祝福を祈る(ハイデルベルク信仰問答 第43主日 問112)
ペトロの手紙一 第3章8-9節
「汝、その隣人に対して偽りの証をたつるなかれ。」十戒の第9戒はこのように記されています。私たちが私たちの隣人に対して嘘の証言をしてはならないという戒めです。嘘の証言をしない、嘘をつかないということは、これもまた、当たり前のことです。そんなことは誰でもがしてはいけないことだと理解しています。この当たり前のことを、十戒は神様のみ前で私たちに繰り返し問うているのです。ハイデルベルク信仰問答がこの戒めについて教えているのは、第9戒の言葉もまた、私たちがただ嘘の証言をする、嘘をつくということを戒めているだけではないということです。
「誰に対しても、自分の言葉を曲げることなく、陰口をすることなく、中傷しないことを求めている」思慮のある言葉。感情にまかせてはき出される言葉。人を励ます言葉。たしなめる言葉。弁明する言葉。人をおとしめる言葉。日常生活の中で、私たちはいろいろな言葉を使います。考えてみると思慮深い言葉というのは、なかなか出てこないものです。反対に、感情にまかせて出てくる言葉は止まることを知りません。ポンポンと出てきます。特に、怒りにまかせて出てくる言葉は、その口から雪崩のように吹き出し、人を傷つけてしまいます。自分の意識する、しないにかかわらず人を傷つけてしまうことも、しばしばです。何気ない言葉によっても人を傷つけてしまう。それが悪意のあることではなくて、うっかりいってしまったことでも、「ああ、あんなことを言わなければよかった。」と後悔することはよくあると思うのです。自分自身が意識しないところで、うっかり言ってしまった言葉が人を傷つけ、人をおとしめているなら、私たちがある意図を持って人をおとしめることを語ることはなおさらです。舌は悪魔的な力をまき散らすことになります。
「誰の言うことも聞き入れないで、軽はずみに罪に定めることを助けないこと。」 「すべての、嘘やごまかしを、悪魔のしわざとして、神様の大いなる怒りをおそれるがゆえに、避けること。」も同様です。人を欺くような悪い言葉、人をおとしめることに容易く同意することも、第9戒は戒めているのだと説明します。これも分かり切ったことです。にもかかわらず、私たちは簡単に人を罪に定めてしまいます。人を罪に定めること、裁くことはとてもたやすくしてしまうのに、私たちは人を許すことができない、と感じることがあります。「あの人が悪い。人間の体だって悪いところは手術でとってしまうではないか。あの人さえいなければここはもっとよくなる。」人を罪に定めることで、自分はちゃんとした道を歩いているという安心が生まれます。しかし、その安心は真の平安ではない。そう、信仰問答は教えるのです。 このことは同時に、隣人に対して耳障りのいい言葉のみを語れといっているのではありません。「舌を制する」と同じく、預言者の書の多くの記されているのは、その時代の王が耳障りのいい預言を語る宮廷預言者を重んじ、厳しい裁きの言葉を語る預言者を退けていることです。激しい裁きの言葉を預言者は語りますが、そこに顕れているのは、神の民、イスラエルを回復される神の救いの言葉でもあるのです。神様の真理は曲げてはならないのです。ハイデルベルク信仰問答は記しています。
「法廷においても、また他の場所においても、わたしが、真理を愛し、正直に語り、告白し、また、わたしの隣人の名誉と名声を、力の限り、救い、また増やすことを求めている」証言しなければならない法廷においても、また、生活のあらゆる場面においても、真理は正直に語らなければならない。同時にそのことによって隣人を罪に定めるのではなく、困難なところから救うために、その隣人の名誉と名声を、力の限り救い増やすことを、第9戒は私たちに求めるのだというのです。
ペトロの手紙一は迫害の中にあった教会の人々に宛てた手紙とされています。ローマ帝国の支配のもとにあって、「迫害に負けずに神の民として聖なる国民として生きよ」と手紙の著者は励まし、勧めています。手紙の中には、「皆がバラバラになるのではなく一つ思いを抱くように」とも勧めています。迫害という試練にさらされている状態は想像するしかないのですが、場合によってはローマ帝国に対して力を持って抗することがあったかもしれません。激しい迫害の中、信仰を捨てた仲間に対する誹謗中傷があったかもしれません。
そこで、手紙の著者くは繰り返し、お互いが裁きあうのではなく、心を一つにして聖なる生活をするということを記しました。主イエスがそうであったように、聖なる神の民として、誠実に生活することによってキリスト者としての証を立てよと記しているのです。それは、主イエスがみ足の跡に続くようにと模範を残されたからだ(2:21)と記しています。信仰者としての生活が迫害するものに対する答えでありました。
神様の真理を語ることは、時には隣人に対して厳しい言葉を語ることにもなるでしょう。しかし、厳しい言葉を語ることと、人を呪うことは違うのです。隣人を呪ってはならい。侮辱してはならない。呪いの言葉、侮辱の言葉は、隣人に対する私たちの感情からくるのです。第9戒が私たちに求めているのは、自らの感情はなくて、神様のまなざしの中に私自身をおいて語れということです。裁きは神様のなさることであって、私たちは隣人に対して祝福を祈ることが求められているというのです。
ハイデルベルク信仰問答が、嘘やごまかしに対して、私たちが神様のみ前にあるという視点から解き明かしているのは、このためです。道徳にてらして「嘘やごまかしを避けろ」というのではなく、「神様の大いなる怒りをおそれるがゆえ」嘘やごまかしを避けるように。すると私たちは、神様の真理を愛し、隣人に対しては、それがたとえ私たちの敵であったとしてもその人の救いを求めるようになるというのです。
私たちはもう一度、この信仰問答書が問一から貫いて語られていることを、改めて心に刻みたいと思います。それは主イエスと私たちの関係です。問112で語られていることを私たちは私と私の隣人の関係の中で読みます。しかし、これはまた、主イエスと私との関係でもあるのではないでしょうか。
私たちは世の終わりに神様のみ前で裁かれるのですが、そのときにはすべてが明らかにされるといわれます。つまり、良いことも悪いこともすべて隠されることなく明らかにされるのです。そして、神様は正しいお方ですから、罪に対してはそのあがないを求められるのです。一切の掛け値はありません。神様の義は貫かれ、私たちは正しく裁かれるのです。しかし、そのとき、私たちはたった一人で神様のみ前に出るのではないのです。主イエスが私たちと神様の執り成しをする仲保者としておられるというのです。主イエスの血が流されねばならないほど、神様に背く私たちの罪は重いのです。しかし、主はその私たちを罪に定めるのではなく、回復するために裁きの場で力の限り弁護するといわれるのです。
主イエスは「私に倣え」といわれます。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように」と主イエスはいわれます。私たちは改めて主に問われます。主イエスは人を侮辱したことがあるでしょうか、ののしったことがあるでしょうか。神様の御心をはからずに悔い改めないものたちを主は激しく戒められました。また、神殿で商売をするものたちに対しては激しく憤られました。しかし、人を呪ったことは一度もありません。いや、その反対です。そのように自分すら制することのできない私たちのために、主は十字架にかかられました。そしてよみがえって、世の終わりの裁きの時には、そのような私たちのための弁護者となってくださるのです。ですから、私たちも隣人に対して偽りを語ることをやめ、裁くことをやめ、むしろ隣人の救いと主の祝福を祈ることが求められているのです。
「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」(8節)
ペトロの手紙の著者が記していることは、すべて主イエスが私たちにしてくださったことです。
「主イエスが、私たちにしてくださったこと。私たちのお手本になってくださったことはわかる。しかし、私にそれができるだろうか。果たして、そんなことができるのだろうか。」いつも私たちにつきまとってくる、問であると思います。
「罪人である私、不信仰な私には、そんなことはできるわけがない。」そのように思われる方があるかもしれません。
「私が、隣人を愛することができず、許すことができず、傷つけるのは、私の信仰が足りないせいだ。」そうも考える方があるかもしれません。
この手紙の著者も、福音書記者も、主イエスも、聖書も私たちにできないことを勧めているのではありません。心を一つにすることも、隣人を思いやることも、愛することも、謙虚になることも、できるのです。確かにそれは、私たち自身の努力だけでは不可能ですが、主とともにあるときに、それが可能となるのです。主と共にある時、主イエスがそれを可能としてくださるのです。それが信仰の力です。
祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる御神。
汝、その隣人に対して偽りの証をたつるなかれ。
この戒めを口にする度に、自らの罪を思わされます。隣人を愛し、その人のために祝福を祈らなければならないのに、私たちの口から出る言葉は、自分を高くするために人をおとしめ、自分を正当化するために人を中傷する言葉です。
主イエスは、このような私たちのために私たちの罪を担ってくださいました。そして、終わりの時にはあなたのみ前で私たちの名誉を回復するために仲保者となってくださいます。そのような主のみ足の跡を私たちもたどれ、私に倣えと主は言われました。
あなたのまなざしの中に我が身を置く時に、私たちはあなたを心から恐れ、悪魔の業を退けることができます。主イエスを信じ、主と共にある時に、人を愛し、その人のために祝福を祈る者へと変えられていきます。
どうか私たちを、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報い」ず、隣人の祝福を祈る者へと変えてくださいますように。祝福を受け継ぐために私たち一人一人は、あなたからのお召しをうけていることを悟らせてください。
この祈りを主いえ・キリストのみ名によって、祈り願います。
アーメン
(楠原彰子:2005年1月23日主日礼拝説教より)
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