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2006/09/26

熱心な祈りを

使徒言行録 第12章1-19節

 そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた(使徒言行録第12章1-5節)。

 なぜ信仰のために迫害に耐えることができるのでしょう。なぜ信仰のために、ヤコブは死に、ペトロも牢に入れられる事に甘んじるのでしょうか。片や、迫害をするヘロデ王の方は、人が喜ぶから、ユダヤ人が歓声を挙げるからという、ただそれだけの理由で、尊い命をもてあそんでいるのです。
 なぜ信仰のゆえに、自分の命さえささげることができるのか。この世に執着がないということです。この世において富を築き、その富の中でたたえられる豊かな生活をしたい。この世において何か大きな記念碑を建て、その前でたたえられる者となりたい、そういうことを目指すのではないからだと思います。百何十年か前にはこの国ではまだ迫害が行われていたのです。わたしたちの教会においてもまたそうでありました。わたしたちは、時に、その先輩たちをたたえたり、その功績をもてはやしたりする罪に陥ることがあり得ると思うのです。彼らは、後にたたえられたり、持ち上げられたりするために信仰の戦いを戦ったわけではなかったはずです。時には妨害の中で、迫害と呼んで良い状況の中で、このエルサレムの教会のように熱心に祈り続けたのは、名声や、後の顕彰のためではなく、神様への信仰のゆえであったことを私たちは忘れてはなりません。もし、そうでなかったとしたら、この世において不利な立場に追いやられたり、時にはこの世を去るということに直面しなければならない、そんな信仰のゆえの迫害に耐えることなどできないはずなのです。
 水曜日に開かれております祈祷会に、多くの方がなかなか参加することができないのが残念です。先日、2年近くかけまして、旧約聖書の創世記全巻を読み終えました。特にここ何週間か、創世記後半の族長ヤコブの物語、特に、ヤコブが、あるいは息子のヨセフが、この世を去っていく物語をご一緒にお読みしたのです。族長ヤコブは、この世を去る時にいったい何をしたでしょうか。息子たちをひとりひとり祝福し、神さまの約束をはっきりと言い表し、それを子供たちに指し示して息を引き取ったのでありました。自分は、約束の地を、自分の墓所であるほんのひとかけらの土地をカナンの地に持っていただけでした。息子はエジプトという大国で、ファラオに次ぐ地位を持つ大臣となっています。それでもエジプトを出て、その一片の土地に葬られることを望みました。それはどうしてでしょうか。それは自分が死んだ後も、信仰が、神様の約束が決してなくなることはないと確信していたからに違いありません。そしてそのことをしっかりと子供たちに受け渡すことこそ自分の役目であると信じていたからに他ありません。
 使徒言行禄は、ヘロデ王の迫害に続いて、捕らえられたペトロについて記すのです。このペトロに不思議なことが起こるのです。天使が現れ、鎖をはずし、牢獄の門を開き、自分には今何が起こっているのかわからないような仕方で、ペトロに対して次々と救いのわざが成就していくのです。つながれていた鎖から、牢獄から解き放たれて町の中に戻って来た、その時になってはじめて、ああ、自分が助けられたのだということにペトロは気づくのです。そして教会の人々のところへと向かいます。

 こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。 門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた(同12-14節)。

 信仰が守られるようにと教会は祈り続けます。そして、まさにその時、ペトロがその建物の扉をたたいたのです。不思議な描き方がなされます。中では今なお熱心にペトロの安否を気遣っている人々がいて、そのペトロ本人が扉の戸をたたいているのです。ペトロ自身がもうすでに扉の向こうにいるわけですから、まことに喜ばしい状況なのです。ところが喜びのあまり扉を開けもしないで、このロデという人はペトロを放っておいて家の中に駆け込んでしまうのです。ペトロは待ちぼうけです。しかも他の人々はペトロが助かったということが信じられません。女中はペトロだと言い張って、人々はヤコブのようにペトロも殺されてしまうと恐れながら祈り続けるばかりです。ペトロは今なお玄関の所で扉を叩き続けているのです。
 迫害という重い出来事の中で祈り続ける教会。信仰を守るため耐え続ける教会です。しかし教会と言うことに思いを巡らすならば、わたしたちはこの世に捕らえられていてはならないとも申し上げたのです。そしてまた、時を越え、わたしたちの生き死にを越え、確かに受け継がれていくものがあるという、アブラハム、イサク、ヤコブの信仰を思い起こしました。その時、私たちは本当の意味で失望することはあり得ません。そしてそのことがまた何よりも大きな心の支えとなり、勇気となるのです。
 ペトロの救出がそうであったように、悲しみ、苦しみ、必死の祈りの中で、不思議なまでの喜びがあるに違いないのです。わたしたちの思いを越えて、私たちを追い越していってしまうほどの喜びが来るということです。神様のご計画、神様のみわざが、私たち人間の思いをはるかに超えているということでもあります。人間は、時には、そのご計画の前でたじろいだり、右往左往してしまうことがあるかもしれません。しかし、私たちの想像も及ばぬ所に、支えがあり、助けがある。そしてこれほどの喜びが来ることを、今いちど心に刻みたいのです。驚くような喜びを、私たちも待ち望みたい、そう祈り願うのです。
(楠原博行:2006年9月17日主日礼拝説教)

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2006/09/24

平和の神と共に

フィリピの信徒への手紙 第4章2-9節

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(6-7節)

 この言葉を聞いた時、そうだ、あれこれと考えて、堂々巡りのようになってしまうことはよくない。すべてを神様に委ねればいいんだ。そう考えて、慰めを受ける人もいます。すべては人間の考えの及ぶことではないのだ。だから、神様だけが知ることなんだ。自分があれこれと気にしてもしょうがないことなのだと、全てを運命として諦めてしまう人もいます。しかし、パウロが伝えようとしているのは、運命として受け止め、諦めてしまうことではありません。
 ここに出で来る「思い煩う」は、「心を使う」「心配する」という意味の言葉です。語源を探ると「分ける」という言葉から来ています。ある説教者は「思い煩うことは、心がわれてしまうことだ」と言いました。心がわれて、ああでもない、こうでもないと考えてしまうと、結局のところ、AをとるかBを取るかの話になって、おおかた、自分にとっては心配な方の考えをとってしまう、「これが私の運命だ」と諦めてしまうと言うのです。
 パウロは、また、思い煩いをするようなことを無視しろ、忘れてしまえと言っているのでもないのです。何事につけ、求めているものを神に打ち明けよと言っているのです。抱えている困難や問題を、抱え込んで心を割ってしまうのではなく、神に向かって開きなさいと言っているのです。
 私たちの心は、何よりも神に向かって開かなければなりません。さらに、打ち明けるに際して、パウロは、「感謝を込めて祈りと願いをささげ」よと言っています。ここに記されている「祈り」と「願い」ということばは、日本語で感じるよりももう少し、はっきりとした意味を持っているかもしれません。もとのギリシア語で言いますと、祈りとは、神に向かって祈るという言葉です。また、願いとは、必要に迫って神に請い求めることを意味する言葉です。つまり、思い煩って、心を割ってしまうのではなく、神に向かって心を注いで、祈り請い求めよと言うのです。
 この時に、私たちは少し注意が必要だと思うのです。何でも神様に向かっていっていいのだ、それが祈りなのだと思うと、時として祈りの言葉が、ただの愚痴の羅列になってしまうことがあります。正直に神の御前に、自分の思いを述べているのに、なぜ愚痴を並べるだけのものにしか聞こえないのでしょうか。どうしたらいいのでしょうか。
 「祈り」について思いめぐらしながら、いくつかの信仰問答書を読んでみました。どの信仰問答書も祈るときに、私たちに求められている3つのことを示しています。

1.主がお命じになったことを心から呼び求めること。
2.自らの苦しみと惨めさを心から認識して、神の前にへりくだること。
3.主イエス・キリストのゆえに、私たちが祈りにふさわしいものでないのも関わらず、その祈りをたしかに聞き届けてくださるという確信を持つこと。

 私たちは祈る時に、誰に対して祈るのでしょうか。また、私たちの祈りの言葉を聞くのは誰なのでしょうか。改めて、この当たり前のようなことを問うてみた時に、どの様に私たちは答えるでしょうか。
 礼拝に於いても、祈祷会においても、また、自分の部屋で、たった一人で祈る祈りでも、当然の事ながら、私たちは神に祈るのであって、私たちの祈りの言葉を聞くのは神にほかならないのです。私たちと共に祈ってくださる、主イエスに他ならないのです。
 宗教改革者のカルヴァンは、「信仰の手引き」という小さな書物の中で、「祈りについて考慮されねばならぬ事は何か」を書いています。カルヴァンもまた、主を心から呼び求めることから説き起こし始めています。それは、ただ口先だけのものではなく、心のもっとも深いところから、神に請い求めることだというのです。私たちは、いつもいつも、祈る言葉を準備して祈っているわけではく、むしろ、その時、その場で思いつくままに祈ることが多いと思うのです。そのような時にも、私たちは、心から神を請い求める祈りをするのです。
 神の御前にへりくだることについては、心の奥深くで自らの罪を認識するならば、同時に、主のみを誇り、ただ「救い賜え」と主の御名を呼ぶというのです。
 神が、私たちの祈りを聞き届けてくださる約束を固く信じることについては、もっとも完全な人といえども、主の前に止めどなく溜息をつき、うめき、へりくだりの限りを尽くして主を呼び求めなければならないと、記しました。しかし、そのことは、神自らがお命じになったことなのです。主を信じるものの貧しさ乏しさの重圧から来る溜息も、うめきも、神は祈りとしてお聞きになる、と言い換えてもいいかもしれません。

主イエス・キリストの救いの約束を信じて祈るものは、いつでも傍らにいる主イエスを意識し、信じて祈るのです。私たちの祈りを、願いを、主イエスは、私たちよりももっと深いところで聞いていらっしゃるのです。その事をパウロは、

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守る(7節)

と記しました。「守る」とは、見守る、凝視するという言葉です。主イエスは私たち一人一人から目を離されずに、見守っていてくださるのです。私たちが、片時も忘れることなく信じているのは、この主イエス・キリストです。この主イエスに守られて祈るときに、私たちの祈りもまた、真の祈りとなるのではないでしょうか。
(楠原彰子:2006年8月27日主日礼拝説教より)

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