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2006/05/28

入信への道

使徒言行録 第8章26-40節

 いささか仰々しい仕方で「エチオピアの女王カンダケの高官」という人が出て参ります。エチオピアは世界で最も古い王国のひとつです。ここで言うのは、ナイル川の上流のメロエという町を首都としたヌビア王国のことで、カンダケとは、ファラオという名前のように、その国の女王たちの一般的な呼び名であったようなのです。そのカンダケの高官だった、しかも女王の全財産の管理をしていたと言うのですから、かなりの地位にある人でした。その人がエルサレムに礼拝に来たというのです。ユダヤの教えに従い、ユダヤ教の信徒となっていた人が、世界各地にいて、エルサレムに巡礼すると言うことがありました。この人もそういう人々の中の一人だったのでした。長い旅路を経てエルサレムの神殿を詣でた帰りだったのです。そしてまさにその時、聖霊がフィリポに「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と命じた時に、このエチオピアの高官は預言者イザヤの書を朗読していたというのです。
 フィリポは問います。「読んでいることがお分かりになりますか。」宦官は答えます。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう。」この人が読んでいたのは旧約聖書イザヤ書53章の言葉でした。それは一人の人のことを言っています。たとえ辱められても、まともな裁判も行われずに屠り場へ、つまり命を奪われるところへと連れて行かれるのに、口を開き、抵抗することがなかった一人の人。苦難の僕と呼ばれるこの人について語っているのです。エチオピアの宦官は、イザヤ書53章を読んでいて、これはいったい誰のことを言っているのですかとフィリポに尋ねるのです。

そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」(使徒言行録第8章35、36節)

 エチオピアの宦官の決心は早かったのです。目の前に水がある。洗礼を受けるのに、いったい何の妨げがあるでしょうかと言うのです。なぜこのエチオピアの宦官は洗礼を受ける決心をしたのでしょう。この人がキリストを信じるようになる、入信の道は何だったのでしょうか。それは聖書の御言葉でした。それを解き明かして、イエス様のことを話してくれたフィリポとの出会いでした。いや何よりも、聖書の御言葉、フィリポを通して、主イエス・キリストと出会ったのです。
 自分がはるばるエルサレムへと礼拝に来ていた神様。そして自分で聖書を読んで、神様のことを知ろうとしていた。しかしひとりだけではどうしようもなかったのです。聖書の解き明かしを受ける。力強い説教を聞く。まさにイザヤ書53章が語っているように、屠り場へと引かれていく羊のように、十字架にかかられたキリスト、そしてそれはすべて、わたしたちの罪のためであった。わたしたちにはこのお方を信じることが必要である。フィリポはこの人の傍らに座り、馬車に揺られながら熱心に語ったのだと思います。わたしたちも同じです。一人で思いめぐらしているだけでは力が足りない。教会に来てはじめて、キリストを信じるということがどういうことかがわかる。信じている人の姿を見ることが出来る。信じている。信仰を持っているということは、こういうことなんだと分かることができる。
 新約聖書を読んでいて、そういうことがあるのですが、わたしたちの聖書には37節がありません。新約聖書はギリシャ語からの翻訳です。その翻訳した聖書にはなかったと言うことです。しかしかぎりなくたくさんの聖書が伝えられていて、その中には、このわたしたちの聖書にはない部分も伝えられているのです。わたしたちの聖書にも使徒言行録の一番最後の所に、それが書き記されています。37節は、

フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。

となっているのです。決心したエチオピアの宦官とフィリポとの間の会話が、わたしたちが洗礼を受ける時に口にする洗礼の誓約の言葉になっているのです。
 宦官は馬車を止めさせると、すぐにフィリポから洗礼を受けました。そして不思議なことにフィリポの姿は見えなくなってしまいます。しかしエチオピアの宦官にとって、それは驚きであったでしょうが、重要なことではなかったのです。洗礼を受け、喜びにあふれて、自分の国へと旅を続けたと言います。
 わたしたちはどうだったでしょう。どのようにキリストと出会い、信じるようになったのでしょうか。さまざまだと思うのです。さまざまな出会いがあったと思います。人を通してであったかもしれない。教会に集うことによって出会ったかも知れません。ただひとつはエチオピアの宦官と同じであったと思うのです。聖書、人、教会を通してキリストと出会い、そして、自分の口で、他の人々の前で「わたしはイエス・キリストを神の子であると信じます」と告白した。そして洗礼を受けた。そして喜びにあふれて、自分がしていたこと、自分の毎日の生活、人生へと帰って行く。今すぐでなくても、いつかは洗礼を受けると考えている方にも、おすすめをしたいと思うのです。今、キリストが、あなたも、招いておられます。
 このようなことが、ひとつひとつと起きる。わたしたちの教会も、そういう教会でありたいと願います。キリストと出会える教会。キリストを信じるようになれる教会。キリストを信じて、洗礼を受け、喜びに満ちて、自分が生きている世界へとまた帰って行く。
 はじめての人がわたしたちの教会へといらっしゃる。そこでキリストの教会とはどういう教会なのかを実感して感じることができる。そこに集っている人々を見、話し、キリストを信じるとはこういうことだと知ることが出来る。そしてわたしもキリストを信じたいと思うようになる。そういう教会になりたいと願います。
(楠原博行:2006年5月21日主日礼拝説教より)

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