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2005/05/29

イエスの受洗

マルコによる福音書 第1章9-13節
 「イエスの受洗」。このテーマは、古くから多くの宗教画家たちの題材にもなりました。ヨルダン川のほとりで、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を授かっている、そして天から鳩、すなわち御霊が主イエスの頭の上に降ってくる、そういう美しい絵が、幾枚も遺されています。主イエス・キリストの御生涯を描く映画や子供たちが読む聖書物語などでも、欠かすことのできない一場面です。
 新約聖書の中の4つの福音書も、それぞれに「イエスの受洗」の記事を記しています。「イエスの受洗」の記事は、4つの福音書で長さも、内容も少しずつ違いがあります。しかし、どの福音書もおしなべて記していることは、先に洗礼者ヨハネがヨルダン川のほとりで教え初め、その中で「イエス」とはどのようなお方であるかを証ししていることです。マルコによる福音書の記事を読む時に、私たちは二つのことに気づかされると思います。
その一つめは、洗礼者ヨハネが「罪の赦しを得させるための洗礼」(4)を授けていたことです。洗礼という儀式は、洗礼者ヨハネより前からありました。旧約聖書の中にも汚れを清める儀式の中に、流れる水を用いて清めるということが出てきます。汚れをイスラエルの民の中に持ち込まないためであり、また、聖なるものとして神のみ前に出るためには、大切なことでした。
 ユダヤ教のいくつかの教派の中にも、ある種の洗礼運動がありました。形骸化していった神殿での祭儀に対する批判として、単なるお祭り、儀式的な贖罪ではなく、心からの悔い改めをなし、新しく生きるための印として洗礼を贖罪の意味に用いていたのです。
 マルコによる福音書が伝えている洗礼者ヨハネは、ただの儀式としての洗礼を授けていたのではありません。 罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」(4)ていたのです。そしてこれを聴いた人々は、洗礼者「ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(5)のです。自らの罪を告白し、その罪の赦しを得るために洗礼を受けたというのです。
 洗礼者ヨハネの授けていた洗礼の意味がそうであるならば、なぜ、イエスは洗礼を受けられたのでしょうか。真の神にして、真の人として私たちのところに来られた方が、罪など全く犯したことのない方が、罪を悔い改める必要はなかったはずです。むしろ、イエスは洗礼を受けられるのではなく、授ける側に立つべき存在だったのではないかと思うのが普通です。
 悔い改める必要のない方が、洗礼者ヨハネから「罪の赦しを得させるための洗礼」を受けられたのです。「イエスの受洗」という出来事は、主の御生涯の中の一エピソードというどころか、私たちにとってはとんでもない出来事だったといっても、言い過ぎではないのです。クリスマスの時に、私たちは神の御子が人の子として、かわいらしい、しかし、「赤ん坊」という弱い存在として、主がこの世にこられた物語を聴きました。主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられることで、さらに私たちの方に近づかれたのではないでしょうか。主イエスが、どれほどまでに身を低くして、私たちの中に来られたかを思わずにはいられません。
 二つめのことは、イエスがヨルダン川からあがってきた時に、「天が裂けて”霊”が鳩のように」(10)降ってきて、「「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(11)ということです。
 天から降る御霊を鳩の姿で表すことは、この記事から来るのでしょうか。イエスの洗礼の絵でもそうですが、しばしば、鳩は御霊の象徴として描かれています。たとえば、マリアの受胎告知の絵を見ても、天からマリアに対して鳩が降ってくるという絵が何枚かあります。天の父なる神様の手かと思われるところから、マリアの頭上に鳩が送り出されていたり、あるいは、これも父なる神でしょう、強く吹き出されるいきに乗って、鳩が送り出されていたり。天と地が一つに通じているというイメージがそこに表されているのです。
 さらに、大変興味深いことは、マルコによる福音書では「天が裂けて」と記されていることです。マタイによる福音書あるいはルカによる福音書では、「天が開いた」と記されているのです。ここで用いられている「裂ける」という言葉は、新約聖書の中では9回しか使われていません。特に、特徴的なのは、この言葉が、主イエスが十字架で死なれた時に聖所を分ける神殿の膜が二つに裂けたという記事が、マルコ、マタイ、ルカに記されていますが、そこで使われている言葉です。
 聖所を分ける神殿の幕の内側には、限られた人、大祭司しか入ることができませんでした。なぜならば、そこは至聖所で神様と見える場所であったからです。大祭司は年に一度、この至聖所において民のために贖いの供え物を捧げるという重要な役目を負っていました(レビ16章)。しかし、主イエスの十字架によってこの聖所の幕が二つに裂けたのです。主イエスが、「新しい生きた道を私たちのために開いてくださった」(ヘブライ10:20)ということです。
 イエスの受洗のときに「天が裂けた。」マルコの福音書記者は、神様の側からの強い力が私たちの地上と天の御国をつなげたのだということを、主イエスの公生涯の初めに記したのです。

 教会はその初めの頃から、教会に加わり教会員となる時に、父、子、聖霊の名によって授けられる洗礼を不可欠なものとしてきました。

 洗礼を受ける時、または小児洗礼を受けて後に信仰告白をする時に、私たちの教会では、礼拝の中においてそれを執り行うのですが、そのときに一人一人に誓約をしていただきます。誓約の時に、司式者から次のように問われます。

あなたは天地の作り主全能の父なる神を信じますか。あなたはその独り子、私たちの主イエスキリストを信じますか。あなたは聖霊を信じますか。あなたは主イエスキリストの十字架のあがないによって救われたことを確信しますか。あなたは私たちの教会の信仰告白を誠実にたもち、教会の定めたことに従うことを約束しますか。あなたは今後主の聖餐にあずかる者ですから、これを重んじ、これを喜び、忠実にこれを守ることを約束しますか。あなたはまた教会に加わり、聖徒の交わりをなし、教会員にふさわしく生活することを約束しますか。

ここで、問われていることは、

1.父、子、聖霊の三位一体の神を信じるか、ということ。
2.主イエスキリストの十字架の贖いを信じるか、ということ。
3.教会の告白する信仰告白を受け入れるか、ということ。
4.聖餐を重んじるか、ということ。
5.教会員としての生活をするか、ということ。
です。
 時々、洗礼を受けることを躊躇される方があります。理由はいろいろです。もう少し、信仰のことがよくわかったら洗礼を受けます。私は、罪深いので、それを心から悔い改めることができるようになったら、洗礼を受けます。イエス様は、隣人を許せと言われています。私には、許せない人がいます。私は、その人を許すことができるようになったら、洗礼を受けます。

 もう少し、信仰のことがよくわかったら洗礼を受けます。確かに、洗礼、信仰告白に向けて準備をすることは大切であり、それはよいことであると思います。信仰を単に雰囲気で捕らえないで、しっかりと考えることができるからです。また、古くから教会は洗礼志願者や信仰告白志願者に対して、主の祈り、使徒信条、十戒の三要文を教え、教会が告白している信仰告白を受け入れることを求めてきました。木更津教会でも、今年の4月から礼拝前に求道者会開くことにしました。洗礼、信仰告白を考えている方はもちろん、信仰をもっとよく知りたいと思う方は、是非参加していただきたいと思います。しかし、一定のハードルがあってそれを超えることのできる人だけが、洗礼を受けるのではありません。また、求道者会のカリキュラムを終えることで、洗礼の許可が受けられるというものでもないのです。

 主イエスの十字架の出来事を、この私の救いのためであると信じ、教会の告白する信仰告白を受け入れ、それを自らの口で言い表すことのできること。それが求められるのです。ですから、その決断が与えられることも、神様の導きであり、また、その人個人の祈りであり、同時に教会全体の祈りの課題であるといえるでしょう。
 蛇足になりますが、「私は、たまたま、そのときの成り行きで洗礼を受けたにすぎない。何の勉強もせずに洗礼を受けてしまった。」と言われる方にも時々出会うことがあります。その様な方でも、忘れないでほしいのは、どんなにしても、神様のお導きによって信仰を得たのだと言うことです。むしろ、信仰は何度でも学び直すことが大切ではないでしょうか。

 ある、高校生がいました。彼は、信仰の家庭に生まれ育ちました。そして、キリスト教主義の学校に進学しました。が、いつも彼の胸の内にあったのは、大人はいつも偽善者だという思いでした。親も、学校の先生たちも、都合の悪い時にはいつも神様を持ち出す。聖書を読めば、人を愛しなさいとか、許しなさいとか書いてあるのに、自分の目の前の大人たちの強いてることはその反対。怒ってばかり、裁いてばかり。本当に、この人たちは神様を真剣に信じているのだろうか。学校の先生も日曜日には教会に行けという。でも、先生たちはどうなんだろう。教会に本当に行っているのだろうか。本気になって神様を信じているのだろうか。キリスト教主義の学校の教師をしている建前で、そういっているだけではないのか。ただ、自分の都合に合わせて、神様を信じていると言っているだけではないのだろうか。少なくとも、自分は偽善を行わないようにしよう。人を裁くことはしないようにしようと。彼は思ったそうです。

 しかし、彼は苦しみ始めました。偽善者でないようにしよう、人を裁かないようにしようと思っている自分自身が、人を裁いていることに気づいたからです。「大人たちのようにはならないようにしよう」という思いこそが、その人たちを裁いていることになっていた、そのことに気づいたのです。「人を許すことは本当にできることなのか。いや、他人ではない、その様に問う自分自身をも裁いてしまっているのではないか。」彼はそこで立ち止まってしまったと言います。

 そのとき、彼は今日と同じ、マルコによる福音書の御言葉に出会いました。礼拝の中でです。イエスの受洗。イエスはあえて罪人である私たちの中に混じって、私たちと同じように罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を受けられた。それは、私たちの罪を担い、私たちを罪から救うための第一歩であった。私たちの罪を許そうとされる神様の熱心は、それほどまでに深かった。そう、彼は聴いたのです。

 彼は気がつきました。人を許すことができるようになってから、洗礼を受けるのではない。自分が人を許すことができないから、主イエスが十字架にかかられたのだ。だから、その主を信じて、主イエスと同じ洗礼を受け、教会に連なることが洗礼の意味なのだと。

私たちは、いつも心にとめておきたいと思います。私たちは、この主イエスと同じ洗礼を受けて教会に連なるものとなったのだと言うことを。主イエスは、私たちに歩むべき道を示されたということを。私たちもそのみ足の跡を直くたどるものであることを。

祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神様。
今、ここに、信仰を言い表して、洗礼を受け、信仰者としての生活をしてるものがいます。しかし、私たちはしばしば、洗礼を受けた当時の信仰の熱心を失ってしまうのです。冷えた心は、疑いの思いを持ちます。あなたのみ前に出ることを、いいわけを持って拒むようになります。どうか、繰り返し、繰り返し、立ち返らせてください。私たちが、洗礼を受けた時の、あの燃えるような思いを思い起こさせてください。

また、ここに、信仰を言い表して、洗礼を受けようと準備をしているものがいます。その学びと準備の時を、祝福し身ちびてくださいますように。
さらに、ここに、洗礼を受ける決心に至らないものもいます。しかし、全てはあなたのみ手の内にあることを確信させてください。あなた、ご自身がその心を開き、御言葉を悟らせ、口を開いて信仰の言葉を告白することができますように。
何よりも、改めて、主イエス、ご自身が私たちの中に進んでこられ、洗礼を受けられたことをしっかりと心に刻ませてください。私たちも主と同じ洗礼を受けるときに、主キリストによって、私たちもあなたの子とされ祝福を受ける恵みを、心から喜びます。
主の御名によって祈ります。アーメン
(楠原彰子:2005年5月29日主日礼拝説教より)

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2005/05/22

預言の成就

使徒言行録 第2章14-16節
 「予言」、「予言の言葉」。マスコミをにぎわすことはなくなりましたが、今では、物語や、漫画、ゲームに至るまで、ほんとうにふつうに使われる言葉になってしまっています。
「予言」、「予言の言葉」というものは、何か神秘的なもの、いってみれば、何か心をくすぐるような、わくわくさせるものという感じで扱われているのかも知れません。何か不思議な力を持っているのです。そうしてわたしたちの日常の生活に入ってくるとき、「予言」や「予知」というものは、かならずしも不思議な雰囲気というような言葉では済ますことができなくなってくるのです。
 実際、西暦2000年を迎える直前のころ、世紀末だと言われていたころもそうでした。そのしばらく前、高度経済成長にかげりが見えて、東西冷戦構造と言われていたものがいよいよ厳しくなっていた頃、やはり予知、予言などという事がもてはやされたりしたのです。それはいったいどういう時でしょうか。経済的な不安があり、また社会的な不安あるとき。それは今も同じなのです。大災害や社会不安が問題になっている時代です。どうも「予知」、「予言」というものは、人間側の不安や弱さを見て、忍び寄ってくる、陰のような存在であるのかも知れません。地震の予知、災害の予知のように、進んだ科学的手段を駆使してなされるものならいざ知らず、世に言う予言とは、人が勝手につくったものであったり、信じるじるに足らない、想像力の産物であることの方が多いのです。ましてや予言を人間の力によって、無理矢理成就させようとする犯罪者さえいたのですから、説得力は芥子粒ほどもないのです。しかしなぜ信ずるに足りないものを人は信ずることができるのか。なぜ理性的に考えれば荒唐無稽にしかすぎないものを大切なものとして崇めてしまうのか。そこには、実に人間に深く根ざした不安、頼るべき者のない人間の姿が見え隠れしているのではないでしょうか。不安のゆえに信じてしまう。弱さのゆえに頼ってしまう。教会も別ではありません。いや正確に言えば、あるべき場所にとどまることができずに、現在の不安、未来への不安に、気持ちをかき回されてしまうことがあるのです。
 今日の説教の題を、看板で改めて目にしまして、この題を何も知らない人が読んだとき、いったいどう思うだろうかと考えるたのです。「預言の成就」、何か、テレビや物語にでも出てきそうな言葉です。
 キリスト教信仰をまだ良く知らないという方には、「預言の成就」の「預言」という言葉は、テレビや何かで良く出てくる「予言」とは別物だということをここで確認しておかなければなりません。知っておられる方には、今更とも思われる事柄ですが、とても大切なことなのです。教会学校で預言者の話をするときに必ず言うのですが、聖書の「預言」となんとかの大予言と言う場合とでは、「よげん」の「よ」の字が違うのです。なんとかの大予言の「予」は天気予報の「予」です。予想の「予」です。それに対して、聖書の「預言」の「預」の字は、銀行預金の「預」の字であり「預かる」という意味の言葉です。このふたつの「予言/預言」は、ともに未来のことを、将来の事を語るのですが、聖書の「預言」はそれだけではないのです。「言葉を預かる」わけです。誰から預かるのでしょうか。それは神様からなのです。
 ですから人間が作り出した言葉ではないのです。人間が身勝手に語る言葉ではないのです。神様の言葉を預かるのですから、人間が勝手に霊感かなにかで予知を告げるのではなく、神様の確かな言葉を、預かり、そして告げるのです。仲立ちとして、人間が言葉を預かり告げる。それが預言者であり、その言葉が聖書の「預言」と呼ばれるのです。ですからテレビや物語の「予言」と聖書の「預言」とは全く違うものなのです。
 今日与えられました新約聖書の箇所で、ひとつの預言の成就が記されているのです。預言者ヨエルの預言であると言います。ペンテコステ、五旬節に、主イエスの弟子たちに御霊が降りました。そのところを先週、読み味わったのでした。御霊が降る。その音に驚き集まってきた人々は、そこに起こった出来事に様々な反応をしたのでした。まず驚きとまどった人々がいました。しかし彼らはまた、この出来事が確かに神の偉大な業であると感じた人々でもありました。何よりも、この驚き、とまどいの中から、「いったい、これはどういうことなのか」という問いを発っした人々でした。このわけをもっと知りたい。聞きたいと願った人たちです。しかしまた、耳を閉ざす人々もいました。「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざけったのです。このわけをもっと聞きたいと願う人々。あの人たちは酔っているのだとあざける人々。これらの人々を前にして、一人の人が語り始めます。使徒言行録の2章14節からお読みいたします。
すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。(14節)
語り始めた一人の人とはペトロでありました。「ペトロは十一人と共に立って」と記されています。これは不思議です。あのペンテコステの出来事の中、聖霊が降るとき、弟子たちはすべて座っていたのかという疑問を生じさせます。しかしそうではありません。この言葉は文字通りに取るべきではないんです。「立ち上がった」との言葉は、これから重要なことが始まるぞとルカが示そうとしたものです。重要なこと、それは一体何でしょうか。説教です。ペトロの説教がこれから始まるのです。「ペトロが立ち上がった」と告げられることにより、聞く者は、耳を傾けるのです。またこの言葉を「前に進み出た」と訳す人もいます。それでもいいと思います。聖書は告げるのです。これからペトロが話し始めるのだ。ペトロがとても大切な説教を始めるのだと言うのです。わたしたちは、聖書の御言葉に心から耳を傾けなければなりません。
 しかしペトロのことを思うのです。キリストの十字架を前にして、迷い、苦しんだ人でした。結局、十字架の前に歩み出す事の出来なかった人なのです。しかし今、ペトロが、立ち上がり語ろうとしています。弟子たちが変わったと言葉を繰り返しています。いや変えられたと。わたしたちは、今日のところにも、大きな変化を見いだすことが出来るのです。
 ペトロが、語り始めるのは、もちろん自分の力でではありません。もはやペトロは自らの力を頼みとした、主イエスと一対一の関係で歩む人ではないのです。聖霊が降り、聖霊を受け、ここにキリスト者の群れが出来たのです。キリストの教会が生まれたのです。「ペトロは十一人と共に立って」の「十一人と共に」という短い言葉から、ペトロが一人で語るのではなく、この十一人の代表者として語っていることがわかります。進み出たのはペトロ一人ではなく、11人も一緒だったのです。
 ルカはペトロが「声を張り上げ、話し始めた」と記します。ペトロの声が、そのヴォリュームが大きかったことが言いたかったのでしょうか。そうではなかったと思います。ルカは、ペトロが、威厳を持って、厳粛に、声高らかに語ったと言うのです。「話し始めた」とありふれた言葉で訳されていますが、この言葉は、実は重要な言葉です。新約聖書には3回しか出て参りません。しかもこの使徒言行録の中にしか用いられない言葉なのです。この言葉はすぐ前の4節で、「一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」で用いられていた言葉です。その意味は「聖霊に満たされて語ること」です。ここでペトロは自分の力ではなく、聖霊の力によって語るのです。そしてさらに残りの一つは、26章でローマに護送される直前のパウロが「真実で理にかなったことを話しているのです。」とアグリッパ王と総督フェストゥスを前に語っている所です。これら3つが全て、人間が、自分の意見を語ろうとする所でないということです。すべては聖霊の力で、神のご計画が、救いの言葉が語られるのです。この使徒言行録を読む私たちも、心して聞くべきです。語られるのは、人間の業ではない。神の業であるという事をです。
 ぺトロは語り始めます。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。
 「ユダヤの方々」とはユダヤ出身の人々だけを指しているのではありません。また「エルサレムに住むすべての人たち」とはエルサレムに恒常的に住んでいる人々だけを指しているのではありません。「ユダヤの人々」には世界各地の出身であったが、改宗してユダヤ人となった人々を含んでいます。「エルサレムに住む人たち」には、この祭りに、五旬祭に、各地からエルサレムに神殿に参るために、やって来て、エルサレムに一時的に滞在している人々を含みます。ペトロは集まってきた全ての人々に語りかけるのです。
 そしてこの中には2種類の人々がおりました。第一には、聖霊が降り、主イエスの弟子たちに起こった出来事を見て、さまざまな国の言葉で語っているのを見て、驚いた人々、しかし、起きた出来事に対して「神の偉大な業を語っている」と神に栄光を帰する人々、そしてこの驚き、とまどいの中から、「いったい、これはどういうことなのか」という問いを発した人々でありました。このわけをもっと知りたい。聞きたいと願う人々であります。
 そして第二には、耳を閉ざすものたちです。しかし耳を閉ざすと言っても、あざける人々であります。ここで起きている出来事が「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と説明するのです。
 ペトロは威厳を持って、おごそかに語り始めます。「知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。」彼は、そこに集まったすべての人々に語るのです。この偉大な神の業について、もっと知りたいと言う人々に、そして、酔っぱらいが叫んでいるだけだと言って、あざける人々にも。知って欲しいことがある。耳を傾けて欲しい。そう語るのです。やはりここで「耳を傾ける」とありふれた言葉で訳された言葉は、新約聖書の中で、ここでしか用いられない言葉です。それは人々に問いかける言葉です。ある意味で挑戦的な言葉です。この言葉は「耳」という言葉が、もとになっています。主イエスの「耳のある者は聞きなさい」という言葉と結びつけて考えられます。「耳のある者は聞きなさい」の言葉は、文字通りの意味に取る必要はありません。そうではなく問いかけなのです。背後にイザヤの預言があると思われますが。聞くか聞かないか、受け入れるか受け入れないかの選択を迫っているのです。ペトロは、聞こうとする人々と、あざける人々を前にしております。ここでペトロが語ろうする言葉を、受け入れるか、受け入れないかと問いかけ、選択を迫るのです。
 これはペトロの説教です。ペンテコステで聖霊が降り、教会が生まれた。ペトロは立ち上がり、説教を語る。今、世界ではじめて説教が語られる。宣教、神様の御言葉が世界にあまねく語られるのです。わたしたちの教会で語られる御言葉が、それが今ここからはじまろうとしているのです。
今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。(15-16節)
「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。」新共同訳では「朝の九時」と親切な説明を加えて翻訳されました。もともとは、一日の第三時という言葉です。日が昇り、日が沈むまでを12等分した、その3番目の時間ということなのです。単純に朝六時に日が昇り、夕方六時に日が沈むと考えば、この12時間を12等分した三番目とは8時から9時になります。そこで朝の九時と翻訳されたのです。
 つまり今は朝の祈りの時間である。だから酒を飲むはずがないではないか。あるいは酔っぱらいでさえ、まだ酒を飲む時間ではないだろうといいますのが「今朝の九時ですから」の意味だと思われるのです。しかし、大切なこと、本題は、実は時間にも、酒に酔っぱらうことにもないんです。ペトロは酒に酔っぱらっているという非難に対して、弁明することに主眼をおいているわけではないのです。中心は「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです」にあります。
 ペトロは、今起こっている出来事が、預言の成就であると言うのです。ヨエルの預言の言葉についての詳細は次回に触れることにして。私たちは、ここで、ペトロが、今、目の前で起こっている事柄が、預言の成就であると告げることに主眼をおいていることに注目したいのです。
「神は言われる」から始まり、霊が注がれる言葉が続き、「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」まで引用された預言者ヨエルの言葉は、かつて、昔に、語られた言葉でありました。そして、ペトロにとっても、周りにいた人々にとっても、語られて、書き記された言葉であったのです。それが何を意味するのか。すなわち預言の言葉は、書き記され、ペトロの時代に確かにあったのです。そして書き記されることによって、永遠までも、 確かに語り継がれます。そして語るのは神様です。預言者ヨエルの口を通してはいますが、語られるのは神様だと言うことを忘れてはなりません。
 聖書の預言の言葉は私たちにとって、恐怖を抱かせるようなものではありません。わたしたちの信仰の歩み自体がひとつひとつの預言の成就に他ならないからです。少し先取りすれば、「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」とのヨエルの預言は、信仰者には喜びの言葉であり、確かな約束の言葉です。そしてまだ、信仰をもっていない人々にも、大いなる力を持った、招きの言葉以外の何ものでもありません。
(楠原博行:2005年5月22日主日礼拝説教より)

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2005/05/15

聖霊が降る

使徒言行録 第2章1-13節
 今日は、教会のカレンダーではペンテコステです。それは聖霊が降った日なのです。聖霊が降る。主イエスの弟子たちに聖霊が降る。キリストの弟子たちに聖霊が降ったとき、それはキリスト教会が始まった時であるとされています。教会学校では、この日、ペンテコステは、教会の誕生日という言い方をするのです。わたしたちの教会、木更津教会、揺らぐことが決してあってはならない教会、その教会の原点である、聖霊が降る出来事を、今日、ご一緒に読みたいと思います。それは使徒言行録の2章からはじまるのです。
 聖書はひとつの出来事を伝えています。起こったことは奇跡的な出来事です。それはわたしたちの目には本当に驚くべき事なのですが、聖書は、ただ確かに起こった出来事として、事実だけを淡々と伝えます。主イエスは前から「待ちなさい」と命じられていました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」エルサレムを離れてはいけない。父なる神様がお約束になったもの、聖霊をただ待ちなさいとおっしゃっていたのです。それは人間の力だけではだめだということでした。そしてそのことは信仰についてさえも、わたしたちひとりひとりが主を信じる、その信仰においてさえも、人間ひとりの力だけではだめなのは同じであると、すでに語りました通りなのです。信仰とは、信じるということは、人間の側の問題であると思ってしまうのですが、今日の出来事は、そうではないということです。だから主イエスは「待ちなさい」とおっしゃったのです。人間が勝手に動くのではない、働くのではない。そうではなくてまず聖霊が働かなければならない。聖霊が働いて、わたしたちを助けなければ、わたしたちは立ちゆくことができないのです。弟子達は待ちました。そして五旬祭の日、ペンテコステの日に、この出来事は起こったのです。
 なぜこの日でなければならなかったのか。なぜ、主が復活されたときとか、あるいは天に昇られた時ではいけなかったのか。いや何よりも、なぜ弟子達はこの日まで待たなければならなかったのでしょうか。それは主がかつてモーセに、十戒をお与えになった日であったからとも言われます。毎年まいねんの過ぎ越しの祭りではなく、ただ一回限りの本当の過ぎ越しであった、主イエスの十字架と復活、そのときから50日目の、五旬祭の、この日に、まことの戒めがわたしたちに与えられた。わたしたちの心に与えられたと言うのです。
 そして、また、人が多く集まる、この祝祭の日、お祭りの日でなければならなかったとも言われます。神様のみ業が多くの人に知られるために。神さまの力と、その御働きとが知られるためには、そうでなければならなかったというのです。
 五旬祭の日、一同が一つに集まっている時に、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、家中に響いたのです。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったのでした。神様のみ霊が風のようであったと言われています。激しい風が、あたかもすべての生き物に吹き付けるかのような激しい風のように、神様の力が働いたというのです。そして炎のような舌が現れたと言います。そして聖霊は、御霊はどうなったでしょうか。弟子たち一人一人の上にとどまったのです。そして弟子たち一同が、聖霊に満たされて語り始めます。”霊”が語らせるままに語るのです。ほかの国々の言葉で語るのです。
 ルカという人は、エルサレムには、天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたと、まず述べます。信心深い、すなわち、この人々は、神様を礼拝するためにエルサレムに帰って来ていたのです。五旬節はお祭りの日です。多くの巡礼者が、神様を礼拝するために、エルサレムに集まってきていたのです。その時に、この出来事が起こったことは、また意味あることです。世界中から、ルカの言葉なら、天下のあらゆる国から、人々は集まってきていたのです。物音に大勢の人が集まってきます。あらゆる国から、やってきた人々が、使徒たちが、語るのを目撃するのです。集まってきた人々は、あらゆる国の言葉で、自分たちの故郷の言葉で話をするのを聞いて驚くのです。
 この出来事を、御霊が降る出来事を見て、まわりの人々はどうしたでしょうか。そこにはまず驚いた人々がいたのです。主イエスの弟子たちは、一地方、ひとつの限られた地域であるガリラヤ出身であって、そこから外に出たことはなかったのです。ましてや、外国語を学ぶ機会などはなかったことを知っていたのです。いやむしろ、そのような学問とは無縁の人々であったとも言います。その人達が、突然、たくさんの地域から人々が集まってきているのに、その人たちの自国の言葉で語っている。それに驚いたのです。弟子たちが突然このような力を受けたことに驚くのです。人々は驚き、とまどいます、しかし、弟子たちが、「神の偉大な業を語っている」と言って、神様に栄光を帰しているのです。確かにこれは神様の偉大な業である、神様が今働いておられると感じたのです。そして何よりも、このような奇跡が起こっていることに、驚き、とまどう中に、「いったい、これはどういうことなのか」という問いが発せられたということです。このわけをもっと知りたい。もっと聞きたいと願った人たちがいたのです。
 しかしまた、この書物を書いたルカという人は正直です。正直に、耳を閉ざすものたち、目の前に起こっていることが理解できず、さげすみ、疑問を抱き、耳など傾けようともしない人たちがいたことも記しているのです。理解できないことに対して、自分たちで理解できる言い訳を用意する人たちです。「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける人たちもいたというわけです。
 もっと聞きたい、もっと話をしてくれと願う人々。それに対してあの人たちは酔っぱらっているにすぎないのだとあざける人々。確かにいろいろな人がいたことは間違いありません。しかし神様のみ業が実を結ばないことはありえません。続くところで、ペトロが立ち上がります。ペトロは今や立ち上がって、神様のみ業を語り、人々に悔い改めを求めるのです。
 ここまでが使徒言行録に記されています、五旬節の日、ペンテコステに、主イエスの弟子たちに起こった出来事でした。ルカは事実だけを端的に伝えるのですが、聖書を通して、わたしたちが、2000年も昔のこの出来事に接するとき、わたしたちは「聖霊」について、それは過去のものであると投げやってはいけないし、また、「聖霊」について、目に見える奇跡を、あるいは、弟子たちに起こったような形の奇跡を追い求めることも誤りだと思うのです。  聖霊がまずわたしたちにも、わたしにも、与えられているのだという事を、まず信じなければなりません。聖霊は、まことの信仰によって、キリストと、その恵みにあずからせ、聖霊は、わたしを慰め、永遠にいたるまで、わたしとともにいてくださるのだということを、まず信じるべきなのです。ある牧師はこう問いかけます。「聖霊体験。聖霊を受けたら、それはちゃんと体験するはずだ。...心が燃えるような思いがする。...居てもたっても居られないような思いがする。...み霊が与えられるとそういうことも起こるのかもしれません。けれどもそういうふうに目に見える形、体で感じる形で、体験として聖霊が与えられるということになり、その体験をしたときにこそ、聖霊が自分に働いているのだと言えるとすれば、それをなお〈信じる〉と言うでしょうか」確かに、弟子たちに聖霊が降る出来事が起こったのだと言いました。そして、その事実を、ルカは聖書の中で語っています。わたしたちは、その事実を、今、どこに見ることが出来るのか。どこにその奇跡的な業を見ることが出来るのか、ということです。それは教会なのです。「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会。聖徒の交はり。罪の赦し。身体のよみがえり。永遠の生命を信ず」わたしたちは、礼拝ごとに、かならず使徒信条の中でこう告白します。「教会」「交わり」「罪の赦し」「身体のよみがえり」「永遠の生命」、これらすべてのものは、聖霊がもたらしてくださるものなのです。

 最後に、昨年一年間かけて、みなさんと味わいました、ハイデルベルク信仰問答から、ひとつの問いと答えとを読みたいと思います。

問54 聖なる公同のキリスト教会については、何を信じますか。

答 わたしは次のことを信じます。

 神の御子が、すべての人類の中から、ご自分のために永遠の生命に連なる群を選ばれたこと、主がその群に御霊と御言葉とによって、世のはじめから終わりまで、真の信仰において一つなるものとして、集め、守り、保って下さることです。

 また、わたしは次のことを信じます。

わたしが、その群の活ける枝であり、永遠にそうであることを。

永遠の命に至る群れとして選ばれたこと。御子が、まことの信仰により一つに、集め、守り、保って下さること。私がこの群れの生ける枝となっていること。これは確かな事なのです。これは確かな事実なのです。イザヤ書59章21節の言葉はこうでした。
これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると 主は言われる。 あなたの上にあるわたしの霊 あなたの口においたわたしの言葉は あなたの口からも、あなたの子孫の口からも あなたの子孫の子孫の口からも 今も、そしてとこしえに 離れることはない、と主は言われる。

 ひとりひとりに降る聖霊。わたしたちひとりひとりの中ではたらいている聖霊。そして一同ひとつになって集まっているときに働いている聖霊。これは決してわたしたちから離れ去ることはないのです。神様の御言葉は決してわたしたちから離れ去ることはないと言うのです。そしてそれだけではありません。わたしたちの子孫の口からも離れ去ることはない。わたしたちの子孫の子孫の口からも、子孫という言葉を何回繰り返しても良いのです。決して消え去ることはないのです。それが教会であり、御言葉であり、聖霊の働きなのであります。教会がぐらつくなどということを平気で口にしてはなりません。神様が働いている。聖霊が働いているのであります。一同ともにいるところに必ず働いている。信仰問答書はなんと言っているでしょうか。神様がひとつの群れとして、わたしたちを選んでくださったのだと言っているのです。しかも救いに、永遠の生命につながる群れとして選ばれているというのです。その枝なのです。いらないなどという言葉は発せられてはならないのです。神様が選んでいるからです。そしてその神様の選びに対して、わたしたちは応えなければなりません。わたしがその生ける枝である。その群れの、教会の生ける枝である。永遠にそうである。信じますと言うのです。しかも自分の子供、さらにその子供に至るまで続くものである。そのことをわたしたちはこのペンテコステに心に刻み、わたしたちの教会を、わたしたちの信仰を新たにしたいのです。

(楠原博行:2005年5月15日ペンテコステ聖餐礼拝説教より)

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2005/05/09

世界に告げよ(讃美歌第2編 172)

 讃美歌第二編172-181に、いわゆる「黒人霊歌」を収録している。黒人霊歌は、17世紀に始まった奴隷貿易により、アメリカに奴隷としてつれてこられた人々が、その苦役の生活の中で作り、歌った讃美歌である。奴隷として、故郷から遙かに離れたところにつれてこられた彼らは、主人たちに連れられて教会に行き、礼拝を経験する中で、キリスト教を知ったようである。奴隷たちは、彼ら独自の信仰を形成し、集会を作って礼拝を行っていたが、このような集会は、白人たちによって禁止されていた。
 このような過酷な状況の中で生まれた「黒人霊歌」であるが、そのほとんどが、神に対する信頼、希望、服従を美しい独特のメロディーで歌われているのは何故だろうか。解放を望むような、勇ましいものがあってもよさそうに考えてしまう。しかし、そうではない。来るべき救いに、全てを委ねていたからだろうか。
 アフリカの人々は、今でもわたしたちが持っているような西洋式の楽譜を持たない。アフリカのカトリックの典礼歌を聞いていると、そのままからだから出てくるハーモニーなのではないかと思うほど、独特の響きを感じさせる。魂をそのまま音楽にしている。アフリカの人々の持っている賜物の一つかもしれない。
 邦語の歌詞は、原恵氏の訳。「救いの君は来たりましぬ」とあるが、クリスマスに歌うによいとして、紹介されている。しかし、罪の赦し(1節)、救い(2節)、選び(3節)が歌われ、クリスマスに限らず、一年を通して「福音を世界に告げよ」と歌う歌であると思う。

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2005/05/08

主の復活の証人

使徒言行録 第1章12-26節
 主イエスが天に昇られる前、弟子たちにお命じになりました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」エルサレムを離れてはいけない。父が約束されたもの、聖霊を待ちなさいとおっしゃったのでした。まだ弟子たちは派遣されません。「待ちなさい。」これが命令です。復活の主イエスと出会った。主イエスが十字架において苦しまれた、しかし復活されたことを経験しただけではだめだとおっしゃったのです。あのエマオへ向かっていた弟子たちのように「心が燃えた」だけではだめだとおっしゃったのでした。父なる神様が約束されたもの。助け主、聖霊が送られる。それを待たなければならない、そうでなければならないのだと、主イエスはおっしゃったのでした。
 なぜ主と出会った感動。主と出会って心が燃えただけではだめなのだ。それこそがわたしの原動力、力になっているのに。そうおっしゃる方もあるかもしれないと申し上げました。しかし、「待ちなさい。」これが主イエスのご命令なのです。人間の力だけではだめなのです。そしてそのことは、主イエスを信じる信仰においてさえも同じなのです。

パウロは手紙の中で言っています。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです(1コリ12)。」と。信仰とは、信じるということは、人間の側の問題であると考えがちです。しかし、そうではないのです。聖霊による助けがなければ、信仰者は立ちゆかないのです。しかし力弱い不完全な人間を補うため、助け手としての聖霊があるというのではありません。助け主、聖霊を信ずる、わたしたちの主イエスを信じる、父なる神様を信ずる、その根っこにこそ、聖霊の働きがあるのです。

今日わたしたちに与えられました聖書の個所は、聖霊が降る出来事、ペンテコステの出来事のすぐ前のところです。「待ちなさい」と命じられた弟子たちの姿が記されているのです。ルカによる福音書から使徒言行録へと読み続けますとき、弟子たちの変化をはっきりと見ることができるのです。

 使徒言行録は、ルカによる福音書で記されていたように、主イエスと出会った人々の、今度は主イエスの弟子となった人々の歩みなのでした。かつてはバラバラであった弟子たち。主イエスの12人の弟子たちとよばれますが、実際は、誰がいちばん偉いかの争い、牢獄へまでも共に参りますと言い切ったペトロ、主の復活を信ずることのできないトマス。さまざまな出来事を通して、弟子たちの姿が読みとれます。それぞれの思い、それぞれの行動が、なぜひとつへと向かっていったのか、なぜ、父の約束されたものを待ち、共に祈る姿へと変えられたのか、それは、キリストの復活を通してとしか言いようがないのです。

 それぞれの思いで動いていた弟子たちがひとつとなった。「主の復活の証人」としての歩みを始めるには、個々の弟子たちの力や、資質といったものは関係なかったのです。むしろそういったものが打ち壊されて、本当の信仰、イエス・キリストこそ、まことの主、まことの救い主という確信があって、はじめて可能となったと言えるのではないでしょうか。

「待ちなさい。」と命じられた通りに弟子たちは待ちました。そして主は天に昇られました。行動が先に出るペトロの姿はもうありません。イエスの言葉に疑いまどう弟子たちの姿もありません。

 使徒言行録は、続いて、エルサレムに戻った弟子たちの姿を描きます。12人の弟子たちが泊まっていた家の上の部屋に集まって熱心に祈るのです。バラバラに、それぞれの思いで行動していた弟子たちがひとつになるのです。わたしたちはそこに大きな変化を見ることができるのです。

使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。(使徒1:12-14)

 弟子たちは熱心に祈って待っていたのです。「心を合わせ」「熱心に祈る」は、福音書と使徒言行録とを書いた、ルカが好んで繰り返し用いている言葉です。それは、理想の教会の姿を描く言葉です。今やもう、これを書いているルカの目が、ひとりひとりの弟子たちを見ていないのです。そうではなくて弟子たちがひとつとなって熱心に祈る、教会の姿へと向けられているのです。

 次の15節から場面が変わります。ペトロが立ち上がったとき、120人ほどの人が集まっていたというのですが、場所は詳しくはわかりません。13節の同じ部屋だという主張もあります。120人もが上がれる大きな部屋であったのだと説明する者もおりますが、わたしたちにはわかりません。しかし、また、それは重要なことでもないのです。

そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。(使徒1:15-17)

 ルカは120人ほどの人々が集まっていたと記しています。正確な数を記しません。
しかし大切なのは、ここでひとつのとりきめをする時、決めるのは、ペトロでもなく、ユダをのぞく11人の弟子たちでもない。およそ120人が決めるということです。行うのは、行動するのは、教会だということなのです。そしてこの時、イエスの弟子たちを中心とした群れは120人ほどにも増えていたのだということ。使徒言行録を読み進めますと、2章41節で3000人が加わり、4章4節で5000人が加わります。最初の迫害で散らされるまで、実におびただしい数にまで教会が大きくなっていたのです。そこにたしかな信仰者の群れがいたということであります。

 16節で「兄弟たち」とペトロは立ち上がり呼びかけます。これは使徒言行録の中で繰り返し出てくる、信仰を持った人々に、信ずる群れに、呼びかけるときの言葉で、この1章16節で始めて用いられます。11人の使徒たちは、自分たちだけで動こうとはしないのです。多くの人々が集まるまで待つのです。そして11人の使徒たちは、およそ120人の信じる者の群れの中で、ただ「兄弟たち」の中のひとりひとりとして等しくふるまうのです。そこに私たちは、最初の教会の姿を見ます。そこには上下関係はありません。
11人が特別な位置を占めているわけではありません。すべてのものが兄弟であって、それぞれが、役割を持ち、それぞれが役割を果たす。11人は、もっとも重要な役割を果たしますが、最初の弟子だからといって優遇されるわけではありません。指導者となって、人々を動かすわけではないのです。ここに歴史の中で最初の教会の姿を見ることができるのです。

 「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。」

 すべてのことは実現しなければならなかった。それは聖書に預言された通りであった。
しかしすべての出来事が神によって預言されていたとしても、誤りのない、正しい方である神が、裏切りというものを定め、お決めになったわけではありません。ユダは、ユダ自身で、自分で裏切ることを決めたのです。そして、すべてのことは実現したのです。「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。」とペトロは、はっきりと、ユダがたしかに同じ仲間であった、使徒であったと言っています。主イエスから12人のうちの1人の使徒に任命され、使徒としての重要な役割を彼も受けたのでした。

ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』(使徒1:18-20)

救い主が苦しみに合うこと。そしてその敵について語られた詩編のことばを通して、ペトロは、ユダが、使徒としての務めからはずれてしまったことを、そして使徒の役目を負うべき者が一人いなくなってしまったことを言うのです。そして、これからなさねばならないこと、すなわち、そのかわりに誰かを立てなければならないことを告げるのです。

そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」(使徒1:21-22)

ペトロはどういう人がユダの代わりに立てられなければならないのかを語ります。ヨハネの洗礼からはじまり、主イエスが天に昇られるまで、ずっと主イエスと共にいた者から誰か一人を選ばなければならない。しかも最も重要な務め、それは主の復活を証しするということであるというのです。そして二人が立てられました、祈りにより、その選択が、主イエスに委ねられたのです。祈るのは、おそらくペトロでしょう。

そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、
次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。(使徒1:23-26)

くじとは、おそらく二人の名前を書いた小さなもの、小石か何かを容器に入れて、それを振り、飛び出てきた方が、選ばれた者としたのだろうと言われます。くじ引きとは、非常に旧約聖書的なやり方で、使徒言行録にはもう出てきません。くじはマティアに当たり、彼が11人に加えられて、12人目の使徒とされたのです。

 こうしてユダがいなくなったために、使徒としての務めが補充されたのです。しかし、このようなことは、もう2度とは行われませんでした。この後、ヤコブが殉教の死をとげたときも、ヤコブの代わりを選ぶということはありませんでした。それはユダが、イエス・キリストの生涯の最後のところでいなくなったからに他ありません。主イエスが天に昇られる前にユダはいなくなったのです。信じる者の人々の群れは、ヨハネの洗礼から、キリストの昇天までを自分の目で見て、主の復活の証人となれるものを補わなければなりませんでした。しかし、それ以降は、たとえ、欠けることがあったとしても補充する必要はなかったのです。キリストは天に昇られ、すでにキリストの教会が息づいていたからです。すでに教会の歴史が始まっていたからです。わたしたちは、そのことを、このマティアを選ぶ記事から読み取ることができます。ルカは、ひとつの歴史という道筋を、はっきりと見ています。後戻りはありません。修正はありません。神様のご計画という、決して切れることのない流れを、はっきりと意識しているのです。そして、わたしたちは、その歴史の中に確かにいるのです。
 そして、わたしたちは、この記事を通して、もう一つのことを知ることができるのです。
弟子たちは、ユダの代わりを選ぶに当たり、どうしたでしょうか。祈ったのです。ここにも、大きな変化を見ることができるのです。祈りつつ待ち、また、選択を求められたときに、主に祈り、すべてを委ねる。「すべての人の心をご存じである主よ」と、天にあおられ、神の右に座っておられる、キリストを通して祈るのです。行動よりも先に、祈りがあります。祈りつつ、御言葉に聞き、そして待つ姿。そこにも、確かに教会のいぶきを感じます。
 主の復活の証人として、12人の弟子が揃います。わたしたちの救いが、キリストに、その十字架のみにあることを証しする、証人です。彼らと、信ずる者の群れは、祈りつつ待つのです。主が約束されたものが来るのを、そして聖霊は降るのです。

わたしたちは主の復活の証人としての歩みを始めなければなりません。今日同時に読まれました詩編の言葉は、わたしたちの主は天におられるから、あなたたちの道には守りがあると告げ知らせるところなのです。

あなたは主を避けどころとし いと高き神を宿るところとした。
あなたには災難もふりかかることがなく 天幕には疫病も触れることがない。
主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。(詩91:9-11)

主はおっしゃいます。主ご自身が、わたしたちのために、わたしたちが主を告げ知らせる道を、どこにおいても守ってくださるのです。
(楠原博行:2005年5月8日木更津教会主日礼拝説教より)

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2005/05/01

地の果てに至るまで

使徒言行録 第1章11-11節
 わたしたちはルカによる福音書の最後の部分を読みました。キリストの十字架と復活という出来事を前にしてとまどう弟子たちの姿でした。恐ろしい出来事を経験して、理解できない出来事を経験して、エマオへの道を、絶望の暗い顔をして歩く弟子たちでした。
主イエスに何が起こったのか、誰よりも良く知っていたはずの、イエスの弟子たちです。 なぜ「イエスは生きておられる」ことが信じられなかったのでしょうか。なぜ旅路で一緒になった人が、主イエスであることに気づかないのでしょうか。主のご受難と復活を通して描かれる弟子たちの姿。ここで、わたしたちの姿とも重ね合わされるのです。聖書を読んで理解したいと願っても、信仰を持ちたいと願っても、主イエスの十字架と復活という問題にぶつかることが多いのです。しかし、この復活を「主イエスは生きておられる」ということを信じないでは、信仰は成り立たないのです。主イエスご自身が、エマオへの道筋で、聖書を解き明かされ、そして食事の席で、パンを裂かれたこと、まさに、これはわたしたちが捧げる礼拝だと申し上げました。聖書の物語は、まさに礼拝の中で、わたしたちが主イエスと出会うために書かれた書物であると言えるのです。聖書を通して知る、弟子たちと主イエスとの出会いが、他ならぬわたしたち自身と主イエスとの出会いへと広がっていくのです。弟子たち、人々の救いの物語が、わたしたちの救いの物語へとなっていくのです。何よりも、ルカによる福音書の一番最初のところには次のように書いてありました。
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。(ルカ1:1-4)
 ルカという人が、テオフィロという人に、今、この書物をささげようとしているのです。ルカが受け取り、知っている、主イエスの出来事は、もうユダヤという、地球の片隅で起こった出来事ではありません。この地上すべてに関わる事であって、歴史と呼ばれる、わたしたち人間すべての歩みの中に、確実に刻まれた、確かな出来事であると言っているのです。ルカはそれを受け取り、今、テオフィロという人に、さらに、それを伝えようとしています。ルカはこう言います。「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」テオフィロという人に対して、「これはあなたのための救いです。そう確信してよいのです」と言っているのです。これはわたしたちにかけられた言葉でもあるはずです。「これはあなたのための救いです。そう確信してよいのです」と。  わたしたちは、ルカによる福音書を終え、今日から使徒言行録を読み始めます。
テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。(使徒1:1-2)
 第一巻とはいうまでもなく、「ルカによる福音書」を指しています。主イエスの歩み、そのご生涯と、復活後に弟子たちにした約束、そして天に上げられた日までのことすべてを書き記したというのです。ルカはここで「イエスが行い、教え始め」と、主イエスが始められたことを、そして、ルカがこれら「すべてのこと」を書き記したのであることを強調しています。それがさらにテオフィロさまという名前と強く結びついているのです。ルカによる福音書の冒頭とは、少し、口調が違う、雰囲気が違うと言われるのです。「先のお話では、わたしはすべてのことについて記しました、ああ、テオフィロ様、お選びになった使徒たちに、聖霊を通して指図を与えられて、天に上げられる日まで、主イエスは、行いを始められ、また教え始められたのです。」
 ルカによる福音書の冒頭と、使徒言行録のこの冒頭との違い、これはルカを通して、テオフィロという人が信仰を持つようになったからであり、その後ルカが、この使徒言行録を、この人に送ったからであると、説明する人がいます。テオフィロにとって、もう、キリストの出来事は、ルカが順序正しく、詳しく調べてささげた第一巻に書かれた出来事ではないのです。まさに自分の出来事となったのです。ルカが「これはあなたの救いです。そう確信して良いのです。」と言ったとおり、キリストの出来事は「わたしの救いである」と、テオフィロという人はもう確信しているのです。
 ルカはこれから、主イエスによって送り出された弟子たちの歩みを記します。
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:3-8)
エルサレムを離れないで、父の約束されたもの、聖霊を待ちなさいとおっしゃるのです。主イエスは弟子たちをまだ派遣されないのです。「待ちなさい」とおっしゃるのです。これは重要です。イエスと出会い、イエスの受難と復活を経験しただけではだめなのです。あのエマオの旅人が経験したように「心が燃えた」だけではだめだとおっしゃるのです。父の約束されたもの、助け主、聖霊を送るそれを待たなければならない、そうでなければならない。そうおっしゃるのです。
 なぜ主と出会った感動。主と出会って心が燃えただけではだめなのだ。それがわたしの原動力となっているのに。そうおっしゃる方もあるかもしれません。しかし、「待ちなさい」と主はおっしゃるのです。この意味をわたしたちは、はっきりと知らねばなりません。人間の力だけではだめなのです。そして、そのことは信仰についてさえも、主を信じる信仰においてさえも同じなのです。パウロの書いたコリントの信徒への手紙の第一12章には、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」と記されています。信仰とは、信じるとは、人間の側の問題であると考えがちです。しかし、そうではないというのです。主イエスがおっしゃることも同じはずです。聖霊による助けがなければ、信仰者は立ちゆかないのであります。不完全な人間を補うために、助け主としての聖霊があるというのではありません。助け主を信ずる、主イエスを信じる、神様を信ずる、その根本に、聖霊の働きがあるというのです。
 キリストの言葉に従い、世界中へと散っていった弟子たちのわざがこれから使徒言行録に記されます。ペトロを通して、またパウロを通して、キリストの出来事が単なる記録された物語ではなく、すべての人々の、まことの救いの出来事として語られ続けることを伝えるのです。
 使徒言行録は弟子たちの歩みと共に、何よりも、キリストの教会の歩みをわたしたちに伝えます。わたしたちの教会の歴史、わたしたちの教会がいったい、いつから始まったか、いったいどのようにして始まったのか、いったい弟子たちはどうしたか、どう語ったかを伝えるのです。これが、これから、わたしたちが読もうとしている使徒言行録なのです。
 これから使徒言行録を通して、わたしたちはひとりひとりの信仰、ひとりひとり個人の救いにとどまらない、教会全体についてのみ言葉を聞きたいのです。教会形成。教会を形作ること。これについて、聞きたいのであります。わたしたちは、わたしたちの本当の救い主、キリストと全く同じ名前で、キリスト者と呼ばれるのです。このことは重いことであります。教会員、信徒ではないのです。キリスト者と、本当の救い主、キリストの名前が冠せられているのです。とてつもなく重いことだと言えるのです。教会はキリストのからだであります。すべての部分がくみ合わさって、ひとつとなるのです。ひとつの部分も切り離されることはない。ひとつの部分も、わたしはキリストのからだでない、そう言って去ることはできないのです。決して切れることのないからだとして、教会の歴史は確かにあるのです。使徒言行録が語る教会の歴史を通して、わたしたちが教会にあって、キリストにおいて、ひとつであること、いや、ひとつとならねばならないことを、み言葉に聞きたいのです。
(楠原博行:2005年5月1日主日礼拝説教より)

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