殉 教
使徒言行録 第7章54節-第8章3節
ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。(使徒言行録第7章55-58節)
ステファノは人々の前で説教をしたのでした。前回のところで「あなたがたはかたくなである」と語りました。それは「首がかたい」という言葉でした。神様がこちらを見なさいと呼びかけても首がかたくて動かないのです。神様を見ていないと言われて人々は怒るのです。自分は神様の方をしっかり向いている。神様に従っている。そう信じているから人々は憎むのです。
聖霊に満たされ、ステファノは語ります。しかし人々は聞きたくありません。耳を手でふさぐのはそういうことです。大きな声を出して、自分の声でステファノの言葉が聞こえないようにする。ステファノの言葉が自分の体に入ってくることに絶えられないのです。
聖書を読んでいて、ああ、ここには今、わたしに必要な言葉が書いてあるなと思う事が必ずあるはずです。聖書は長い。聖書は大きい。聖書を読んでいるうちに眠ってしまうこともあるのです。しかしそれでも読み続けていると、ここで今読んでいる事は私にあてはまると感じる事があるはずです。自分にしみ込んでくる。神さまの言葉が自分にしみ込んでくる。これは本当にすばらしいことですから、わたしたちはそれを求めたいのです。
しかしここでステファノに起こっているのは、力づくで、出来る限りのことをして、神さまの言葉が自分に入ってくるのを拒絶しよう、拒否しようとする人々の出来事です。語られる言葉に逆らう最終手段は、こうすればもう語られることがなくなってしまうだろうということは、言葉を語る者を亡き者にすることです。人々はステファノに襲いかかり、町の外へと引きずり出してしまいます。そしてステファノに向かって石を投げるのです。しかもその人が一言も言葉を発せなくなるまで、その人が命を失うまで、皆で石を投げつけるのです。聖書はこうしてステファノの最後を記します。
人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。(第7章59、60節)
今まさに死に向かおうとする中で、ステファノは「わたしの霊をお受けください」と主イエスに呼びかけたのです。そして自分の命を奪おうとする者たちに、その罪をどうか負わせないでくださいと叫んだのです。わたしたちはこの一週間、いやこの受難の季節の間、ずっと十字架上の主イエスの死を思い、祈りをもって聖書の御言葉を読み続けて参りました。まさに主イエスの十字架上の死を思い起こさないではいられないステファノの言葉です。
「ステファノはこう言って、眠りについた(第7章60節)」と聖書は静かに記します。そしてキリストの弟子たちの悲しみが続いて記されます。「信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ(第8章2節)。」
キリストの弟子たちは、今、愛する人の死を迎えたのです。しかも残酷的な仕方で奪われた命でありました。そしてこれは「殉教」と呼ばれます。「殉教」という言葉を聞いてみなさんはどのように感じられるでしょうか。たいへん重い言葉であると思うのです。いや死ぬということに対しても、わたしたちは重い事であると思わないではいられないのです。主イエスが死に対してどういう言葉をおかけになったのか。それは「復活」という言葉です。
教会の庭の駐車場から入ってこられた方はもうお気づきだと思いますが、小さな飾りを作ってみました。小さな泉に卵を飾る、イースターの飾り付けです。そこになぜ卵が飾られるのか。卵というものが復活のシンボルであるからです。卵の殻が打ち破られる。死という閉ざされたところから、そこにとどまり悲しみ、うち沈むことなく、打ち破られる。そういうシンボルであるからです。
大切なことは、固まらない事。先ほどの言葉を使えば、かたくなであってはならないということなのです。そして繰り返しますが、わたしたちは死というものが重いと言いますけれども、主イエスが復活されたこと、そこで身をもってお示しになられたことによって、わたしたちはもうそのような殻の中に閉じこもっている必要はないということなのです。
「殉教」という言葉を使いました。キリストにすべてを捧げるということです。信仰を持っている人は、ここに集っている信仰者は、キリストにすでにわたしたち自身を捧げているのです。ですからこのように暴力的な死を遂げた人を前にしても、いやわたしたちの仲間、わたしたちの先輩の悲しい死を前にしても、それにうちひしがれて、殻の中に閉じこもってしまうということはあり得ないのです。
しかばねを乗り越えてなどという、悲壮な、厳しいことではありません。聖書はあまりにも静かに、このステファノの死を記しています。そしてその後、弟子たちは何をしたでしょうか。御言葉を伝えたということなのです。わたしたちの教会では生き死には絶対的なことではありません。死はわたしたちの終わりではないし、ましてや教会のわざ、御言葉を伝えるわざがわたしたちの死によって中断されるということもあってはならないのです。過去も未来も、それが10年だろうが、100年だろうが、1000年、2000年に及んでも、死というものがわたしたちを分け隔てするということはありません。わたしたちは御言葉と共に生き続けることができるからです。
主イエスが語り、そして復活されたというこの希望を、ほんとうに計り知ることのできないくらいにたくさんの人たちが信じ、これに励まされ、支えられたように、わたしたちも共に生き続ける事ができるのです。この希望により、喜びによって、今日新たに歩き出すことが出来るのです。
(楠原博行:2006年4月16日イースター聖餐礼拝説教より)
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