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2006/04/16

殉 教

使徒言行録 第7章54節-第8章3節

ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。(使徒言行録第7章55-58節)

 ステファノは人々の前で説教をしたのでした。前回のところで「あなたがたはかたくなである」と語りました。それは「首がかたい」という言葉でした。神様がこちらを見なさいと呼びかけても首がかたくて動かないのです。神様を見ていないと言われて人々は怒るのです。自分は神様の方をしっかり向いている。神様に従っている。そう信じているから人々は憎むのです。
 聖霊に満たされ、ステファノは語ります。しかし人々は聞きたくありません。耳を手でふさぐのはそういうことです。大きな声を出して、自分の声でステファノの言葉が聞こえないようにする。ステファノの言葉が自分の体に入ってくることに絶えられないのです。
 聖書を読んでいて、ああ、ここには今、わたしに必要な言葉が書いてあるなと思う事が必ずあるはずです。聖書は長い。聖書は大きい。聖書を読んでいるうちに眠ってしまうこともあるのです。しかしそれでも読み続けていると、ここで今読んでいる事は私にあてはまると感じる事があるはずです。自分にしみ込んでくる。神さまの言葉が自分にしみ込んでくる。これは本当にすばらしいことですから、わたしたちはそれを求めたいのです。
 しかしここでステファノに起こっているのは、力づくで、出来る限りのことをして、神さまの言葉が自分に入ってくるのを拒絶しよう、拒否しようとする人々の出来事です。語られる言葉に逆らう最終手段は、こうすればもう語られることがなくなってしまうだろうということは、言葉を語る者を亡き者にすることです。人々はステファノに襲いかかり、町の外へと引きずり出してしまいます。そしてステファノに向かって石を投げるのです。しかもその人が一言も言葉を発せなくなるまで、その人が命を失うまで、皆で石を投げつけるのです。聖書はこうしてステファノの最後を記します。

人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。(第7章59、60節)

 今まさに死に向かおうとする中で、ステファノは「わたしの霊をお受けください」と主イエスに呼びかけたのです。そして自分の命を奪おうとする者たちに、その罪をどうか負わせないでくださいと叫んだのです。わたしたちはこの一週間、いやこの受難の季節の間、ずっと十字架上の主イエスの死を思い、祈りをもって聖書の御言葉を読み続けて参りました。まさに主イエスの十字架上の死を思い起こさないではいられないステファノの言葉です。

「ステファノはこう言って、眠りについた(第7章60節)」と聖書は静かに記します。そしてキリストの弟子たちの悲しみが続いて記されます。「信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ(第8章2節)。」

 キリストの弟子たちは、今、愛する人の死を迎えたのです。しかも残酷的な仕方で奪われた命でありました。そしてこれは「殉教」と呼ばれます。「殉教」という言葉を聞いてみなさんはどのように感じられるでしょうか。たいへん重い言葉であると思うのです。いや死ぬということに対しても、わたしたちは重い事であると思わないではいられないのです。主イエスが死に対してどういう言葉をおかけになったのか。それは「復活」という言葉です。
 教会の庭の駐車場から入ってこられた方はもうお気づきだと思いますが、小さな飾りを作ってみました。小さな泉に卵を飾る、イースターの飾り付けです。そこになぜ卵が飾られるのか。卵というものが復活のシンボルであるからです。卵の殻が打ち破られる。死という閉ざされたところから、そこにとどまり悲しみ、うち沈むことなく、打ち破られる。そういうシンボルであるからです。
 大切なことは、固まらない事。先ほどの言葉を使えば、かたくなであってはならないということなのです。そして繰り返しますが、わたしたちは死というものが重いと言いますけれども、主イエスが復活されたこと、そこで身をもってお示しになられたことによって、わたしたちはもうそのような殻の中に閉じこもっている必要はないということなのです。
 「殉教」という言葉を使いました。キリストにすべてを捧げるということです。信仰を持っている人は、ここに集っている信仰者は、キリストにすでにわたしたち自身を捧げているのです。ですからこのように暴力的な死を遂げた人を前にしても、いやわたしたちの仲間、わたしたちの先輩の悲しい死を前にしても、それにうちひしがれて、殻の中に閉じこもってしまうということはあり得ないのです。
 しかばねを乗り越えてなどという、悲壮な、厳しいことではありません。聖書はあまりにも静かに、このステファノの死を記しています。そしてその後、弟子たちは何をしたでしょうか。御言葉を伝えたということなのです。わたしたちの教会では生き死には絶対的なことではありません。死はわたしたちの終わりではないし、ましてや教会のわざ、御言葉を伝えるわざがわたしたちの死によって中断されるということもあってはならないのです。過去も未来も、それが10年だろうが、100年だろうが、1000年、2000年に及んでも、死というものがわたしたちを分け隔てするということはありません。わたしたちは御言葉と共に生き続けることができるからです。
 主イエスが語り、そして復活されたというこの希望を、ほんとうに計り知ることのできないくらいにたくさんの人たちが信じ、これに励まされ、支えられたように、わたしたちも共に生き続ける事ができるのです。この希望により、喜びによって、今日新たに歩き出すことが出来るのです。
(楠原博行:2006年4月16日イースター聖餐礼拝説教より)

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2006/04/13

ペトロ

ヨハネによる福音書 第13章36-38節

「主よ、どこへ行かれるのですか。」(36)

 ペトロの問は、33節の主イエスの言葉に対して問い返されたものです。そして、主ご自身が言っているように、同じ言葉をすでにユダヤ人たちに対して言われています(8章)。しかし、この時はまだ主イエスの十字架の死も、復活も起こる前。人々の目は閉ざされているので、主イエスの言葉を人々もペトロも理解することができません。
 私たちはここで不思議なことに気がつきます。人々の欺きも、ペトロの離反も、ユダの裏切りも、そのことが起こる前から、主イエスは知っておられたのです。ならば、なぜ、そのような悲しい出来事を、そのような悲惨な出来事を回避することをされなかったのでしょうか。神の子ならばできたはずです。それとも、人間の愚かさと、神の正しさを人々の前にはっきりさせるためなのでしょうか。
 主イエスに対する人々の欺き、ペトロの離反、どれも主イエスが神の子であるが故に未来のことを予知して予告したのではありません。聖書は、これらのことが初めから定められていたことだとして語るのです。確かに、ペトロが主のためならば命を捨ててもついて行くといった言葉に、嘘はなかったし、また、彼がそういいながらも「イエスを知らない」と三度もいったことも私達の罪の姿としてみることは大切です。しかし、そこで終わるのではないのです。
 主イエスは言われました。

「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」(36)

主は、「あとで付いてくることになる」とはっきりと言われているのです。これから主イエスが行こうとされる所は、神の子であるが故に成し遂げることができるところです。ハイデルベルク信仰問答、問40に次のように記されています。

問40 なぜ、キリストは死ななければならなかったのですか。
答 神様の正義と真理のゆえに、神様のみ子の死による以外には、他の何もわたしたちの罪をあがなうことが出来なかったからです。
私達の罪をあがなうことのできるお方は、神の御子、主イエスお一人だけです。神様の正しさと真理の前に立つことのできるお方は、この方しかおられないからです。

もし、ペトロが、主を否まないような強い信仰の持ち主であったとしても、この場においては主の行くところについて行くことができなかったでしょう。
主の十字架の物語がその死を持って終わらないのと同じように、ペトロの物語もこれで終わりではありません。ペトロは甦りの主に出会うのです。ヨハネによる福音書では、ペトロが主に召された時と同じように、湖で漁をしている時に現れる。主イエスはそこで捕った魚をすぐに料理させ、彼らと一緒に食事をされる。その時、このようなやりとりがなされた。

三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」(21:17)

もはや、ペトロは「あなたはどこに行かれるのか」と言いません。「主よ、あなたは何もかもご存知です。」とだけ答える。
 私達も、主によって知られているのです。私達の喜びも、悲しみも、苦難も、試練も、困難も、全て主はご存知なのである。
 私達は主が定めてくださった食卓に招かれています。これを受ける時に、私達はもう一度自らを顧みます。その時に、心思い起こしましょう。私達のどんな小さな罪も、主は全てご存知です。全て知っておいでの上で、私達をこの食卓へと招いてくださっているのです。私達は、主の食卓を前にして「主キリストは、わたしの神、わたしの救い主」と告白しないわけにはいかないのです。
(楠原彰子:2006年4月13日聖餐制定記念礼拝説教より)

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2006/04/09

信仰の力

マルコによる福音書 第3章20-30節

 マルコによる福音書の語る主イエスの物語は、次のように進んでいました。
湖の方へ立ち去られた主イエスたち一行を追って、ガリラヤから、エルサレムから、また、異邦の世界から、おびただしい群衆がやってきました。その勢いは、主イエスを押しつぶすようなものでありました。そして主イエスはその群衆から逃れ、逃げておしまいになり、山の上で12人を選んで使徒として任命されました。それは、主イエスのおそばに彼らを置くため、また彼らが、主と共に人々の重荷を担い、神の御言葉を伝えるつとめにつかせるためでした。これらのことの後で、主イエスは再び人々の中に戻ってこられたのです。20節には「イエスが家に帰られると、…」と記されています。どこの、誰の家に帰られたのか。誰もがそう考えるでしょう。すぐに思うことは、まず、間違いなく、ナザレの主イエスがお育ちになった家ではないだろうということです。話の流れら、恐らくこれはガリラヤのシモンの家であっただろうと考えられています。最初に弟子として召されたシモン・ペトロ、そして彼のしゅうとめを癒し、そこに来た多くの病人を癒した、シモンの家です。イエス様が、シモンの家に帰ってこられた。この知らせを聞いて、再び群衆がシモンの家に集まってきたのです。しかし、この時はもう、主イエスはお一人ではありません。山の上で任命された12人の使徒も一緒になって、神の御国ついて語り、人々の病を癒し、汚れた霊を追い出していたのです。
 しかしここに、これらの群衆とは違った2組の人々が登場します。まず、主イエスの身内の人たちです。先ほども言いましたが、「あなたのところのイエスは、気が変になっているよ。おかしな事を言って人々を驚かせている。」と聞いたのです。ちまたのうわさ話であったかもしれないし、心配をした人が知らせたのかもしれません。これ以上、悪い噂が広まってはいけない。とにかく、ナザレの家に連れ帰らなければと、シモンの家に来たのです。
 もう一つは、エルサレムから来た律法学者たちです。彼らは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言いました。すなわち、主イエスは偉大な教師、力を持った預言者などではない。悪霊の頭なのだ。悪霊たちは、頭であるイエスの命令に従って、人々から出て行っているにすぎないのだと言ったのです。さてそこで、主イエスは一つの譬えを人々にお語りになりました。

…「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。(23-27)この短い譬えは、おもしろいと思うのです。

 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
まさにその通りです。だから、律法学者たちがエルサレムから下ってきた、とも考えられます。律法学者たちは、神の律法を守ることで、人間は救いに入れられると考えていました。ですから、神でもないのに人の罪を赦すこと、安息日人を癒すこと、律法に定められた断食を守らないことなど、律法学者たちから見れば、主イエスのされていることは世の秩序を乱す行いでした。彼らは、そのような思い出、主イエスのすることを見張っていたのかもしれません。

  家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
家族についても同様です。調和のとれた平和な家庭が何よりだと、私たちも考えます。その平和をかき乱すような噂や、家族の行いは、できるだけ外に出したくない。そう考えることは、私たちにも理解できることだと思うのです。主イエスの身内の者たちも同じ思いであったと思うのです。だから、「あの男は気が変になっている。」ときかされて、イエスを取り押さえに来たのです。
 この主イエスの言葉を聞いて、
「そのせりふは、私たちの方があなたに対して言いたい言葉なのだ。」
と律法学者もイエスの家族も考えたと思うのです。しかし、どうでしょうか。律法学者たちは、国の秩序を守る、平和を守ると言いながら、神様が行おうとしている大きな変化を見ようとはしていません。突然現れた大工の息子にすぎないイエスに、神の国の一体何がわかるのだ、そのような思いもあったかもしれません。律法学者たちが、律法に対して熱心になればなるほど、いかに自分が正しく、神の義に生きているかに関心が集中していきました。
 また、主の家族は、自分たちの家の平穏を保つ事が、第一となりました。そのために、イエスを取り押さえようとしました。少しでも悪い噂を聞けば、主イエスの言葉を聞くのではなく、そのようなおかしな事を言わないようにと取り押さえに来たのです。
 マルコによる福音書は、ここに心を神に向かって開こうとしない人間の頑なさを描いています。その姿は、主の復活を信じることのできなかった弟子たちの姿でもあり、そしてまた私たちの姿でもあると思うのです。しかし、主イエスの話は、そのようにして人の罪の姿を指摘したところで終わりになるのではありません。

また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。(27)

主が譬えで語られたのは、一つの家を略奪する方法です。一軒の家を丸ごと略奪する、押し入り方です。家は私達のこと、そして押し入る強盗は主イエスご自身です。
 この言葉を読んだ時に、こうも考えました。私たちは、主イエスを自分の心にお迎えしようとする時に、当然の事ながら、自分の心、私たち自身の家を整えておこうと考えます。散らかり、汚れるままに汚れてしまっている家の中を見ながら、
「この家の中を掃除して、きれいになってら、主イエスを迎えよう」
と考えます。今のどうしようもない不信仰な生活から、少しでも信仰的な生活ができるようになったら洗礼を受けよう。もう少しまっとうな人間になってから、教会に行こう。と考えます。しかし、主イエスに待ったはありません。そう言う意味では、主イエスは有無を私たちの家に押し入ってきます。私たちがどうであろうと、私たちの救いのためならば、力ずくで私たちの中に踏み込んでこられるのです。
 要は、きれいになった私たちの家に、主イエスをお迎えすることではない。力ずくで来られる主イエスを受け入れるかどうかなのです。私たちがそのような主イエスを、「私の救い主」として自らの口で告白するかどうかなのです。

 今日は、棕櫚の主日です。主イエスがエルサレムに入られる時、軍馬に乗った戦いの王としてではなく、子ロバに乗った平和の王として来られたことを思う日です。その時、人々が棕櫚の枝や着物をその道にしき、
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
と主イエスを讃えました。棕櫚の主日から翌週のイースターまでの一週間が受難週です。受難週にはいると、私たちは毎年、同じ物語を聴きます。主イエスが十字架の道を歩まれる物語です。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
そう言って、エルサレムに来られた主イエスを讃えた、その同じ人々の口が、
「この男を十字架につけろ」
と叫び、イエスを十字架につけてしまった物語を、十字架の上で主イエスが死なれた物語を聴くのです。
 しかし受難の物語は、主イエスの敗北の物語ではありません。主イエスの十字架の死は同時に私たちの罪の死、そして、主イエスの甦りは、私たちの新しい命です。主イエスの十字架の死と復活は、この世を支配している罪の力を追い払うための、この世を神の国として支配するための神の侵略にほかならないのです。

こうも言えるかもしれません。主イエスは、私たち一人一人の家に押し入り、家の一切を奪ったばかりか、私たちが負っていた罪の重荷をも持って行って、ご自身と共に十字架につけておしまいになった。代わりに、主イエスに与えられた甦りの新しい命を与えてくださる。もはや私たちに残されているのは、主イエスの十字架の死と甦りを信じ、洗礼を受け、信仰告白をすることだ、と。御子を信じるものには、主イエスの甦りと共に新しい命に生きるのだと。

主イエスは、私たちが準備をする、しないにかかわらず、私たちの心の中に押し入ってこられます。そして、支配している罪を縛り上げ、罪の重荷を一切合切、持って行かれるのです。考えてみれば、あのエルサレムに来られた主イエスを迎えた人たちも同様でした。過ぎ越の祭りを祝うために、エルサレムに集まっていた人々は、「これから私たちの王様が来られるのだ」と棕櫚の葉を準備して、主イエスが入ってこられるのを待ちかまえていたのではないのです。主イエスのエルサレム入城もまた、神様の側からの一方的な行進だったのです。

最後に、主イエスは一つの勧告を語られました。

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28-29)

ある意味で厳しい言葉です。この言葉を聞いた人たちは、「赦されない罪」という物もあるのだろうか、と考えました。大切なことは、この勧告がこの言葉だけで語られたのではないことです。先に語られた主のたとえ話から、しっかりと聞き取ることが大切だと思うのです。マルコによる福音書は、こう記しています。

イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。(30)

主イエスの彼らの目の前でなされている業、語られている言葉を、受け入れていないことが罪なのではない。彼らが、主イエスのみ業、言葉を「汚れた霊のせいだ」としていることに、問題があるというのです。主イエスに置いて働く聖霊を認めていない、むしろ否定していることに問題があるというのです。聖霊を汚す、聖霊を汚れた霊だということは赦されない罪だというのです。

心に留めていただきたいのは、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う、といわれた口の渇かないうちに、主イエスはそう言った人たちを滅びの火に投げ込まれてしまってのではないということです。私たちは、このような人たち、そして私たちをも含めて、主が十字架の上で、人々の赦しを神に取りなしたことを思い起こさずにはいられないのです。

私たちも、この主イエスを受け入れましょう。散らかっている家でいい、汚れている家でいい。喜んで主イエスに押し入っていただきましょう。主イエスに私たちの家の頭となっていただくのです。そして、主イエスに侵略され、支配された喜びの恵みを、私たちの愛する家族に、隣人に伝えてきたいと願います。
(楠原彰子:2006年4月9日主日礼拝説教より)

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