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2005/10/30

わたしたちに救いを

使徒言行録 第5章1-11節

 わたしたちは新約聖書の使徒言行録を読んでいます。そこには最初のキリストの教会が心をひとつにして何をしたかが記されているのです。心をひとつにして祈ったということが書いてありました。心も思いもひとつにして、教会員が、助け合い、支え合って生活をしたということも書いてありました。今を生きているわたしたちの教会です。この2000年前の最初の教会の歩みを読み、これに照らして御言葉を味わいたい、そう思い、聖書を読み続けているのです。実際に、私たちの教会で口にのぼる言葉を取り上げることもしました。わたしたちはどうだろうか。わたしたちも最初の教会のように歩みたいそう願うのです。
 しかし突然です。このように使徒言行録を読み続けて参りまして、この5章の最初のところで、とんでもない物語にぶつかってしまうのです。最初の教会。最初の歩み。教会が大きくなる。心をひとつにして祈る生活が記されていたのです。しかし5章の頭に記されているのは、ひとつの夫婦が犯してしまった失敗でした。しかも取り返しの付かない失敗です。なぜ神様の前で嘘をつくのでしょうか。そうまでして周りの人たちから尊敬の目を集めたいのでしょうか。妻はペトロから問いかけられてさえいます。人々の前で罪を告白し、神の前にひざまずくことができなかったのでしょうか。神様を信じると言いながら、人々の間で、あの人は自分の財産を売って、すべて教会に献げたんですよと尊敬されること-それがたとえ厳密な意味で事実と反していたとしても-教会の人々の目、人々の中での自分の地位、こちらの方が、信仰よりも、神様よりも魅力であった。大切になってしまっていたのでしょうか。問いつめられても、嘘を通すのです。ペトロの前で嘘を突き通すことなどたやすいことと思い込んでしまっていたのでしょうか。わたしたちがここ何ヶ月かにわたって読んで参りました最初の教会での出来事。これだけのことを経験しても、神様の前にくずおれることはなかったのでした。もう取り返しが付かないと申し上げました。教会の中で、神様の前で、夫と妻はそのまま倒れ伏して、命を失ってしまったのです。
 とてもすばらしい良い話が、私たちの教会までも元気になるような、話が続いていたのに、どうしてこんな、できれば読みたくないような話が出てくるのでしょうか。しかしそれが聖書だと思います。隠し立てをしないのです。できれば聞きたくない。できればもっと良い話をして欲しい。気持ちが良くなるような。うれしくなるような。いまはやりの言葉で言えば、いやされるような言葉を聞きたい、そういうのが人間です。しかし聖書はそのような、一時しのぎの言葉を語ることはありません。本当の言葉を、わたしたちに必要な、わたしたちが生きていくために、死んではならない、絶対に必要な言葉を語るのです。人間の罪をひとつも隠しだてすることなく、一つの失敗を記すのです。
 わたしたちは教会の祈りについての御言葉を聞き、教会の生活についての御言葉を聞きました。実際にわたしたちの教会の生活をも思い起こし、問い返してもみたのです。しかしこのアナニアとサフィラの物語を、わたしたち自身の生活に照り返してみるのは、あまりにも恐ろしすぎます。神様の前で、ごまかすことを、わたしたちはしていないかということなのですから。まず何が起こったのかを読みたいと思うのです。

ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、 妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。(1-2節)

「ところが」と書いてあります。教会の祈りが記され、教会の生活が記されていたばかりです。自分の財産を売って、教会に献げる。そういう人々の事が書かれていたのです。「ところが」よりにもよって困った人が出てきたのです。アナニアという人が妻のサフィラと相談して土地を売ったのです。ギリシャ語の聖書には妻サフィラと「一緒に」とは書いてありますが、「相談して」などとはひとことも書いてありません。「共に行う」、「共謀する」という意味合いもあるので、新共同訳ではそう訳したのだろうと思われます。夫が妻とこそこそと計画をする場面が想像されてしまう場面です。夫がしていることを妻はよく知っています。土地を売って、さもその代金すべてを持ってきたかのように、その一部だけを持ってきて、すぐ前のところ、バルナバという人がしたように、使徒たちの足もとに置いて、教会に献げたのでした。

すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。(3-6節)

「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。」もっともなのです。代金をごまかすくらいなら、そんなにおしいのなら、何も売る必要はなかったのです。そして売っても、これは売った代金の一部です、教会に献げますと言えば良かった。それなのに、さも土地を売って得た代金すべてであるかのようにごまかして献金をした。ペトロの前ではすべて明らかだったのです。ペトロの言葉を聞いて、即座にアナニアは死んでしまったのです。あまりにも淡々と葬りに行く、若者達が描かれます。

それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。(7-11節)

 今朝は宗教改革記念日です。1517年、今から500年近く前に、マルティン・ルターが、当時のカトリック教会の誤りを指摘することから始まった出来事を記念する日です。木更津教会で発行された記念誌にも、また教会案内にも書かれておりますが、わたしたちの教会はスイスの町ジュネーブの、同じ時代の宗教改革者、ジャン・カルヴァンの伝統にあることを強く覚えております。改革派長老教会のもっとも古い教会のひとつとして、125年前に伝道がはじめられたのです。しかしこの宗教改革を覚える日に、わたしたちは、歴史の本に載っていることを思い起こすだけではありません。使徒言行録のアナニアとサフィラの出来事が偶然にも、今日に当たりましたのは、まったくふさわしいと思わないではいられないのです。
 アナニアとサフィラの罪と呼ばれることがあるのです。あの二人は間違ったことをした。だから命を失ったのだ。当然じゃないか、神様を欺いたのだから。しかしそれが当然だと思う自分がもしいたとしたら、それは誤りであると言わなければなりません。使徒言行録の中で、もっとも、目を覆いたくなるような、情けない人間の物語。想像して下さい。ひとつの夫婦がいたのです。普通に生活をしていたに違いありません。貧しいことはなかった。売って教会にささげることができるほどの財産を持っていたのです。主イエスにあっていたかもしれませんし、もしかしたら、ペンテコステの後、教会に加わった人たちであったかもしれません。夫と妻は仲むつまじかったでしょうか。夫の計画に対して、あなたがそうするのならと付き従う、いつも二人いっしょの夫婦であったでしょう。教会にいて、献げものをする人々を見たのでしょう。自分たちも献げた方が良いと思ったのでしょう。しかし財産を売った代金すべてを献金するまでもないとも思ったのでしょう。どうせわからないのだから。これこれこれだけを献げて、これが代金全部ですと言っておいたらいいじゃないかと夫婦で示しあったりしたのでしょう。こう考えてみるとわたしたちとは少しも違わない。すべきことはしているし、献げることもしている教会の人間です。
 しかし大切なことを、一つ忘れていたのです。今二人が神様の前に立っていると言うことです。なぜ嘘をついたのか。どうして正直に自分がした過ちを認めなかったのか。悔やまれてならないのです。わたしたちも自分自身を振り返って、自分の弱さや、誘惑に陥ってしまう姿を見て、神様助けてくださいと言うしかないと思うのです。

「わたしたちの主であり先生であるイエス・キリストはおっしゃいました。『悔い改めなさい』と...(マタイ4:17)だから主は、信仰を持っている人の人生はすべて、悔い改める人生でなければならないと、求めていらっしゃるのです。」

「...自分自身を憎む、これこそがほんとうの心からの悔い改めである...」

実はこれらの言葉は、宗教改革のきっかけになりました、ルターが1517年の10月31日。カトリック教会でもっともたくさん人が来る礼拝のひとつである、万聖節を前にして、できるだけたくさんの人々に読んでもらおうと、ドイツ東部の町ヴィッテンベルクの城教会の門に貼りだした95の提題の最初の言葉なのです。

「わたしたちの主であり先生であるイエス・キリストはおっしゃいました。『悔い改めなさい』と...(マタイ4:17)だから主は、信仰を持っている人の人生はすべて、悔い改める人生でなければならないと、求めていらっしゃるのです。」

「...自分自身を憎む、これこそがほんとうの心からの悔い改めである...」

お金ではない。たくさん献金して、人から得る名声ではない。わたしたちが寄るべきものは何かということなのです。信仰のみ。キリストを信じるということのみにあるべきだ。キリストもわたしたちの人生は悔い改める人生でなければならないとおっしゃっている。神様の前にひざまずきなさい。頭をたれなさい。神様のみを信じ、神様に救いを求めなさいと言っているのです。
 今朝はもう一箇所、旧約聖書の詩編をお読みしました。詩篇118編です。しばらく前にも出て参りまして、もうおなじみになっている御言葉だと思います。今日出されました月報に載っております。「家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった。」わたしたちの主イエス・キリストが十字架にかかられたことを言い表す言葉として、キリストの教会で大切な言葉となっている御言葉です。詩編はここでこの驚くべき神様のみ業を告げ、今日こそ喜び祝う日であると言うのです。そして言葉は続きます。

「どうか主よ、わたしたちに救いを。 どうか主よ、わたしたちに栄えを。」

旧約聖書の時代から、救いを求める祈りの言葉として大切な言葉なのです。

「どうか主よ、わたしたちに救いを。」ご紹介したことがあると思います。ヘブライ語で、アッナー アドナイ ホシアーナー。「ホシアーナー」の言葉は、主イエスが御受難の前にエルサレムの町に入城された時、人々が叫んだ言葉、日本語では「ホサナ」と訳される言葉なのです。「どうか主よ、わたしたちに救いを。」罪を悔い改め、救いを求める、キリストの教会において、これも大切な言葉です。
 アナニアとサフィラの物語に出会い。私たちはわたしたちの生き方に、生活に、はっとさせられないではおれないと思うのです。あいつらは悪いと思うのではなく。わたしが悔い改めるのでなければならない。「悔い改める」の言葉については、使徒言行録に、すでに繰り返し出て参りまして、説明をいたしました。本来は手遅れだという言葉だったのです。この世的に見ればもうだめだという言葉なのです。しかしキリストの教会は違う。まだ間に合う。まだ間に合う。今なら変われる。そういう本当に教会的な言葉であると申し上げたのです。  
 アナニアとサフィラの物語にぶつかり。そして今日は、まことの信仰に立ち返ること。悔い改めの生活に立ち返ることを求めたことからはじまる宗教改革を祝う日です。もう一度心から思うのです。今日から本当の信仰に生きよう。「どうか主よ、わたしたちに救いを。」「主なる神様、どうかわたしたちを助けて下さい」と心から祈り願うのです。
(楠原博行:2005年10月30日宗教改革記念聖餐礼拝説教より)

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2005/10/24

バザー御礼

10月23日は、教会バザーに、お起こし頂き、ありがとうございました。
なによりも、主に生かされている私たちの姿を見ていただくことが出来、嬉しく思っています。
2_tensi_akバザーが済むと、教会はクリスマスのことを覚え、祈りと準備の時に入ります。主の御降誕を待ち望み、祝うこの時に、私たちの歩む道を、主のみ光の中で求めていきたいと思います。是非、主日礼拝にお越し下さい。

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