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2006/01/07

ケルンの町と3人の博士(クリスマス特集)

ドイツのケルンと言えば、大聖堂と答える人が多いのではないでしょうか。実際ドイツ鉄道のケルンKoelnerDom中央駅を降り立つと、ドイツの町ではめずらしく駅の目の前、左手すぐ奥にその大聖堂がそびえています。正式名称ザンクト・ペーター・ウント・マリア教会(聖ペテロとマリア教会)ですが、ドイツでもケルナー・ドム、ケルン大聖堂で通っています。

ケルン大聖堂  

その歴史はローマ時代にまでさかのぼります。かつてはローマの神殿であったのが、ローマ帝国のキリスト教化によって、キリスト教会に改められ、後にアルテ・ドム、旧大聖堂となります。現在の建物の建築は1248年からはじめられ、本来の建築計画が完成したのは1842年から1880年といいますから、600年以上に及ぶ大建築だったのです。ケルン大聖堂はドイツ最大のゴシック様式教会で、1996年にユネスコ世界遺産に指定されました。内部はキリスト教美術の宝庫ですが、ヨーロッパ最古の彫刻のひとつとされるゲロー・クロイツや、特にハイリゲ・ドライ・ケーニゲ・シュラインが有名です。この金色の美しい箱には、お生まれになったばかりの主イエスを訪れた、3人の王様の遺骨がおさめられていると伝えられているのです。
 その遺骨は皇帝ヘレナによってパレスチナからコンスタンチノープルへともたらされ、4世紀の終わりに、その子、コンスタンチン1世によりミラノへ贈られました。それが再発見されるのはようやく1158年になってからのことで、納められた遺骨についての記述があるのです。その外見はまったく損なわれておらず、15歳、30歳、そして60歳くらいの3人の男性の遺骨であると言うのです。1162年、ドイツ皇帝バルバロッサはミラノに攻め込み、1164年には自分の国の宰相でもある、ケルン大司教ラインハルト・フォン・ダッセルへの贈り物として、ケルンへこの遺骨をもたらしたのです。以後ケルンの町は巡礼地として有名になります。ケルンの町の紋章の上部には三つの王冠が記されているゆえんです。

KoelnerDom2大聖堂内部。奥のガラスケースの中にハイリゲ・ドライケーニゲ・シュラインがある。

3王とはいったい何者だったのでしょうか。マタイによる福音書は「占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て」と記すのみで、人数も、また王様についても言っていません。その人数が3人となったのは、黄金、乳香、没薬という贈り物の数から来ていると言われますが、それがさらにカスパール、メルキオール、バルタザールの3王となったのは6世紀になってからだと言います。彼らはペルシャの占星術学者であったとも言いますし、あるいはシリアの祭司たちであったとも言われます。何よりもケルンの遺骨と共にあった布が、2000年前のシリアのパルミラという町の墓地で見つかった布地と一致したというのです。祭司たちにとって、世界で新しい王の誕生というのは興味ある問題でした。パルミラの町のそばには山があり、ここで天体観測が行われ、エルサレムへらくだで駆けつけたとしても、何も矛盾しないというのです。いずれにせよケルンの町が伝える3王の物語とはずいぶん違うのです。

毎年1月6日は顕現日と呼ばれ、国によっては祝日になっていますが、この日に3王が主イエスのもとを訪問したとされています。ドイツでは毎年この日になると、カトリック教会の子供達が3王に扮して家々を回ります。星を掲げて歌を歌うことからシュテルンジンガー(星の歌い手たち)と呼ばれ王様の服装をし、王冠をかぶり、顔を黒く塗る子はアラビアの王様の役目です。募金活動でもあるのですが、家々では子供達に果物やお菓子のプレゼントを用意して待っています。彼らは最後に家の門柱に「20C+M+B06」とチョークで書いて帰って行きますが、それは、カスパール、メルキオール、バルタザールという3人の王様の頭文字であり、またChristus Mansionem Benedicat(クリストス・マンジオーネム・ベネディカート)というラテン語の言葉で、2006年の年に主キリストがこの家を祝福しますようにという意味なのです。

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2006/01/01

あなたを見捨てない

ヨシュア記 第1章5節

わたしは...あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。
       (ヨシュア記第1章5節)
他ならないわたしたちの父である神様がそうおっしゃっているのです。「見放す。」「見捨てる。」どちらも厳しい言葉です。でもどうして厳しい、恐ろしいと思うのでしょう?それはきっと自分が「見放される」こと、自分が「見捨てられる」ことが恐ろしいからだと思うのです。人が人を見放したり、見捨てたりする。よくあることでしょうか?もちろんそうあってはなりません。しかし厳しい状況で、人が人を見放す。人が人から見捨てられることがあるのです。
 古い、教会のさまざまな季節の物語を集めた書物が手元にあります。その中の新年の物語に年老いた姉妹の物語があるのです。ふたりの姉妹がありました。幼いころから仲の良い姉妹で、非常に年老いて施設に入っても、ひとつの部屋でベッドを並べて、いっしょに生活をしていたのです。しかしある時いさかいを始め、もうどうしようもなくなってしまった。部屋の真ん中に線を引いて、まるでそこに見えない壁があるかのように、二人はお互い知らんふりをして暮らすようになってしまう。そういう話です。しかしある時、ひとりが大きな病にかかってしまった。しかし元気な方は、相手がどれほど苦しもうとも構わないのです。しかし夜、夢を見るのです。主イエスがおられて、そちらに歩いて行こうとするのに、どうしても行くことができない。見ると自分が引いた部屋の線が足もとにあって、そこから先、主イエスの方に行くことができないのです。彼女はここで目が覚めます。そして自分から部屋の線を超えて、重病の姉の手を取り、姉は感謝してその手を握りながら、息を引き取る。そういう物語です。お正月からこんな話をと思われるでしょうか。しかしれっきとした新年を迎える物語として記されているのです。
 争いをする。けんかをする。人を見放す。見捨てる。わたしたちは人間として、この深刻な事態にぶつかります。人を傷つけ、あるいはひどく傷つけられてしまう。しかしまた一方で、それは人間にぶつかっているのではなくて、神様にぶつかっているのだとこの物語は告げるのです。不和。いさかい。争いばかりではありません。寂しさや悲しさ。たとえそれが自分から外の世界へ、他の人へ向けられてしまうほど強いものであったとしても、神様というものが見えた時、不和、いさかい、寂しさや、悲しさ、そういうものも飛び越えてしまうほど、大きな方がいらっしゃることに気づいた時、わたしたちは変わるというのです。
 すでにご承知のように、一昨年から、教会で、毎年一つの御言葉を選んでおります。

どうか今、僕の家を祝福し、とこしえに御前に永らえさせてください。主なる神よ、あなたが御言葉を賜れば、その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されます。(サムエル記下第7章29節)

2年前、ダビデの祈りの言葉に導かれて、木更津教会の歩みを思ったのです。

しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
      (ルカによる福音書第22章32節)

昨年は木更津教会のひとりひとりの方を思って選びました。今年は再び教会への御言葉をと考えています。その一つがヨシュア記第1章5節なのです。そこで神様ご自身が「わたしは、あなたと共にいる」とおっしゃっておられます。そのいきさつはこうです。祈祷会において創世記をごいっしょに読んでおりますが、ヤコブの一族はエジプトに移り住んで後、いつしかエジプトの奴隷となっており、モーセが彼らを導いてエジプトを脱出する話は有名です。しかし40年の間イスラエルは荒野をさまよい、いよいよ約束の地へと入るその段階になって、指導者モーセを失ってしまうのです。「わたしは...あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」それはモーセを失ったヨシュアに対して、そしてイスラエルの人々に対して語られた御言葉であったのです。
 「見放す。」「見捨てる。」それは人間にとって厳しい状況であると申し上げました。しかし今、主なる神様が、少なからず動揺している人々に対して「見放さない。見捨てない」とおっしゃっているのです。偶然なのですが、実はこのヨシュア記第1章の御言葉は、新年の最初の日、今日のための説教テキストとして選ばれる箇所であったようなのです。もう少し前を見ますと、

「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。(ヨシュア記第1章2節)

ヨルダン川を渡れ!」なる神様の命令が記されています。この言葉は確かに歴史の中で標語になりました。今、新たな一歩を踏み出せ!新しい歩みをせよ!との教会に対する励ましの言葉以外の何ものでもありません。未来への準備の言葉、これが新年の御言葉にふさわしいというのです。また一方でヨルダン川の手前、過去と未来の間にいて揺れているかもしれないわたしたちにこそふさわしいというのです。
 未来とは、いやこれからの新しい一年とは、まだ現実となっていない一年です。しかし教会にとっては、神と共に、わたしたちの主イエスと共に歩む一年であるに違いありません。イスラエルの人々が今ヨルダン川を前にしているように、わたしたちにとって乗り越えなければならないものとは何なのかはわかりません。希望なのか。それとも心配なのか。夢なのかそれとも失望なのか。しかしわたしたち人間の不和や争いであろうとも、悩みや心配であろうとも、神様の「あなたを見放すことも、見捨てることもない」との言葉をかき消してしまうような川も、谷もあり得ないのです。
 説教者のための準備の書物は、聖書のこの箇所を説教する時、わたしたちの教会の前に横たわっている事柄について出来るだけ具体的に描写しなさいと勧めていました。しかしわたしはむしろここに集うみなさんに思い巡らしていただきたいと思うのです。そして新しい一年の第一歩において、「わたしは...あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」の言葉をかみしめていただきたいと願うのです。

(楠原博行:2006年元旦聖餐礼拝説教より)

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