私は宣教する
マルコによる福音書 第1章35-39節この御言葉の中には、一つの主イエスのお姿があります。人々の中から離れて、一人で祈る主のお姿です。
この記事は、カファルナウムのシモンの家での物語の続きです。主イエスの評判を聞きつけて、安息日の終わるのを待ちかねていたかのように、たくさんの病人がやってきた。悪霊につかれた人も連れてこられた。シモンの家の入り口も、外も、人であふれかえっていたでしょう。それらの人々を、主イエスは一人一人、手を取り、話を聞いて病を癒し、悪霊を追い払われたのです。もちろん、シモンを始めとして、そこに居合わせた人たちも、やってきた人々やその家族の世話を一緒になってしていたと思うのです。夜が更けてくるのも忘れて、世話をしたと思うのです。しかし、明け方近く、主イエスは一人シモンの家から人里離れたところに出て行かれました。
「人里離れたところ」という言葉は、寂しいところ、荒れたところ、人気のないところという意味です。すぐに思い出すのは、主イエスが洗礼を受けられた後、荒れ野でサタンから誘惑を受けられたという記事でしょう。「”霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」(12節)この「荒れ野」が「人里離れたところ」と同じ言葉になります。荒れ野で、主イエスが受けられた誘惑とは、神に従わず、自らの持つ力に頼り、それを思いのままに使うという誘惑です。
こう言ってしまうと、それは当然のように聞こえますが、主イエスが荒れ野で受けられた誘惑は、大変厳しいものであったと思うのです。
たとえば、「石をパンに変えてみろ」という誘惑。主イエスにとって、その様なことはできることであったと思うのです。そのパンも自分のためではなく、おなかをすかせた人々のためであることがあるかもしれない。空腹の人を助けるのに、神の力を使うことをなぜためらうのか。そう悪魔は誘惑したかもしれないのです。
シモンの家を出られた主イエスが、人里離れたところで祈られたのも、同じ誘惑と戦うためでした。多くの人が主イエスの評判を聞き、集まってきている。そこには、本当に救われなければならない人たちがたくさんいるのです。しかし、御自分の本当の使命とは何なのか。何のために、この世に来たのか。それを改めて問い、神様の使命を全うする決意を確認されるために、戦いの祈りをされたのだと思うのです。
一方、シモンの家では、主イエスの姿が見えないことに人々はすぐに気が付きました。みんなで主イエスを探しました。癒されていない病人がいる。悪霊に憑かれたままの人もいる。イエス様はどこへ行かれたのだろう。とにかく、主イエスを必死で探したのだと思います。そして、人里離れたところで、主イエスを見つけるのです。
「ああ、イエス様、こんなところにおられたのですか。みんなが捜しています。みんなが待っています。早くお帰りください。」
しかし、主イエスは答えるのです。
「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(38節) ここに、主イエスの一つの、真剣な決断があったと思います。自分は病人をなおし、悪霊を払うために、この世に来たのではない。宣教をするため、福音を伝えるために来た。ここにとどまっていないで、ほかの町や村へも行かなければならない。そこへも福音を伝えに行かなければならない、という決断です。主イエスが病気を癒したり、悪霊を追い出されたりしたことは、確かに私たちにとって見える救いのみわざです。しかし、主が来られた本当の目的は、「宣教をするためなのである。」ときっぱりと言われたのです。宣教とは何か。私たちは、今日も再び、15節の言葉を繰り返し心にとめなくてはなりません。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。私たちを悪の中から、神様の側へと取り戻すために、主イエスは来られた。その主の十字架の贖い、復活を信じなさい。と言うことです。そして、ほかの町や村へも行って、人々にこの事を伝えなくてはならないのだと言うのです。
この時、シモンを始めとした、人々には、主イエスの本当のお姿はまだ隠されていました。だから、シモンにとっても、人々にとっても、主のお言葉は驚きであり、不思議でありました。そして、カファルナウムにたくさんの人々を残して、主イエスはガリラヤのほかの町に出て行かれたのです。
ところで、この主イエスのお姿を目の当たりにしたシモン・ペトロは、後に初代教会の伝道者となりました。使徒言行録に記されている、シモン・ペトロの説教を読むと、彼が、説教の中で語り続けたのは、まさに、「主イエスの福音」でした。彼は「御言葉の宣教」のために、語り続けたのです。語っているシモン・ペトロ自身が思ったかもしれません。
あのとき、カファルナウムの自分の家にいた人々をおいて、主イエスはさっさとほかの町に行かれてしまった。こんなにたくさんの困っている人々をおいていってしまわれるとは、正直、呆れ果てた。が、どんどん先に行ってしまわれる、主イエスの背中を必死で追いかけた。追いかけていくだけで精一杯だった。殺されるとわかっていて、エルサレムに向かわれるときもそうだった。主は私たちの心配などには、少しも耳を貸さないで、どんどん進んで行ってしまわれた。でも、お甦りになった主イエスに会ったとき、はっきりとわかったのだ。主がなぜ、どんどん先に行かれてしまったのか。この世の全ての人を、救うためだったのだ。
ペトロは、人々に説教をする度に、人里離れたところに赴かれ、ご自身が進まれる道について、戦いの祈りと言ってもいい、祈りをされていた主イエスの姿を思い出したに違いないのです。そして、あのカファルナウムでの主の言葉を思い出したに違いないのです。また、同じ祈りの闘いを強いられたに違いないのです。それはまた、私たちの祈りの姿にもつながるのではないでしょうか。厳しい祈りの姿です。しかし、私たちの先に、すでに主イエスがそれをなして下さっている。ペトロが夢中になって、主の後を追ったように、私たちもまた、主の福音を信じて主の後を付き従っていくのです。
(楠原彰子:2005年8月14日主日礼拝説教より)
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


