イエス・キリストの名
使徒言行録 第4章1-12節美しい門のところで一人の人がいやされた時、驚いた人々が最初に集まって来ました。しかし今、まったく違う人々が来るのです。「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々」です。彼らはペトロとヨハネ、そして集まっている人々に近づいて来ます。そして「いらだった」のです。使徒言行録には感情が満ちあふれています。目の前の出来事に驚く人がいれば、目を留めもせずにあざける人たちもいるのです。聖書に描かれている人々が、良い意味でも悪い意味でも生き生きしているのです。今日、わたしたちが目にしている人々はいらだっています。この「いらだち」とはわたしたちに身近な感情ではないかと思うのです。
もちろん神様のみわざに驚き、神様を恐れてはいるのです。しかしいらだつ。それは目の前に起こっていることが、自分たちの思いにそぐわないからです。自分の価値観、考えていた事、これが最高だと思っていた事、あるいはこうしなければならない、こうでなければならないと思っていた事。それと目の前に起きている出来事が違うがゆえに、怒りを覚える。憤りを覚える。いらいらしてくるのです。不快なのです。「彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた」のです。
「お前たちはいったい何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と翌日二人は尋問を受けるのです。裁判の場です。ペトロは口を開きます。
「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録第4章8-12節)語られる事はただひとつです。キリスト!キリスト!あなたがたはキリストを十字架につけて殺した。しかし神様はこのお方を死者の中から復活させられた。このお方のお名前は、ナザレの人、イエス・キリスト!私たちの救い主!このお方の名前によって、美しい門のところにいた足の不自由な男の人は癒された。人生をまったく違うものにつくりかえられた。その時も、集まって来た人々に神殿の中で説教された事は、このわたしたちの救い主イエス・キリストの事であった。たくさんの人々が主イエス・キリストを信じた。洗礼を受けた。ペンテコステの時には3000人もの人々が自分たちの仲間に加えられた。そして昨日も男たちだけでも、5000人が加わった!
『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石。』良く聞く言葉です。家造り、言うまでもなく、家を建てる人たち、大工とよばれる人々です。この石は必要ではないと、まるでパズルを造る時に、ひとつのピースが、これは合わないから必要ないというように放り投げられた石なのです。子供の頃、思ったものです。口語訳でしたが「隅のかしら石」とはいったい何の事なのか。新共同訳では少しわかりやすくなっています。木造ではないので、大黒柱なるものはありません。家を造る時に隅に家を支えるための大切な石を置くのです。家全体を支えるための石、それが「隅の親石」なのです。あなたたちがいらないと捨て去った石が、わたしたちの教会の大切ないしずえになった。それが十字架にかかられたイエス・キリストだ!『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石。』これが教会の中で大切な言葉になっていったのです。
1年以上前になりますが、わたしたちはハイデルベルク信仰問答を傍らにおいての礼拝で、使徒言行録の今日の部分を読んでいるのです。それはどういう説教だったでしょうか。ぜひ読み返して頂ければと思うのです。信仰問答書は、振り返り、ふりかえり、わたしたちの信仰を問い返す、そのよりどころにすべき書物であるからです。
問29 なぜ神様のみ子は、イエス、すなわち救い主と呼ばれるのですか。 答 それは神様のみ子が、わたしたちを、わたしたちの罪から救ってくださるからです。そして、他の何ものにも、救いを探し求めることも、見いだすこともできないからなのです。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」との、ペトロの言葉とまさに響き合っているのです。
日本語で天下とは、ひとつの国、一つの政府と、いくぶん小さいイメージがあるかもしれません。しかしギリシャ語で言えば、文字通り地上の上に広がっている天、天空の下と記されるのです。地球上の人間全部の上にひろがっている天、その下にいる人類全体の中で、わたしたちが救われるべき方のお名前は主イエスしか考えられない。神様がこの世界ではたらいておられる。そして人間全体が救われるために、ひとり子を、ただ一人の救い主をお与えになった。そのお名前が、「主なる神様が救われる」という意味のお名前を持つ主イエスである。そうペテロは大胆に尋問の場で語ったのです。
名前とは何でしょうか。それが呼ばれる時、今、何のことが問題になっているのか、誰のことが問題になっているのかが問われるのです。主なる神様のお名前を呼ぶということは、神様をわたしたちの主人と信じて礼拝するという意味があるのです。ですから主イエス・キリストのお名前を呼ぶと言うことも、イエス・キリストをわたしたちの主と信じるという意味です。
ペトロは聖霊に満たされて、これしかないと言っているのです。キリストしかいない。キリストを信じれば良い。ほかの何者によっても、他の何によっても、わたしたちの救いはないと言うのです。人間に考えられる限りの広さにおいて、人間にはこれしかないと言っているのです。
(楠原博行:2005年9月18日主日礼拝説教より)
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