「神から遣わされた方」
使徒言行録 第2章22-24節
説教を聞くときわたしたちはどうするでしょうか。わたしたちは今ペトロの説教に耳を傾けております。主イエスが待ちなさいと弟子たちに命じられた約束されたもの、すなわち聖霊が、主イエスが天に昇られた後に、弟子たちに降りました。その様子に驚いて集まって来た人々、聖霊を受けた弟子たちが、さまざまなほかの国々の言葉で語りだしたのに驚いた人々に対して、今ペトロは語っているのです。わたしたちは、この説教を何回かにわけて、詳しく聞いているのです。
ペトロは語ります。今起こっている出来事が、人間が行っていることではなく、神がなさっていることであることを。そしてそれが、預言者ヨエルを通して、神様のご計画として語られていたことであることを。ペトロは、起きた出来事を、神がなさった事として驚き恐れる人々に、この出来事が、むやみに恐れるべき事ではなく、神様がお約束通りに、
ご自分のご計画を確かに行っておられる事を語るのです。そして彼らは酔っぱらっているだけだとさげすむ人々に対して、起きていることが、人間によるものではない、神様によるものであることをはっきりと断言するのです。
ペトロが前にした、二種類の人々。彼らの姿を思い描くだけでも、神様の御業を前にした人々の、いや私たちの、弱さ、頼りなさを思うのです。それに比べて、神様の御業は計り知れないのです。預言者ヨエルを通して語られる言葉は、限りなく力強いのです。
『主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
神様はなお私たちの前に救いの道を示して下さるのです。主の御名を呼び求める者に対しては、救いの道を用意して下さるのです。多くの人間が惨めさの中に、悲しみの深さに覆い尽くされようとも、そこから逃れる道がまだ与えられているというのです。神様は例外なく、すべての者を救いへと招いておられます。神様を求めることを妨げられる者は誰もおりません。もしあるとすれば、もし私たちが救いへと入ることを妨げるものがあるとしたら、それは私たち自身の、不信仰、私たち自身が信じない、というところにあるに違いないのです。ペトロはヨエルの預言の言葉を人々に語ることにより、それを聞く人々の信仰を呼び覚まそう、呼び起こそうとするのです。
ペトロは、今目の前で起こった恐るべき業が、神様の御業であることを明らかにしました。そしてそのみ業が、今度は逆に、他ならぬペトロの説教を聞く者たちの側の問題へと向けられていくのです。集まって来た人々が、逆に問いかけられてしまう。集まって来た人々が、いわばまな板の上にのせられて、罪が明らかにされてしまうのです。今日わたしたちに与えられた使徒言行録2章22節で、ペトロは再び、人々に呼びかけます。
イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。(22節)
ペトロは呼びかけます、「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。」ペトロは今日のここではじめて、主イエスの事を口にします。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。」ペトロはいきなり、主イエスは救い主である、主イエスはキリストである、メシアであるとは言わないのです。ペトロの語り口はゆっくりとしています。ペトロはイエスが神から遣わされた方であると、まず語り、そしてこの方がどういうお方であるかを旧約聖書を通じて、神様の預言の言葉を通じて、明らかにしていくのです。それはゆっくりとした足取りですが、確実なのです。
ペトロは「ナザレの人イエス」と言います。ナザレとは主イエスの出身地である町です。また「ナザレの人」あるいは「ナザレ人」という時、それはまた、キリストの信仰をもった最初の人々を指す言葉でもありました。多くの人々がすでに知っていたはずなのです。たくさんの人々をいやし、たくさんの奇跡を行った方を知っていたに違いないのです。ペトロが「あなたがた自身が既に知っているとおりです」と言う通りなのです。
「神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。」
神のみ業を行われたのです。それは奇跡です。そのことに私たちは心動かされ、また驚くのです。不思議な業です。そしてそれは、驚くばかりではない。ただ人を驚かすだけではなく、私たちを、より高いところへと目を向けさせるのです。すなわち神様へと目を向けさせるのです。ですからこれは、しるしです。まさに偉大なる業を行った主イエス。そしてその主イエスを、ペトロの話を聞いている人々は知っているのです。
ここで「神から遣わされた方」の「遣わされた」と訳されている言葉は、「本物であることを証明する」とか「本物であるという証明書を持たせて派遣する」という意味の言葉です。つまり「ナザレの人イエス」、主イエスは、わけの分からない所から来られたのではない。人間に理解できないような所から、超人的な仕方で来られたのではないと言うのです。主イエスは、確かに神様から、正真正銘の神様から派遣された方であるという事を、ペトロはこの言葉を用いてはっきりと語るのです。なぜそんな必要があるのでしょうか。なぜその事をはっきりさせなければならないのでしょうか。それは続く23節を読めばわかるのです。
このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。(23節)
「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」他ならぬあなたがたが、このイエスを、十字架につけて殺してしまったのだと、
その罪を断罪するためであったのです。神様のもとから来られた方を、あなたがたは殺してしまった。人を殺してしまったというだけではないのです。他ならぬ神様のもとから来られた方を殺してしまった。わたしたちはおののくしかないのです。わたしたちは驚き恐れるしかない。神の一人子が殺されたのだというのです。
以前、ちょうど一年くらい前だと思いますが、三浦綾子の塩狩峠の一節を紹介しました。あの中で主人公が「あなたがイエスを殺したのですよ」と言われて即座に「そんなことをしたおぼえはありません」と打ち消す場面があると言いました。この小説では、後に主人公が、自分こそがイエスを十字架につけたのだと告白ができるようになる。そのことが、主人公の信仰の大きな転換点となるのですが、キリスト者にとって、自分こそが、主イエスを十字架につけたものであると告白することはとても大切な事なのです。
使徒言行録のこの部分では、ペトロはユダヤ人に語っています。ですから主イエスを十字架につけたのは、ユダヤ人であって、自分たちではないと思いがちなのです。いやキリスト教信仰では、大変大切なところであるから、自分は罪深い、主イエスを十字架にかけたのは、この私です。わたしは本当に罪深い者なのです、と言うことも出来るかも知れません。しかし、本当に、この手で、まさに自分自身の手で、主イエスを殺したことを知り、告白することができる人がどれだけいるでありましょうか。わたしたち自身が、あなたがた自身が、手をかけたのであります。わたしたちが何をしようとも取り返しはつかないのです。わたしたちが、いかにその罪をつぐなおうとしても、決して、絶対に、その罪がなくなることはあり得ないのです。いったいわたしたちはどうすれば良いのか、いったいわたしたちはどうなってしまうのか。ペトロの断罪の言葉はまっすぐです。ペトロの罪の宣告の刃には一点の曇りもないのです。
しかしペトロはこうも言っています。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのです」。これしかなかったのです。私たちが救われるためには、預言者ヨエルの「主の名を呼び求める者は皆、救われる」との神様のご計画が成就するためには、それしかなかったのです。いや、それしかないほど、わたしたちの罪は重いというべきでしょう。罪深い、私たちのために、神様はただ一つの救いの道を用意して下さった。それこそが、神の一人子が十字架にかかる、しかも私たちの手で、殺されるという恐ろしいご計画だったのす。
ペトロの断罪は厳しいですが、何よりも、その厳しさは、自分自身の罪深さを、主を3度も否んだ、3回もイエスなど知らないと言い放った、ペトロ本人が、自分の罪の恐ろしさを知っていたからではないでしょうか。主イエスは私たちの罪のゆえに十字架にかかられた。私たち自身が、十字架にかけて殺したのだ、その事実を、ペトロ自身思い知っていますし、私たちも思い知るべきなのです。
しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。(24節)
しかし神様は、この主イエスを、甦らされました。復活させられたのです。主イエスが死に支配されたままでおられるなどということはありえなかったからだとペトロは言います。それに続けてペトロはダビデの詩編を通して、この事実を語ろうとします。この詩編については、今日あわせ読みましたが、これは次回、新約聖書の御言葉と一緒に読むことになります。今日ここでは、ペトロが語る24節の言葉を深く味わいたいのです。
神の一人子を死が支配するなどということはあり得ません。神様は主イエスを死の苦しみから解放したとペトロは言います。ある注解者はこの「苦しみ」という言葉は、むしろ「産みの苦しみ」「出産の時の苦しみ」を意味する言葉であることを強調しています。
そうなのです。まずわたしたちは、主の御苦しみを、絶えることの出来ない、人間がこうむることのできる、最も激しい痛み、最も苦しい苦しみであったことを、福音書の中の受難の記事を通して読んでまいりました。何故、主はお苦しみにならねばならないのか。何故、主は、本当は神から呪われたものがかからなければならない、十字架の上の死をこうむらねばならないのか。それは、本当は私たちが負うべきであったものを、代わりに担って下さったのです。私たちの代わりに、神様の激しい怒りを、神様の呪いを、担って下さったのです。本当なら、私たちが!ということを忘れてはならないのです。そしてそのお苦しみこそが、私たちの救いの道を開く、唯一の方法であったこと、他には道がなかったこと、繰り返して申しますが、他にはないのです。私たちが救われるためには、十字架にかかられた主イエスを通してしか考えられないのです。
これは産みの苦しみです。何とかして私たちの救いの道を残そうとされる、神様のご計画の産みの苦しみです。わたしたちは、これを軽々しく扱ってはならないのです。本当なら私たちが、本当なら私たちが、という思いを、決して忘れてはならないのであります。
そしてそのことが分かったとき、いかに大きなことを、いかに恵みに満ちあふれた業を、神様が、主イエスがなしてくださったかをわたしたちは知るのです。
ペトロの説教はまだ続きます。わたしたちは礼拝ごとにそれを読み進めています。ペトロの説教は、まずナザレの人イエスが神から遣わされた方であることを明らかにして、わたしたちの目を神様に向けました。そしてペトロはわたしたちの目をさらに神様の御業へと向かわせます。このイエスが、ただ神様から派遣された任務を負った人ではなく、神様の一人子であること、わたしたちのただおひとりの救い主であることこそ、ペトロが、これから目指そうとしている事なのです。この方はメシアであると、ペトロが指し示すとき、聞く者は、それに心打たれ、わたしたちはどうすればよいのですかと問いかけるのです。
ペトロの説教が目指しているのは、私たちが答えることです。私たちはどうすればよいのですかと、他ならぬ自分自身のこととして、私たちの人生の大問題として、キリストの出来事を捕らえることなのです。わたしたちはキリストということについて慣れっこになってしまっていることはないでしょうか。そうではない。それはわたしたちの生き死ににかかわる問題なのです。わたしたちの生き死ににかかわるお方なのです。
(楠原博行:2005年6月19日主日礼拝説教より)
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