神に栄光を
使徒言行録 第12章20-25節
「神に栄光を」の言葉は、わたしたちが聖書やキリスト信仰の書物を読むとき頻繁に目にする言葉です。10月最終の主日、わたしたちは宗教改革を記念する礼拝を祝いますが、「神のみに栄光を-soli deo gloria-」とは改革者たちが標語にして教会の信仰を問い直したことばでもあります。彼らの系譜にあることをはっきり言い表すわたしたち改革派と呼ばれる教会では、教会の旗印でもあるのです。わたしたちは祈りをささげます。わたしたち自身が祈る、祈りの中で、実はわたしたち自身の口からもうすでに「神様に栄光がありますように」との言葉が繰り返し出て来ているのではないでしょうか。
でも神様の栄光とはいかなるものだろうかと考えると、それほど一筋縄ではいかないのです。しかし、実のところ、この栄光が、別の言葉で言えば、栄誉、ほまれというものが人間についてのことであれば、これは良くわかることがらなのです。わたしたちのほまれです。わたしたちの名誉についてです。わたしたち人間としての誉れについては、大きな関心事です。社会で生きている限り、ほまれというものを気にします。名誉というほどではないにしても、自分が、働いて生活をしている、職場、社会において、他の人が、自分をどのように見ているのか。職場での地位については、考査とか、もっと現実的な問題を伴って参ります。
キリスト者といえども、自分自身のほまれの問題からは逃れにくいということです。神様の栄光ということを平気で口にしつつ、自分の栄光の問題の方にも目を向けてしまうということです。今日わたしたちに与えられております聖書の御言葉から、ひとつの典型例、自らの誉れをこの上なく求めてしまった人の姿を読むことになるのです。主人公は、先週ご一緒にお読みしましたところで、ヤコブ、ペトロに迫害の刃を向けた、ヘロデ王なのです。
ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた(使徒言行録第12章20-22節)。
王から目をつけられた住民が、嘆願をしたというわけです。しかも王の側近に取り入るという手段を使わなければならないほど、王から目をつけられ、怒りを持って扱われた人々なのです。ようやく王と面会がかないます。ヘロデ王が王座について演説をします。演説を聞いた人々が、ほめそやすのです。「これは神の声だ。なんと神々しいことか。何と栄光に満ちた声だろうか。語るのはヘロデ王だが人間の声ではない」と言うのです。それは住民たちの演出であったに違いありません。食糧の問題、自分たちの生き死にが関わっているのです。ようやく面会がかない、ようやく和解の言葉がヘロデ王の口から発せられようとしている。ティルスとシドンの住民たちは、少しでもヘロデ王の機嫌を取って、少しでも有利な言葉を引き出したい。「神の声だ。人間の声ではない」という叫びも、そういう計算づくめの、いやらしさで満ちています。
しかし自分を褒めそやす言葉を聞いて快く思うのは人の常です。それが「神様のようだ」という信仰の根幹を揺るがすような言葉でも、受け入れてしまうことがあるのです。「神様に栄光がありますように」と祈る口を持っている人が、「あなたは神様のようだ」というほまれの言葉を受け入れてしまう恐ろしさです。
するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた(同23節)。
天罰だと言うのでしょうか。神の罰が降ったとさげすんで見るのでしょうか。しかし、わたしたちがここに見るのは、人間の心の闇だと思います。わたしたちひとりひとりにひとしく関わってくる暗闇に違いないのです。人間の栄光。人の誉れを語る時、そこには暗闇しか存在し得ないのだと思います。この暗闇のような世界を生きるわたしたちと言いながら、時には、その暗闇を、わたしたち自身が作り出そうとしているのです。もしそれに気がついたら、自分の生活の一片にでも、そのような暗闇を見つけ出したとしたら...
ヘロデ王の物語は、わたしたちが人間的な思いによって、陥ってしまう暗闇です。わたしたちが陥ってしまいかねない暗闇なのです。しかし、このような突然倒れ伏してしまうような暗闇でなくても、わたしたちの信仰の歩みの中で経験する暗闇というものがあると思います。
信仰生活ということを考えるとき、いろいろな言葉が発せられるのです。洗礼を受けた時の感激が、いつしか薄れ、あのときの輝きはどこへいってしまったのかと嘆く声です。神様、神様と呼びかけながら、どうしてもその神様が生きておられるということに深い感動を持って生活することができないという嘆きです。また愛に生きる。光の中を歩むと言いながら、いつしか闇の中を歩んでいるのではないかという思いにとらわれている自分がいるという嘆きです。わたしたちは光を見たいと願うのです。自分の中に、あるいはすぐそばに暗闇がある。わたしたちに与えられた使徒言行録 12章の物語は、ヤコブの惨殺。ペトロの投獄と救出。そしてその迫害を行った張本人、ヘロデ王の死を語った後、それとはまるで対照的に次のように記すのです。
神の言葉はますます栄え、広がって行った。バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った(同24、25節)。
人間が陥る闇の物語とは対照的な言葉です。神の言葉は止まないと言うことです。人間の側にどんな闇があろうが、神の言葉は栄え、広がるしかないということです。教会の業はいかなることがあろうとも止まらないということです。バルナバとサウロは遣いの任務を果たし、アンティオキアへと帰って行くのです。二人による最初の宣教旅行がいよいよ始まります。神の栄光のために。
(楠原博行:2006年9月24日主日礼拝説教より)
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