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2005/07/17

悔い改めなさい

使徒言行録 第2章37-42節
 毎週の礼拝に出席し、説教を聞く。それはどういうことでしょうか。実は、耳慣れない話を聞いたのです。礼拝の後の話です。礼拝後は入り口に立つ事。それは牧師の大切な仕事として先輩牧師から教わる事です。ところが先日鎌倉で行われた説教セミナーに参加させていただいて、まったく予期しなかったことに、加藤常昭先生から、礼拝後に教会員が牧師と顔を合わさないで出て行く出口が必要であると聞かされたのです。木更津教会には礼拝後の出口が実は2つあります。正面の入り口と、実は玄関を通らないで中の階段を通って一階の集会室から出てしまう出口があるのです。たいていわたしは玄関口に立ちますから、そちらから出て行かれますと、ついつい声を交わさずに、あれあの方はもう帰ってしまわれたのという事が起きてしまうのです。
 もちろん一階から出て行かれた方が皆、牧師を避けているとは思いませんが、この別の出口の話を聞いてはっとさせられました。大切なことです。耳を傾けていただきたいのです。それは説教とは実は恐ろしいものだということです。なぜなら説教はわたしたちの罪を明らかにするからです。正しく説教が語られたならば、牧師の顔を見ないで帰りたい人が必ずいるはずなのです。説教はわたしたちに決断を求めます。あなたは今、信じると決断しますか、生き方を変えますかと問われるのです。今はまだ決められない、決断できないという人が必ずいるはずです。ですから今日の所は、牧師と顔をあわせないで帰りたい。そういう人が必ずいるに違いないのです。
 わたしたちは使徒ペトロの説教を読み続けています。それはペンテコステの、聖霊がキリストの弟子たちに降った出来事に集まって来た人々に語られた説教です。いったい何が起こったのか。キリストとは誰なのか。それは主イエスの事である。主イエスはメシアである。しかしこの神から遣わされた方を、あなたがたは十字架につけて殺してしまったという説教です。それは恐ろしい説教の最たるものです。そしてそれは2000年前の出来事にとどまりません。わたしたちがキリストを十字架につけたのだと告白できなければ、わたしたちはキリストとは何の関係もなくなってしまうという問いかけだからです。今はまだそう告白できない。ちょっと待って欲しい。そういう方もかならずいるはずなのです。
 ペトロは広いところで説教をしています。立ち去りたければ、いつでもどこからでも出来るのです。ペトロに耳を傾け続ける人たちだけが残っています。説教が終わりました。人々はどうしたでしょうか。
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」   (使徒言行録 第2章37-39節)
「大いに心を打たれた」の元の言葉は「心を刺し貫いた」という語です。わたしたちが説教を聞いて、心を刺し貫かれるだろうかということなのです。数限りない問いかけが、毎週の説教でなされるのです。わたしたちの人生が問われます。キリストの信仰を持っている人には、あなたは今まで生きてきて、キリスト者としてふさわしく生きて来ましたかという問いです。まだ信仰を持っていない人にも、あなたは今まで生きて来て、今のままで良いですかと問いかけられます。一日いちにちの生活が、一秒いちびょう、まさに生きている一瞬いっしゅんについてが問われます。今、この時、あなたはキリストにかたく結ばれていますか?それにふさわしく、今、行い、生きていますか?まだ信じられない人は、なぜ今、信じられないのですか?なぜ今、信じると言えないのですか?という問いです。教会の中での問いかけには、かならず答えが求められます。今、この時、この瞬間、神様は、わたしたちが答えることを求めていらっしゃるのです。心を刺し貫かれない人はいないと思うのです。聖書は心を刺し貫かれた人々が確かにいたと伝えます。そしてどうしたでしょうか。どうすれば良いのですかとペトロに、説教者につめ寄ってくるのです。ペトロの答えはただひとつです。「悔い改めなさい、洗礼を受け、罪をゆるしていただきなさい。」
 何も変わらないのに、「わたしは悔い改めた」などと教会外では軽々しく使われるのですが、これは本来、神様に対して発せられなければならない言葉なのです。「悔い改める」と訳された語はギリシャ語のメタ・ノエオーです。ノエオーは「気づく」、メタにはいろいろありますが、ここでは「後で」という意味であるとされます。つまり「後で気づく」こと。つまり今ごろ気づいても遅いぞ、手遅れという意味もあるというのです。この世において手遅れとはどういうことでしょうか。わたしたちが生きている世界において、「手遅れ」とは、悲しい、人を絶望させる様な言葉です。「あなたは手遅れである」とは、イコール、「もうだめだ」という言葉なのです。
 しかし教会は違う、神様の御言葉の説教は違う、教会において「手遅れ」とは、「もう遅い」、「手遅れ」の、そのぎりぎりのところで、自分の生き方を根本的に変えてしまわなければならないという意味の言葉なのです。手遅れなのに、まだ変われる。非常に信仰的な言葉なのです。まだ間に合う、まだ間に合うという、主イエスの、 神様の呼びかけが聞こえて来る言葉です。
 使徒言行録を読むということは、まことの教会の歴史を読むということです。ただ歴史をたどるのではなく、まことの教会の歩みを聞くことによって、わたしたちの歩みを問い返すことなのです。わたしたちの教会の、わたしたちの信仰を問い返すのです。それは間違いなくわたしたちの心を刺し貫く物語です。わたしたちを悔い改めさせる、手遅れであることに気づかせ、まだ間に合う、だから新しく、今、始めようと呼びかけるわたしたちの教会の歴史なのです。(楠原博行:2005年7月17日主日礼拝説教より

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2005/07/10

権威ある教え

マルコによる福音書 第1章21-28節
いよいよ、イエスの宣教の歩みが始まります。ガリラヤ湖で召された弟子たち、シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを伴って、イエスはカファルナウムに来られました。カファルナウムはガリラヤ湖畔にある町です。
 そこで、主イエスが最初にされたことは、弟子たちと共に安息日に会堂に入り、教え始められたことだと、マルコによる福音書は記します。主イエスが安息日に会堂で教えられた、その第一回目で、集まっていた人々は、その教えに非常に驚いたとマルコによる福音書は記すのです。
 「非常に驚いた」と訳されている言葉は、とてもおもしろ言葉です。もとの言葉には「打つ」という意味の言葉がその中に入っているのです。主イエスの教えを聞いた人々の心が打たれたのです。頭をガンと叩かれたように、その教えに衝撃を受けたのです。その衝撃でひっくり返るほど驚いたのです。人々がひっくり返るほどの衝撃を受けた教えとは、どのような教えであったのでしょうか。福音書記者は、教えの内容をここでは具体的に記してはいません。しかし、私たちはすでに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と主イエスが言われた記事を読みました(14-15)。今や時が来た。神様の御国が近づいている。神様のご支配が始まったのだ。罪を悔い改めて福音を信じなさい。神様のもとに立ち返りなさい、と言うことを教えられたのです。そうに違いないと思うのです。この教えを聞いて、人々が非常に驚いた、その理由を、福音書記者は「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(22)律法学者も、ある種の権威を持っている者の一人です。律法学者の持っている「権威」と、主イエスがここで人々に示された「権威」とはどのようにちがうのでしょうか。

律法学者の起源は、イスラエルの捕囚時代に遡ることができるようです。イスラエルの民がバビロニアに敗れ、その半分がバビロンに連れて行かれる、国を失い、神殿を失い、異国バビロンの地に連れて行かれ、しかもその地において異国の民と交わる。イスラエルの民である、神の民であると言うことを根こそぎにされるようにことが行われたのです。バビロン捕囚の時に、唯一の主である神を拝するために、捕囚の民はシナゴク、すなわち会堂を建てました。おそらく、捕囚の民は、このシナゴクを中心とする生活において、バビロンにおいても律法を守り、安息日ごとに会堂に集まり、そこにおいて読み聞かせられる神の言葉、聖書に耳を傾け、捕囚という苦しみの中で慰めを得ていたのでしょう。シナゴクは捕囚の人々の生活の中心となりました。バビロン捕囚が終わった後もシナゴクは残り、イスラエルの人々は安息日ごとに集まり、聖書の言葉に耳を傾けたのです。

 そこで重要となったのが、律法をどのように解釈し、どのようにして生活の中で守り抜くかと言うことでした。律法を研究し解釈をする者たちの集団、律法学者がつくられていったのです。さらに、律法学者たちは、律法を子供たちに教える、教育の役目も彼らは担っていきました。

 捕囚が終わった後も、律法学者たちは重要な地位にありました。律法の専門家として、また、教育者としての役目を負ったのです。主イエスの時代には、祭司、長老と共に、エルサレムの最高会議の構成メンバーとなりました。使徒パウロも、回心する前はこの律法学者のひとりでありました。

 しかし、ここで人々が最初に感じたイエスの印象は、「律法学者のようにではなく、権威ある者」であったのです。律法学者のような権威ではなく、全く別の権威を人々は感じたのです。人々が主イエスに感じた「権威」とは、どのようなものだったのか。その様な私たちの問に答えるかのように、マルコによる福音書は、人々がイエスの教えに驚いていた、まさにそのとき、人々を驚かすもう一つの事件が起きたことを記しました。みんなが集まっていた、その同じ場所に、汚れた霊にとりつかれている男がいて、叫びだしたのです。

 病気や自分の身に降りかかる不幸なことを悪魔のせいだとする話は、よくあると思います。病気を悪魔や悪霊のせいにする。そんな非科学的なことは、科学の時代と言われる現代では笑い話だという人もいます。しかし、その一方で悪魔のせいにするなんて非科学的だと、一笑にふすことのできないことも、私たちは知っているのです。

 重い病気にかかったり、事故に遭って、体に何らかの傷害を負ってしまったり、愛するものを失ってしまったりする。そういった不幸にであった時に、私たちは嘆きの言葉を耳にするのです。

「なぜ、こんなことになったのか。私は何も悪いことをしていないのに。」

その言葉の後ろには、私の身に降りかかるよくないことは、自分の気がつかないところで起きた悪いことのせいではないか。よからぬ霊が、私についていて、私は苦しめているというのではないか。私は何一つ悪いことをしていないのに、なぜ、苦しまなくてはならないのか、という思いがあると思います。また、このような弱みにつけ込んで、「あなたについている悪い霊をお払いしてあげましょう、ご祈祷してさしあげましょう。」と言ったり、厄よけのお守りだと称して法外な金額を要求したりという事件も、実際に起きて、世間を騒がせています。

 悪魔、悪霊の話は聖書の中にもたびたび出てきます。が、聖書自体は、悪霊について詳しく書いているところはないのです。悪魔がどのようであるか、どのような手だてを使って人を唆すかと言うことに、聖書の著者、編集者の関心はなかったのです。そうではなくて、聖書は悪霊と対決する主イエスの姿を描き出しているのです。私たちの関心も、悪霊ではなく、主イエスへと注がれていきます。
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(24)

汚れた霊はそう叫んだと記されています。

「かまわないでくれ」という言葉は、「私たちは私たち、おまえはおまえだ、私たちとおまえに何の関係があるのだ」というような意味の言葉です。汚れた霊にとりつかれた男は、神様との関係が全くなくなってしまっているのです。だから、おまえには関係のないことだ、放っておいてくれと言うのです。

 さらに、汚れた霊は主イエスの正体を知っていました。

「神の聖者だ。」

「聖者」とは「聖いもの」です。神様の聖さを意味する言葉です。神様の聖さの前では、汚れているものは死ぬよりほかないのです。汚れた霊はそのことをよく知っていました。滅ぼされては大変だとばかりに騒ぎ、叫んだのです。これに対して、主イエスはきっぱりというのです。
「黙れ。この人から出て行け」(25)

「黙れ」は口を封じてしまう、という意味です。馬の口にかぶせてしまう「くつこ」と言う言葉から派生した言葉です。観光馬車の馬などの口に、人をかまないようにするためなのでしょう、かごがかぶせてあるのを見たことがあるかもしれません。口にカパッとかぶせてしまうのです。カパッと口にはめ込んでしまって、口を開けることを許さないのです。わめき立てる悪魔に、ものを言うことを一切お許しにならなかったのです。そして命じられました。「出て行け」主イエスはこの男を汚れたものの側から聖いものの側へ、神様の支配の側へと取り戻したのです。

 これらのことは、そのとき会堂にいた人々が目の当たりにしたことです。癒しの奇跡を目の当たりにして、人々は言いました。

「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」(27)

ここにも「驚く」という言葉が出てきます。27節の「驚く」は22節ので出てきた「非常に驚く」とはちがう言葉が使われています。27節の「驚く」は、「畏れかしこむ驚き」です。会堂にいた人々は、「権威ある新しい教えだ。」と言ったというのです。この事はとても重要なことです。会堂において人々が目の当たりにしたことは、癒しの奇跡です。呪縛から解放されるという奇跡のワザです。それを人々は、「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しいワザだ。」と言ったのではなく、「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。」と言って、驚いたのです。

「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教え」られた、その教えによって、一人の男が、汚れた霊から解放された。そこに示されたのは、人の権威ではなく、神の権威です。

 人々は、その教えを聞いて「権威ある新しい教えだ。」と言って驚きました。2000年に及ぶキリスト教の歴史の初めの出来事です。私たちもまた、主の日ごとに教会に集い、礼拝において御言葉を聴いているのです。主イエスが最初に教えられた、カファルナウムの会堂と同じことをしているのだと言うことを、今、私たちもしていることを驚きを持って思わずにはいられません。そして、礼拝の営みは、今の時代で終わるのではないのではないのです。5年先、10年先、否、再び主イエスが来られる時まで、御言葉は驚きを伴って、語り続けられ、聞き続けられる、そのことをも、私たちは驚きをもって心に刻みたいと思うのです。

祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神。私たちが、驚きとおそれを持って、御言葉を聴きつづけることができますように。神の権威を持って語られる言葉を聞く時に、私たちは、失った自分を取り戻すことができます。神の支配のもとへと、主イエスが取り戻してくださったからです。

御言葉を常に心に刻むことができますように。子供たちに繰り返し、語り聞かせることができますように。礼拝を終えて、一人一人が、日ごとの歩みの中に戻ります。日々の生活の中でも、起きている時も、寝ている時も、あなたの権威のもとに私たちを置いてくださいますように。

主の御名により、祈り願います。アーメン。

(楠原彰子:2005年7月10日主日礼拝説教より)

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