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2005/08/14

私は宣教する

マルコによる福音書 第1章35-39節
 この御言葉の中には、一つの主イエスのお姿があります。人々の中から離れて、一人で祈る主のお姿です。
この記事は、カファルナウムのシモンの家での物語の続きです。主イエスの評判を聞きつけて、安息日の終わるのを待ちかねていたかのように、たくさんの病人がやってきた。悪霊につかれた人も連れてこられた。シモンの家の入り口も、外も、人であふれかえっていたでしょう。それらの人々を、主イエスは一人一人、手を取り、話を聞いて病を癒し、悪霊を追い払われたのです。もちろん、シモンを始めとして、そこに居合わせた人たちも、やってきた人々やその家族の世話を一緒になってしていたと思うのです。夜が更けてくるのも忘れて、世話をしたと思うのです。しかし、明け方近く、主イエスは一人シモンの家から人里離れたところに出て行かれました。
「人里離れたところ」という言葉は、寂しいところ、荒れたところ、人気のないところという意味です。すぐに思い出すのは、主イエスが洗礼を受けられた後、荒れ野でサタンから誘惑を受けられたという記事でしょう。「”霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」(12節)この「荒れ野」が「人里離れたところ」と同じ言葉になります。荒れ野で、主イエスが受けられた誘惑とは、神に従わず、自らの持つ力に頼り、それを思いのままに使うという誘惑です。
こう言ってしまうと、それは当然のように聞こえますが、主イエスが荒れ野で受けられた誘惑は、大変厳しいものであったと思うのです。
 たとえば、「石をパンに変えてみろ」という誘惑。主イエスにとって、その様なことはできることであったと思うのです。そのパンも自分のためではなく、おなかをすかせた人々のためであることがあるかもしれない。空腹の人を助けるのに、神の力を使うことをなぜためらうのか。そう悪魔は誘惑したかもしれないのです。
 シモンの家を出られた主イエスが、人里離れたところで祈られたのも、同じ誘惑と戦うためでした。多くの人が主イエスの評判を聞き、集まってきている。そこには、本当に救われなければならない人たちがたくさんいるのです。しかし、御自分の本当の使命とは何なのか。何のために、この世に来たのか。それを改めて問い、神様の使命を全うする決意を確認されるために、戦いの祈りをされたのだと思うのです。
 一方、シモンの家では、主イエスの姿が見えないことに人々はすぐに気が付きました。みんなで主イエスを探しました。癒されていない病人がいる。悪霊に憑かれたままの人もいる。イエス様はどこへ行かれたのだろう。とにかく、主イエスを必死で探したのだと思います。そして、人里離れたところで、主イエスを見つけるのです。
「ああ、イエス様、こんなところにおられたのですか。みんなが捜しています。みんなが待っています。早くお帰りください。」
しかし、主イエスは答えるのです。
「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(38節)  ここに、主イエスの一つの、真剣な決断があったと思います。自分は病人をなおし、悪霊を払うために、この世に来たのではない。宣教をするため、福音を伝えるために来た。ここにとどまっていないで、ほかの町や村へも行かなければならない。そこへも福音を伝えに行かなければならない、という決断です。主イエスが病気を癒したり、悪霊を追い出されたりしたことは、確かに私たちにとって見える救いのみわざです。しかし、主が来られた本当の目的は、「宣教をするためなのである。」ときっぱりと言われたのです。宣教とは何か。私たちは、今日も再び、15節の言葉を繰り返し心にとめなくてはなりません。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。私たちを悪の中から、神様の側へと取り戻すために、主イエスは来られた。その主の十字架の贖い、復活を信じなさい。と言うことです。そして、ほかの町や村へも行って、人々にこの事を伝えなくてはならないのだと言うのです。
 この時、シモンを始めとした、人々には、主イエスの本当のお姿はまだ隠されていました。だから、シモンにとっても、人々にとっても、主のお言葉は驚きであり、不思議でありました。そして、カファルナウムにたくさんの人々を残して、主イエスはガリラヤのほかの町に出て行かれたのです。
 ところで、この主イエスのお姿を目の当たりにしたシモン・ペトロは、後に初代教会の伝道者となりました。使徒言行録に記されている、シモン・ペトロの説教を読むと、彼が、説教の中で語り続けたのは、まさに、「主イエスの福音」でした。彼は「御言葉の宣教」のために、語り続けたのです。語っているシモン・ペトロ自身が思ったかもしれません。
 あのとき、カファルナウムの自分の家にいた人々をおいて、主イエスはさっさとほかの町に行かれてしまった。こんなにたくさんの困っている人々をおいていってしまわれるとは、正直、呆れ果てた。が、どんどん先に行ってしまわれる、主イエスの背中を必死で追いかけた。追いかけていくだけで精一杯だった。殺されるとわかっていて、エルサレムに向かわれるときもそうだった。主は私たちの心配などには、少しも耳を貸さないで、どんどん進んで行ってしまわれた。でも、お甦りになった主イエスに会ったとき、はっきりとわかったのだ。主がなぜ、どんどん先に行かれてしまったのか。この世の全ての人を、救うためだったのだ。
 ペトロは、人々に説教をする度に、人里離れたところに赴かれ、ご自身が進まれる道について、戦いの祈りと言ってもいい、祈りをされていた主イエスの姿を思い出したに違いないのです。そして、あのカファルナウムでの主の言葉を思い出したに違いないのです。また、同じ祈りの闘いを強いられたに違いないのです。それはまた、私たちの祈りの姿にもつながるのではないでしょうか。厳しい祈りの姿です。しかし、私たちの先に、すでに主イエスがそれをなして下さっている。ペトロが夢中になって、主の後を追ったように、私たちもまた、主の福音を信じて主の後を付き従っていくのです。
(楠原彰子:2005年8月14日主日礼拝説教より)

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2005/08/07

神様に従う ー 十戒

「主はこう言われる。/呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし/その心が主を離れ去っている人は。/彼は荒れ地の裸の木。/恵みの雨を見ることなく/人の住めない不毛の地 炎暑の荒れ野を住まいとする。/祝福されよ、主に信頼する人は。/主がその人のよりどころとなられる。/彼は水のほとりに植えられた木。/水路のほとりに根を張り/暑さが襲うのを見ることなく/その葉は青々としている。/干ばつの年にも憂いがなく/実を結ぶことをやめない。(エレミヤ書第17章5-8節)」

 預言者エレミヤはバビロン捕囚のまっただ中に生きた人でありました。国が失われてしまう。多くの人々がよその国へと連れて行かれてしまう。残された人々も行き惑うのです。これからどうすればよいのか。さまざまなことを企てて、まわりの人々を率いようとする人も現れました。人間の企てです。自分たちを虐げようとする人々に力で抵抗する。あるいは力を持っていそうなより大きな国に頼ろうとする人々もいました。そのような中で預言者エレミヤはひたすら神の言葉を語ったのです。なぜ自分たちは今こんな事になっているのか。捕囚という、神様から見捨てられたのではないかと思われる中で、それでも神様が働いていると語り続けたのです。エレミヤは言います。人間の思いに捕らわれ、その心が、主なる神様から離れ去っている人は呪われよと。それは荒れ地にある裸の木のようだと言うのです。しかし主なる神様に信頼する人は、祝福を受けるべきである。水のほとりに植えられた木のようで、暑さが襲うとも、干ばつに襲われようとも、その葉は青々とし、豊かに実を結び続けると告げるのです。

 人間の思いに捕らわれないで主なる神様に信頼する。そのような生き方がわたしたちの十戒に記されています。遠い昔から、多くの教会の礼拝において、モーセの十戒が読まれてきました。それはなぜであったか。それは神様の前で、わたしたちの罪を告白するためなのです。本来ならば、わたしたちがそう生きて行かなければならない生活。本来ならそうあらねばならない姿。そのことが十戒に記されているからです。

十戒
我は汝の神、主、汝をエジプトの地、
その奴隷たる家より導き出せし者なり。
汝わが面の前に我のほか、何物をも神とすべからず。
汝、己れのために、何の偶像をも刻むべからず。
汝の神、主の名をみだりに口にあぐべからず。
安息日をおぼえて、これを聖くすべし。
汝の父母をうやまえ。
汝、殺すなかれ。
汝、姦淫するなかれ。
汝、盗むなかれ。
汝、その隣人に対して偽りの証しを立つるなかれ。
汝、その隣人の家をむさぼるなかれ。                アーメン
 十戒の十の戒めの内容を、主イエスはわかりやすく教えてくださっています。
「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』イエスは言われた。『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。』(マタイによる福音書第22章34-40節)」
 主イエスが教えてくださった二つの掟とは、十戒の二つの板にそれぞれ記されている戒めを意味しています。十戒の第一の板は、四つの戒めを通して「わたしたちが神様に対してどうすれば良いか」を教えています。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というのです。そして第二の板は、六つの戒めを通して、わたしたちが隣人に対してどんな義務があるかを教えます。それは「隣人を自分のように愛しなさい」ということなのです。
 十戒はわたしたちが守るべきものとして神様が与えて下さった戒めです。これらを見てわたしたちは安心するのでしょうか。ひとつひとつ数え上げて、これらすべてを守っていると言って誇ることができるのでしょうか。まったくそうではない。まったく正反対なのです。わたしたちは、神様の栄光のため、まことの信仰から、キリストを通して、心から神様を喜び、あらゆる良い行いに生きること、愛することを求めるのですが、わたしたちに神様が与えてくださった十戒は、むしろわたしたちの罪の真相を明らかにします。この十戒により、わたしたちはわたしたちの罪の姿を認め、ますます強くキリストにおける罪の赦しと義とを求めるのです。そしてたゆまず努力し、神様に聖霊の恵みを求めるのです。
 昨年の主の祈りに続き、同じ三要文の十戒を今年は取り上げるのですが、宗教改革者のマルティン.ルターは三要文のそれぞれの役割について次のように記しています。
「十戒は、人間に自分自身で罪を犯していることを知るようにと教えており...自分が罪深く、不義な者であると知るように教えている。そこで、使徒信条は薬、すなわち、神の恵みを見出すところを人間に示し、教え...主の祈りは、この恵みを慕い、求め、心にうけるように教えている(A.ペリー、『ハイデルベルク信仰問答講解』5頁、序文より)。」十戒は、わたしたちが、自分たちが罪を犯しているのだということを知るようにと教えてくれている。わたしたちが罪深い、正しくない者であることを知るようにと教えてくれているというのです。自分の罪を知ると言うことはやさしいことではないでしょう。できれば自分の、見たくない、触れたくない部分であるかもしれません。しかし素通りしてはならないのです。自分の弱さ、もろさを知るということは、またそのようなわたしをも神様は立ち上がらせて下さるということです。今年の修養会を通して、そのような喜びにあずかりたいのです。
(楠原博行:2005年月報8月号-修養会特集号巻頭説教より)

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