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2005/01/23

祝福を祈る(ハイデルベルク信仰問答 第43主日 問112)

ペトロの手紙一 第3章8-9節
「汝、その隣人に対して偽りの証をたつるなかれ。」
 十戒の第9戒はこのように記されています。私たちが私たちの隣人に対して嘘の証言をしてはならないという戒めです。嘘の証言をしない、嘘をつかないということは、これもまた、当たり前のことです。そんなことは誰でもがしてはいけないことだと理解しています。この当たり前のことを、十戒は神様のみ前で私たちに繰り返し問うているのです。ハイデルベルク信仰問答がこの戒めについて教えているのは、第9戒の言葉もまた、私たちがただ嘘の証言をする、嘘をつくということを戒めているだけではないということです。
「誰に対しても、自分の言葉を曲げることなく、陰口をすることなく、中傷しないことを求めている」
 思慮のある言葉。感情にまかせてはき出される言葉。人を励ます言葉。たしなめる言葉。弁明する言葉。人をおとしめる言葉。日常生活の中で、私たちはいろいろな言葉を使います。考えてみると思慮深い言葉というのは、なかなか出てこないものです。反対に、感情にまかせて出てくる言葉は止まることを知りません。ポンポンと出てきます。特に、怒りにまかせて出てくる言葉は、その口から雪崩のように吹き出し、人を傷つけてしまいます。自分の意識する、しないにかかわらず人を傷つけてしまうことも、しばしばです。何気ない言葉によっても人を傷つけてしまう。それが悪意のあることではなくて、うっかりいってしまったことでも、「ああ、あんなことを言わなければよかった。」と後悔することはよくあると思うのです。自分自身が意識しないところで、うっかり言ってしまった言葉が人を傷つけ、人をおとしめているなら、私たちがある意図を持って人をおとしめることを語ることはなおさらです。舌は悪魔的な力をまき散らすことになります。
「誰の言うことも聞き入れないで、軽はずみに罪に定めることを助けないこと。」 「すべての、嘘やごまかしを、悪魔のしわざとして、神様の大いなる怒りをおそれるがゆえに、避けること。」
も同様です。人を欺くような悪い言葉、人をおとしめることに容易く同意することも、第9戒は戒めているのだと説明します。これも分かり切ったことです。にもかかわらず、私たちは簡単に人を罪に定めてしまいます。人を罪に定めること、裁くことはとてもたやすくしてしまうのに、私たちは人を許すことができない、と感じることがあります。「あの人が悪い。人間の体だって悪いところは手術でとってしまうではないか。あの人さえいなければここはもっとよくなる。」人を罪に定めることで、自分はちゃんとした道を歩いているという安心が生まれます。しかし、その安心は真の平安ではない。そう、信仰問答は教えるのです。  このことは同時に、隣人に対して耳障りのいい言葉のみを語れといっているのではありません。「舌を制する」と同じく、預言者の書の多くの記されているのは、その時代の王が耳障りのいい預言を語る宮廷預言者を重んじ、厳しい裁きの言葉を語る預言者を退けていることです。激しい裁きの言葉を預言者は語りますが、そこに顕れているのは、神の民、イスラエルを回復される神の救いの言葉でもあるのです。神様の真理は曲げてはならないのです。ハイデルベルク信仰問答は記しています。
「法廷においても、また他の場所においても、わたしが、真理を愛し、正直に語り、告白し、また、わたしの隣人の名誉と名声を、力の限り、救い、また増やすことを求めている」
証言しなければならない法廷においても、また、生活のあらゆる場面においても、真理は正直に語らなければならない。同時にそのことによって隣人を罪に定めるのではなく、困難なところから救うために、その隣人の名誉と名声を、力の限り救い増やすことを、第9戒は私たちに求めるのだというのです。

 ペトロの手紙一は迫害の中にあった教会の人々に宛てた手紙とされています。ローマ帝国の支配のもとにあって、「迫害に負けずに神の民として聖なる国民として生きよ」と手紙の著者は励まし、勧めています。手紙の中には、「皆がバラバラになるのではなく一つ思いを抱くように」とも勧めています。迫害という試練にさらされている状態は想像するしかないのですが、場合によってはローマ帝国に対して力を持って抗することがあったかもしれません。激しい迫害の中、信仰を捨てた仲間に対する誹謗中傷があったかもしれません。
 そこで、手紙の著者くは繰り返し、お互いが裁きあうのではなく、心を一つにして聖なる生活をするということを記しました。主イエスがそうであったように、聖なる神の民として、誠実に生活することによってキリスト者としての証を立てよと記しているのです。それは、主イエスがみ足の跡に続くようにと模範を残されたからだ(2:21)と記しています。信仰者としての生活が迫害するものに対する答えでありました。
 神様の真理を語ることは、時には隣人に対して厳しい言葉を語ることにもなるでしょう。しかし、厳しい言葉を語ることと、人を呪うことは違うのです。隣人を呪ってはならい。侮辱してはならない。呪いの言葉、侮辱の言葉は、隣人に対する私たちの感情からくるのです。第9戒が私たちに求めているのは、自らの感情はなくて、神様のまなざしの中に私自身をおいて語れということです。裁きは神様のなさることであって、私たちは隣人に対して祝福を祈ることが求められているというのです。
 ハイデルベルク信仰問答が、嘘やごまかしに対して、私たちが神様のみ前にあるという視点から解き明かしているのは、このためです。道徳にてらして「嘘やごまかしを避けろ」というのではなく、「神様の大いなる怒りをおそれるがゆえ」嘘やごまかしを避けるように。すると私たちは、神様の真理を愛し、隣人に対しては、それがたとえ私たちの敵であったとしてもその人の救いを求めるようになるというのです。
 私たちはもう一度、この信仰問答書が問一から貫いて語られていることを、改めて心に刻みたいと思います。それは主イエスと私たちの関係です。問112で語られていることを私たちは私と私の隣人の関係の中で読みます。しかし、これはまた、主イエスと私との関係でもあるのではないでしょうか。
 私たちは世の終わりに神様のみ前で裁かれるのですが、そのときにはすべてが明らかにされるといわれます。つまり、良いことも悪いこともすべて隠されることなく明らかにされるのです。そして、神様は正しいお方ですから、罪に対してはそのあがないを求められるのです。一切の掛け値はありません。神様の義は貫かれ、私たちは正しく裁かれるのです。しかし、そのとき、私たちはたった一人で神様のみ前に出るのではないのです。主イエスが私たちと神様の執り成しをする仲保者としておられるというのです。主イエスの血が流されねばならないほど、神様に背く私たちの罪は重いのです。しかし、主はその私たちを罪に定めるのではなく、回復するために裁きの場で力の限り弁護するといわれるのです。
 主イエスは「私に倣え」といわれます。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように」と主イエスはいわれます。私たちは改めて主に問われます。主イエスは人を侮辱したことがあるでしょうか、ののしったことがあるでしょうか。神様の御心をはからずに悔い改めないものたちを主は激しく戒められました。また、神殿で商売をするものたちに対しては激しく憤られました。しかし、人を呪ったことは一度もありません。いや、その反対です。そのように自分すら制することのできない私たちのために、主は十字架にかかられました。そしてよみがえって、世の終わりの裁きの時には、そのような私たちのための弁護者となってくださるのです。ですから、私たちも隣人に対して偽りを語ることをやめ、裁くことをやめ、むしろ隣人の救いと主の祝福を祈ることが求められているのです。

「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」(8節)

 ペトロの手紙の著者が記していることは、すべて主イエスが私たちにしてくださったことです。
「主イエスが、私たちにしてくださったこと。私たちのお手本になってくださったことはわかる。しかし、私にそれができるだろうか。果たして、そんなことができるのだろうか。」いつも私たちにつきまとってくる、問であると思います。
「罪人である私、不信仰な私には、そんなことはできるわけがない。」そのように思われる方があるかもしれません。
「私が、隣人を愛することができず、許すことができず、傷つけるのは、私の信仰が足りないせいだ。」そうも考える方があるかもしれません。
 この手紙の著者も、福音書記者も、主イエスも、聖書も私たちにできないことを勧めているのではありません。心を一つにすることも、隣人を思いやることも、愛することも、謙虚になることも、できるのです。確かにそれは、私たち自身の努力だけでは不可能ですが、主とともにあるときに、それが可能となるのです。主と共にある時、主イエスがそれを可能としてくださるのです。それが信仰の力です。

祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神。
汝、その隣人に対して偽りの証をたつるなかれ。
この戒めを口にする度に、自らの罪を思わされます。隣人を愛し、その人のために祝福を祈らなければならないのに、私たちの口から出る言葉は、自分を高くするために人をおとしめ、自分を正当化するために人を中傷する言葉です。
主イエスは、このような私たちのために私たちの罪を担ってくださいました。そして、終わりの時にはあなたのみ前で私たちの名誉を回復するために仲保者となってくださいます。そのような主のみ足の跡を私たちもたどれ、私に倣えと主は言われました。
あなたのまなざしの中に我が身を置く時に、私たちはあなたを心から恐れ、悪魔の業を退けることができます。主イエスを信じ、主と共にある時に、人を愛し、その人のために祝福を祈る者へと変えられていきます。
どうか私たちを、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報い」ず、隣人の祝福を祈る者へと変えてくださいますように。祝福を受け継ぐために私たち一人一人は、あなたからのお召しをうけていることを悟らせてください。
この祈りを主いえ・キリストのみ名によって、祈り願います。
アーメン
(楠原彰子:2005年1月23日主日礼拝説教より)

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2005/01/16

隣人に対して (ハイデルベルク信仰問答第42主日 問110、111)

第8戒「汝、盗むなかれ。」 マタイによる福音書 第7章7-12節

 十戒というものは十の戒めというよりも、神様の十の言葉であると言われます。ああしてはいけない、こうしてはいけないと、神様が禁じておられるのではないのです。むしろ十の言葉をそのままわたしたちにお示しになる。

汝わが面の前に我のほか、何物をも神とすべからず。 
汝、己れのために、何の偶像をも刻むべからず。
汝の神、主の名をみだりに口にあぐべからず。
安息日をおぼえて、これを聖くすべし。

これがわたしたち人間の本来あらねばならない姿である。そうお示しになられるのです。そうわたしたちは本来あらねばならないのであると。
汝の父母をうやまえ。
汝、殺すなかれ。
汝、姦淫するなかれ。
汝、盗むなかれ。
汝、その隣人に対して偽りの証しを立つるなかれ。
汝、その隣人の家をむさぼるなかれ。

 しかしそれはわたしたちがいったいいかなるものであるのか。いったいわたしたち人間はどういう生き方をしているかを示しておられるのでもある。これら十の言葉を前にして、そして今日は、「汝、盗むなかれ。」の言葉を前にして、わたしたちは胸を張るのでしょうか。いやむしろ頭をたれて、神様に、わたしたちの主イエスに、とりなしを求めざるを得ないのではないでしょうか。加えて与えられております、ハイデルベルク信仰問答の言葉は、「汝、盗むなかれ」の言葉を、さらに詳しく、はっきりとわたしたちに示すのです。どうか週報の裏に記されております、ハイデルベルク信仰問答の言葉をごらんください。
問百十 神様は第八戒において、何を禁じておられますか。
答 神様は単に、裁判所が罰する盗みや略奪を禁じているだけではありません。神様は、また、すべての計略や企てをも、盗みと呼ばれるのです。つまり、わたしたちが、暴力や見せかけの権力を伴って、策略をもって、わたしたちの隣人の財産を自分のものにしようとすること、たとえば、不正な目方や物差し、偽物の品物やお金、さらに不当な利子や策、そして、神の禁じられたものなど、すべてを神様は盗みと呼ばれます。また、神様はすべての貪欲、神様の恵みの無駄な浪費をも禁じておられます。
問百十一 ならば、神様はこの戒めにおいて、何を命じておられるのですか。
答 わたしが、わたしのできる限りにおいて、わたしの隣人の利益を助け、そして、隣人に対して、人がわたしにして欲しいようにすることです。また、わたしが困っている人を、その苦しみから助けることができるようにと、熱心に努力することです。

十戒の8つめの戒め、8つめの言葉、「汝、盗むなかれ」ということばを通して、神様はわたしたちに、どのような手段をもっても、わたしたちの隣人の財産を自分のものにしようとすること、これを禁じておられるというのです。つまるところ「汝、盗むなかれ」の言葉はわたしたちがわたしたちの隣人にどう対するかにつきるのです。それはできる限り、できる限りにおいて、わたしたちがわたしたちの隣人の益になるように助けることである。
わたしたちが、わたしたちの隣人に対して、人がわたしたちにして欲しいようにすることである。そして困っている人を、その苦しみから助けることができるように熱心に努力することである。
 それは今日同時に与えられましたマタイによる福音書の山上の説教の中のわたしたちの主イエスの言葉の通りなのです。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイによる福音書第7章12節)

「汝、盗むなかれ。」それはわたしたちの隣人のものを奪ってはならないということにとどまらない。むしろ、隣人のものを奪わないだけではなく、隣人に与えなさい。自分がしてもらいたいと思うことを隣人にしなさいということであるというのです。「これこそ律法と預言者である」とは旧約聖書を指しているのです。聖書全体を通じてわたしたちにそう教えていると主イエスはおっしゃるのです。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(同7節)

 昨年の教会修養会におきまして、ルカによる福音書の中のまったく同じ言葉を読んだのです。キリスト者でなくても知っている。いや最近は名言として教会へいったことのない子供たちでも知っている、あの有名な「求めなさい。そうすれば与えられる」、「求めよ、さらば与えられん」というところは、とても強い信頼が語られている。「求めなさい」という言葉はもともと祈りの中で求めることである。人間が人間に対して要求するのではなく、祈りの中で、「祈り求める」、「神様に祈り求める」、それがここでいう「求めなさい」の言葉の意味なのです。条件などないのです。「与えられる」のだとはっきり語られるのです。それはなぜなのか。どこからそのような確信が来るのか。それは父と子の関係であるからなのでした。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」そうでないはずがないではないかと主イエスがおっしゃっているのです。
 そしてもう前にご一緒にお読みしましたハイデルベルク信仰問答の問26です。神様が主イエスのゆえにわたしの神様であり、お父様である。そして「なやみが多い世の中」、悲惨の、苦しみの谷間を通るわたし、しかしそれをも神様がお与えになると告白するとき、信仰によってそのような悲しみを受け入れるとき、もうわたし一人ではなくなってしまうというのです。信仰により、たとえわたしたちがどん底にいると思えるときも、主イエスがいわば下から支えて下さっている。それを信じて疑わないとき、「どのような不幸でさえも、最もよいものに変えて下さる」に違いない。そして大切なところ。「神様は、全能の神様ですから、これをなさることがおできになる。信頼できる、お父さまですから、喜んで、これをしてくださる。」わたしたちが聞かなければならないのは、ここだとかつて申し上げました。だからこそ、苦しみの中で、不幸の中で、「父よ」と呼びかける。「父よ」と祈る。これこそが、「父よ」という呼びかけ。わたしたちが祈りの中で、天の父である神様と呼びかける理由に他ならなかったのでした。
 十戒の言葉を礼拝ごと、礼拝ごとに読み味わう。それにとまどいをおぼえて来られた、今もとまどわれている方もあるかもしれません。いやひとつひとつ十の戒めを数えるように読み味わうばかりではないのです。十戒の言葉は有名で、「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」などとそらんじているかもしれない。しかしその戒めの言葉が解き明かされ、詳しく示される。わたしたちが、たとえば「殺すな」という言葉から知っていることではとどまらないのです。それよるはるかに遡る。わたしたちの心の奥にまで遡って、「殺すな」とは、ねたみ、憎しみ、怒りをも、神様はおゆるしにならないということであると言うのです。わたしたちの心の奥にまで遡って、そのような隠れた殺人、ねたみ、憎しみ、怒りをも捨てよとおっしゃる。わたしたちの心の奥底まで遡るのです。わたしたちの心の中に潜む罪を明らかにする。わたしたちの罪の真相を明らかにする。わたしたちの罪の姿を認めると言われるゆえんなのです。わたしたちにはわかっている。神様を信じる。主イエスを信じる信仰が、わたしたちに愛を求めさせるのだということを。しかしわたしたちの罪が明らかにされてしまう。わたしたちが主イエスによる罪のゆるしと救いとを求めるしかないのです。しかもそれにとどまらない。たとえば「殺すな」なら、「殺すな」とはねたみ、憎しみ、怒りを捨てよということであると、わたしたちの心の中を遡るだけではない。むしろわたしたちが、隣人をわたしたち自身のように愛さなければならない。そして隣人に対して、忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情を示さなければならない。わたしたちの木更津教会では礼拝の中で十戒が読まれる機会は少ないですし、今までもそうであったかもしれません。ですから改めて十戒が解き明かされる、十戒がわたしたちの心の奥底に潜むものまでさらけ出させようとする事は、わたしたちは戸惑わせ、いや苦しみ、悩ますかもしれません。
 十戒について記された書物はいろいろあると思います。「殺すな」の戒めについて、以前紹介しましたユダヤ人の話。これは英語で書かれたハイデルベルク信仰問答のガイドブックの中から紹介させていただきましたが、この中では「盗むな」の戒めについては、次のようなことも書かれているのです。「盗むな」と言えば、ギャンブルも禁止するのであると。その収益金がチャリティに使われているなどというのはかくれみのである。あらゆる手段を通して、隣人の財産を奪ってはならないとは、ギャンブルによって、損をしたり、益を得たりするのもいけないと言うことだ。それは正当な労働の報酬ではないではないかというのです。それが制度やシステムになってるのはもっと良くない。たとえば地方の宝くじではないかというわけです。確かに、解釈には程度というものがあります。わたしは説教者として、宝くじやくじびきまで、悪であるからやめろとは言わないし思いません。しかしなるほどそこまで考えることもできるのだとも思うのです。十戒の言葉はわたしたちの罪の真相を明らかにするとはまさにこのことだと思うのです。日常の生活、人生の中で、信仰者として何が正しいか、何が誤っているかを判断するときに、やはり十戒は大きな意味をもっていると思うのです。そして罪を気づかせ、わたしたちの人生を変えさせる力です。やはり十戒の「盗むな」について挙げられた次のような物語があります。
 
その若い主人公は、いわゆるスリです。人から物をすって生活しているそういう若者なのです。ドイツには療養のための町というものがあります。温泉があり病院があり、病気療養のため滞在するそういう町です。有名なバーデン・バーデンや、ヴィース・バーデン、そんな町が舞台なのです。年配の、しかもお金を持っている人が結構いる町ですから、人の物をすって生活をするには最適な町なのです。しかしその日は、暑い日でした。町の通りには人っ子ひとりいない。獲物などいないのです。そのため彼は不満げに町中でズボンのポケットに手をつっこんで腐っていた。しかしそのとき、非常に年老いた、しかも病気のため顔色のわるい老人が、しかもふらふらと今にも倒れそうに家から通りに出てきたのです。若者は考えました。後をつけようかと。すると突然その老人が自分の方に向かって来た。そして話しかけてきたのです。「君がいてくれて良かった。たのみたいことがあるのだ。」そう言うのです。教会の牧師に手紙を届けたい。アイネ・リーベ・エアヴァイゼン。あなたの愛を、好意を親切をお願いして良いかと、この老人は問うているのです。牧師のところに手紙を届けたい。しかし自分は病気でもうそうする力がないようだ。牧師の家がどこにあるか知っているかと聞いてくる。若者は知っていると答える。すると老人はおだやかな口調で言ったのでした。「この手紙をぜひ今日中にも牧師に手渡したいのだよ。病気の子供たちへの献金が入っているんだ。」老人がこういうとき、若者は老人の目が輝くのを見たと言います。そうして老人は静かに若者を見つめて、自分の手を若者の頭の上において言ったそうです。「この献金を君を信用して手渡そう。きっと君はこれを牧師に手渡してくれるだろう。」そう言うのです。
 若者は約束して手紙を持って歩き始めました。暑いさなか、町の中で立っていた甲斐があったのです。もちろん牧師のところへなんて行くわけがありません。しかし彼が今日の獲物のことを考えれば考えるほど、手に持った手紙が熱くなっていくように感じられたと言います。まるでそれは真っ赤に燃える石炭のようであったと言うのです。ついに手紙をポケットに入れないではいれなかったといいます。しかし今度は手紙がしゃべり始めたのです。「いいかね、この献金を君を信用して手渡そう。きっと...」「ああ手紙がしゃべるはずがない。」そう若者は自分に言い聞かせるのです。どこか静かな所へ行って、いくら入っているか見てやろうと。しかしそうしようとしたまさにそのとき手紙がまたはっきりと声を出したのです。まるであの疲れた病気の老人の「君を信用しよう」という声を聞いたかと思ったほどでした。あの優しい手を感じたのです。そしてあの老人はなんと言ったか。「君の親切をお願いしたい。」ついに若者は大きな声で叫んだのです。「だめだ」と。あの人をだましてはだめだ。そして考え直す前に、牧師館に向かって走っていって、手紙を手渡したのでした。牧師の手を見たとき、ああなんと彼の心は軽くなり、うれしくなったことでしょうか。仲間に馬鹿にされるかもしれない。しかしはじめて誠実であったことの喜びの方がずっと大きかったのでした。
 そして次の日の午後、若者はあの老人の家の前にいました。またあの老人が出てこないかと思ったのでした。しかしその家は、昨日よりも静かで、窓の多くにはカーテンが降りていたのでした。するとひとつの窓が開き、黒い服を着た女性が顔を出し、彼に「誰かを待っているのですか」と問いかけたのでした。若者は言いました。昨日の手紙の事で、この家のご主人とお話がしたいのだと。婦人はこの若者が何か特別なものを感じて、優しく言ったのでした。「あの人と話をすることはもうできませんが、会うことはできますよ」と。そして若者はカーテンの降りた部屋に案内されたのでした。確かにあの病気の老人が眠っていました。しかしそれは永遠の眠りであったのです。昨日彼に手紙を渡してしまうと、老人はふらふらになって家に戻り、そのままベッドに横になり、亡くなってしまったのでした。
 若者はふるえながらベッドの脇に立ちつくし、泣きながら、感謝の言葉を老人に言ったそうです。しかしもう老人は話を聞くことができない。そこで自分を家に入れてくれた、老人の妹に、心から、自分の一生について、悪いことをたくさんしてしまったことを話したのです。そしてあの手紙のこと。老人が自分を信用してくれた。そのおかげで自分の中に良心が目覚め、手紙をちゃんと届けないではいれなかったこと。そして自分は決心した。新しい生き方を始めようと。そして婦人は言ったのでした。それではわたしがそのお手伝いをしましょう。きっと兄はあなたのことを頼むと言っているのです。そうして婦人は若者の決心を実現するために手助けをしたということです。

 十戒の「盗むな」に対して、ある書物で紹介されていた物語です。いかがでしょうか。よくある話。あるいはスリの若者というわたしたちとは無縁の物語でしょうか。しかし思うのです。良心など持ち得なかった。周りの人間はスリの獲物以外の何者でもなかったこの若者は、ただ一回の老人から受けた信頼に対して、自分の中で埋もれていた良心を目覚めさせたのです。ただ一人の人から与えられた信頼。これによって人生を新しく始めることを決心したのでした。
それは実はわたしたちキリスト者にとっても同じであると思うのです。ハイデルベルク信仰問答が教える、わたしたちの信仰の根源、それはわたしたちが主イエスのものであること。そして神様への信仰です。そしてまた主イエスが、神様が、信仰にあるわたしたちを信頼し、決して見捨てないと言うことでもあります。もともと十戒の言葉、それは「...してはならない」という意味だけではなく、「...してはならない。あなたは...するはずがない」の意味である。つまり「盗むな」とは「あなたは盗んではならない。あなたは盗むはずがない」であるのだと言われるのです。十戒のひとつひとつの言葉は、わたしたちの罪の真相を明らかにするものである。しかしまたそれは神様がわたしたちにお与えになった。わたしたちは本来こうあるはずだという信頼、信用でもあるはずなのです。それはわたしたちの父である神様の「わたしはあなたを信用しよう」という、あの老人の言葉と同じ言葉であると言えるかもしれません。それにぶつかったとき、そして十戒の言葉をすべて読み味わったとき、わたしたちも、神様の前にひれ伏し、さらなる新しい生き方を始めることができると思うのです。
(楠原博行:2005年1月16日主日礼拝説教より)

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2005/01/09

聖霊が宿る神殿(ハイデルベルク信仰問答第41主日 問108、109)

第7戒「汝、姦淫するなかれ。」 コリントの信徒への手紙一第6章19、20節

 かつて聖書はまことに残酷な書であると言いました。初週祈祷会では久しぶりにフィリピの信徒への手紙を取り上げました。教会の分裂の危機が語られました。ヨーロッパ最初の教会である、フィリピの教会の教会員の派閥争い、利己主義、うぬぼれ、プライドの問題、ごうまん。説教者が勝手に言っているのではないのです。聖書の中にパウロが書いているのです。争い好き。自慢。ひけらかし。これら人間の心に巣くう様々なことがらが、使徒パウロが、最も愛する教会と呼んだ教会に危機を迎えさせていた。聖書はまことに残酷な書物です。わたしたちの心の奥底まで書き記そうとする。目をそむけたくなることもある。しかしわたしたちにそこへと目を向けるようにと突きつけて来るのです。
 先日、火山災害で滅びたイタリアのポンペイのことを伝えるテレビ番組の再放送を見たのですが、考古学の成果により、まもなく町が滅びる、町に残っていたすべての人が命を失う。よりにもよってそのような時に、町の中をさまよい、金銀を物色していた人がいたなどということが2000年も後に科学的に説明されてしまう。おそろしいと思うのです。2000年も後に、自分の名前が、自分の過ちとともに、しかもテレビで世界中に明らかになってしまう。
 聖書はどうでしょうか。パウロは自分の手紙が2000年も後に世界中で読まれるとは思ってないのです。2000年も後に、全世界で、日本でこの手紙が読まれるなどとは考えていないのです。牧師が自分が伝道する教会を諭す。罪を明らかにしているのです。そしてそれを今私たちが読む。目を背けたくなるようなことかもしれません。しかしそれを読み、そしてまたそれがわたしたちの罪をも明らかにする。祝福された者たちとともに、叱られる、叱責される人々の名前が記されている。人間の罪が明らかにされてしまう。わたしたちの罪をも明らかにしてしまう。
 今日わたしたちに与えられました旧約聖書の箇所はとても有名なところです。イスラエルの王ダビデが起こした事件です。それは姦淫の罪。自分の部下の妻を横取りし、しかもその部下をわざと戦争の激しい場所へやって、殺してしまったのです。サムエル記下の11章ではこの出来事が逐一報告されているのです。ダビデの時代、戦争が繰り返し行われていました。

年が改まり、王たちが出陣する時期になった。(サムエル記下11章1節)

毎年まいねん戦争に適した季節になると王が率いて王国の軍団が出陣していく。しかしこの年は違った。もう国が大きく、豊かになり、王までがわざわざ出陣していく必要はなかったのです。イスラエルの全軍は出陣していったが、王ダビデだけはエルサレムに残って昼寝をしていた。そして目を覚まし、宮殿の屋上を散歩していた。あまり良い趣味の話ではないのです。宮殿の屋上から一人の女性が水浴びしているのが見えた。そしてダビデは心をひかれたのです。いったいあの女性は誰か、すぐに調べさせた。そしてそれが戦争に出て行った部下の妻であることを知っても、彼女を呼んで来させたのです。いったい二人の間にどういう会話があったかわからないのです。ダビデは王という地位を利用してほしいままにしたのか。バト・シェバも相手が王であるから逆らえなかったのか、それとも心を動かされたのでしょうか。
 そしてバト・シェバは子供を宿し、ダビデはあらゆる手段を尽くしてこれを隠そうとするのです。バト・シェバの夫を呼び戻し、いかにも激戦地から来たのだというふうに、夫ウリヤをねぎらい、バト・シェバのもとに帰らせようとするのです。夫不在で子供が生まれたら、不倫の子であることがすぐにわかってしまう。しかし夫が家にいさえすればバレないだろう。しかしウリヤはダビデの思いどおりには動いてくれないのです。11章9節以下のところです。
しかしウリヤは王宮の入り口で主君の家臣と共に眠り、家に帰らなかった。ウリヤが自分の家に帰らなかったと知らされたダビデは、ウリヤに尋ねた。「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか。」ウリヤはダビデに答えた。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」(同9-11節)

 全軍が、将軍ヨアブから部下にいたるまで全員が戦場で野宿しているのに自分だけ家に帰れるかと問い返すのです。忠実な兵隊、ダビデに仕える忠実な兵士であるウリヤの姿が描かれていると言います。いや一方では、ウリヤはすでにすべてのことを知っていた。ダビデの魂胆を知っていた。だからこそ、だからこそ、「わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。」「妻と床を共にしたりできるでしょうか」と暗にダビデを非難しているのだと言われるのです。自分たち兵士たちは、家から離れて戦場にいて、野宿をしている。なのに王様、あなたは王様の地位を利用して、宮殿でのんびり過ごしているばかりか、一兵士の妻まで奪われた。逆らうことのできない地位の低い兵隊として、精一杯王を批判しているというのです。「あなたは確かに生きておられます。」それはダビデの王としての正義を、王は正義を、正しい事を行うのだという言葉です。この言葉は後で再び出てくるのです。しかし全く裏返しの形です。
 ウリヤをバト・シェバのもとに帰らせるというダビデの計略は失敗しました。そこでダビデは王としての力を利用して、最後の手段に訴えるのです。
翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した。書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていた。(同14-15節)

 バト・シェバの夫ウリヤ自身に、よりにもよってウリヤ本人を死なせよとの命令書を持たせて、再び戦場に送り返したのです。すべてはダビデの思い通りです。聖書はただ短く「ヘト人ウリヤも死んだ」と告げるばかりなのです。
ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、夫のために嘆いた。喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にした。彼女は男の子を産んだ。ダビデのしたことは主の御心に適わなかった(同11章26、27節)。

 死んだ夫のために嘆くバト・シェバです。しかし喪が明けると、ダビデの新しい妻として王宮に入り、ダビデの子を産んだのです。聖書のこの部分は、もともと王を、権力者を批判、非難する文書を、いわば私たちの時代の王家のスキャンダルを書いたもの、新聞、雑誌、あるいは告発文をもとにして書かれたのではないかという人もいるのです。犯罪をさらけ出させようとする文書です。
 さていよいよ今日わたしたちに与えられました聖書の箇所になります。預言者ナタンが登場するのです。
主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。 一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに 何一つ持っていなかった。 彼はその小羊を養い 小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて 彼の皿から食べ、彼の椀から飲み 彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。 彼は訪れて来た旅人をもてなすのに 自分の羊や牛を惜しみ 貧しい男の小羊を取り上げて 自分の客に振る舞った。」(同12章1-4節)

豊かな男はたくさんいる自分の羊を惜しみ、貧しい男から、彼がかわいがっている小羊をとりあげ、自分の客にふるまったという話です。
ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」
(同5、6節)

 この話を聞いたダビデは、ははぁ、これは裁判の問題だなと思うのです。これは裁きの問題だ。王には裁きづかさとしての権威も与えられているのです。判断の難しい裁判の問題は王のところに持ってこられます。そして裁きづかさとして、王自身が裁くのです。他ならぬダビデの子ソロモンの裁きがすぐれていたという物語が聖書に出て参ります。王ダビデ自身が裁く。ダビデはナタンの物語を聞いて、この心痛む物語に心を動かされ、このような言葉を発したという説明もありますが、そうではないのです。ダビデ王自身の裁く力が問われているのです。王は正義を行うものであるからです。正義を、正しい事を行うべき王が、ダビデが、正義の言葉を、王の権威をもって語らなければならないのです。
 ここで「王は生きておられる。」王は正義を行う者である、という既に死んでしまったウリヤの言葉が裏返しになって出てきます。ダビデはその男に激怒して、ナタンに言うのです。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ」と。しかしナタンの言葉は正義の裁きをしたはずのダビデを逆に裁くのです。
ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。」(同7節)

豊かなのに、自分の欲望のために、貧しい者のかけがえのない妻を奪った。他には何一つ持っていなかった貧しい者は、豊かな者の欲望のため、そのかけがえのないものを奪われてしまった。いや貧しい者自身の命さえ奪われてしまった。その正義のもとに死罪だと判決をくだされるべき豊かな者とはダビデに他ならないのであると。
 ダビデ王家のスキャンダルです。他の者の妻を力づくで、王の権力にまかせて奪ってしまった。いやそればかりでない。このすぐ後にはダビデの息子たちの物語が記されています。王子アムノンは自分の腹違いの妹タマルに恋してしまった。父の許しを請えば与えられるものを、自分の欲望に負けて、力づくで奪ってしまった。いやまたもやそればかりではないのです。恋する心が嫌悪に変わってしまい、今度は力づくで自分のものにした妹を憎むようになってしまった。これをきっかけにして、タマルの兄アブサロムはアムノンを憎むようになる。ダビデの息子たちが、姦淫という欲望のゆえに殺しあいをするようになってしまうのです。聖書はこれらの出来事を包み隠さず語るのです。まさに人間の罪を明らかにするのです。
 今日わたしたちに与えられています十戒の言葉はまさに「汝、姦淫するなかれ」なのです。いったいハイデルベルク信仰問答はどう教えているでしょうか、味わいたいのです。
問108 第七の戒めは何を求めていますか。
答 神様は、すべてのみだらなことを呪います。それゆえ、わたしたちはこれを心から憎み、わたしたちを汚れのない正しい者として保ち、さらに、わたしたちは聖なる結婚生活においても、独身の生活においても、同じように生きなければなりません。
問109 神様はこの戒めにおいて、単に、姦淫や同類の辱めを禁じておられるのですか。
答 わたしたちの肉体も魂も、聖霊の宮であります。それゆえ、神様はわたしたちがこの二つを汚れなく清く保つことを望んでおられます。そのようなわけで、神様はすべての汚れている行い、態度、言葉、思い、欲望、そして、人をそのようなものへと誘うものを禁じるのです。
 神様はすべてのみだらなことを呪われている。神様はわたしたち人間の肉体も魂も、清く保つことを望んでおられる。すべての汚れている行い、態度、言葉、思い、欲望を禁じられる。いやそればかりか人をそのようなものへと誘うものをも禁じておられる。
 わたしたちの体は、肉体も魂も、どちらもかけることなく、聖霊の宮であるというのです。肉的なものは汚らわしく劣り、清い魂こそ、かけがえのないものですとは言わないのです。わたしたち自身の、肉体も魂も、清いはずのものである。神様からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である。そうパウロも、もう一カ所、今日わたしたちに与えられておりますコリントの信徒への手紙第一の6章19、20節で言っているのです。
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

わたしたちの信仰問答書が最初のところで言っていたとおりなのです。わたしたはもう主のものである。神様からいただいた聖霊が宿るところ、聖霊が宿る神殿である。わたしたちの体は、信仰により肉体も魂も清く、それは神様の栄光を現すべきものであるのです。
(楠原博行:2005年1月9日 主日礼拝説教より)

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2005/01/02

隣人として (ハイデルベルク信仰問答第40主日 問105-107)

第6戒「汝、殺すなかれ。 マタイによる福音書5章21-26節
 ただいま出エジプト記20章に記されております十戒のことばが読まれました。出エジプト記20章はモーセが主なる神様から十戒のことばを直接受け取る場面が描かれているのです。わたしたちは十戒の十の戒めをひとつひとつ味わって参りました。第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」からはじまり、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」までは神様とわたしたちとの関係が戒められています。そして続く「あなたの父母を敬え。」からは、わたしたちが同じ人間に対して、隣人に対してどうあるべきかが戒められる、二枚目の石版に入っているのです。今日わたしたちに与えられた戒めは「殺してはならない」なのです。
 「殺してはならない。」人間を、わたしたちの隣人を殺してはならないことです。人殺しということについて、わたしたちは遠いところにいるでしょうか。あるユダヤ人の話があるのです。第二次世界大戦のとき、ドイツの強制収容所に入れられていたのです。彼は命を失う前に、連合軍に解放されました。しかし同時に、強制収容所の司令官が逃亡してしまったのでした。何年もの間、彼は戦争犯罪者のリストに載り、戦後、逃亡したそのような戦争犯罪者を追うことを仕事とするユダヤ人たちもいたのです。そしてついに捕まったのです。そして強制収容所にいたユダヤ人が、40年もの後、この司令官に会ったのです。多くの友人たち、多くの親戚を殺し、そして自分をも殺そうとした、強制収容所の司令官です。突然このユダヤ人は泣き出したそうです。ようやくこの人が落ち着いたとき、ある人がなぜ泣き出したのかと尋ねたそうです。彼は驚くべき返事をしたそうです。それは捕らえられたドイツ人を見て、怒って泣いたのではなかったのでした。そうではなくて、このユダヤ人が、自分の心の中を見て、泣き出したのです。自分の心の奥底にある憎しみという深みを見た時、どれほど自分があの司令官のようであったかを思ったのです(G.I.ウィリアムソン, The Heidelberg Catechism A Study Guide 188頁)。「復讐するは我にあり。」「復讐はわたしのすること、わたしが報復する(ヘブライ10:30)」復讐は人間のすることではあり得ないという聖書の御言葉に、わたしたちはぶつからざるを得ないのです。
 しかしただ人殺し、殺人という罪を犯してはならないということだけではないとは、主イエスがすでに、さきほど一緒に読まれましたマタイによる福音書5章21節以下でおっしゃっていることでもあるのです。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイによる福音書5章21-26節)
 「殺すな」ではない。「殺すな」では足りない。腹を立ててもいけない。「ばか」とも「愚か者」とも言ってはならない。そのようなものは、裁きを、火の地獄を覚悟せねばならないというのです。厳しさというのでしょうか。わたしたちのハイデルベルク信仰問答もさらにくわしく、わたしたちの殺人の根っこということを言っています。問105では行いばかりでなく、思いや言葉、態度をもって、また他の人を通してでも、人をののしったり、憎んだり、侮辱しないようにと言っています。復讐心を起こすということは、むしろ自分を傷つけることであると言うのです。続く問い106と107には次のように記されています。
問106 それでは、この戒めは、単に殺すことについてのみ語っているのですか。
答 神様は、わたしたちに教えるために、殺人を禁じられました。すなわち、
ねたみ、憎しみ、怒り、そして復讐心は、殺人の根であり、神様は殺人の根を
憎むからです。そして、このすべては神様にとっては隠れた殺人だからです。
問107 わたしたちが、わたしたちの隣人を殺さなければ、この戒めを既に満たしていることになるのですか。
答 いいえ、違います。
 なぜなら神様は、ねたみ、憎しみ、怒りをおゆるしにならず、わたしたちが、隣人をわたしたち自身のように愛して、隣人に対しては忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情を示し、力の限りに隣人から恥をそらし、そして、わたしたちの敵にもまた、良いことをなす事を望んでおられるからです。
 殺人を禁じたのは、教育的な配慮であった。むしろ殺人の根っこを、隠れた殺人をこそ禁じようとされるのだ。すなわち、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心。これら隠れた殺人を神様は憎んでおられるのである。神様はわたしたちにこれら殺人の根っこをお許しにはならない。わたしたちは、わたしたちの隣人をわたしたち自身のように愛さなければならない。隣人に対して、忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情を示さなければならない。力の限りに隣人が恥を受けないように努力しなければならない。そしてそれはわたしたちの敵にも及ぶのである。
 神様は完全をお求めになると言われます。完全なのです。ねたみ、憎しみ、怒り。
そして忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情。多くの言葉があげられました。忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情。すばらしい言葉です。わたしたちはこれに向かって歩まなければならない、いつも念頭において生きていかなければならないと思わせる言葉です。
ねたみ、憎しみ、怒り。そして復讐心もあげられました。ねたみ、憎しみ、怒り。しかしこれらの言葉もわたしたちに決して遠くにはない言葉だともうのです。いやややもすると、ねたみ、憎しみ、怒りは強い、激しい思いとなって、わたしたちに迫ってくる。そして忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情。心惹かれる言葉であり、心を平和にする言葉ではありますが、ねたみ、憎しみ、怒りを乗り越えてしまうような大きな力をわたしたちの内で持ち得るのでしょうか。
 神様はわたしたちに完全をお求めになると言いました。しかしわたしたちは最初に紹介しましたユダヤ人の話のように、ぶつかってしまう。衝突しないではいられないのです。自分の心の奥底にあるものを見て、恐れおののいてしまう。涙を流さないではいられないのです。しかしだいたいどうして正月早々に「殺してはならない」なのか。どうして1月の2日から、わたしたちの心の奥底をさらけ出させようとするのか。もちろん4月からのハイデルベルク信仰問答をかたわらにおいての歩みがあります。今日はその40日目のところを、全体で52日、一年間かけて読むところの40日目にあたり、それは十戒の第6戒にあったているからにほかならないのです。しかしわたしたちはクリスマスの時期を過ごしました。改めて驚いたのは、クリスマス当日を過ぎると、町が、店先ががらっと変わってしまうことです。クリスマスの飾りが大急ぎで取り除かれて、今度は突然しめ縄などの正月の飾りが飾られ、売られる。とてつもないスピードでクリスマスが通り過ぎてしまって、正月に備え、飾られてしまう。しかしわたしたちの教会にはまだクリスマスツリーが飾られている。例年ではクリスマスが終わると片づけられるということでしたが、長老と相談をして、年明けの今日までは飾っておこうとしたのです。それは質素なクリスマスツリーで評判が良かったということもあるでしょうが、しかし改めて、クリスマスの心を考えると、まことにふさわしいことでもあったのです。
 1月6日。今年は今週の木曜日ですが、公現日、あるいは顕現日と言われる、祝日があるのです。カトリックの伝統が強いが、プロテスタントも覚えて祝います。以前住んでいた南ドイツ地方では、1月6日には、町中に仮装した子供たちの姿を見ることができます。お正月の仮装をするわけではありません。王様の服装をするのです。ひとりは顔を黒く塗った王様。3人の王様に一人が棒の先についた星を掲げて、家から家へと歌を歌って回るのです。そして家々の門に20+C+M+B+05と、新しい年の年号とラテン語でクリストス・マンジオーネム・ベネディカート、キリストがこの家を祝福してくださいますようにという言葉を書き記して回るのです。子供たちにはお礼におかしやくだものを用意し、教会への献金がわたされます。東方の3人の博士たちが、この日、主イエスを見つけ出した。この日、主イエスに、黄金、乳香、没薬の贈り物をした。その日を記念する祝日なのです。ベツレヘムの馬小屋に隠されるようにひっそりとお生まれになった主イエスが、今わたしたちの救い主として明らかにされたのです。全世界を代表とする3人の博士の前に、そのお姿を現されることによって、救い主が救い主として、私たちの前に明らかにされたのです。それはお正月が来ても過ぎ去ることはありません。
 なぜ神様は「殺すな」と言われるのか。それは生命を保つためです。神様が創造された生命。ご自身で創造された生命を守ろうとされている。殺すな。殺人の根っこである、ねたみ、憎しみ、怒りをやめよとおっしゃる。神様は完全をお求めになります。しかしその一人子主イエスをお送りくださった。わたしたちは主イエスにとりなしを求めます。そして「殺すな」という神様のみこころを行わせるために、わたしたちのもっとも近いところで、わたしたちを支え、導き、そしていついかなるときも助けてくださるのです。クリスマスツリーは今日で片づけてしまいますが、お正月という日本の祝日を超えて、今なおわたしたちには主イエスが必要なのです。教会ではクリスマスの出来事が過ぎ去ってしまうことはあり得ません。何よりも、主イエスがわたしたちにその姿を見せてくださったその季節に、わたしたちは改めて主イエスに助けを求めたいと思います。そしてそのお苦しみを思い、記念する聖餐にあずかりたいと思います。
(楠原博行:2005年1月2日 主日礼拝説教より)

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2005/01/01

味わい、見よ

詩編34編6-9節
「味わい、見よ、主の恵み深さを。」この御言葉はわたしたちが主日ごとに、みなさんといっしょに守っております礼拝において、その礼拝の一番最初に、礼拝の司式者が読みます招きの言葉において繰り返し読まれてきました御言葉なのです。「味わい、見よ、主の恵み深さを。」味わいなさい。見なさい。主なる神様の恵み深いことをと詩編第34編は歌っているのです。
 詩編第34編はその多くの詩編の中で、特別な詩編として知られています。それはその書き方が特別であるのです。わたしたちはいろはカルタというものを持っています。説明するまでもありません。い、ろ、はのそれぞれの文字を最初にして文を作り、カルタ遊びのことばに使っているのです。カルタの話をしましたのはお正月であるからではありません。詩編第34編は23節ありますが、その一節一節が、詩編、つまり旧約聖書が記されているヘブライ語のアルファベットのひとつひとつの文字ではじめられて一節一節の文が記されているのです。それは2節がアルファベットの最初の文字アレフ、英語で言えばA。3節がふたつめのベート、英語のB。そういうぐあいにABC順に、いってみればいろはの順番に一節いっせつが記されていて、今日わたしたちに与えられました6節はアルファベットのEだという具合なのです。いろはカルタがわかりやすくて、みなが楽しめるためにあるばかりではなく、文字やことばを覚えるためにありますように、やはりこの詩編がそのようにいろはカルタのように記されているのは、ことばを覚えるため、書くことを習うためであると言われます。また一節いっせつの言葉を指折り数えて覚えることができるのです。「味わい、見よ、主の恵み深さを」と神様に対する感謝の言葉が、一節いっせつ指折り数えて記されているのです。
 「主の恵み深さ。」美しい言葉です。ここではもともとの言葉はヘブライ語のトーブ。ふつう「良い」と訳される言葉です。英語で言うgoodなのです。「主の良さ。」この「良い」という言葉は旧約聖書の中ではかぎりなくくりかえし用いられ、いろいろな意味で用いられるのです。「良いものである。」「美しい。」「ここちよい。」「うれしい。」わたしたちにとって神様が「良い」とはどういうことでありましょうか。神様の良さを経験することができる、わたしたち自信が自分の体で知ることができるのです。神様の良さを、わたしたちの新共同訳聖書のように主なる神様の「恵み深さ」という形で知ることができる。わたしたちの生活を豊かに、幸せにしてくれる神様の物質的なたまもので知ることもできるのです。詩編34編は収穫感謝の詩編であると言われ、また収穫感謝の礼拝で読まれる箇所であるのです。
 また1節にダビデが命を救われた時とありますように、人が救われた。神様からの救いを経験して歌う詩編であるとも言われます。7節、8節にありますように、はっきりと詩編34編を歌う者は、神様からの救いを経験しているのです。「苦難から常に救ってくださった」、「守り助けてくださった」とはっきりと自分の救いを、自分の救いが神様から来ていること、ほかの誰でもない神様こそが自分を守ってくださったのだと言っているのです。
この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。(7節)
 そこでは自らを「貧しい人」であると言います。金銭的に富んでいるとか、貧しいと言うだけの意味ではありません。「助ける者がない人々」、「惨めな人々」、「抑圧された人々」、「低いところにいる人々」、「弱い人々」、「貧しい人々」。いやそればかりではありません。自分の助け手として、自分を必ず救い出してくださる方として、神様を信じている人々、神様を求める人々を指しているのです。8節で言葉を換えて言い換えられます。それは「主を畏れる人」のことです。自分を必ず救い出してくださる方として、敬虔に神様を求める人々を指してもいるのです。
 今日同時に読みましたマタイによる福音書の山上の説教からの主イエスの言葉。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
(マタイによる福音書第5章3-6節)」
 ここであげられる貧しい人々と同じであると言われます。主なる神様を畏れる人々。その人を助ける人が一人もないとしても、とても惨めな思いをしていても、抑圧されていても、自分が低いところにいるのではないか、どん底にいるのではないかと思えても、弱さにうちひしがれていても、物の、お金の、何であろうが貧しさの中に苦しんでいても、主イエスは「幸いなるかな」と祝福の声をかけてくださるのです。わたしたちは慰められる。もう天国に属し、それを受け継ぐ者となっている。飢えと渇きはかならず満たされるというのです。
 そうして救われた者、満たされた者、神様により頼んだ者の、感謝の歌が詩編34編であるのです。
主を仰ぎ見る人は光と輝き 辱めに顔を伏せることはない。
この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。
主の使いはその周りに陣を敷き 主を畏れる人を守り助けてくださった。
味わい、見よ、主の恵み深さを。 いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。(詩編第34編6-9節)
 わたしたちを救ってくださるただお一人の方として主なる神様を知る。そしてわたしたちは主なる神様を仰ぎ見るのです。わたしたちは光と輝く。喜びに輝くのです。辱めに顔を伏せることはないとは、わたしたちが礼拝し崇める呼び声が、かならず主なる神様によって聞かれるということです。そして決してわたしたちを見捨てることなく、助けてくださるということです。わたしたち貧しい人、まことの救い主として神様の方を向くわたしたち、たとえ苦しみの中にあろうとも、虐げられている中にあろうとも、悩みの中にあろうとも、貧しさの中にあろうとも、主なる神様は、その中から救ってくださる。いやもう救ってくださっている。わたしたちの周りに、主の御使いが陣を敷いている。主なる神様を畏れて崇めるわたしたちを助け出してくださっている。
味わい、見よ、主の恵み深さを。 いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。(同9節)
 主なる神様のわたしたちに良いことを、その恵み深さ。わたしたちにお与えてくださるもの。それによる喜び。それによる慰めを、味わってみなさいと言うのです。幸いなるかな。山上の説教の主イエスの言葉を思い起こします。いやギリシャ語に直せば、まったく同じ言葉が用いられるべきなのです。幸いなるかな。御もとに身を寄せる人は。幸いなるかな。主なる神様を信頼する者は。
 わたしたちは今日聖餐にあずかろうとしています。聖餐を通して主の恵みを味わおうとしているのです。わたしたちは聖餐のパンと杯がわたしたちに与えられるのをたしかに見ます。それはわたしたちの主イエスが、確かに、十字架において、主の身体がわたしたちのための犠牲として捧げられ、裂かれて、その御血潮がわたしたちのために流されたことを思い起こさせ、確信させるためです。
 そしてそれをわたしたちは、確かに手に受け取り、食べるのです。それは、確かに、主御自身が、わたしたちの魂のため、永遠の生命のために、主の十字架につけられたからだと、流された御血潮とを、わたしたちが食べ、飲むのだということを、思い起こし、確信するためであるのです。
 わたしたちは、信仰に満ちた心をもって、キリストの苦しみと、死を受け入れます。それによって、わたしたちは罪の赦しと永遠の生命とを受け取るのです。聖霊によって、主の聖なるからだと共にますますひとつとなります。わたしたちは、主のからだであるのです。
(楠原博行:2005年1月1日 木更津教会元旦聖餐礼拝説教より)

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