キリストと共に死に、生きる(ハイデルベルク信仰問答 問127-129)
テモテへの手紙二 第2章8-13節わたしたちは受難節の間、何よりもこの主のご受難の週に、一日いちにちと祈りつつ、この死者の中から復活された方、わたしたちの主イエス・キリストのことを思い起こして参りました。その間、あなたは罪人だと、わたしたちに罪の姿を突きつけてくる主イエスを、わたしたちはともすれば、やっかいだ、面倒だと、脇へ押しやってしまってはいないだろうかと問われました。ピラトやヘロデのように、キリストの十字架から、自分の罪の問題から逃げようとすることがないだろうかとも問われました。キリストの十字架は本来、わたしたちがかけられるべき、わたしたちの罪の十字架でした。主は、それをわたしたちのためにかつぎ、わたしたちに救いへの道を開こうとされたのです。わたしたちはこれを心に刻みつけ、わたしたちの救い、祝福、慰め、実にすべてのものが主イエスにより、キリストにより、開かれるのだということを思い起こしたのです。
今朝は主の復活を祝うイースターの礼拝です。わたしたちの信仰の基がキリストの十字架にあることを知るならば、ここに神様の恵み、神様の慰めの内に、わたしたちの信仰は確かに新しくされて、奮い起こされるに違いないのです。イースターの礼拝を心から祝うことが出来るのです。使徒パウロはさらに言っています。
次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」(11-13節)わたしたちはすでにキリスト共に死んだではないかと言うのです。そしてそれはまたキリスト共に生きることであるとも言うのです。あのハイデルベルク信仰問答の最初の問いと答えとを思い起こさないではおれません。それはわたしたちの一年の歩みの、その最初のところへと帰るのです。わたしたちは生きるにも、死ぬにも、キリストのものである。キリストと共に生きている。そしてキリストと共に死んで行く。
この信仰問答書の最後の部分について語ろうとするとき、わたしは今からちょうど10年前に、まさにこの部分で語りましたひとつの説教を思い起こさないではいられないのです。それは大阪にあるわたしの出身教会のために、前から準備されていた説教でありました。しかしその礼拝の直前に、阪神大震災が起こったのでありました。大阪から京都にかけて、となりの神戸と比べては少なかったのですが、やはり突然の大地震で被害を受けた家屋が多く、教会も停電し、うす暗い中での礼拝でありました。
震災直後の朝日新聞の天声人語には次のようなことが記されていたのです。
「一人ひとり、一つひとつの家族に、それぞれ、かけがえのない物語があるだろうに」「それらを一瞬のうちに停止させ、打ち砕いてしまう力の恐ろしさ、です」▼「...こんなことがあっていいのか、という感じです。あっというまに生活が崩れてしまう。何もかも、壊れてしまう。財産も消えてしまう。燃えてしまう」「まったく、不条理としか言いようがない」▼「一夜にして、すべて灰燼に帰した。...この世の無常を感じさせた...」無常、はかなさ、もろさが記されていました。
しかしそうではないのだというのが、一年にわたり読み続けて参りました、わたしたちの信仰問答書なのです。こういう言葉もありました。「わたしたちは、あらゆる不遇の中においても、忍耐深くあるのです。幸福の中にあってはそれに感謝し、未来のことについては、父なる神様に、よく信頼する。そして、もはや、いかなる被造物も、わたしたちを、神の愛から、離れさせることはできないようになる。」この信仰問答にとって重要なのは、神様の愛から切り離されないことです。災いも、何によってさえも、イエス・キリストとともにある人生を送る人は、神様の愛から離されることはあり得ない。それが人間を支える、励ます、慰めとなる、そう言っていたのです。そしてこの書物の最後の問いと答えとは次のようです。
問129「アーメン」という一語は、どういう意味ですか。 答 アーメンとは、真実であり、また確かであるに違いない、という意味です。自分の心の中で思うよりも、はるかに確かに神様は聞かれている。願い求めるよりも、前に、神様は、確かに聞かれている。神様とともにある、主イエス・キリストの慰めの中にあるとは、そういうことなのです。そこには、無常などというものはあり得ません。あるのは真実、あるのは確かであること。つまりアーメンという言葉です。神様はアーメンである神と呼ばれます。救い主イエスもアーメンである者と呼ばれるのです。確かな方、信頼できる方、アーメンである方に結ばれている、支えられている、それこそが、キリスト者の真実です。
なぜなら、わたしの祈りは、わたしが、心の内に、これらすべてを、神様に願い求めていると、感じるよりも、はるかに確かに、神様によって聞き入れられているからです。
礼拝において、祈りにおいて、わたしたちが、アーメンと声を出して言うとき、それは小さな言葉に過ぎません。どんなに力強く祈っても、どんなに、それが「確かなこととなりますように」と祈っても、神様の確かさに比べれば、不確かなものに過ぎないのです。しかしアーメンである神様、アーメンであるイエス・キリストを通して、「アーメン」「確かに」とわたしたちが、声を出すとき、もうすでに、はるかに、大きな確かさをもって、真実さをもって、神様は、わたしたちをとらえてくださっているのです。神様のすべての人に向けられた招きの手に、わたしたちは身をゆだねましょう。「アーメン」と声を合わせましょう。
(楠原博行:2005年3月27日イースター礼拝説教より)
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