御国が来ますように(ハイデルベルク信仰問答 問123)
マタイによる福音書 第6章25-34節今日、私たちに与えられました、マタイによる福音書第6章の言葉は私たちがよく耳にしている箇所であると思います。このテキストは、山上の説教の一部ですが、ここで主イエスは、「思い悩んではならない」といわれます。しかも、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」といわれるのです。
当然のことながら、必要以上の飲み食いは贅沢なことであると私たちは承知しています。しかし時には、おいしいものを食べたい、時には豪華な食事をしてみたいと私たちは思いますし、普段と違った雰囲気での食事は、楽しいものでもあります。ここで主イエスがいわれているのは、そのような贅沢を慎みなさいということではありません。豊かな食卓も主は祝福してくださるのです。
そうではなくて、「自分の命のことで」何を食べるか何を飲むかを思い悩むなといっているのです。食べるものがなければ、人は生きていくことができません。飲むものがないことは、もっと命の危険を呼ぶのです。その命をつないでいくための飲み食いについて「思い悩んではならない」といわれるのです。
体についても同じです。どのような服を着るか。これは私たちの生活では大切なことなのです。TPOにあった服装をするとよく言いますが、時、場所、目的にあった装いをすることは、人との関係を作る上でもある意味で大切なことです。そしてここでもまた、主イエスがいわれるのは、贅沢に着飾ることを戒めるものではありません。
暑さ、寒さをしのぐ服装は、命を守る上でも重要です。しかし、主がいわれるのは神が与えてくださったこの肉体を守るための服装についても「思い悩むな」といわれるのです。
一つの疑問が私たちの中に起こります。私たちは、作られたものにすぎない。そうはいわれても、食べること、着ることは生きていく上で重要な要素ではないかと誰もが思うのです。主イエスは、神の子であるが故に、「食べること、飲むこと、着ること」といった重要なことも「思い悩むな」と簡単にいえるのでしょうか。
先に、福音書記者は、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、悪魔に試みられるために荒れ野に行き、40日間断食されたという記事を記しています。そして、「空腹を覚えられた」と記しています。(4.2)主イエスは神の御子でありながら、人として飢えるということ、空腹を経験されているのです。飢えるということがどんなに人を不安たらしめるかをわかっておられるのです。その上で、私たちに「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」と教えられるのです。
「食べること、飲むこと」は先ほどもいいましたが、私たちの命をつなぐ上で重要なことです。その心配事はしなくてはならないと誰もが思うのです。しかし、主イエスは「そうではない」といわれる。なぜなら、私たちが重要だと思っている心配事でも、それにとらわれてしまうと大切なことを見失うからです。
イエスはいわれます。「命のことで思い悩んだからといって、寿命をのばすことができるだろうか。」と。思い悩んだからといって、私たちは自分の命の長さをどうすることもできないのです。そればかりか、思い悩むことで本当にやんでしまうことさえあるのです。
着るものについても主イエスはいわれます。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」明日には炉の火にくべられてしまう、明日には灰になってしまう草花であっても、神様は、栄華を極めたソロモンよりも美しく装ってくださるというのです。
「食べること、着ること、飲むこと」の心配がくだらないことだといっているのではありません。心配事にとらわれ、思い悩むことで、私たちは神様の現実に目を向けなくなる。そこが問題なのです。だからイエスはいわれたのです。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(6:33)本日、私たちに与えられた一つのテーマは、主の祈りの第2の求め「御国を来たらせたまえ」です。「御国を来たらせたまえ」と祈る時、ここで主イエスがいわれたように、私たちは「神の国」を求めて祈ることになります。「主の祈り」を祈るたびに「御国を来たらせたまえ」と祈り、神様の御国が来るようにと求め、祈るのです。もう、何度も口にしている祈りですから、当たり前のように「御国を来たらせたまえ」と祈るのです。では、改めて「『御国、神の国』とは何ですか」と問われたら、どのように答えるでしょうか。
先ほどのマタイによる福音書の「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」ですが、「神の国」と訳されているところは、聖書のもとの言葉では「王国、王の支配するところ」という意味があります。つまり、「御国、神の国」とは「神様が支配し、統治されるところ」ということができるでしょう。
私たちが4月から読み進めてきたハイデルベルク信仰問答は、「御国を来たらせたまえ」の祈りについても丁寧な答を記しています。
問123 第二の求めはどのように言うのですか。 答 「あなたの御国が来ますように」です。 それによって、わたしたちは次のことを祈ります。 あなたの御言葉と、あなたの霊とによって、わたしたちを、支配して、わたしたちが、、あなたに従う者となりますように。 あなたの教会を保ち、そして増やして、悪魔のわざと、あなたに逆らって起こる、すべての暴力とを砕いてください。あなたの御言葉に逆らって考え出された、すべての悪いはかりごとを、打ち砕いてください。 そして、あなたが、すべてにおいて、すべてとなられる、あなたの御国が完全に現れることを来たらせてください、ということです。問123では3つの事柄が示されています。
まず、「御国を来たらせたまえ」と祈る時に、私たちが神様のご支配のもとにあり、神様に従うものとなりますようにと祈るということです。
「神の国」が「神が支配し、統治されるところ、神様の王国」ということですが、ハイデルベルク信仰問答はこのような支配が、「神様のみ言葉と霊によって」起こるように、そして「時と共に、ますます」神様に従うものとなるように祈ると記しています。これはとても興味深いことだと思うのです。神様が超越的な力で、一気に私たちを従わせてしまうのではなく、ご自身が聖書や礼拝の説教の「み言葉」を通して、私たちを教え、また、霊によって私たちを助けて、ちょうど、小さな子供が少しずつ成長していくように、私たちを日々新しくし、神様に従うものにしてくださるように、私たちが神様のものになるようにと祈るというのです。
次に、「あなたの教会を保ち、そして増やして」くださいと祈るのだというのです。文字通りのことだと思います。が、単に人目を引くような催し物をして、教会にたくさんの人を呼び込んで盛大な集会をすることを意味しているのではなく、み言葉と霊による神様の支配がここにあることを、忘れてはならないと思うのです。教会は、何よりも神様のご支配のもとにある信徒の群れです。キリストの体です。その教会を神様ご自身が保ち、また、増やしてくださいと祈り求めるのです。
最後に、「神様に逆らって起こる、すべての悪と暴力を砕いてください」と祈るのだと記しています。「神様に逆らって起こる、すべての悪と暴力」とは何でしょうか。戦争でしょうか。飢えでしょうか。残念ながら、私たちに耳に毎日入ってくるニュースは、世界のどこかで繰り返されている争いです。人の命が奪われていく現実です。あるいは、栄養失調のために泣く力さえない子供たちのことです。病気であっても医療を受けられない人々のことです。日々、私たちの目に、耳に飛び込んでくる悲惨な事件、「悪と暴力」はこのようなことをも指しているでしょう。そのような悲惨なことが早く解決するようにと祈ることも必要でしょう。しかし、そればかりではないと思うのです。
私たち自身の日常生活のほんの小さなことの中にも、私たちは神様を忘れることがあるのです。不安や怒りにとらわれてしまうことがあるのです。私たちの日常生活の中にも、神様のみ言葉に逆らって起こるはかりごとがあるのです。私たちの日常生活の中で神様を忘れてしまうこと、不安や怒りの心にとらわれ、翻弄されてしまうこと、思い煩ってしまうことを打ち砕いてください、助けてくださいと祈るのだというのです。
私たちは思い悩むと、何も手が着かなくなります。心配事で胸がいっぱいになり、何もすることができなくなってしまうのです。思い悩みを捨てることは、心配事を捨てて、何もしなくていいというのではなく、その日一日の苦労を担うことです。何もしない、何もできないというのではなく、その日一日の人間としての努力を精一杯果たすことなのです。神様の支配を信じ、求めるものは、その労苦はむなしいものにはならないと信じることができるからです。
いや、果たしてそうか。その様なことができるのは、強い精神力と強い信仰があってこそだと思う方があるかもしれません。そう思う時には、主イエスが私たちに口伝えに教えた主の祈りの第2の求めは「御国を来たらせたまえ」であることを思い出してください。。精神力や信仰の強さ、弱さに関わらず、私たちは主が教えてくださった主の祈りをその通りに祈っているのです。「御国が来ますように。神様のご支配がみ言葉と御霊とによって私になりますように。その様にして神様ご自身がたてられたキリストの体なる教会を、神様ご自身が守り、増してくださるように。み言葉に逆らって起こる悪いはかりごとを打ち砕いてくださるように。」私たちを思い悩みから解き放って、あなたのみ顔を仰いで歩むことができるように導いてくださいと、主の祈りを祈るたびに祈っているのです。
祈りましょう。
父なる御神様。
この世の中に起こる争いごと、不幸な出来事、そればかりではなく、私たちの日常の生活の中で経験する、本当に小さな心配事にも、私たちは心を奪われ、思い悩んでしまうものです。思い悩みの縄目から、どうか私たちを救ってください。主イエスが私たちに教えてくださった主の祈りを祈るたびに、私たちの心にみ言葉と御霊によるあなたの支配をもたらしてください。キリストの体なる教会を、守り、増やしてください。私が一人で祈ることもできない時には、信仰の仲間が共に祈ってくれるからです。祈ることのできない仲間がいるなら、祈り助け合うことができるからです。一人では戦うことのできない悪いはかりごとも、主が先頭に立って打ち砕き、導いてくださるからです。疑うものではなく、信じるものに変えてください。この世の終わり、救いの完成の時に来る神様のみ国を待ち望みつつ、日ごとの労苦を忠実になして過ごさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。
アーメン
(楠原彰子:2005年2月27日主日礼拝説教より)
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