願います。
(楠原博行:2007年1月1日元旦礼拝説教より)

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