使徒言行録 第7章20-25節
エジプト王の命令で、生まれた男の子はすべて殺されなければならない。しかし母親によってかごに入れられナイル川に流されて、それが他ならぬエジプトの王女の手によって育てられることになった。成人するとこのエジプトの王子は、自分の出生を知り、今や奴隷となっているイスラエルの人々を救い出すために立てられる。歴史に残るスペクタクル映画になる物語です。心惹かれ、いったいどうなるのだろうと思わせる物語です。そして主人公モーセに共感します。人間の運命と苦難と、そして大きな使命と歴史の中に翻弄される姿。主人公モーセの人生は、「十戒」の映画と古代エジプトを紹介するさまざまな催しによって、モーセと言えばこういう人であるというイメージができあがっているのです。
わたしたちは主日礼拝において使徒言行録を読み続けています。今や最初のキリストの教会は大きな転機にさしかかっています。使徒たちは捕らえられ、警告や脅迫を受けるのです。しかしそれでもわたしたちの教会は大きくなり続けます。しかし聖書は次第に抜き差しならなくなっていく状況を描きます。主イエスが十字架にかけられた時のように、あることないこと、今裁判にかけられているステファノに不利なことがらが並べ立てられていくのです。
ステファノは御言葉を語り続けます。まず神様の命令により旅立ったアブラハム。この人を通して神様の約束がわたしたちに与えられたことを告げました。そしてヨセフ。アブラハムへの約束がさらにヨセフへと受け継がれたのです。しかしそこには家族の崩壊がありました。ねたみがあり苦難がヨセフを襲うのです。兄達に売り飛ばされてしまったヨセフがどうして神様の約束を継ぐことができたのか。それはヨセフを神様が離れることがなかったからであるとステファノは告げました。ヨセフはエジプトの大臣となり、エジプト中にイスラエルの人々が満ちたのです。しかしヨセフを知らない王がエジプト王になると。一転してイスラエルは奴隷へとおとしめられてしまったのでした。
このときに、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです。そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。(使徒言行録第7章20-22節)
以前、ある集会でモーセの話をしたことがあります。神の戒めを受けた人、預言者とモーセのさまざまな姿をお話ししたのですが、特に人間モーセというところに反響がありました。来週ご一緒に味わうことになりますモーセの召命の後のことですが、出エジプト記4章には神様の召しをひたすら拒むモーセの姿が描かれています。
神の救いが今来る。そのことをイスラエルの人々のところへ行って告げよという命令に、「自分は弁が立たない。だれかほかの人を見つけて下さい」と繰り返し拒み、ついには神様にしかられてしまうモーセです。そこには第一の預言者モーセの姿はありません。映画で見るような英雄的なモーセではなく、神様の召しに尻込みしてしまう。神様の命令に、誰か他の人をと言ってしまう。わたしたち弱い人間の姿を見るのです。苦しみながら、神様の御言葉を取り次ごうとするモーセ。その姿に大きく共感した、そういう言葉をいただいたのです。
ステファノはモーセの登場を語りながら、実はもうひとつの大きなテーマ。モーセの物語の底に流れている「神様に逆らい続ける人間」ということが、説教の表面に少しずつ出てくるのです。ステファノは語りました。神様の約束を。神様は離れないことを。しかしそれでも人間は神様に逆らうのです。それでも神様に逆らい続けるのだという、いわば説教の核心へと入っていくのです。それが今日のところからすでに読めるのです。モーセは成長し、自覚したと言います。神様が自分を通してイスラエルの人々を助けようとしておられることを自覚したというのです。イスラエルの人々が苦しんでいる中、奇跡的なあり方でエジプトの王子の地位を得たモーセです。そのモーセが人々を助けようとするのです。しかし意外なことに人々は理解してくれなかったのです。
次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました。(使徒言行録第7章26-29節)
神様の約束がある。神様は絶対に離れない。しかしそれでも人間は神様に逆らおうとする。モーセはエジプトの国から逃げ出すことになります。いわばモーセは人間を救う神様と神様に逆らう人間との間で板挟みになります。信仰とこの世からはなれることのできない人間との間の板挟みです。それは人と人との間だけではありません。自分の中にも存在するかも知れない。自分の心の中で、このことは神様のご命令だと確信しながら、どうか今だけはそうっとしておいて欲しいと言い訳をする自分がいるのです。
3月になって受難節に入りました。この時期わたしたちは自分の信仰を問い返し続けなければならないのです。復活祭を祝うことは、また自分の人生を思い、またいつかは迎えなければならない、わたしたちの死を思うことでもあります。罪と死、そこには、間違いなくそれを見たくない、できればもっと他の事を考えたい自分がかならずいると思うのです。しかし十字架がわたしたちの真ん中に立てられなければなりません。罪深い自分から逃れることはできないのです。わたしたちは心を合わせて祈りたいのです。自分の信仰が揺らぐことのない様に。そしてキリストが命じられた言葉を、今、恐れることなく、ステファノが人々に語り続けたように、語り続ける事を。
(楠原博行:2006年3月19日主日礼拝説教より)