熱心な祈りを
使徒言行録 第12章1-19節
そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた(使徒言行録第12章1-5節)。
なぜ信仰のために迫害に耐えることができるのでしょう。なぜ信仰のために、ヤコブは死に、ペトロも牢に入れられる事に甘んじるのでしょうか。片や、迫害をするヘロデ王の方は、人が喜ぶから、ユダヤ人が歓声を挙げるからという、ただそれだけの理由で、尊い命をもてあそんでいるのです。
なぜ信仰のゆえに、自分の命さえささげることができるのか。この世に執着がないということです。この世において富を築き、その富の中でたたえられる豊かな生活をしたい。この世において何か大きな記念碑を建て、その前でたたえられる者となりたい、そういうことを目指すのではないからだと思います。百何十年か前にはこの国ではまだ迫害が行われていたのです。わたしたちの教会においてもまたそうでありました。わたしたちは、時に、その先輩たちをたたえたり、その功績をもてはやしたりする罪に陥ることがあり得ると思うのです。彼らは、後にたたえられたり、持ち上げられたりするために信仰の戦いを戦ったわけではなかったはずです。時には妨害の中で、迫害と呼んで良い状況の中で、このエルサレムの教会のように熱心に祈り続けたのは、名声や、後の顕彰のためではなく、神様への信仰のゆえであったことを私たちは忘れてはなりません。もし、そうでなかったとしたら、この世において不利な立場に追いやられたり、時にはこの世を去るということに直面しなければならない、そんな信仰のゆえの迫害に耐えることなどできないはずなのです。
水曜日に開かれております祈祷会に、多くの方がなかなか参加することができないのが残念です。先日、2年近くかけまして、旧約聖書の創世記全巻を読み終えました。特にここ何週間か、創世記後半の族長ヤコブの物語、特に、ヤコブが、あるいは息子のヨセフが、この世を去っていく物語をご一緒にお読みしたのです。族長ヤコブは、この世を去る時にいったい何をしたでしょうか。息子たちをひとりひとり祝福し、神さまの約束をはっきりと言い表し、それを子供たちに指し示して息を引き取ったのでありました。自分は、約束の地を、自分の墓所であるほんのひとかけらの土地をカナンの地に持っていただけでした。息子はエジプトという大国で、ファラオに次ぐ地位を持つ大臣となっています。それでもエジプトを出て、その一片の土地に葬られることを望みました。それはどうしてでしょうか。それは自分が死んだ後も、信仰が、神様の約束が決してなくなることはないと確信していたからに違いありません。そしてそのことをしっかりと子供たちに受け渡すことこそ自分の役目であると信じていたからに他ありません。
使徒言行禄は、ヘロデ王の迫害に続いて、捕らえられたペトロについて記すのです。このペトロに不思議なことが起こるのです。天使が現れ、鎖をはずし、牢獄の門を開き、自分には今何が起こっているのかわからないような仕方で、ペトロに対して次々と救いのわざが成就していくのです。つながれていた鎖から、牢獄から解き放たれて町の中に戻って来た、その時になってはじめて、ああ、自分が助けられたのだということにペトロは気づくのです。そして教会の人々のところへと向かいます。
こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。 門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた(同12-14節)。
信仰が守られるようにと教会は祈り続けます。そして、まさにその時、ペトロがその建物の扉をたたいたのです。不思議な描き方がなされます。中では今なお熱心にペトロの安否を気遣っている人々がいて、そのペトロ本人が扉の戸をたたいているのです。ペトロ自身がもうすでに扉の向こうにいるわけですから、まことに喜ばしい状況なのです。ところが喜びのあまり扉を開けもしないで、このロデという人はペトロを放っておいて家の中に駆け込んでしまうのです。ペトロは待ちぼうけです。しかも他の人々はペトロが助かったということが信じられません。女中はペトロだと言い張って、人々はヤコブのようにペトロも殺されてしまうと恐れながら祈り続けるばかりです。ペトロは今なお玄関の所で扉を叩き続けているのです。
迫害という重い出来事の中で祈り続ける教会。信仰を守るため耐え続ける教会です。しかし教会と言うことに思いを巡らすならば、わたしたちはこの世に捕らえられていてはならないとも申し上げたのです。そしてまた、時を越え、わたしたちの生き死にを越え、確かに受け継がれていくものがあるという、アブラハム、イサク、ヤコブの信仰を思い起こしました。その時、私たちは本当の意味で失望することはあり得ません。そしてそのことがまた何よりも大きな心の支えとなり、勇気となるのです。
ペトロの救出がそうであったように、悲しみ、苦しみ、必死の祈りの中で、不思議なまでの喜びがあるに違いないのです。わたしたちの思いを越えて、私たちを追い越していってしまうほどの喜びが来るということです。神様のご計画、神様のみわざが、私たち人間の思いをはるかに超えているということでもあります。人間は、時には、そのご計画の前でたじろいだり、右往左往してしまうことがあるかもしれません。しかし、私たちの想像も及ばぬ所に、支えがあり、助けがある。そしてこれほどの喜びが来ることを、今いちど心に刻みたいのです。驚くような喜びを、私たちも待ち望みたい、そう祈り願うのです。
(楠原博行:2006年9月17日主日礼拝説教)
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