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2005/09/18

イエス・キリストの名

使徒言行録 第4章1-12節
 美しい門のところで一人の人がいやされた時、驚いた人々が最初に集まって来ました。しかし今、まったく違う人々が来るのです。「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々」です。彼らはペトロとヨハネ、そして集まっている人々に近づいて来ます。そして「いらだった」のです。使徒言行録には感情が満ちあふれています。目の前の出来事に驚く人がいれば、目を留めもせずにあざける人たちもいるのです。聖書に描かれている人々が、良い意味でも悪い意味でも生き生きしているのです。今日、わたしたちが目にしている人々はいらだっています。この「いらだち」とはわたしたちに身近な感情ではないかと思うのです。
 もちろん神様のみわざに驚き、神様を恐れてはいるのです。しかしいらだつ。それは目の前に起こっていることが、自分たちの思いにそぐわないからです。自分の価値観、考えていた事、これが最高だと思っていた事、あるいはこうしなければならない、こうでなければならないと思っていた事。それと目の前に起きている出来事が違うがゆえに、怒りを覚える。憤りを覚える。いらいらしてくるのです。不快なのです。「彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた」のです。
「お前たちはいったい何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と翌日二人は尋問を受けるのです。裁判の場です。ペトロは口を開きます。
「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録第4章8-12節)
語られる事はただひとつです。キリスト!キリスト!あなたがたはキリストを十字架につけて殺した。しかし神様はこのお方を死者の中から復活させられた。このお方のお名前は、ナザレの人、イエス・キリスト!私たちの救い主!このお方の名前によって、美しい門のところにいた足の不自由な男の人は癒された。人生をまったく違うものにつくりかえられた。その時も、集まって来た人々に神殿の中で説教された事は、このわたしたちの救い主イエス・キリストの事であった。たくさんの人々が主イエス・キリストを信じた。洗礼を受けた。ペンテコステの時には3000人もの人々が自分たちの仲間に加えられた。そして昨日も男たちだけでも、5000人が加わった!
 『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石。』良く聞く言葉です。家造り、言うまでもなく、家を建てる人たち、大工とよばれる人々です。この石は必要ではないと、まるでパズルを造る時に、ひとつのピースが、これは合わないから必要ないというように放り投げられた石なのです。子供の頃、思ったものです。口語訳でしたが「隅のかしら石」とはいったい何の事なのか。新共同訳では少しわかりやすくなっています。木造ではないので、大黒柱なるものはありません。家を造る時に隅に家を支えるための大切な石を置くのです。家全体を支えるための石、それが「隅の親石」なのです。あなたたちがいらないと捨て去った石が、わたしたちの教会の大切ないしずえになった。それが十字架にかかられたイエス・キリストだ!『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石。』これが教会の中で大切な言葉になっていったのです。
 1年以上前になりますが、わたしたちはハイデルベルク信仰問答を傍らにおいての礼拝で、使徒言行録の今日の部分を読んでいるのです。それはどういう説教だったでしょうか。ぜひ読み返して頂ければと思うのです。信仰問答書は、振り返り、ふりかえり、わたしたちの信仰を問い返す、そのよりどころにすべき書物であるからです。
問29 なぜ神様のみ子は、イエス、すなわち救い主と呼ばれるのですか。 答 それは神様のみ子が、わたしたちを、わたしたちの罪から救ってくださるからです。そして、他の何ものにも、救いを探し求めることも、見いだすこともできないからなのです。
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」との、ペトロの言葉とまさに響き合っているのです。
 日本語で天下とは、ひとつの国、一つの政府と、いくぶん小さいイメージがあるかもしれません。しかしギリシャ語で言えば、文字通り地上の上に広がっている天、天空の下と記されるのです。地球上の人間全部の上にひろがっている天、その下にいる人類全体の中で、わたしたちが救われるべき方のお名前は主イエスしか考えられない。神様がこの世界ではたらいておられる。そして人間全体が救われるために、ひとり子を、ただ一人の救い主をお与えになった。そのお名前が、「主なる神様が救われる」という意味のお名前を持つ主イエスである。そうペテロは大胆に尋問の場で語ったのです。
 名前とは何でしょうか。それが呼ばれる時、今、何のことが問題になっているのか、誰のことが問題になっているのかが問われるのです。主なる神様のお名前を呼ぶということは、神様をわたしたちの主人と信じて礼拝するという意味があるのです。ですから主イエス・キリストのお名前を呼ぶと言うことも、イエス・キリストをわたしたちの主と信じるという意味です。
 ペトロは聖霊に満たされて、これしかないと言っているのです。キリストしかいない。キリストを信じれば良い。ほかの何者によっても、他の何によっても、わたしたちの救いはないと言うのです。人間に考えられる限りの広さにおいて、人間にはこれしかないと言っているのです。
(楠原博行:2005年9月18日主日礼拝説教より)

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2005/09/11

真の癒し

マルコによる福音書 第1章40-45節
 マルコによる福音書では、すでに第1章の中でも、多くの人々が癒されていく記事が記されていました。「癒しの物語」の中に、私たちはどのような主のみ言葉を聞くのでしょうか。
 最近、私たちは「癒し系」という言葉を、よく耳にすると思います。はやり言葉の一つになるかもしれません。癒し系の色、癒し系の本、癒し系の動物、癒し系の空間…。これらの言葉をたどっていくと、そこに一つのイメージが浮かんできます。静かな、穏やかな、色で言えば明るいパステル調。疲れた体を休めることができて、ほっと安心できる。そのようなイメージがあるのではないでしょうか。
 しかし、私たちが、マルコによる福音書、第1章の中で読んできた癒しの物語、そしてこれから読もうとしている40節以下の癒しの物語から感じるのは、「癒し系」のイメージからはずいぶんと違うものであると思うのです。  私たちに与えられている聖書の箇所には、第1章に記されている癒しの物語の中でも、はっきりと示されていることがいくつかあると思います。
 今日の御言葉には、一人の重い皮膚病を患っている人が登場します。「重い皮膚病」と訳されている言葉ですが、これはギリシャ語の「レプラ」、ヘブル語の「ツァラート」の訳語です。かつては、これを「らい病」と訳していていました。しかし、この言葉が実際には今日、私たちが知っている、どの病を意味しているのかは、はっきりとはわからないのです。一つだけ言えることは、それが「ハンセン病」を意味しているものではないと言うことです。
 多くのかたが知っておられると思いますが、ハンセン病はその伝染力も大変弱く、薬による治療で完全に治る病気です。今日ではそのことは、はっきりとわかっていることです。しかし、ハンセン病にかかると神経を冒されるために、痛みを感じなくなります。そのために、傷口などから他の病原菌が入り込んでも、痛みを感じないために傷が悪化し、膿んでしまったり、体の変形を起こしてしまったりするのです。視力を失うことも少なくありませんでした。このために、これは恐ろしい病気であるとの偏見が起こり、病人の隔離という悲しい歴史を作ることになりました。
 この歴史的誤りは、今でも多くの人の体の傷となり、心の傷となっています。また、現在でも、アジアの各地では、ハンセン病によって困難の中に取り残されてひる人も少なくはありません。
 この重い皮膚病については、聖書自体も詳しくは語っていません。レビ記13-14章に重い皮膚病についての記事がありますが、その関心事は病気のことではなくて、どのような皮膚病が汚れていて、どのような皮膚病が汚れていないか、と言うことです。
 マルコによる福音書の福音書記者が問題にしているのも、病気のことではありません。重い皮膚病を患っている人は次のようにイエスに訴えています。
「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(40)
「治してください。癒してください。」ではなく、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」なのです。ここで問題になっているのは「清さ」の問題なのです。
 レビ記14章には重い皮膚病の人が清さを取り戻したときに、どのような儀式を行うかが記されています。ここでも問題になっているのは、病気の蔓延を防ぐための方法ではなく、「清さ」の問題です。清めの儀式と並んで行われるのは、贖罪の捧げものです。
 なぜ、「清くある」ことが求められたのでしょうか。イスラエルの民は、神に選ばれた民です。神の民、清い民なのです。従って、汚れているものはその中にいることができません。自分は汚れたものであると言うことをはっきりと示し、宿営の外に出て行かなければならないのです。しかし、そのまま放っておかれるのではなく、清くなれば宿営の中に戻ることができるのです。「清いか清くないか」そのことを判断するのは、祭司の役目でした。ですから、主イエスが、この重い皮膚病に人を癒された後で、
「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」(44)
と命じられたのす。
 私たちは、すでに、マルコによる福音書第1章21節以下において汚れた霊のとりつかれた男を癒す記事を読みました。これは、主イエスがカファルナウムの会堂において、初めて行われた癒しの奇跡です。この時、主イエスは、汚れた霊をその人から追い出し、その人を汚れた霊の支配から解放し、清い神の民の側へと取り戻したのでした。今日の重い皮膚病を患っている人を癒す物語も、また、同じなのです。主イエスの癒しは、人々を罪の汚れから神の清さの中に取り戻すわざなのです。主イエスの癒しの物語が私たちに示していること、それは、私たちを神様の側に取り戻そうとされてる主の物語です。
「御心ならば、私を清くすることがおできになります」
この人は、そういって主に全てをゆだねました。私たちにもその決断があるかどうか問われているのではないでしょうか。真の清さの中に生きることを欲するかどうかの決断が、問われているのではないでしょうか。その決断をし、主の前にひれ伏すものには真の癒しが与えられるのです。まさに、生きているときも死ぬときにも、主のみ手の内にあるという確信です。
  さらに、マルコはここにもう一つのことを記しています。この男の癒された後の行動です。彼は、主イエスの言いつけには従わず、自分に起こった出来事を人々に告げ、いい広めました。その結果、主イエスは公然と町にはいることが出来なくなったと聖書は記しています。

私たちは、改めて主イエスがシモンの家から出て、一人祈られたことを思い出します。主イエスは、一人寂しいところに出て行かれて、祈られたのです。神から与えられた使命、御自分のするべきこと、歩む道を確認するように、祈られました。
自分がこの世に来たのは、悪霊を追い出し、病気を治すためではない。神の御国の福音を人々に知らせるためであったはずだ。そのことを人々が悟るときはまだ来ていない。だからなおのこと、神の御国の福音を伝えなくてはならい。
そう、主は決断され、まだ、シモンの家に残っている人々をおいて、

「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」

と言って、ガリラヤ中の会堂を巡られたのでした。
一方、この癒された男にしても、悪意は全くなかったに違いないのです。自分の身に起こった喜びの奇跡を黙っていることなどできないのは当然のことでした。福音書記者は、「大いにこの出来事を人々に告げ」た、と記していますが、「告げた」という言葉は、「福音をのべ伝えた」と言うときに使う言葉なのです。しかし、その結果、主イエスは公然と町の中にはいることができなくなってしまいました。その男が、自分の身に起こったことをいい広めた結果、主イエスは公然と町に入って、神の御国の福音を伝えることができなくなってしまったというのです。

 おそらく、この男自身、この時に主イエスが命じられたことの真の意味を悟ったのは、主イエスの十字架の死と復活の出来事を聞いたときであったのでしょう。この男は、主イエスの十字架の死と復活の出来事を聞いたときに、これは全くの想像にすぎないのですが、自分が癒されたときのことを思い出したに違いないと思うのです。

あのときに、自分が癒されたあのときに、主イエスはすぐに主のもとから立ち去れと命じられた。しかも厳しく命じられた。

「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」

あの厳しい声、厳しいお顔。シモンの家に集まった人々を、イエス様が一人一人癒されたと聞いた、そのときの柔和なイエス様のイメージとは全くちがっていた。なぜなのかわからなかった。それよりも、癒されたうれしさの方が勝っていた。だから、私は自分の身に起こったことを、人々に伝えずにはいられなかったのだ。
しかし、ああ、そうだったのか。主は私の病を癒されたのではない。主イエスは私の魂を救われたのだ。

そう、悟ったのではないでしょうか。

主イエスの癒しのみわざは、「癒し系」の言葉が示すようにあわあわとしたものではありません。私たちの救いの出来事が「癒し系」という言葉で語られるほどの、あわあわとしたものならば、主イエスの十字架のみわざは必要なかったでしょう。この世の悪と、この世の汚れと、この世の罪と戦われる主イエスのはっきりとした姿勢が癒しの物語の中に示されているのです。そして、この主イエスに信頼して全てをゆだねるときに、私たちもまた、真の癒しに、真の命に生かされるものとなることが、赦されるのです。

祈りましょう。
父なる御神。主イエスが、私たちのことを腹の中が痛むほどに深く憐れまれ、悪に対しては激しく憤られたことを知るときに、主が私たちをどれほどまでに愛されていたか、そして、私たちの命が、とれほどまでに重いものであるかを知らされます。
私たちは、幸福の中に過ごすことを望みます。健康であることを望みます。しかし、何よりも、真の命に生きることを熱心に求めることができますように。
主イエス・キリストの御名により、祈り願います。
アーメン
(楠原彰子:2005年9月11日主日礼拝説教より) 

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