イエスの受洗
マルコによる福音書 第1章9-13節「イエスの受洗」。このテーマは、古くから多くの宗教画家たちの題材にもなりました。ヨルダン川のほとりで、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を授かっている、そして天から鳩、すなわち御霊が主イエスの頭の上に降ってくる、そういう美しい絵が、幾枚も遺されています。主イエス・キリストの御生涯を描く映画や子供たちが読む聖書物語などでも、欠かすことのできない一場面です。
新約聖書の中の4つの福音書も、それぞれに「イエスの受洗」の記事を記しています。「イエスの受洗」の記事は、4つの福音書で長さも、内容も少しずつ違いがあります。しかし、どの福音書もおしなべて記していることは、先に洗礼者ヨハネがヨルダン川のほとりで教え初め、その中で「イエス」とはどのようなお方であるかを証ししていることです。マルコによる福音書の記事を読む時に、私たちは二つのことに気づかされると思います。
その一つめは、洗礼者ヨハネが「罪の赦しを得させるための洗礼」(4)を授けていたことです。洗礼という儀式は、洗礼者ヨハネより前からありました。旧約聖書の中にも汚れを清める儀式の中に、流れる水を用いて清めるということが出てきます。汚れをイスラエルの民の中に持ち込まないためであり、また、聖なるものとして神のみ前に出るためには、大切なことでした。
ユダヤ教のいくつかの教派の中にも、ある種の洗礼運動がありました。形骸化していった神殿での祭儀に対する批判として、単なるお祭り、儀式的な贖罪ではなく、心からの悔い改めをなし、新しく生きるための印として洗礼を贖罪の意味に用いていたのです。
マルコによる福音書が伝えている洗礼者ヨハネは、ただの儀式としての洗礼を授けていたのではありません。 罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」(4)ていたのです。そしてこれを聴いた人々は、洗礼者「ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(5)のです。自らの罪を告白し、その罪の赦しを得るために洗礼を受けたというのです。
洗礼者ヨハネの授けていた洗礼の意味がそうであるならば、なぜ、イエスは洗礼を受けられたのでしょうか。真の神にして、真の人として私たちのところに来られた方が、罪など全く犯したことのない方が、罪を悔い改める必要はなかったはずです。むしろ、イエスは洗礼を受けられるのではなく、授ける側に立つべき存在だったのではないかと思うのが普通です。
悔い改める必要のない方が、洗礼者ヨハネから「罪の赦しを得させるための洗礼」を受けられたのです。「イエスの受洗」という出来事は、主の御生涯の中の一エピソードというどころか、私たちにとってはとんでもない出来事だったといっても、言い過ぎではないのです。クリスマスの時に、私たちは神の御子が人の子として、かわいらしい、しかし、「赤ん坊」という弱い存在として、主がこの世にこられた物語を聴きました。主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられることで、さらに私たちの方に近づかれたのではないでしょうか。主イエスが、どれほどまでに身を低くして、私たちの中に来られたかを思わずにはいられません。
二つめのことは、イエスがヨルダン川からあがってきた時に、「天が裂けて”霊”が鳩のように」(10)降ってきて、「「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(11)ということです。
天から降る御霊を鳩の姿で表すことは、この記事から来るのでしょうか。イエスの洗礼の絵でもそうですが、しばしば、鳩は御霊の象徴として描かれています。たとえば、マリアの受胎告知の絵を見ても、天からマリアに対して鳩が降ってくるという絵が何枚かあります。天の父なる神様の手かと思われるところから、マリアの頭上に鳩が送り出されていたり、あるいは、これも父なる神でしょう、強く吹き出されるいきに乗って、鳩が送り出されていたり。天と地が一つに通じているというイメージがそこに表されているのです。
さらに、大変興味深いことは、マルコによる福音書では「天が裂けて」と記されていることです。マタイによる福音書あるいはルカによる福音書では、「天が開いた」と記されているのです。ここで用いられている「裂ける」という言葉は、新約聖書の中では9回しか使われていません。特に、特徴的なのは、この言葉が、主イエスが十字架で死なれた時に聖所を分ける神殿の膜が二つに裂けたという記事が、マルコ、マタイ、ルカに記されていますが、そこで使われている言葉です。
聖所を分ける神殿の幕の内側には、限られた人、大祭司しか入ることができませんでした。なぜならば、そこは至聖所で神様と見える場所であったからです。大祭司は年に一度、この至聖所において民のために贖いの供え物を捧げるという重要な役目を負っていました(レビ16章)。しかし、主イエスの十字架によってこの聖所の幕が二つに裂けたのです。主イエスが、「新しい生きた道を私たちのために開いてくださった」(ヘブライ10:20)ということです。
イエスの受洗のときに「天が裂けた。」マルコの福音書記者は、神様の側からの強い力が私たちの地上と天の御国をつなげたのだということを、主イエスの公生涯の初めに記したのです。
教会はその初めの頃から、教会に加わり教会員となる時に、父、子、聖霊の名によって授けられる洗礼を不可欠なものとしてきました。
洗礼を受ける時、または小児洗礼を受けて後に信仰告白をする時に、私たちの教会では、礼拝の中においてそれを執り行うのですが、そのときに一人一人に誓約をしていただきます。誓約の時に、司式者から次のように問われます。
あなたは天地の作り主全能の父なる神を信じますか。あなたはその独り子、私たちの主イエスキリストを信じますか。あなたは聖霊を信じますか。あなたは主イエスキリストの十字架のあがないによって救われたことを確信しますか。あなたは私たちの教会の信仰告白を誠実にたもち、教会の定めたことに従うことを約束しますか。あなたは今後主の聖餐にあずかる者ですから、これを重んじ、これを喜び、忠実にこれを守ることを約束しますか。あなたはまた教会に加わり、聖徒の交わりをなし、教会員にふさわしく生活することを約束しますか。
ここで、問われていることは、
1.父、子、聖霊の三位一体の神を信じるか、ということ。
2.主イエスキリストの十字架の贖いを信じるか、ということ。
3.教会の告白する信仰告白を受け入れるか、ということ。
4.聖餐を重んじるか、ということ。
5.教会員としての生活をするか、ということ。
です。
時々、洗礼を受けることを躊躇される方があります。理由はいろいろです。もう少し、信仰のことがよくわかったら洗礼を受けます。私は、罪深いので、それを心から悔い改めることができるようになったら、洗礼を受けます。イエス様は、隣人を許せと言われています。私には、許せない人がいます。私は、その人を許すことができるようになったら、洗礼を受けます。
もう少し、信仰のことがよくわかったら洗礼を受けます。確かに、洗礼、信仰告白に向けて準備をすることは大切であり、それはよいことであると思います。信仰を単に雰囲気で捕らえないで、しっかりと考えることができるからです。また、古くから教会は洗礼志願者や信仰告白志願者に対して、主の祈り、使徒信条、十戒の三要文を教え、教会が告白している信仰告白を受け入れることを求めてきました。木更津教会でも、今年の4月から礼拝前に求道者会開くことにしました。洗礼、信仰告白を考えている方はもちろん、信仰をもっとよく知りたいと思う方は、是非参加していただきたいと思います。しかし、一定のハードルがあってそれを超えることのできる人だけが、洗礼を受けるのではありません。また、求道者会のカリキュラムを終えることで、洗礼の許可が受けられるというものでもないのです。
主イエスの十字架の出来事を、この私の救いのためであると信じ、教会の告白する信仰告白を受け入れ、それを自らの口で言い表すことのできること。それが求められるのです。ですから、その決断が与えられることも、神様の導きであり、また、その人個人の祈りであり、同時に教会全体の祈りの課題であるといえるでしょう。
蛇足になりますが、「私は、たまたま、そのときの成り行きで洗礼を受けたにすぎない。何の勉強もせずに洗礼を受けてしまった。」と言われる方にも時々出会うことがあります。その様な方でも、忘れないでほしいのは、どんなにしても、神様のお導きによって信仰を得たのだと言うことです。むしろ、信仰は何度でも学び直すことが大切ではないでしょうか。
ある、高校生がいました。彼は、信仰の家庭に生まれ育ちました。そして、キリスト教主義の学校に進学しました。が、いつも彼の胸の内にあったのは、大人はいつも偽善者だという思いでした。親も、学校の先生たちも、都合の悪い時にはいつも神様を持ち出す。聖書を読めば、人を愛しなさいとか、許しなさいとか書いてあるのに、自分の目の前の大人たちの強いてることはその反対。怒ってばかり、裁いてばかり。本当に、この人たちは神様を真剣に信じているのだろうか。学校の先生も日曜日には教会に行けという。でも、先生たちはどうなんだろう。教会に本当に行っているのだろうか。本気になって神様を信じているのだろうか。キリスト教主義の学校の教師をしている建前で、そういっているだけではないのか。ただ、自分の都合に合わせて、神様を信じていると言っているだけではないのだろうか。少なくとも、自分は偽善を行わないようにしよう。人を裁くことはしないようにしようと。彼は思ったそうです。
しかし、彼は苦しみ始めました。偽善者でないようにしよう、人を裁かないようにしようと思っている自分自身が、人を裁いていることに気づいたからです。「大人たちのようにはならないようにしよう」という思いこそが、その人たちを裁いていることになっていた、そのことに気づいたのです。「人を許すことは本当にできることなのか。いや、他人ではない、その様に問う自分自身をも裁いてしまっているのではないか。」彼はそこで立ち止まってしまったと言います。
そのとき、彼は今日と同じ、マルコによる福音書の御言葉に出会いました。礼拝の中でです。イエスの受洗。イエスはあえて罪人である私たちの中に混じって、私たちと同じように罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を受けられた。それは、私たちの罪を担い、私たちを罪から救うための第一歩であった。私たちの罪を許そうとされる神様の熱心は、それほどまでに深かった。そう、彼は聴いたのです。
彼は気がつきました。人を許すことができるようになってから、洗礼を受けるのではない。自分が人を許すことができないから、主イエスが十字架にかかられたのだ。だから、その主を信じて、主イエスと同じ洗礼を受け、教会に連なることが洗礼の意味なのだと。
私たちは、いつも心にとめておきたいと思います。私たちは、この主イエスと同じ洗礼を受けて教会に連なるものとなったのだと言うことを。主イエスは、私たちに歩むべき道を示されたということを。私たちもそのみ足の跡を直くたどるものであることを。
祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神様。
今、ここに、信仰を言い表して、洗礼を受け、信仰者としての生活をしてるものがいます。しかし、私たちはしばしば、洗礼を受けた当時の信仰の熱心を失ってしまうのです。冷えた心は、疑いの思いを持ちます。あなたのみ前に出ることを、いいわけを持って拒むようになります。どうか、繰り返し、繰り返し、立ち返らせてください。私たちが、洗礼を受けた時の、あの燃えるような思いを思い起こさせてください。
また、ここに、信仰を言い表して、洗礼を受けようと準備をしているものがいます。その学びと準備の時を、祝福し身ちびてくださいますように。
さらに、ここに、洗礼を受ける決心に至らないものもいます。しかし、全てはあなたのみ手の内にあることを確信させてください。あなた、ご自身がその心を開き、御言葉を悟らせ、口を開いて信仰の言葉を告白することができますように。
何よりも、改めて、主イエス、ご自身が私たちの中に進んでこられ、洗礼を受けられたことをしっかりと心に刻ませてください。私たちも主と同じ洗礼を受けるときに、主キリストによって、私たちもあなたの子とされ祝福を受ける恵みを、心から喜びます。
主の御名によって祈ります。アーメン
(楠原彰子:2005年5月29日主日礼拝説教より)
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