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2004/12/24

闇に輝く光

旧約聖書イザヤ書第8章23節から9章1節までの御言葉をお聞き下さい。

今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。 
先に ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 
後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた 
異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見 
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
 つづいてイザヤ書第9章5節。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 
権威が彼の肩にある。 
その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。

 「闇の中を歩む民」とはわたしたちの事であると言われます。闇とは何でしょうか。闇とは光がないということです。闇とは光のない暗闇のことなのです。基本的な意味があると言います。闇とは、わたしたちが知る光のない闇のことです。暗いのです。恐怖を抱かせるのです。そしてまた次のような意味もあるのです。闇とは、わたしたちが何かしようとする時、わたしたちの前途の見通しに対してしょうがいになるもの、妨げになるものであるというのです。闇とはわたしたちに迫る危険であり、わたしたちそれぞれが心に抱く恐怖であると言います。わたしたちにとっての闇があるでしょうか。それは恐ろしいものであるかもしれません。それは避けて通りたいものであるかもしれません。
 クリスマスの喜びを語るのに、なぜ闇について語られなければならないのでしょうか。
いやまずだいたいどうしてわたしたちは礼拝堂を真っ暗にしているのでしょうか。昔の人たちは、特にヨーロッパに住む人々は、長く暗い夜を経験しました。光がないのです。ですから光を待ち望むのです。1年で一番夜の長い時なのです。暗闇の中のろうそくの、光の祭りなのです。礼拝堂を暗くして、燭火礼拝をする。そのようなクリスマスは、明らかに光をこい求める伝統の中にあるのです。
 しかしキリストの誕生を祝うわたしたちの礼拝においても闇について語られます。クリスマスには闇が語られて良いのです。尊敬すべき多くの説教者たちが、クリスマスの礼拝で、わたしたちの闇について語っています。わたしたちの不安です。「わたしたちに襲ってくる出来事が危険をもたらし、滅びをもたらすのではないかという不安...死をもたらす病がひっそりと近づいているのではないかという不安...墜落した航空機の中にいた...人びとが...毎分、毎秒、感じたに違いない...不安、地震が次々と襲ったときに...人々が感じた不安(カール・バルト/「光の降誕祭-20世紀クリスマス名説教集 R.ランダウ編、加藤常昭訳、教文館 1995年229頁)。」「自分で理解できない時代に生きている...あまりにも多くの闇を抱え込んでいる時代に生きている(トゥルンアイゼン 同123頁)。」戦争という闇。事件や事故という闇。社会の乱れという闇。わたしの人生の悩みという闇。病気という闇。仕事の闇。人間関係の闇。
 なぜ闇が語られるのか。それはその闇が打ち破られるからです。なぜ闇を語り、わたしたちの不安が語られるのか。それは光が差し。わたしたちの不安が取り去られるからです。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

 預言者イザヤのこの言葉の中に、わたしたちの信仰の先輩たちは、キリストの誕生を読み取ったのです。わたしたちは「闇の中を歩む民」かもしれない。しかし闇の中を歩くわたしたちは、「大いなる光」を見るに違いない。死の陰に包まれた地に住んでいるのではないかと思うわたしたちに、必ず光が輝くのだと。
 ただいま読みました、新約聖書ルカによる福音書2章の羊飼いたちの物語は夜という暗闇の時間を語っていました。羊飼いたちは野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていたのです。何か特別なことをしていたわけではないのです。何かだいそれたことを望んでいたいた人々でもないのです。ただ静かな夜、暗い夜、寂しい夜に、いつものように静かに仲間たちと羊の番をしていたのです。羊飼いたちが何を思っていたかはわかりません。寝ずの番をするという、日々のつらい仕事のことを思っていたかも知れません。あるいは家族のこと、日々の家族の生活のことを思いやっていたかも知れません。
 しかしそこに突然光が差すのです。主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたと言います。ほんの今さっきまで、暗闇であった、しかしそこに目をくらませるような光が差したのです。人間がすることと言えばただ一つです。恐れるしかない。自分たちが暗闇の中でいつものように過ごしていたと思っていたのに、突然暗闇でなくなってしまった。恐れるしかないのです。
 しかし声がする。力強い天使の声が響いたのです。「恐れるな!」と。闇ではないかと思える世界だと言いました。わたしたちの生活の中で、生きていく社会の中で、闇を感じたことのない人は、みなさんの中でもいないのではないかと思います。戦争という闇。事件や事故という闇。社会の乱れという闇。わたしの人生の悩みという闇。病気という闇。仕事の闇。人間関係の闇。わたしたちが生きていく中で、闇など存在したことはないと自信をもって声を大にして言う事ができる方などおられないのではないかと思うのです。
 天からの声です。わたしたちのはるかに高い所から下ってくる声です。闇の中に光が輝く。しかも「恐れるな」と言うのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」しかも喜びが来る。それは、どこそこに来る、誰彼に来るというのではない。民全体、わたしたち全体に、誰一人としてもれることがない。誰一人としてかける事がない、喜びが、それも大きな喜びが来るというのです。天からの喜びです。人間がこの世で生み出そうとするような、少しでも手に入れようとやっきになっているような、喜びや楽しみではないのです。わたしたちをはるかに超えた所から、大きな喜びがやってくる。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。(ルカによる福音書第2章10-12節)」
 闇の中に光が輝く。しかもあなた方の中に、この地上に住むわたしたちの中に、この世の中を生きているわたしたちの中に、闇の中に生きているのではないかと思わないではいられないわたしたちの中に、光が輝く。それはわたしたちのために救い主がお生まれになったことである。この方こそわたしたちの主キリストである。わたしたちが、わたしたちのすべてをおあずけしてよいお方である。わたしたちの人生を、わたしたちの全生涯をおまかせしてよいお方である。その方が今お生まれになった。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」が、そのお方である。
天からの声がさらに加わります。わたしたちのはるかに高い所から、さらに声が加わる。しかもそれは神様を賛美する声であったのです。それはわたしたち人間が賛美する声ではないのです。はるかに大きな、確かな賛美、それは天からの賛美の声、神様をほめたたえる声なのです。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
いと高きところ、はるかに高いところ、神様のおられる所では、神様に栄光があるように。
地には平和があるように。戦い、争いの中。そのような中に平和があるようにと声が響くのです。しかも他でもない、わたしたちの中に平和があるようにと天から賛美の声がするのです。天使たちは去っていきます。ふたたびはるかに高い所、神様のもとへと去っていきました。羊飼いたちは話し合うのです。
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか(ルカによる福音書第2章15節)」
天使たちの言葉の通り、羊飼いたちは確かに乳飲み子を見つけ出しました。マリヤとヨセフのそばに、飼い葉桶に寝かされていたのです。天使が告げた言葉を羊飼いたちから聞かされた人々はみな不思議に思ったのです。ただマリアだけはすべてを心に留めた。羊飼いたちはすべて天使の話の通りだったので、神様をあがめ、賛美しながら帰って行ったのでした。
 クリスマスを告げる有名な詩があります。羊飼いたちの心になって、お生まれになったキリストを拝みに行こうといううたです。

行こう キリストを拝もう まったき心を このお方に 向けよう 歌おう 喜びに満ちて みな 耳を傾けよ 愛する キリストの民よ

罪も 地獄も 悩むがよい
死も 悪魔も 恥じるがよい
われらは、われらの救いを得た
すべての悩みを投げ捨てよ

見よ 神がお与え下さったもの
そのひとり子 永遠の生命のために
このお方が われらを 高く上げてくださる
悲しみの中から 高き天の喜びへと
(Kommt und last uns Christum ehren パウル・ゲルハルト)

 わたしたちはそこにキリストを見いだすのです。闇の中で、悩みの中で、神様から離れていることを感じるものたちがいます。この世の闇を照らし出してしまう光のことを知らず、神様などいないと言う者もいます。しかしここにいらっしゃるのです。闇の中を歩き続けているように思われても、闇の中に飲み込まれてしまうのではないかと思われても、わたしたちの救い主キリストがおられる。わたしたちはひとりではないのです。あなたは捨てられているということはあり得ない。主イエスはあなたのそばにおられるのです。
お祈りします。
 天にいらっしゃいますわたしたちの父である神様。
 今、わたしたちは、こうしてあなたの前に集まり、御子のお生まれになる日を祝うことができますことを心から感謝いたします。神様、あなたは、わたしたちに救い主を生まれさせて下さいました。すべての民に、大いなる喜びに出会わせてくださいました。わたしたちは祈り願います。神様のお名前に、栄光を与えて下さい。この世に、平安を与えて下さい。この平安は、あなただけがお与えになることができるものなのです。平安はわたしたちの心の中から生まれでてくるべきものです。しかし、わたしたちは、この地上において、まったくの無力、まったくのおろかさの中に立ちつくしているのです。わたしたちはひとつの心となってあなたをあおぎのぞみ、あなたの、助けを待っています。あなたはわたしたちに、みことばをお与えになり、聖なる霊を与えようとしていてくださいます。そしてわたしたちの心は患難の中にあっても甦り、よろこぶのです。わたしたちには、この世に生きなければならぬ限り、自分自身のこと、自分自身が生きるための患難があるのです。あなたが助けていてくださることを、どこにいても気づかせてください。あなたが力を与えていてくださり、わたしたちはそれに身をゆだねることができるのだということに気づかせてください。日ごとに、年ごとに、常に新しく、どんな状況になろうと、あなたは助けを示してくださいます。そのことのゆえにわたしたちは感謝し、み名を崇めるのです。わたしたちが、あなたの御心にかなうものとなるようにしてください。地上にあって、苦しみ、耐え忍ばなければならないものの中で、しっかりとした心を持って、神様からいつも見守られているためには、わたしたちには、そのことが必要なのです。
 神様、主イエス・キリストをこの世に来たらせ、人間の救いの道を開いて下さる神様。
どうぞ、このクリスマスの喜びをわたしたちが分かち合い、喜びの中、わたしたちが、教会にあって、ひとつの交わりの中にあって、その歩みを堅くしていくことができますように。
 クリスマスの喜びの日々を過ごしている私たちの中で、新たに信仰を言い表そうとするもの、洗礼を受けようとするものは、まだこの教会に与えられておりません。しかしどうかわたしたちに祈り求める力を与えて下さい。ここに集いますすべての教会員が、ここに新たな決意をもって、歩みをはじめることができますようにお導き下さい。
 クリスマスの礼拝、この燭火礼拝に、小さな子ども達をあなたが祝福し招いて下さったことを感謝します。どうぞその健康と歩みとを健やかにお保ち下さい。
 ここを思いつつも、集うことのできない方々を思います。耐えられない痛みの中にある方、言い様のない不安の中にある方。あなたはすべてご存じです。どうか、あなたが、
その方たちを慰め、お支えください。
どうか、わたしたち、すべてが、この日、喜びの言葉を分かち合う事ができますように。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた(イザヤ書第9章5節)。」「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネによる福音書第3章16節)。」と。

この祈りを主イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。 アーメン。
(楠原博行:2004年12月24日クリスマス燭火礼拝説教より)

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