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2005/06/19

「神から遣わされた方」

使徒言行録 第2章22-24節

説教を聞くときわたしたちはどうするでしょうか。わたしたちは今ペトロの説教に耳を傾けております。主イエスが待ちなさいと弟子たちに命じられた約束されたもの、すなわち聖霊が、主イエスが天に昇られた後に、弟子たちに降りました。その様子に驚いて集まって来た人々、聖霊を受けた弟子たちが、さまざまなほかの国々の言葉で語りだしたのに驚いた人々に対して、今ペトロは語っているのです。わたしたちは、この説教を何回かにわけて、詳しく聞いているのです。

ペトロは語ります。今起こっている出来事が、人間が行っていることではなく、神がなさっていることであることを。そしてそれが、預言者ヨエルを通して、神様のご計画として語られていたことであることを。ペトロは、起きた出来事を、神がなさった事として驚き恐れる人々に、この出来事が、むやみに恐れるべき事ではなく、神様がお約束通りに、
ご自分のご計画を確かに行っておられる事を語るのです。そして彼らは酔っぱらっているだけだとさげすむ人々に対して、起きていることが、人間によるものではない、神様によるものであることをはっきりと断言するのです。

ペトロが前にした、二種類の人々。彼らの姿を思い描くだけでも、神様の御業を前にした人々の、いや私たちの、弱さ、頼りなさを思うのです。それに比べて、神様の御業は計り知れないのです。預言者ヨエルを通して語られる言葉は、限りなく力強いのです。

『主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

神様はなお私たちの前に救いの道を示して下さるのです。主の御名を呼び求める者に対しては、救いの道を用意して下さるのです。多くの人間が惨めさの中に、悲しみの深さに覆い尽くされようとも、そこから逃れる道がまだ与えられているというのです。神様は例外なく、すべての者を救いへと招いておられます。神様を求めることを妨げられる者は誰もおりません。もしあるとすれば、もし私たちが救いへと入ることを妨げるものがあるとしたら、それは私たち自身の、不信仰、私たち自身が信じない、というところにあるに違いないのです。ペトロはヨエルの預言の言葉を人々に語ることにより、それを聞く人々の信仰を呼び覚まそう、呼び起こそうとするのです。

ペトロは、今目の前で起こった恐るべき業が、神様の御業であることを明らかにしました。そしてそのみ業が、今度は逆に、他ならぬペトロの説教を聞く者たちの側の問題へと向けられていくのです。集まって来た人々が、逆に問いかけられてしまう。集まって来た人々が、いわばまな板の上にのせられて、罪が明らかにされてしまうのです。今日わたしたちに与えられた使徒言行録2章22節で、ペトロは再び、人々に呼びかけます。

イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。(22節)

ペトロは呼びかけます、「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。」ペトロは今日のここではじめて、主イエスの事を口にします。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。」ペトロはいきなり、主イエスは救い主である、主イエスはキリストである、メシアであるとは言わないのです。ペトロの語り口はゆっくりとしています。ペトロはイエスが神から遣わされた方であると、まず語り、そしてこの方がどういうお方であるかを旧約聖書を通じて、神様の預言の言葉を通じて、明らかにしていくのです。それはゆっくりとした足取りですが、確実なのです。

ペトロは「ナザレの人イエス」と言います。ナザレとは主イエスの出身地である町です。また「ナザレの人」あるいは「ナザレ人」という時、それはまた、キリストの信仰をもった最初の人々を指す言葉でもありました。多くの人々がすでに知っていたはずなのです。たくさんの人々をいやし、たくさんの奇跡を行った方を知っていたに違いないのです。ペトロが「あなたがた自身が既に知っているとおりです」と言う通りなのです。

「神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。」

神のみ業を行われたのです。それは奇跡です。そのことに私たちは心動かされ、また驚くのです。不思議な業です。そしてそれは、驚くばかりではない。ただ人を驚かすだけではなく、私たちを、より高いところへと目を向けさせるのです。すなわち神様へと目を向けさせるのです。ですからこれは、しるしです。まさに偉大なる業を行った主イエス。そしてその主イエスを、ペトロの話を聞いている人々は知っているのです。

ここで「神から遣わされた方」の「遣わされた」と訳されている言葉は、「本物であることを証明する」とか「本物であるという証明書を持たせて派遣する」という意味の言葉です。つまり「ナザレの人イエス」、主イエスは、わけの分からない所から来られたのではない。人間に理解できないような所から、超人的な仕方で来られたのではないと言うのです。主イエスは、確かに神様から、正真正銘の神様から派遣された方であるという事を、ペトロはこの言葉を用いてはっきりと語るのです。なぜそんな必要があるのでしょうか。なぜその事をはっきりさせなければならないのでしょうか。それは続く23節を読めばわかるのです。

このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。(23節)

「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」他ならぬあなたがたが、このイエスを、十字架につけて殺してしまったのだと、
その罪を断罪するためであったのです。神様のもとから来られた方を、あなたがたは殺してしまった。人を殺してしまったというだけではないのです。他ならぬ神様のもとから来られた方を殺してしまった。わたしたちはおののくしかないのです。わたしたちは驚き恐れるしかない。神の一人子が殺されたのだというのです。

以前、ちょうど一年くらい前だと思いますが、三浦綾子の塩狩峠の一節を紹介しました。あの中で主人公が「あなたがイエスを殺したのですよ」と言われて即座に「そんなことをしたおぼえはありません」と打ち消す場面があると言いました。この小説では、後に主人公が、自分こそがイエスを十字架につけたのだと告白ができるようになる。そのことが、主人公の信仰の大きな転換点となるのですが、キリスト者にとって、自分こそが、主イエスを十字架につけたものであると告白することはとても大切な事なのです。

使徒言行録のこの部分では、ペトロはユダヤ人に語っています。ですから主イエスを十字架につけたのは、ユダヤ人であって、自分たちではないと思いがちなのです。いやキリスト教信仰では、大変大切なところであるから、自分は罪深い、主イエスを十字架にかけたのは、この私です。わたしは本当に罪深い者なのです、と言うことも出来るかも知れません。しかし、本当に、この手で、まさに自分自身の手で、主イエスを殺したことを知り、告白することができる人がどれだけいるでありましょうか。わたしたち自身が、あなたがた自身が、手をかけたのであります。わたしたちが何をしようとも取り返しはつかないのです。わたしたちが、いかにその罪をつぐなおうとしても、決して、絶対に、その罪がなくなることはあり得ないのです。いったいわたしたちはどうすれば良いのか、いったいわたしたちはどうなってしまうのか。ペトロの断罪の言葉はまっすぐです。ペトロの罪の宣告の刃には一点の曇りもないのです。

しかしペトロはこうも言っています。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのです」。これしかなかったのです。私たちが救われるためには、預言者ヨエルの「主の名を呼び求める者は皆、救われる」との神様のご計画が成就するためには、それしかなかったのです。いや、それしかないほど、わたしたちの罪は重いというべきでしょう。罪深い、私たちのために、神様はただ一つの救いの道を用意して下さった。それこそが、神の一人子が十字架にかかる、しかも私たちの手で、殺されるという恐ろしいご計画だったのす。

ペトロの断罪は厳しいですが、何よりも、その厳しさは、自分自身の罪深さを、主を3度も否んだ、3回もイエスなど知らないと言い放った、ペトロ本人が、自分の罪の恐ろしさを知っていたからではないでしょうか。主イエスは私たちの罪のゆえに十字架にかかられた。私たち自身が、十字架にかけて殺したのだ、その事実を、ペトロ自身思い知っていますし、私たちも思い知るべきなのです。

しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。(24節)

しかし神様は、この主イエスを、甦らされました。復活させられたのです。主イエスが死に支配されたままでおられるなどということはありえなかったからだとペトロは言います。それに続けてペトロはダビデの詩編を通して、この事実を語ろうとします。この詩編については、今日あわせ読みましたが、これは次回、新約聖書の御言葉と一緒に読むことになります。今日ここでは、ペトロが語る24節の言葉を深く味わいたいのです。

神の一人子を死が支配するなどということはあり得ません。神様は主イエスを死の苦しみから解放したとペトロは言います。ある注解者はこの「苦しみ」という言葉は、むしろ「産みの苦しみ」「出産の時の苦しみ」を意味する言葉であることを強調しています。

そうなのです。まずわたしたちは、主の御苦しみを、絶えることの出来ない、人間がこうむることのできる、最も激しい痛み、最も苦しい苦しみであったことを、福音書の中の受難の記事を通して読んでまいりました。何故、主はお苦しみにならねばならないのか。何故、主は、本当は神から呪われたものがかからなければならない、十字架の上の死をこうむらねばならないのか。それは、本当は私たちが負うべきであったものを、代わりに担って下さったのです。私たちの代わりに、神様の激しい怒りを、神様の呪いを、担って下さったのです。本当なら、私たちが!ということを忘れてはならないのです。そしてそのお苦しみこそが、私たちの救いの道を開く、唯一の方法であったこと、他には道がなかったこと、繰り返して申しますが、他にはないのです。私たちが救われるためには、十字架にかかられた主イエスを通してしか考えられないのです。

これは産みの苦しみです。何とかして私たちの救いの道を残そうとされる、神様のご計画の産みの苦しみです。わたしたちは、これを軽々しく扱ってはならないのです。本当なら私たちが、本当なら私たちが、という思いを、決して忘れてはならないのであります。
そしてそのことが分かったとき、いかに大きなことを、いかに恵みに満ちあふれた業を、神様が、主イエスがなしてくださったかをわたしたちは知るのです。

ペトロの説教はまだ続きます。わたしたちは礼拝ごとにそれを読み進めています。ペトロの説教は、まずナザレの人イエスが神から遣わされた方であることを明らかにして、わたしたちの目を神様に向けました。そしてペトロはわたしたちの目をさらに神様の御業へと向かわせます。このイエスが、ただ神様から派遣された任務を負った人ではなく、神様の一人子であること、わたしたちのただおひとりの救い主であることこそ、ペトロが、これから目指そうとしている事なのです。この方はメシアであると、ペトロが指し示すとき、聞く者は、それに心打たれ、わたしたちはどうすればよいのですかと問いかけるのです。

ペトロの説教が目指しているのは、私たちが答えることです。私たちはどうすればよいのですかと、他ならぬ自分自身のこととして、私たちの人生の大問題として、キリストの出来事を捕らえることなのです。わたしたちはキリストということについて慣れっこになってしまっていることはないでしょうか。そうではない。それはわたしたちの生き死ににかかわる問題なのです。わたしたちの生き死ににかかわるお方なのです。
(楠原博行:2005年6月19日主日礼拝説教より)

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2005/06/12

弟子の召命

マルコによる福音書 第1章14-20節
 この朝、この礼拝に於いて私たちがきこうとしているのは、主イエスが最初の弟子たちをお召しになる記事です。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17)という、おそらく、多くのキリスト者がこの言葉を聞けばすぐに光景が思い浮かぶ、あの話です。マルコによる福音書はその物語を語り出す前に、主イエスが「悔い改めて福音を信じなさい」と言われたと記しています。「悔い改めて福音を信じなさい」。すなわち、神様のもとに立ち返りなさいと言うことです。「そのときが今、来たのだ。神の御国は近づいた。救いの時が今訪れようとしているのだ。」ここから、イエスの公の後生涯が始まるのです。
 さて、そこで主イエスが最初に行ったことは何だったでしょうか。自らの語る言葉に賛同者を得るために、数々の不思議な業を行って人の目を引きつけたのでしょうか。人々が喜んで受け入れるすばらしい教えを語り、付き従う人を募ったのでしょうか。
 主イエスがまずされたことは、弟子を召すと言うことでした。宣教の初めから、同労者を求められたのです。しかし、彼らの目を引くことをされて、弟子として召したのではありません。シモンとアンデレは漁師として網を打っていました。日常の生業のために何度も何度も繰り返されてきた、その仕事のさなかに、主イエスのまなざしに捕らえられたのです。そして呼びかけられたのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。彼らは、その生業のために使ってきた道具、魚取りの網を捨てて、すぐにイエスに従ったのです。
 ここには、もう一組の漁師の兄弟がいました。ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネです。彼らは船の中で網を繕っていました。「網の手入れ」をしていたのですから、こちらの方はすでに今日の漁を終えいたのでしょう。網の手入れも、これもまた、日常の大事な仕事です。明日の漁に備えての大切な作業です。日々繰り返されてきた作業です。特別なことをしていたのではないのです。この兄弟もまた、その日々の仕事のさなかに主のまなざしに捕らえられたのです。彼らも同じように呼びかけられたのでしょう。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。こうして、この4人はイエスの最初の弟子となりました。マルコによる福音書は、最初の弟子を召す物語の中に、何のドラマチックな要素を入れませんでした。淡々とした、普段通りの日常の流れの中で、主イエスとの出会いがあり、主イエスからの呼びかけがあり、彼らがそれに従ったとだけ記しているのです。主イエスからのお召しというものが、私たちの側からの働きかけではなく、神様からの働きかけであることが、よくわかると思います。
 ところで、この4人は、聖書の中でもしばしば名前が登場します。4人ともイエスの昇天の後、主イエスの十字架と復活の出来事を、また、主イエスの教えを語り、迫害の中命がけで伝道したものたちばかりです。
 しかし、忘れてはならないことは、ここに出てくる弟子たちの誰一人として、特別に優秀なものでは決してななかったということでしょう。先ほど、この4人の名前が聖書の中に登場すると言いましたが、名誉なことで登場するばかりが、不名誉なことでも登場するのです。もしかしたら、不名誉な記事の方が多いかもしれません。
 弟子の中で一番偉いものは誰かと言って争いました。主の言葉が理解できずに、何度もイエスから叱責を受けました。主の十字架も復活も、最初から信じていたものは一人もいないのです。最後の晩餐の席で、「この中に私を裏切るものがいる」とイエスが言われると「まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めました。心のどこかに、引っかかるものがあったのかもしれません。主イエスがとらわれる直前に祈っておられた時も、弟子たちは祈りを共にするどころか、眠ってしまっていたのです。シモン・ペトロは主イエスを三度知らないと言いました。
 特に信仰深いわけでもない、躓きも多い者たちでした。この4人は、日常の仕事を黙々となしていたにすぎない、ただの漁師たちなのです。、なぜ、イエスは彼らを最初の弟子としてお召しになったのでしょうか。主イエスは、神様の側からの全くの自由な意志で呼びかけられ、この4人を弟子として召されたのです。ここに記されているのは、神様の側からの呼びかけなのです。
 神様から呼びかけられ、召されることを「召命」といいます。伝道者になる決心をした人たちに対して、「献身の召命を与えられた」などと言うことがあります。神様からの呼びかけを受けたということで、英語ではcallingと言うと、聞いたことのあるかもいらっしゃるでしょう。20節にはヤコブのヨハネをお召しになる時に「すぐに彼らをお呼びになった。」と記されていますが、もとの言葉に於いても「呼ぶ」、英語では「call」という言葉が使われています。
 伝道者になる決心をする時ばかりではありません。信仰を持つということを考える時、私たちは大なり小なり、ある決心を求められると思います。洗礼を受ける、信仰告白をするという決心は、神様の側からの呼びかけに対する私たちの応答です。私たちが洗礼を受けて、あるいは、信仰告白をして、成人した教会員として、教会の信仰の仲間に加わる、そういう決心をするといいます。同時に、その決心は私自身の決心であると同時に、神様からのお召しにあずかるのだとも言われます。つまり、私の命、私の全存在が、主イエスに対する信仰によって、神様に丸ごと召し抱えられてしまうのです。私たちは信仰によって、私たちの丸ごとの存在、丸ごとの命が主イエスのものとなってしまうのです。ですから、信仰者は全てイエスの弟子となるのです。弟子ならば、私たちは全て伝道する者です。こういいますと、「弟子だと言われても、私に『伝道』などという大それたことはできない」という方が時々おられます。大きなことをするのではないのです。御言葉に聴き従い、日ごとに新たに命に生かされている、その信仰の姿そのものが伝道の力を持つのです。
 ガリラヤ湖のほとりで召されたシモン・ペトロは、イエスの昇天後の記事の中で、次のようなことをいっています。 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。(使徒言行録3:2-4)
「わたしたちを見なさい」決して優れたものではない。躓きも経験し、絶望も経験し、主イエスを否むことすら経験してきた。しかし、主イエスの救いを信じるの故に新しい命に生かされている。その私を丸ごと見てほしい。そういったのです。
 実際、教会に来る、教会に行ってみよう、あるいは洗礼を受ける、信仰告白に導かれるという時に、傍らにいた信仰者の姿に導かれた人は多いのではないでしょうか。
 ある高校生は、キリスト教主義の学校に通っていて、そこの信仰を持つ先生に出会ったことがきっかけで教会に来るようになりました。キリスト教主義といっても、聖書の授業は最初から聞いていない生徒がほとんどです。大学受験に関係のない授業は、彼らにとってはどうでもいいものなのです。その聖書科の先生は、それでも手を抜かずに、『この時間は私の真剣勝負よ』といって授業をしたそうです。先生が真剣勝負で語る聖書とは何だろうと思ったのが、教会に来るきっかけになったというのです。
 また、80になってから教会に来られた方がありました。その方は、若い時にキリスト者の友人に誘われて教会に行ったことがあったそうです。しかし、戦争が激しくなり、程なくして召集、戦地に赴く身となりました。命を失うしなうことなく帰ってきたのですが、その後は日々の生活に追われ、教会のことはすっかり忘れていたのです。80になった時にふと若い時のことを思い出して教会に来られ、洗礼を受けられました。
 また、母親の熱心に祈る姿を見て、信仰告白に導かれた方があります。信仰の家庭に生まれ、幼い時から教会に入っていました。しかし、思春期になって「なぜ、こんなものを信じるのだろう」という疑問が起きたしまったそうです。ある時、彼女は毎日のように就寝前に祈る母の後ろ姿を見て、はっとしたといいました。お母さんの祈る姿は毎日見ていたのに、いってみれば彼女にとっては日常茶飯のことなのに、そのときは祈る母に後ろ姿に、神様に生かされているものの姿を見たように思えたといいました。
 向かいに住む高校生から「おばさんは、いつも見ても生き生きとしていますね。私も教会に行っていいですか。」と言われた方もいます。こう言われて、その方自身がびっくりされたそうす。なぜならば、いつも「遅刻しちゃう」と言いながら家の仕事を済ませて、いそいそと教会へ行くのが通常だったからです。そのばたばたと支度をしている姿を、いつも向かいの女子高校生が見ていたのである。
 父親の死に接して信仰告白を決心した大学生もいました。彼女の父はキリスト教主義の学校で教鞭をとり、教会学校の先生でもありました。どちらかというとちょっと怖い先生きびしい先生でした。働き盛りの年齢でしたが心臓を病み、病気療養のため退職。病状が悪化して、起きあがることもできなくなり、ついに天に召されたのです。その葬儀には勤めていた学校の教え子を始め、教会学校の生徒たち、多くの教会員が集いました。それほどまでに人々に愛された父、そして主に愛された父。彼女は、私も、父が見つめられ捕らえられていた、同じ主のまなざしの中に生きたいと彼女は思ったそうである。
 数え上げればきりがありません。どの人も皆、主イエスの最初の弟子となったシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを捕らえたと同じ主のまなざしに捕らえられた人なのです。皆、最初の弟子を捕らえたと同じ主のまなざしの中に生きている信仰者なのです。
 さて、主イエスの呼びかけに答えて、この4人の漁師たちは「すぐに網を捨てて(18)」「父を雇い人たちと一緒に舟に残して(20)」イエスに従ったと記されています。何もかも捨てて、イエスに従ったことを「軽率な行動だ」批判する人たちもいます。「父親をおいていったしまうとは、親を粗末にする不人情なやつだ」という人たちもいます。宗教に足をつっこむと、いわゆる俗世間から切り離されたところで生活するようになる、それは現実からの逃避にすぎないのではないか、という人たちもいます。
 今日は、旧約の箇所として列王記上の預言者エリヤが、後継者としてエリシャを召す記事(列王記上19:19-21)を読みました。エリシャは「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」と言ったと記されています。「ここではちゃんと両親に別れの挨拶をしているではないか。」と思う方もいるでしょう。  私たちは、聖書の全体を見る必要があると思うのです。シモンたちは、本当に不人情な人たちだったでしょうか。この後、彼らはそれぞれの家を訪れています。シモンのしゅうとめをいやす話も出てきます。何よりも、イエスと共に人々の中で暮らし、人々の中で神の御言葉を伝えるものとなりました。エリシャにしても、畑を耕すために引いていた牛を屠り料理して振る舞ったと記されています。「牛の装具」も秦仕事のために重要なものであったでしょう。それらを捨てて、エリヤについて行ったのです。
 彼らは、神に付き従うことをやめさせるものを捨てたにすぎないのです。決して、今生きている世の中から切り離されたところに行ってしまったのではありません。旧約の預言者たちも、新約に登場するイエスの弟子たち、使徒たちも、まず第一に神様との関係を重んじたのです。そのようにして、神との関係をまず第一とする生活、私の存在の全てがイエス・キリストのものであるとする生活は、聖書の中に記されているとおりに、わたしたちをもっと自由に、もっと生き生きとこの世に関わることを可能にする生活なのです。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」わたしたちもまた、イエスの捕らえられ、呼びかけられている存在なのです。わたしたちもまた、主の弟子となるのです。
(楠原彰子:2005年6月12日主日礼拝説教より)

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2005/06/05

主の名を呼び求める者

使徒言行録 第2章17-21節

 「立ち上がる。」それはどういうときでありましょうか。何かをしようとするときです。
まわりに人がいるのです。自分ひとりだけではないのです。しかもまわりにいる人は、
いつも自分の味方ではありません。まわりにいる人は、いつも自分を助けてはくれないのです。しかし立ち上がらなければならないのです。今、立ち上がって、仕事を始めなければならないのです。話を聞きたいと、耳を傾けてくれる人々がいます。しかしまた、目の前には自分をあざけるものがいます。最初から耳を閉ざして、相手をおとしめることによって、無視しようとする人たちです。その様な中でペトロは立ち上がりました。始めなければならない。御言葉を語らなければならないのです。ペトロは立ち上がらなければならないのです。しかしペトロのそばには十一人の使徒たちが共におります。そして何よりも、自分の力で、自分だけの力で立ち上がらなければならないのではないのです。神様が、主なる神様が立ち上がらせてくださる。信仰があるからです。神様を信じているからです。もう自分の力だけで生きていこうというのではないのです。弱い人間。くずおれてしまうようなもろい人間。これをも神様は助けてくださる。立ち上がらせてくださる。そしてしなければならないこと。神様の仕事に携わることをなさせてくださるのです。ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めるのです。知ってもらいたいことがある。聞いて欲しいことがあると声を張り上げて言うのです。
 聖霊が、間違いなくペトロの中で働いています。ペトロを立ち上がらせ、語らせているのは聖霊なのです。わたしたちは忘れてはなりません。聖霊が確かに、主イエスの弟子たちの中に、すなわち教会の中で働いている事を。わたしたちは、その教会の中に確かにいます。何よりも、この主の日、教会に集う私たちには、そのことがよくわかる。心から実感できるはずなのです。わたしたちの力ではないのです。わたしたちの側にはそれはないのです。もし自分の力に頼るなら、わたしたちはつぶされてしまうでしょう。そのような力弱い存在であるからです。しかし、教会の中に、信ずる者の中には、聖霊が確かに働いている。わたしたちが信仰を持ち続けることができるのは、何よりも聖霊の働きなのです。
 ペトロは語ります。「知っていただきたいことがある。」聖霊が降りました。キリストの弟子たちが、さまざまな国の言葉でみ言葉を語るのです。それは驚くべき出来事である。奇跡的な出来事である。しかしただ驚くだけで済ましてしまってはならない。驚き怪しむだけで終わってはならないのです。それは他ならぬ私たちに関わることである。私たちの救いに関わる出来事である。そうペトロは言いたいのです。
 ペトロは預言者ヨエルの言葉を引用します。旧約聖書の中に記される預言者ヨエルの言葉を語るのです。聞く者がその言葉と何の関わりがあるのか。聞く者がその言葉をどう理解すればよいのか。そして聞く者がその言葉によってどう変えられるのかを語るのです。
まさに説教なのです。

 預言者ヨエルが生きた時代、それは紀元前5世紀、あるいは4世紀初頭であったと言わ
れています。ヨエル書は全部で4章。それほど長いものではありません。通してお読みになるのも良いと思います。そこではいなごによる農作物の被害が最初に語られます。食べるものがなくなるのです。人々が飢えるのです。そして終わりの日、主の日が来ます。
その中でこの書物は何よりも人々に悔い改めを求めます。「わたしに立ち帰れ」、「主に立ち帰れ」との言葉が繰り返しかけられるのです。呼びかけがあります。「民を呼び集め」、「長老を集合させ」、祭司に「主よ、あなたの民を憐れんでください」と言うように命じるのです。そして、主なる神様が自分の国を強く愛して、その民を深く憐れまれたことが告げられます。その中で、語られるのが、使徒言行録に記されます、ペトロが用いた一節です。新共同訳聖書では、旧約聖書のヨエル書3章1-5節です。

旧約聖書と新約聖書とを読み比べて見ると、ペトロが、旧約の中のこの預言の言葉を、どう解釈し、どう人々に語ろうとしたかが、よくわかります。

『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。(使徒2:17-18)

 旧約聖書の中でヨエルは「その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」とだけ言っているのです。ペトロはここに「神は言われる」と付け加え、ヨエルの口を通して神様が語られることを示します。「その後」とはいつなのか、それを「終わりの時に」と言い換えて、それは神様の救いのみ業の完成の時のことである。その最初に起こる出来事であると、はっきり告げ知らせようとします。
 ヨエルはまた「わたしは 奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」と言いますが、「奴隷」との言葉も、ペトロは神様の奴隷のことである、すなわち神のしもべのことであると説明するために、「わたしの僕やはしため」と「わたしを」を書き加え、さらに「わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」と、このヨエルの預言の中に、はっきりと、ペンテコステの出来事、聖霊が降り、さまざまな国の言葉で、弟子たちが語った出来事が記されているではないかと説明するのです。
 このようにペトロは、聖書の御言葉を語り、そして、それがいかなる意味を持つのか。いや今自分たちの目の前で起こっているこの出来事が、すなわち、神様があらかじめ聖書の中ではっきりと語っておられることであることを、力強くあかししているのです。

上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。(使徒2:19-20)

 ヨエルは「天と地に、しるしを示す。」と言うだけですが、ペトロは「上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。」と述べて、「天の不思議な業」と、「地の徴」とを並べて正確に語るのです。今や教会がなり、自分たちの中だけではない、外の世界、外国の国々、キリストを知らない世界を前にする時、このことははっきりと示されなければなりませんでした。聖書の出来事は、なにか神秘的なもの、人間とかけ離れたところで起こることではないのです。奇跡的な、驚くべき事が、人間とはぜんぜん関係ないところで起こっている、そんなものではありません。それは地に対して、すなわち人間のいるところに、わたしたち人間が生きているところに神様が働いている。神様が人間に対してそのみ業を示されている。わたしたち人間に直接関わってくることなのです。
 「上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。」
新約聖書の中に度々現れる終わりの時の様子は、読む者を恐れさせるかもしれません。
しかし、終わりの時、それは、主イエスが、再び来られるときです。それは審きのときとも言われます。私たちは恐ろしくなるかもしれません。しかしキリストを信じる者には、主イエスというお方が、わたしたちを弁護して下さる方として与えられているのです。
罪深いわたしたちは、そのままでは神様の前に立つことは出来ません。しかし、神様と私たちの間に、主イエスが、キリストが立って、取りなしてくださるのです。ですから、キリスト者にとって、終わりの時は恐れおののく時ではありません。むしろ、待ち望んで良いときなのです。そしてそのことが、最後の一節

主の名を呼び求める者は皆、救われる。(使徒2:21)

に深く関わって参ります。ペトロが語るヨエルの言葉の中のこの一節はとても大切なことばなのです。「主の名を呼び求める」「呼ぶ」という言葉は「名前」という言葉と密接に関わる言葉であって、「神様に訴える」「キリストに訴える」「祈りの中で神様のおなまえを、キリストのおなまえを呼ぶ」という意味で用いられる言葉です。旧約聖書の時代から、用いられる言い方ですが、この言葉はまた特に使徒言行録の中に多く見ることが出来るのです。ただ「呼ぶ」というのではない。神様に、救い主に祈り願う。しかも誰が神様であり、誰が救い主であるかがはっきりされなければならない。そういう言葉であるのです。

 ここでペンテコステの聖霊が降る出来事から終わりの時までに、「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と宣言されるのです。このことは、この後の38節のペトロの呼びかけにも深く関わって参ります。37節で、ペトロの説教を聞いた人々が、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問うのです。すると、ペトロは彼らに答えます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

 ペトロは聖霊が降る出来事を見て集まってきた人々、いったいこれは何が起こったのかと問うた人々に向かって語り始めたのでありました。ですから、ペトロの説教の目的がここにあると言って良いのです。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」とペトロが語り、そして人々は「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問うのです。そしてペトロは答えます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」まさに私たちも知っている教会の姿がここに示されているのです。ペトロの説教は、ペンテコステの出来事を、神様の救いのみ業を告げるものでした。しかしそれが、直接、聞く者ひとりひとりの救いの問題に関わってくるのです。聞く者自分自身の信仰の問題なのであります。
 「主の名を呼び求める者は皆、救われる」だから、わたしたちは...
 「主の名を呼び求める者は皆、救われる」だから、あなたがたは...
ペトロの口を通して、語られるとき、神の言葉が、わたしたちに直接関わってくるのです。神の言葉が、みなさんを変えようとするのです。神の言葉が、みなさんの人生、生活の中に、入り込んでくるのです。そして神の言葉が、わたしたちの拠り所となり、支えとなり、
慰めとなるのです。
 ペトロの口を通して、キリストの出来事と結びつけられたとき、この言葉は、わたしたちにはっきりと問いかけます。あなたの救い主は誰か、キリストではないか。主イエス・キリストを求めている者は、受け入れなさい。キリストを信じる者は、救いの約束を受け、救いの保証を持ちなさいと。
 ある注解者のことばがあります。「たくさんの人間が惨めさの中に、悲しみの深さに覆い尽くされてしまっても、その前に、そこから逃れる道が、まだ与えられているのです。わたしたちは『皆、すべてのもの』と言う言葉をその中に見つけることが出来るのです。神様は例外なく、すなわちすべての者を、救いへと招いておられるのです...だから神様を求めることを妨げられる者は誰もいないし、救いの門はすべてのものに対して開かれています。何者も、わたしたちがそこから入ることを妨げる者はいません。もしあるとすれば、それは私たちの不信仰、私たちが信じないということなのです。福音によって、神様がみずからをお顕しになったのは、すべてのものに対してなのです。救いは私たちが神様の名を呼びもとめることにより確かなものとなるのです...そして呼びもとめるということは、何よりもわたしたちの信仰によるのです。私たちはキリストを通して祈り願うことができるのです。ヨハネによる福音書16:24の言葉の通りです。『今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。』」

 預言者ヨエルの書は、ぺトロの引用した部分の後、敵対する者たちに対する、裁きの言葉が続きます。そして最後に、誰が神であるかを知るといって閉じられるのです。ペトロが語ることも全く同じなのです。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」、「わたしたちはどうしたらよいのか」、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
(楠原博行:2005.06.05主日礼拝説教より)

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