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2005/11/27

見よ、あなたの王が来る

マタイによる福音書 第21章1-9節

 ほかの誰でもありません。あなたの王があなたのもとにおいでになるのです。キリストがおいでになる。しかもそれがわたしたちにおいて起こる。まさにアドベントの季節がやって来たのです。
 マタイによる福音書の中、主イエスがエルサレムにご入城になるところは、一年に二度、棕櫚の日曜日と、今日、アドベントの最初の主日に、伝統的に教会の中で読まれてきたところです。しかし伝統によらずとも、アドベントに主イエスのエルサレム入城が読まれることは、わたしたちひとりひとりにとりましても意味があることなのです。アドベントとはラテン語で、到着、主がこの世においでになることを意味します。アドベントを迎える最初の主日に、主イエスをどのようにお迎えすることができるのか、みなさんといっしょに読み、味わいたいと思うのです。そしてわたしたちの心を、主のご到来に備えたいのです。

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(マタイによる福音書第21章1-7節)

 主イエスはろばを連れてくるようにと弟子たちにお命じになりました。主に召し出されるろば。『主がお入り用なのです』との言葉に、多くのキリスト者が励まされ、押し出されたのではないでしょうか。御言葉どおりに弟子たちはしました。それは「預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」とマタイは言います。
 「見よ、あなたの王が来る」とはゼカリヤ書9章9節の言葉です。マタイはここで「わたしたちの王は柔和な方である」というところをまん中にすえました。イスラエルの人々は、出エジプトという、ひとつの大きな自分たちのまさに信仰のルーツと呼ぶべき出来事を祝おうとして、過ぎ越しの祭りのために、大勢してエルサレムに集まってきたのです。自分たちを救ってくださる方を、力で、武力で解放してくれる救い主を待ち望んでいたのです。しかしそうではなかった。そうではなくて、柔和なお方を、ろばに乗っていらっしゃった主イエスを、自分たちの王として迎えたのでした。

大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(同8、9節)

 ホサナとは詩篇118編25節の「どうか助けてください」という意味の言葉です。人生の中で、生活の中で、自分自身の本当の救い主、主イエスを見出したのです。そして「助けて下さい」と声をかけるのです。
そしてその王様は「柔和」なお方であった。
「柔和」とは、多くの主イエスを描いた絵画に見るように、主イエスがやさしいとか、静かであるとかいう言葉ではありません。「主がわたしたちの悩みを聞いてくださる」、そういうときの「悩み」、「苦しみ」という意味で、聖書には何度も出てくる言葉なのです。祈祷会で読んでおります、創世記の族長物語でもヤコブやヨセフが使います(31:42, 41:52)。ヨブ記でも、詩篇でも、繰り返し、「悩み」、「貧しさ」、「苦しみ」という意味で出てくる言葉です。
 ある説教者は言いました。「柔和である」というこの言葉は、「決して上から下を見下して、気前が良いとか、周りに対してやさしいとか言う意味では決してなく、ご自身がいつも、もっとも深いところ、苦しみの中、貧しさの中、無力なところにおられるということであり。柔和な方であるということは、貧しいもの、みじめなもの、もっとも小さいもの、もう自分ではどうすることもできないもののことと同じである...主であり、王であるこの人が、ご自身で、絶望しているもの、貧しいもの、小さいものたちのいる、どん底に入って、王様らしい姿、ふるまいを脱ぎ捨て、僕の姿を取られたのである。しかしそれでもなお、王様である。」
 喜びの季節と誰もが口にし、キリスト教をまったく知らない人まで、楽しみ祝うクリスマスの季節です。町の中は、信仰とは関係なくても、楽しく明るく飾り立てられているのです。しかし悩んでいる人がいる。愛する人を失った人がいる。人生の、日常生活の中で苦しんでいる人がいる。病気やさまざまな事情で、体が思い通りにならない人がいる。それは決して無条件で「楽しいうれしいクリスマス」というわけにはいかなかいでしょう。いったいどういうクリスマスだというのでしょうか。「見よ、あなたの王が来る」とは、わたしたちの王様である方は、絶望するもの、いわば人生のどん底にある者のところにも来てくださるという事なのです。いやむしろ神様以外には、何も、誰も、助けてはくれない人のところにこそ主イエスは来てくださる。それが本当のクリスマスだ。そしてそれを心から待ち望む、それがアドベントだと言うことなのです。
 マタイが取り上げた預言者ゼカリヤの言葉は、わたしたち教会に語られた言葉です。たとえどのようなみじめさを経験しても、あなたは決して見捨てられることはないのです。神様の教会はもう決して「かしら」なしではありえない、教会の「かしら」である主イエスが与えられる、おいでになるのだと告げるのです。
 アドベント、主イエスがおいでになる、そしてそれが、ほかならぬ、わたしたちのところへおいでになる。わたしたちにそれを信じ、告白し、そのことを、この時期を、心に刻みながら過ごしたいと思います。
(楠原博行:2005年11月27日主日礼拝説教より)

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2005/11/06

主を信じる教会

使徒言行録 第5章12-16節

心をひとつにして祈る教会。心も思いもひとつにして教会員が助け合い、支えあう教会。
使徒言行録のそのような物語の中で、前回は突然、アナニアとサフィラの物語が出てきたのです。ひとつの夫婦が犯してしまった失敗でした。それは取り返しの付かない失敗。神様を信じると言いながら、人々の間で、あの人は自分の財産を売って、すべて教会に献げたんですよと尊敬されること。教会の人々の目や仲間の中での自分の地位の方が、信仰よりも、神様よりも魅力を持ってしまって。大切になってしまっていた夫婦の物語でした。たとえ問いつめられてもペトロの前で嘘を通そうとしました。そして教会の中で、神様の前で、夫と妻はそのまま倒れ伏し命を失ってしまったのでした。とてもすばらしい良い話が、私たちの教会までも元気になるような話が続いていたのに、どうしてこんな、できれば読みたくない、そんな話だと申し上げたのでした。
 しかしそれが聖書だとも申し上げました。隠し立てをしない。できれば聞きたくない。できればもっと良い話をして欲しい。気持ちが良くなるような、うれしくなるような話を聞きたい。それが人間です。しかし聖書はそのような、一時しのぎの言葉を語ることはしません。わたしたち人間に必要な、わたしたちが生きていくために絶対に必要な言葉を語るのが聖書です。人間の罪をひとつも隠しだてをしないのだと申し上げました。
 宗教改革を祝う日にアナニアとサフィラの物語が当たったと申し上げました。先日はルターがその日、教会の人が一年で一番たくさん集まる日のひとつに、教会の門に貼りだした言葉を紹介しましたが、また、ルターが死ぬ時に残した言葉が伝えられています。
それは「わたしはまことにひとりの物乞いだ」、「わたしはまことにひとりの物乞いだ」の言葉でした。神様に助けていかないでは生きていけない。神様に支えていただけなければひとときも生きることができない。本当にアナニアとサフィラの物語の警告は、宗教改革の日にふさわしかったと思うのです。
 神様助けてくださいと言うしかないと申し上げました。詩編の「どうか主よ、わたしたちに救いを。 どうか主よ、わたしたちに栄えを。」という旧約聖書の時代から祈りの言葉として大切な言葉をあわせ読みました。「どうか主よ、わたしたちに救いを。」この言葉はまた「ホサナ」と知られる、わたしたちがクリスマスを迎える時に大切な言葉だと申し上げました。アナニアとサフィラの物語に出会い。わたしたちの生き方、生活、それが問われました。はっとさせられないではいられない。あいつらは間違いだ。あいつらは悪い。ざまあみろではない。わたしが、わたしが悔い改めるのでなければならない。「神様助けて下さい。」これこそが、もうまもなくはじまります、キリストがこの世にいらっしゃった。主の御降誕を待ち望む、アドベントの季節にふさわしい言葉であると思うのです。
 さて美しい門のところで一人の人がいやされた出来事に続きまして、このようにペトロとヨハネとが捕らえられたが釈放された物語。教会全体が祈り、助け合い、アナニアとサフィラの事件も起きたが、教会はたしかに成長を続けたというのが今日わたしたちに与えられましたところです。わたしたちの目を、再び教会全体へと向けさせようとするところなのです。そこには次のように記されていました。

使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。 人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。(使徒5:12-16)

その後半の部分です。ペトロや使徒たちが行った奇跡が記されていました。病人がいやされたこと。たくさんの人がいやしてもらうために集まってきたということ。わざわざ病人を大通りにまで運び出して来て、しかも担架や床に寝かせたままペトロを待っていたのです。ペトロが通りかかったとき、せめてその影だけでも、そうやって運び出してきた病人たちにかかるようにした。それだけ、ペトロたちの不思議な力に驚き、それを頼りにし、たくさんの人々が待ち望んだということです。
 そのようなしるし、不思議な業、それらがたくさん、町の中で、人々の間で行われたというのです。キリストの弟子達は、ここであの大切な言葉が再び出てきます。「心を一つにして」、神殿の中の、ソロモンの回廊と呼ばれるところに集まっていたのです。
それはしばらく前に、ペトロとヨハネとが逮捕された場所でありました。キリストの名前で語ってはならないと脅迫を受けた時にキリストの弟子たちが集まっていた場所です。そのような脅迫を受けたのに、どうしたでしょうか。さらに多くの人が集まり、そのような脅迫にかかわらず、さらにたくさんの人が同じ場所に集まり、キリストの名によって語っていたのです。「多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」と記されています。
 今日与えられました短い部分の中で、またひとつ不思議な言葉にぶつかるのです。
「一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた。」
「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。」
「しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。」
 不思議に思われないでしょうか。キリストの弟子達は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた。民衆は彼らを称賛していた。そして多くの人々が主を信じて、その数はますます増えていった。しかしそれ以外の者もいたというのです。ほかの者がいた。彼らはあえて仲間に加わろうとはしなかった人々です。
 この部分についてはさまざまに説明されているのです。ギリシャ語聖書をいわば一般の人にも分かる言葉で最初に翻訳したルター訳では、「しかしほかの者たちは、あえて彼らと関わりを持とうとはしなかった」となっています。
先日もわたしたちの教会は、何十年にもわたって宗教改革者カルヴァンの伝統にあると告白してきたことを申し上げましたが、カルヴァンの注解書では、いつもたいてい手厳しい解釈が予想できるのです。カルヴァンは、あえて仲間に加わらない人々がいたことを使徒たちがおこなった驚くべき出来事の結果のひとつと理解していました。つまりいままで使徒たちに対して悪いことを行おうとしていた人たちこそが、ここで言うほかの者たちであって、彼らは、これらの大きな奇跡に恐れをなして、もう使徒たちを、キリストの弟子たちを軽く見ることができなくなった。大きな神の力の前に、もうあえて使徒たちをさげすむことはしなくなった、それが「あえて仲間に加わろうとしなかった」の意味だと説明していました。
 しかしまたこのほかの者たちというのが、そのような今まで、教会を、キリストの弟子たちを攻撃した人々だけではなかったとも理解されるのです。いままで、いままではいっしょにいたこともある人々。教会の人々、キリストの弟子たちといっしょに行動をしていた人たち。いっしょに集会に参加し、祈り、神様を讃美していた人たちが、そんな中で、あえて深くまでつきあおうとしなくなった人々がいたと聖書は言うのです。さびしい気もします。教会にいて、確かに去って行かれる方もいる。もちろん教会ってどんなところだろうと思って入ってみる。しかし思っていたもの、想像していたものとは違った。はっきりこうおっしゃる人もいます。自分は、自分の力で生きていく。キリストのみと言われてもピンと来ない。ここまで言う人もいるかもしれません。キリストなんか必要ない。ちょっとのぞいてみただけなんだと言って、教会を去って行く人もいると思うのです。でもさびしいです。これが信仰なんです。キリストを信じるということはこういうことなんですと言っても、わたしの価値観は違うと言って、もうこなくなってしまう人。わたしは受洗して21年になりますが、その間にも、そういう人をやはり結構経験したのです。
 使徒言行録のこの部分を説明して、教会のまわりに見えない境界線ができていると言う人もいます。それを超えようという意志を持っている人だけが、それを乗り越えることができる。それを超えようという意志を持っている、それでも超えたいと思う人だけが乗り越えることができる境界線、そのような境界線が教会のまわりにできていた。
 教会の敷居が高い。もっと開かれた教会、誰でも入ることができる。誰でも気軽に立ち寄ることが出来る教会が良い。そういう意見も確かにあります。しかしもう2000年も前、いや最初のキリスト教会において、教会というものが、そういう緊張感を伴う教会であったということが、ここ、使徒言行録の5章にすでに記されていることを、決して見過ごしてはならないのです。それは本気だということなのです。珍しい物好き、興味を持つだけ、冷やかすだけの人では超えることができない何かが、教会のまわりにたしかにしっかりあると言うことです。
 すぐには超えることが出来ないかもしれません。すぐには理解できないかも知れません。しかしそれを超えたとき、その時こそ、本当の喜びがある。本当に神様と呼びかけることができる。ひとりでも多くの人にこの喜びを知って頂きたい。神様に、キリストにすべてをお預けする安らかさを味わって欲しい。
 わたしの先生のひとりは、教会が、教会員ひとりひとりができるもっとも大切な伝道の業は、ひとりでも多くの人を教会の礼拝へと誘うことだと教えて下さいました。主のご降誕を祝うクリスマス、それを待ち望むアドベントを前にして、わたしたちひとりがこのことを覚えたいと思います。わたしたちの家族、友人、またさまざまな理由から教会から足を遠ざけている人々に、教会の礼拝へと誘いたい。本当の喜びを伝えたいのです。
(楠原博行:2005年11月6日主日礼拝説教より)

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