悔い改めなさい
使徒言行録 第2章37-42節毎週の礼拝に出席し、説教を聞く。それはどういうことでしょうか。実は、耳慣れない話を聞いたのです。礼拝の後の話です。礼拝後は入り口に立つ事。それは牧師の大切な仕事として先輩牧師から教わる事です。ところが先日鎌倉で行われた説教セミナーに参加させていただいて、まったく予期しなかったことに、加藤常昭先生から、礼拝後に教会員が牧師と顔を合わさないで出て行く出口が必要であると聞かされたのです。木更津教会には礼拝後の出口が実は2つあります。正面の入り口と、実は玄関を通らないで中の階段を通って一階の集会室から出てしまう出口があるのです。たいていわたしは玄関口に立ちますから、そちらから出て行かれますと、ついつい声を交わさずに、あれあの方はもう帰ってしまわれたのという事が起きてしまうのです。
もちろん一階から出て行かれた方が皆、牧師を避けているとは思いませんが、この別の出口の話を聞いてはっとさせられました。大切なことです。耳を傾けていただきたいのです。それは説教とは実は恐ろしいものだということです。なぜなら説教はわたしたちの罪を明らかにするからです。正しく説教が語られたならば、牧師の顔を見ないで帰りたい人が必ずいるはずなのです。説教はわたしたちに決断を求めます。あなたは今、信じると決断しますか、生き方を変えますかと問われるのです。今はまだ決められない、決断できないという人が必ずいるはずです。ですから今日の所は、牧師と顔をあわせないで帰りたい。そういう人が必ずいるに違いないのです。
わたしたちは使徒ペトロの説教を読み続けています。それはペンテコステの、聖霊がキリストの弟子たちに降った出来事に集まって来た人々に語られた説教です。いったい何が起こったのか。キリストとは誰なのか。それは主イエスの事である。主イエスはメシアである。しかしこの神から遣わされた方を、あなたがたは十字架につけて殺してしまったという説教です。それは恐ろしい説教の最たるものです。そしてそれは2000年前の出来事にとどまりません。わたしたちがキリストを十字架につけたのだと告白できなければ、わたしたちはキリストとは何の関係もなくなってしまうという問いかけだからです。今はまだそう告白できない。ちょっと待って欲しい。そういう方もかならずいるはずなのです。
ペトロは広いところで説教をしています。立ち去りたければ、いつでもどこからでも出来るのです。ペトロに耳を傾け続ける人たちだけが残っています。説教が終わりました。人々はどうしたでしょうか。
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「大いに心を打たれた」の元の言葉は「心を刺し貫いた」という語です。わたしたちが説教を聞いて、心を刺し貫かれるだろうかということなのです。数限りない問いかけが、毎週の説教でなされるのです。わたしたちの人生が問われます。キリストの信仰を持っている人には、あなたは今まで生きてきて、キリスト者としてふさわしく生きて来ましたかという問いです。まだ信仰を持っていない人にも、あなたは今まで生きて来て、今のままで良いですかと問いかけられます。一日いちにちの生活が、一秒いちびょう、まさに生きている一瞬いっしゅんについてが問われます。今、この時、あなたはキリストにかたく結ばれていますか?それにふさわしく、今、行い、生きていますか?まだ信じられない人は、なぜ今、信じられないのですか?なぜ今、信じると言えないのですか?という問いです。教会の中での問いかけには、かならず答えが求められます。今、この時、この瞬間、神様は、わたしたちが答えることを求めていらっしゃるのです。心を刺し貫かれない人はいないと思うのです。聖書は心を刺し貫かれた人々が確かにいたと伝えます。そしてどうしたでしょうか。どうすれば良いのですかとペトロに、説教者につめ寄ってくるのです。ペトロの答えはただひとつです。「悔い改めなさい、洗礼を受け、罪をゆるしていただきなさい。」
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」 (使徒言行録 第2章37-39節)
何も変わらないのに、「わたしは悔い改めた」などと教会外では軽々しく使われるのですが、これは本来、神様に対して発せられなければならない言葉なのです。「悔い改める」と訳された語はギリシャ語のメタ・ノエオーです。ノエオーは「気づく」、メタにはいろいろありますが、ここでは「後で」という意味であるとされます。つまり「後で気づく」こと。つまり今ごろ気づいても遅いぞ、手遅れという意味もあるというのです。この世において手遅れとはどういうことでしょうか。わたしたちが生きている世界において、「手遅れ」とは、悲しい、人を絶望させる様な言葉です。「あなたは手遅れである」とは、イコール、「もうだめだ」という言葉なのです。
しかし教会は違う、神様の御言葉の説教は違う、教会において「手遅れ」とは、「もう遅い」、「手遅れ」の、そのぎりぎりのところで、自分の生き方を根本的に変えてしまわなければならないという意味の言葉なのです。手遅れなのに、まだ変われる。非常に信仰的な言葉なのです。まだ間に合う、まだ間に合うという、主イエスの、 神様の呼びかけが聞こえて来る言葉です。
使徒言行録を読むということは、まことの教会の歴史を読むということです。ただ歴史をたどるのではなく、まことの教会の歩みを聞くことによって、わたしたちの歩みを問い返すことなのです。わたしたちの教会の、わたしたちの信仰を問い返すのです。それは間違いなくわたしたちの心を刺し貫く物語です。わたしたちを悔い改めさせる、手遅れであることに気づかせ、まだ間に合う、だから新しく、今、始めようと呼びかけるわたしたちの教会の歴史なのです。(楠原博行:2005年7月17日主日礼拝説教より
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