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2005/03/27

キリストと共に死に、生きる(ハイデルベルク信仰問答 問127-129)

テモテへの手紙二 第2章8-13節
 わたしたちは受難節の間、何よりもこの主のご受難の週に、一日いちにちと祈りつつ、この死者の中から復活された方、わたしたちの主イエス・キリストのことを思い起こして参りました。その間、あなたは罪人だと、わたしたちに罪の姿を突きつけてくる主イエスを、わたしたちはともすれば、やっかいだ、面倒だと、脇へ押しやってしまってはいないだろうかと問われました。ピラトやヘロデのように、キリストの十字架から、自分の罪の問題から逃げようとすることがないだろうかとも問われました。キリストの十字架は本来、わたしたちがかけられるべき、わたしたちの罪の十字架でした。主は、それをわたしたちのためにかつぎ、わたしたちに救いへの道を開こうとされたのです。わたしたちはこれを心に刻みつけ、わたしたちの救い、祝福、慰め、実にすべてのものが主イエスにより、キリストにより、開かれるのだということを思い起こしたのです。
 今朝は主の復活を祝うイースターの礼拝です。わたしたちの信仰の基がキリストの十字架にあることを知るならば、ここに神様の恵み、神様の慰めの内に、わたしたちの信仰は確かに新しくされて、奮い起こされるに違いないのです。イースターの礼拝を心から祝うことが出来るのです。使徒パウロはさらに言っています。
次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」(11-13節)
   わたしたちはすでにキリスト共に死んだではないかと言うのです。そしてそれはまたキリスト共に生きることであるとも言うのです。あのハイデルベルク信仰問答の最初の問いと答えとを思い起こさないではおれません。それはわたしたちの一年の歩みの、その最初のところへと帰るのです。わたしたちは生きるにも、死ぬにも、キリストのものである。キリストと共に生きている。そしてキリストと共に死んで行く。
 この信仰問答書の最後の部分について語ろうとするとき、わたしは今からちょうど10年前に、まさにこの部分で語りましたひとつの説教を思い起こさないではいられないのです。それは大阪にあるわたしの出身教会のために、前から準備されていた説教でありました。しかしその礼拝の直前に、阪神大震災が起こったのでありました。大阪から京都にかけて、となりの神戸と比べては少なかったのですが、やはり突然の大地震で被害を受けた家屋が多く、教会も停電し、うす暗い中での礼拝でありました。
 震災直後の朝日新聞の天声人語には次のようなことが記されていたのです。
「一人ひとり、一つひとつの家族に、それぞれ、かけがえのない物語があるだろうに」「それらを一瞬のうちに停止させ、打ち砕いてしまう力の恐ろしさ、です」▼「...こんなことがあっていいのか、という感じです。あっというまに生活が崩れてしまう。何もかも、壊れてしまう。財産も消えてしまう。燃えてしまう」「まったく、不条理としか言いようがない」▼「一夜にして、すべて灰燼に帰した。...この世の無常を感じさせた...」
無常、はかなさ、もろさが記されていました。
しかしそうではないのだというのが、一年にわたり読み続けて参りました、わたしたちの信仰問答書なのです。こういう言葉もありました。「わたしたちは、あらゆる不遇の中においても、忍耐深くあるのです。幸福の中にあってはそれに感謝し、未来のことについては、父なる神様に、よく信頼する。そして、もはや、いかなる被造物も、わたしたちを、神の愛から、離れさせることはできないようになる。」この信仰問答にとって重要なのは、神様の愛から切り離されないことです。災いも、何によってさえも、イエス・キリストとともにある人生を送る人は、神様の愛から離されることはあり得ない。それが人間を支える、励ます、慰めとなる、そう言っていたのです。そしてこの書物の最後の問いと答えとは次のようです。
問129「アーメン」という一語は、どういう意味ですか。 答 アーメンとは、真実であり、また確かであるに違いない、という意味です。
 なぜなら、わたしの祈りは、わたしが、心の内に、これらすべてを、神様に願い求めていると、感じるよりも、はるかに確かに、神様によって聞き入れられているからです。
 自分の心の中で思うよりも、はるかに確かに神様は聞かれている。願い求めるよりも、前に、神様は、確かに聞かれている。神様とともにある、主イエス・キリストの慰めの中にあるとは、そういうことなのです。そこには、無常などというものはあり得ません。あるのは真実、あるのは確かであること。つまりアーメンという言葉です。神様はアーメンである神と呼ばれます。救い主イエスもアーメンである者と呼ばれるのです。確かな方、信頼できる方、アーメンである方に結ばれている、支えられている、それこそが、キリスト者の真実です。
 礼拝において、祈りにおいて、わたしたちが、アーメンと声を出して言うとき、それは小さな言葉に過ぎません。どんなに力強く祈っても、どんなに、それが「確かなこととなりますように」と祈っても、神様の確かさに比べれば、不確かなものに過ぎないのです。しかしアーメンである神様、アーメンであるイエス・キリストを通して、「アーメン」「確かに」とわたしたちが、声を出すとき、もうすでに、はるかに、大きな確かさをもって、真実さをもって、神様は、わたしたちをとらえてくださっているのです。神様のすべての人に向けられた招きの手に、わたしたちは身をゆだねましょう。「アーメン」と声を合わせましょう。
(楠原博行:2005年3月27日イースター礼拝説教より)

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2005/03/21

今から後、人の子は全能の神の右に座る

ルカによる福音書 第22章63-71節
 主イエスは捕らえられてから一晩を過ごしました。これは夜明け前の話です。63節に「見張りをしていた者たち」とありますが、日が昇り裁判が始まるまでの間、被告人である主イエスを見張っていたのでしょう。恐ろしいことに、主イエスはここでは不当な扱いを受けられます。まだ、裁判も始まっていないのに、殴られ、侮辱されるのです。見張りをしていたものたちは、主イエスに目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言ったといいます。この言葉の裏には、「神の子だというのならば、目隠しをしていても、誰が殴ったかはわかるだろう。」という悪意が読み取れます。「神の子ならば、おまえにはすべてが可能なはずだ。さあ、誰が殴ったか言い当ててみろ。しかし、おまえはただの人間だ。そんなことはできないだろう。」という思いがあります。と同時に、私たちの心の中にの呼び覚まされるもう一つの光景は、主イエスが受けられた荒野での試みではないでしょうか。荒れ野の誘惑の中でも、「神の子ならば」と悪魔は繰り返し語りかけてイエスをそそのかしたのでした。イエスをののしっている見張りの者たちは悪魔でしょうか。違います。私たちと同じ人間である彼らが、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言ったのです。イエスをののしった言葉は、同時に神を試す言葉となっています。神を侮る言葉になっていたのです。
 夜が明け、イエスは裁判の座に着きます。裁判と言っても、悪意に満ちた裁きの場です。民の長老会、祭司長たちや律法学者たちは最初からイエスを死刑にするためにこの裁判にかけたのです。民衆を扇動し、王の座を脅かす者。神の子、メシアと称し、神を冒涜する者。それを示すことができれば、イエスを確実に死刑にすることができます。彼らは法廷にイエスを引き出し、尋ねるのです。
「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」
イエスはお答えになります。
…「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。」(67,68)
この短いイエスのお答えの中で、長老、律法学者、祭司たちの言葉こそが、神に背を向ける者であることを暴いています。神のこの言葉を聞かない、聴こうとしない姿です。そして、ご自身のことをはっきりと示されました。
「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」(69)
人の子が神の右に座るということはどういうことでしょうか。この言葉は、使徒信条の言葉の中にもあります。改めてハイデルベルク信仰問答の言葉を思い出してみましょう。
問50 なぜ「神の右に座したまえり」と付け加えられたのですか。 答 キリストは天に上げられました。 それは、そこにおいて、主ご自身が、キリスト教会のかしらであることを知らせるためであり、それにより神様は全てを支配なさるのです。
 残念ながら、長老、律法学者、祭司長を始め、集まった群衆も、この主の言葉に耳を傾ける者はありませんでした。みんなが、あつくなっていました。イエスを死刑にするために躍起になっていました。聞く耳を持ちませんでした。
人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。(71)
イエス自身が自分は神の子であると証言した。イエスは神を冒涜した。これ以上の証拠があるか。人を罪に定めることに熱心になり、神の言葉を聞こうとしない罪がここにあるのです。
 しかし、私たちは忘れてはなりません。主イエスは、このように人を裁き、自分を正当化し、神の言葉に耳を傾けない私たちを、その罪の縄目から救うためにこそ、真の人としてこの世に来られたことを見逃してはならないのです。
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。(ヘブライ人への手紙12:1-3)
祈りましょう。 主イエス・キリストの父なる御神様。 主の御受難の道行きを一歩、一歩たどるように、今週は御言葉を耳にし、祈る時を持っています。すでに、悪意に満ちた裁きの場で、主は裁かれました。裁きの場に満ちていた悪意は、私たちと関係のないところの者でもなければ、遠い過去の話でもありません。今、私たちを取り囲み、私たちに絡みつく、罪のなのです。
しかし、その様な悪意の渦巻く中で、「今から後、人の子は全能の神の右に座る。」と、主はご自身をはっきりと証されました。
私たちは、主の御受難の記事の中に、自らの罪の深さを思い知らされます。しかし、どうか、私たちが罪の中に座り込んでしまうのではなく、この私のために主イエスが忍耐されたことを思い起こさせてください。しかも、私たちは一人で罪の中に取り残されているのではありません。神が、教会の頭なる主イエスを通してこの世を支配されているからです。教会の仲間と共に、この主を見上げて、一歩を踏み出す力を与えてください。
主の御名により、祈り願います。
アーメン
(楠原彰子:2005年3月21日 受難週祈祷会奨励より)

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2005/03/13

日ごとの糧(ハイデルベルク信仰問答 問125)

詩編 第127編1-2節
 私たちは、何かを食べなくては、生きていくことができません。主イエスが教えてくださった主の祈りの中に、肉の糧を求める祈りがあるのは、当然のことだともいえるでしょう。「肉の糧」といっても、食べ物のことばかりとは限りません。暑さ寒さから体を守る衣服、着るものも必要です。住む家も必要です。「肉の糧」といっているけれども、「魂の糧」も必要です。それは、決して贅沢な暮らしを要求しているのではありません。無駄のない生活をしたとしても、私たちが生きていく上で必要なものは、考えてみるとずいぶんたくさんあると思います。
 ハイデルベルク信仰問答が、「日用の糧を与えたまえ」と祈る時に、「恵みにより、肉と命に必要な、すべてのものを、わたしたちに、お与えください。」と祈るのだというのは、本当にその通りのことなのです。
 しかし、それだけを祈り求めるのではないということを教えています。続きがあるのです。答の全てを読んでみましょう。
「わたしたちの日々のパンを、今日、わたしたちにお与えください。」です。 それによって、わたしたちは次のことを祈ります。
恵みにより、肉と命に必要な、すべてのものを、わたしたちに、お与えください。それにより、あなたのみが、すべての良いものの源であり、あなたの祝福なしには、わたしたちの心配も、労働も、あなたの賜物さえも、わたしたちには何の役にも立たない事を、知るように教えてください。
そういうわけで、わたしたちの信頼を、すべての被造物に向けることなく、ただあなたのみに、置くようにしてください、ということです。
神様の恵みによって、私のこの全存在に必要なものを与えてください。そう祈ることによって、すべてのよいものの源が神様、あなたのみであることを知る、すべてのよいものは神様のもとからしかこないことを知る、その様に教えてくださいと祈るのだというのです。ハイデルベルク信仰問答のこの言葉は、信仰の告白の言葉ともいっていいかもしれません。
 さらに、「日用の糧を与えたまえ」と祈ることによって、神様の祝福なしにはすべてがむなしいこと、そのことを知るのだというのです。
 私たちは食べるもののことに無関心ではありません。健康な体を維持していくために、きちんと食べる。このことにも、知恵と心配りが必要です。パンを得るために働く。これもまた、当然のことです。信仰問答はそのような心配り、労働というものを否定はしてはいないのです。ただ、生きていく上で大切なそういうことが、神様の祝福なしでは何の役のにもたたなくなる、むなしいものになってしまう、そのことを知る必要があるというのです。しかも、もし、神様の祝福がなかったならば、私たち側の努力がむなしくなるばかりではなく、神様が与えてくださる賜物までもがむなしくなってしまうというのです。
 詩編の127編の言葉にも「むなしい」事柄が3つ挙げられています。
主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。
 家を建てるということは大変な技術を必要とするものです。建物に加わるいろいろな力を考えて、きちんとたてなければ、その家は建つことはできません。また、注意を払って、一つ一つの建材を組み合わせていかなければならないのです。本当に多くの労苦、心遣いを要するのです。しかし、詩人はいうのです。それほどまでに様々な苦労の結果、家を建てたとしても、神様が、主ご自身がその家を建ててくださるのでなければ、その労苦はむなしくなってしまう。その家はむなしくなってしまうというのです。
 ここで、むなしいと訳されている言葉は、嘘、偽りとも訳される言葉です。大工が一所懸命に家を建てたとしても、神様の手が加わらなければ、神様の祝福がなければ、それは真実のものにならないというのです。
主御自身が守ってくださるのでなければ 町を守る人が目覚めているのもむなしい。
聖書の舞台となった地域では、町といえば高い城壁に囲まれたものでした。外からの侵略者を防ぐためです。そのために、見張りのものがたちます。昼夜を違わずに、敵が攻めてこないか、町の中に異変はないかを見張るのです。交代制をとっていても、かなり神経をすり減らす仕事でしょう。また、危険も伴います。それだけに、任務に就いたものは必死になってその責務を果たしたはずです。
 しかし、ここでも詩人はいうのです。神様ご自身が、主自らが町を守ってくださるのでなければ、どんなに一所懸命に見張りをしていたとしても、そこから得られる町の安全、平和は偽りのものになってしまう、空しいものになってしまうのだと。
朝早く起き、夜おそく休み 焦慮してパンを食べる人よ それは、むなしいことではないか
朝早く起きて、夜遅くまで働く。その日のパンを得る上では、むしろ必要なことです。そのために朝早くから、夜遅くで働く。「焦慮してパンを食べる」といわれるよりも、「勤勉に働くもの」とほめられてもいいのではないかと考えるかもしれません。
 が、詩人はいうのです。それもまた空しいと。あくせくと働いて、生きるためのパンを得るのは、むなしいどころか必要なことです。命をつないでいく上でもっとも大事なことをむなしいというのです。その様にして命をつないでも、その命は偽りのものになってしまうというのです。その理由を詩人は記しています。
主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
 「眠り」は私たちに与えられる本当の休息、安全、安らぎです。その本当の休息は主がお与えになるというのです。ですから、私たちが生活する場である家も、町の安全を守るための見張りも、命をつなぐためのパンも、主御自身から来るのでなければ、それらは偽りのものだ、空しいものにすぎないのだというのです。
 こうも言い換えられるかもしれません。私たちの労苦が本当の意味を持ってくるのは、私たちが神様の祝福の中を生きていると確信し、それを祈り求める時であると。「私たちは、神様の祝福の中を生きるのだ。」そういわれると、頭の中ではその大切さは十分にわかるが、それはそれで、現実は厳しいのではないかと問う方もあるかと思います。「日用の糧を与えたまえ」を単なる習慣として祈っているのでしょうか。そうではないと思います。「日用の糧を与えたまえ」と心から祈る時に、私たちは確かに神様から飲み、私たちによいものが来ると確信して祈っているでしょう。  ことによると、私たちに与えられている恵みは、物事に疎い自分には感じることのできないくらい小さなものかもしれないし、時には、涙を流して感謝するほど大きい恵みが与えられるかもしれない。
 が、与えられる恵みの量に多さ、大きさ、その質といったものは意味を持つものなのでしょうか。いや、その多さ、大きさ、質は、意味を持たないのです。神様から多くの恵みを与えられれば、感謝して、それを豊かに用いることができるでしょう。反対に、神様からいただいた恵みが、人間の目には小さなものであったとしても、その小ささの故に不信仰だ、罪だといって自らを卑しめる必要はないのです。どのような恵みも賜物も、神様の祝福の内に私たちに与えられているものなのです。とすれば、私たちはこの神様に信頼して祈るしかないのです。
祈りましょう。 主イエスキリストの父であり、また、主の故に、私たちも「父」と呼ぶことを赦してくださる御神様。
私たちは、いつでも目先のことに心を奪われます。
あなたから与えられた子の肉体、あなたが吹き込まれた命を保つためのパンを得ようとあくせくし、身を守るための衣服を得ようとし、少しでも幸いな生活を求めて御言葉に耳を傾けようとします。
どうか、私たちに必要なそれらのものを与えてくださいますように。やせ我慢をして、空腹であっても耐えることを良しとするのではなく、むしろ、肉体の飢え、御言葉の飢え乾きには、それを満たすための糧を祈り求めさせてください。 そして、あなたから与えられた恵みで腹を満たして良しとするのではなく、日ごとの糧を求める祈りを通して、そのすべてがあなたから来るものであること、神様の祝福なくしては、すべてがむなしくなってしまうことを、繰り返し心に刻ませてください。
試練にあう時、悲惨なものを目の当たりにする時、神様の存在を疑います。その様な時にこそ、あなたの存在を疑ったり、呪ったりするのではなく、あなたを求める祈りを祈らせてください。
神様の祝福の中を、神様のまなざしの中を歩むものとしてください。
主の御名によって祈り願います。
アーメン
(楠原彰子:2005年3月13日主日礼拝説教より)

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