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2004/12/26

「愛の服従」(ハイデルベルク信仰問答 問104)

エフェソの信徒への手紙 第6章1-4節
 第5戒は「あなたの父母を敬え」です。当たり前の事だと、多くの方が思うでしょう。何もキリスト教に限って、特別にいうことではないかもしれません。自分の親を大切にする事、あるいは親族の年長者を敬うことは当然のこととして私たちは考えていると思います。 そこで、ハイデルベルク信仰問答の言葉に目を向けてみたいと思うのです。
問104 神様は第5戒において、何を求めておられますか。 答 わたしは、わたしの父、わたしの母、そして、わたしの上に立つすべての者に対して、一切の栄誉、愛、忠実を示すこと、そして、すべての良い教えと罰とを従順に受け入れ、また彼らの弱さ、過ちに対しても寛大であることを求めておられるのです。  なぜなら、神様は、わたしたちを、彼らの手を通して、支配することを望んでおられるからです。
 ハイデルベルク信仰問答 問104の言葉は、私たちが敬うべきものは、私たちの両親ばかりか「わたしの上に立つすべての者に対して」敬意を払うことを求めています。ここまで来ると、私たちの心の隅で一つの疑問が持ち上がってくると思うのです。
 神様が私たちをご支配なさることは理解できるのだが、なぜ直接ではなく目上の者の手を通してなのか。自分に横暴をふるう上司だっているし、両親といえども私たちと同じ人間だ、絶対に正しいとは言えないし、従えないこともあるじゃないか。「彼らの弱さ、過ちに対しても寛大であることを求めておられる」とあるけれども、本当にそうか。キリスト教の信仰を持たない両親や目上の者に対しても、敬意を払って従わなくてはならないのか。考えてみれば、ハイデルベルク信仰問答はキリスト教国である外国で編まれたものであって、キリスト者が人口の1%に満たない日本ではあてはまらないのではないか。
 もし、私たちの親子関係、あるいは社会の人間関係を単純に力関係で推し量るならば、この疑問に対する答を見つけることはできないでしょう。ただの力関係で推し量るのではなく、信仰の目でこの問を問い直すことか求められていると思うのです。
 まず第一に、私たちはこの戒めから始まる第5戒から第10戒がが2枚目の板に書かれていることを心に留めたいと思うのです。それは、単に1枚、2枚ということではないのです。1枚目の板が先にあり、2枚目がそれに続いているのです。このことはマタイによる福音書の中で、主イエスが神の律法を次のように要約して教えられたと、記されていることも対応するのです。
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40)
神様との関係がまず第1の掟であり、隣人との関係がそれに続いて記されています。私たちの隣人との関係は、神様と私たちの関係のもとにあるということです。信仰の目で十戒を問い直すということは、神様との関係の中で、私たちの隣人との関係を問い直すことである、といってもよいでありましょう。
 今日の主の日に与えられました御言葉は、エフェソの信徒への手紙 第6章1-4節です。ここでは、子供たちに対して、「親に従うように」と教えているのですが、5章21節から6章9節にかけて、この手紙の著者は妻と夫、子と親、奴隷と主人の3つの関係について記しています。
 まず、妻と夫との関係です。5章21節から33節に記されている部分です。この部分は教会では結婚式の中で、妻に対する教えとして読まれる箇所です。しかし、おもしろいことにこの箇所は古い時代においては夫に対する教えとして結婚式の中で読まれていました。手紙の著者は夫と妻の関係を、キリストと教会との関係になぞらえて、この箇所で語っています。
「また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(24-25節)
ここからだけでも、妻と夫との関係が力関係のうちに置かれていないことが分かります。「教会がキリストに仕えるように」(24節)「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように」(25節)「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(21節)と教えているのです。
 次に、子と親との関係が記されます。私たちに今日の御言葉として与えられている部分です。この勧告の言葉も、親と子の力関係を記しているのではありません。子供たちに対しては「主に結ばれている者として両親に従いなさい。」と語ります。また、親に対しても「主がしつけ諭されるように、育てなさい。」と語ります。親と子という最も親密な関係に置いても、お互いが「主に結ばれている者として」あるということをまず覚えることを求めているのです。
最後に、奴隷と主人の関係が5-9節に記されています。奴隷と主人といえば、その力関係は歴然としています。しかし、ここでも、奴隷に対しては「キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。」(5節)と勧め、主人たちに対しても「同じように奴隷を扱いなさい。」(9節)と求めているのです。それは「彼ら(奴隷たち)にもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらない」からだというのです。
 人間社会には、明らかに上下関係があります。従うものと従えるものの関係があるのです。それを「神様は人を分け隔てなさらないのだから」と人間社会の上下関係を無意味なものとして退けるのではないのです。「神様は、わたしたちを、彼らの手を通して、支配することを望んでおられる」とハイデルベルク信仰問答に記されていましたが、夫婦関係にしても親子関係にしても、社会生活の上下関係は神様がお定めになったことと理解するというのです。
 もちろん、このことは無条件の服従を意味してはいません。神様を誹ること、侮るようなこと、絶対に従い得ないことには「否」をいわざるを得ないでしょう。宗教改革者のカルヴァンが著した「ジュネーブ教会信仰問答」で、第5戒を扱っている中「神がお与えになった場合の他は、父も、王も、その他すべての上の人も、権威がないからであります。」(戸山八郎訳)と記しています。つまり、神様が定められたのでなければ、父であるということも、王であるということも、どうのような地位も権威を持たないというのです。しかし、私たちは慎重でありたいと思うのです。絶対に従い得ないことには「否」をいわざるを得ないとしても、やはり同時に「彼らの弱さ、過ちに対しても寛大であること」が求められていると思うのです。なぜならば、私たちの主イエス・キリストは、すべての人を救うために来られたからです。いまは従い得ない上の人も神様の前に立ち帰る事を、主イエスご自身が忍耐して待っておられるからです。そのような人の命令に従い得ないとしても、私たちがその人を裁いたり、呪ったり、することを主は望んではおられないからです。
 また、神様が目上の者を通して私たちを支配されるということは、目上の者が思いのままに振る舞って良いということを意味していません。神様に委ねられたものを神が私たちにしてくださったように、養い導く義務を負っているということです。
 ここにいる方の中で、いままで一度も両親、目上の親族から怒られたことのない人はいないと思います。反対に、親の立場から、目上の者の立場から、子供たちを叱ったことのない人もいないと思います。叱られた経験、叱った経験を思い出してみると、叱られた経験があるいは叱った経験が100%、神様の愛に基づいた諭しであったでしょうか。 「お母さんはいつも怒ってばかりいる。」多くの子供たちが口をそろえていうのです。「それは、あなたがお母さんとの約束を守らなかったから。」母親にも叱る理由はあるのです。子供自身は、いけないことをして悪かった事はちゃんと分かっているのです。それでもなお、「お母さんはいつも怒ってばかりいる。」というのは、怒る母の顔が教え諭すのではなく、怒りに燃えているからかもしれません。親としてこどもをしつけるのは当然といいながら、感情にまかせて怒りを爆発させる姿にはっとさせられる。誰もが経験していることだと思うのです。『隣人を自分のように愛しなさい。』の教えに従い得ない罪の姿を知らされる思いをしたことも、誰もが経験していると思うのです。「どんなにしても、あの人だけは許すことができない」そういう思いにとらわれたことも、誰もが経験していると思うのです。
 一つの物語を紹介したいと思います。これは、日本基督教団改革長老教会協議会が編纂している「季刊教会」という雑誌の中にも書いたことなのですが、アストリッド・リンドグレーンが書いた「ペレの家出」という話です。リンドグレーンはスウェーデンの児童文学者で、「長靴下のピッピ」「小さなロッタちゃん」「ロッタちゃんのひっこし」などの作品で世界的に有名になりました。
 「ペレの家出」は小さな男の子ペレが、お父さんの万年筆をいたずらしたとの嫌疑をかけられるところから始まります。確かにペレはいたずらっ子で、お父さんの万年筆を隠してしまったことは何回もあるのですが、その日は万年筆を隠したりはしていませんでした。お父さんが別の上着のポケットに刺してタンスに入れたのを忘れていただけなのです。なのに、お父さんもお母さんもペレがしたものと思ってきつく問いただしたものですから、ペレは怒って家を出ることにしました。大きな船に乗ってアフリカに行こう。そこでライオンに食べられるんだ。お父さんもお母さんもきっと悲しむだろう。しかし、アフリカは遠すぎます。ペレは庭の隅にある小屋に家出をすることにしました。そこからならば、お父さんやお母さんの悲しむ様子を十分に見ることもできるからです。
 「お父さんもお母さんも、時には間違ったことをするわ。でも、あなたのことをどんなにか愛しているのよ。」ペレを引き留めるお母さんに、「お父さんが謝らないから、万年筆を無くしたんだよ。」といい、怒りの一瞥をくれると庭の小屋へ出て行きます。しかし、時はクリスマス。ペレはいろいろと考えた末に、郵便屋さんが来たらペレが引っ越したことを伝えてほしいとママに言いに行くのです。そこでお母さんは言うのです。「ペレのいないクリスマス、ペレなしでクリスマスツリー、ペレなしのサンタクロース。」「それなら、別の子供を産めばいいじゃないか。」「私たちにはペレしかいないのよ。あなたを本当に愛しているのよ。イブの夜の間中、お父さんもお母さんも明かりのないクリスマスツリーのそばで泣いて過ごすわ。」この時ペレは、自分のしたことがどんなのひどいことであったかに気づくのです。自分の怒りの感情にまかせて、どんなにかお母さんを悲しませたかに気づくのです。「ごめんなさい」を言ったのはペレのほうからでした。そして、お母さんをぐしょぐしょに濡らすまで、その旨の中で泣いたのです。
 物語の終わりは、仕事から戻ったお父さんがいつものようにペレを呼ぶ場面です。「うちのペレはどこだい。」「ここだよ。」そういってペレはお父さんの胸に飛び込んでいくのです。
 これは不思議な感じのする物語です。本来ならば、謝らなければならないのは嫌疑をペレにかけたお父さんであるはずです。しかし、父親の謝罪の言葉は記されていません。ペレは、むしろ、嫌疑をかけられたことに対する自分の怒りにまかせて、お母さんを悲しませたことを悔いているのです。そして、最後にいつものようにお父さんの胸の中に飛び込んでいたのは、お父さんのしたことを許しているからでしょう。
 子供は親の所有物ではありません。夫婦も同じです。どちらかがもう一方の所有物ではないのです。社会における人間関係も上司が部下を所有しているのではないのです。親子の関係も、夫婦の関係も、社会における人間関係も神様の御心のうちに定められている、主の赦しのまなざしの中にある関係であるのです。
 「あなたの父母を敬え」第5戒の言葉を口にするとき、親であっても、子であっても、妻であっても、夫であっても、人を使う側であっても使われる側であっても、私たちは主イエス交わりの中にお互いの人間関係を再確認させられます。それは、しばしば、愛すること許し合うことよりも、裁きあってしまう自らの罪の姿をはっきりと示される事になるかもしれません。しかし、そこでうなだれることはないのです。自らの罪の姿と同時に、私たちは主イエスが、神様の戒めに従い得ないわたしたちの罪を担ってくださっていること、私が許すことのできない隣人も私同様に、主の赦しと救いに招かれていることをみるからです。私にできないことでも、神様にはできる。私たちは主イエスの愛の服従の中に置かれている。その主イエスを信じて祈り求めるときに、私たちもまた、隣人を許し、隣人を愛するものに変えられていくとの確信が与えられるのです。
祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様。 私たちは、御子の御降誕を多くの方たちとともに祝いました。祝福された時を過ごすことができました。しかし、改めて思うのです。主イエスは大いなる力を持って、私たちの所に来られたのではありません。一人の幼子として、しかも、歴史的にはローマの支配という中に、来られたのです。私たちを救うために、何よりも主自らが謙遜に歩まれたことを思います。私たちは愛すること、人を許すこに疎く、自らの怒りを爆発させることは簡単に行ってしまいます。 しかし、自らの罪の姿に気づくとき、うなだれるのではなく、心からあなたの前に悔い改め、そのような私のために主が来られたことを固く信じさせてください。私が隣人を愛する以上に主がその隣人を愛され、私が隣人を許すことができないときも、主がその人を赦してくださっていることを信じさせてください。主イエスを仰ぎ、信じて歩むときに、私たちの歩みも変えられていくのだと言うことを確信させてください。
主イエス・キリストのみ名により祈り願います。アーメン
(楠原彰子:2004年12月26日主日礼拝説教より 『ペレの家出』の引用箇所はドイツ語訳(Pelle zieht aus und andere Weihnachtsgeschichten: Oetinger Verlag)からの私訳)

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2004/12/24

闇に輝く光

旧約聖書イザヤ書第8章23節から9章1節までの御言葉をお聞き下さい。

今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。 
先に ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 
後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた 
異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見 
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
 つづいてイザヤ書第9章5節。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 
権威が彼の肩にある。 
その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。

 「闇の中を歩む民」とはわたしたちの事であると言われます。闇とは何でしょうか。闇とは光がないということです。闇とは光のない暗闇のことなのです。基本的な意味があると言います。闇とは、わたしたちが知る光のない闇のことです。暗いのです。恐怖を抱かせるのです。そしてまた次のような意味もあるのです。闇とは、わたしたちが何かしようとする時、わたしたちの前途の見通しに対してしょうがいになるもの、妨げになるものであるというのです。闇とはわたしたちに迫る危険であり、わたしたちそれぞれが心に抱く恐怖であると言います。わたしたちにとっての闇があるでしょうか。それは恐ろしいものであるかもしれません。それは避けて通りたいものであるかもしれません。
 クリスマスの喜びを語るのに、なぜ闇について語られなければならないのでしょうか。
いやまずだいたいどうしてわたしたちは礼拝堂を真っ暗にしているのでしょうか。昔の人たちは、特にヨーロッパに住む人々は、長く暗い夜を経験しました。光がないのです。ですから光を待ち望むのです。1年で一番夜の長い時なのです。暗闇の中のろうそくの、光の祭りなのです。礼拝堂を暗くして、燭火礼拝をする。そのようなクリスマスは、明らかに光をこい求める伝統の中にあるのです。
 しかしキリストの誕生を祝うわたしたちの礼拝においても闇について語られます。クリスマスには闇が語られて良いのです。尊敬すべき多くの説教者たちが、クリスマスの礼拝で、わたしたちの闇について語っています。わたしたちの不安です。「わたしたちに襲ってくる出来事が危険をもたらし、滅びをもたらすのではないかという不安...死をもたらす病がひっそりと近づいているのではないかという不安...墜落した航空機の中にいた...人びとが...毎分、毎秒、感じたに違いない...不安、地震が次々と襲ったときに...人々が感じた不安(カール・バルト/「光の降誕祭-20世紀クリスマス名説教集 R.ランダウ編、加藤常昭訳、教文館 1995年229頁)。」「自分で理解できない時代に生きている...あまりにも多くの闇を抱え込んでいる時代に生きている(トゥルンアイゼン 同123頁)。」戦争という闇。事件や事故という闇。社会の乱れという闇。わたしの人生の悩みという闇。病気という闇。仕事の闇。人間関係の闇。
 なぜ闇が語られるのか。それはその闇が打ち破られるからです。なぜ闇を語り、わたしたちの不安が語られるのか。それは光が差し。わたしたちの不安が取り去られるからです。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

 預言者イザヤのこの言葉の中に、わたしたちの信仰の先輩たちは、キリストの誕生を読み取ったのです。わたしたちは「闇の中を歩む民」かもしれない。しかし闇の中を歩くわたしたちは、「大いなる光」を見るに違いない。死の陰に包まれた地に住んでいるのではないかと思うわたしたちに、必ず光が輝くのだと。
 ただいま読みました、新約聖書ルカによる福音書2章の羊飼いたちの物語は夜という暗闇の時間を語っていました。羊飼いたちは野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていたのです。何か特別なことをしていたわけではないのです。何かだいそれたことを望んでいたいた人々でもないのです。ただ静かな夜、暗い夜、寂しい夜に、いつものように静かに仲間たちと羊の番をしていたのです。羊飼いたちが何を思っていたかはわかりません。寝ずの番をするという、日々のつらい仕事のことを思っていたかも知れません。あるいは家族のこと、日々の家族の生活のことを思いやっていたかも知れません。
 しかしそこに突然光が差すのです。主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたと言います。ほんの今さっきまで、暗闇であった、しかしそこに目をくらませるような光が差したのです。人間がすることと言えばただ一つです。恐れるしかない。自分たちが暗闇の中でいつものように過ごしていたと思っていたのに、突然暗闇でなくなってしまった。恐れるしかないのです。
 しかし声がする。力強い天使の声が響いたのです。「恐れるな!」と。闇ではないかと思える世界だと言いました。わたしたちの生活の中で、生きていく社会の中で、闇を感じたことのない人は、みなさんの中でもいないのではないかと思います。戦争という闇。事件や事故という闇。社会の乱れという闇。わたしの人生の悩みという闇。病気という闇。仕事の闇。人間関係の闇。わたしたちが生きていく中で、闇など存在したことはないと自信をもって声を大にして言う事ができる方などおられないのではないかと思うのです。
 天からの声です。わたしたちのはるかに高い所から下ってくる声です。闇の中に光が輝く。しかも「恐れるな」と言うのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」しかも喜びが来る。それは、どこそこに来る、誰彼に来るというのではない。民全体、わたしたち全体に、誰一人としてもれることがない。誰一人としてかける事がない、喜びが、それも大きな喜びが来るというのです。天からの喜びです。人間がこの世で生み出そうとするような、少しでも手に入れようとやっきになっているような、喜びや楽しみではないのです。わたしたちをはるかに超えた所から、大きな喜びがやってくる。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。(ルカによる福音書第2章10-12節)」
 闇の中に光が輝く。しかもあなた方の中に、この地上に住むわたしたちの中に、この世の中を生きているわたしたちの中に、闇の中に生きているのではないかと思わないではいられないわたしたちの中に、光が輝く。それはわたしたちのために救い主がお生まれになったことである。この方こそわたしたちの主キリストである。わたしたちが、わたしたちのすべてをおあずけしてよいお方である。わたしたちの人生を、わたしたちの全生涯をおまかせしてよいお方である。その方が今お生まれになった。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」が、そのお方である。
天からの声がさらに加わります。わたしたちのはるかに高い所から、さらに声が加わる。しかもそれは神様を賛美する声であったのです。それはわたしたち人間が賛美する声ではないのです。はるかに大きな、確かな賛美、それは天からの賛美の声、神様をほめたたえる声なのです。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
いと高きところ、はるかに高いところ、神様のおられる所では、神様に栄光があるように。
地には平和があるように。戦い、争いの中。そのような中に平和があるようにと声が響くのです。しかも他でもない、わたしたちの中に平和があるようにと天から賛美の声がするのです。天使たちは去っていきます。ふたたびはるかに高い所、神様のもとへと去っていきました。羊飼いたちは話し合うのです。
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか(ルカによる福音書第2章15節)」
天使たちの言葉の通り、羊飼いたちは確かに乳飲み子を見つけ出しました。マリヤとヨセフのそばに、飼い葉桶に寝かされていたのです。天使が告げた言葉を羊飼いたちから聞かされた人々はみな不思議に思ったのです。ただマリアだけはすべてを心に留めた。羊飼いたちはすべて天使の話の通りだったので、神様をあがめ、賛美しながら帰って行ったのでした。
 クリスマスを告げる有名な詩があります。羊飼いたちの心になって、お生まれになったキリストを拝みに行こうといううたです。

行こう キリストを拝もう まったき心を このお方に 向けよう 歌おう 喜びに満ちて みな 耳を傾けよ 愛する キリストの民よ

罪も 地獄も 悩むがよい
死も 悪魔も 恥じるがよい
われらは、われらの救いを得た
すべての悩みを投げ捨てよ

見よ 神がお与え下さったもの
そのひとり子 永遠の生命のために
このお方が われらを 高く上げてくださる
悲しみの中から 高き天の喜びへと
(Kommt und last uns Christum ehren パウル・ゲルハルト)

 わたしたちはそこにキリストを見いだすのです。闇の中で、悩みの中で、神様から離れていることを感じるものたちがいます。この世の闇を照らし出してしまう光のことを知らず、神様などいないと言う者もいます。しかしここにいらっしゃるのです。闇の中を歩き続けているように思われても、闇の中に飲み込まれてしまうのではないかと思われても、わたしたちの救い主キリストがおられる。わたしたちはひとりではないのです。あなたは捨てられているということはあり得ない。主イエスはあなたのそばにおられるのです。
お祈りします。
 天にいらっしゃいますわたしたちの父である神様。
 今、わたしたちは、こうしてあなたの前に集まり、御子のお生まれになる日を祝うことができますことを心から感謝いたします。神様、あなたは、わたしたちに救い主を生まれさせて下さいました。すべての民に、大いなる喜びに出会わせてくださいました。わたしたちは祈り願います。神様のお名前に、栄光を与えて下さい。この世に、平安を与えて下さい。この平安は、あなただけがお与えになることができるものなのです。平安はわたしたちの心の中から生まれでてくるべきものです。しかし、わたしたちは、この地上において、まったくの無力、まったくのおろかさの中に立ちつくしているのです。わたしたちはひとつの心となってあなたをあおぎのぞみ、あなたの、助けを待っています。あなたはわたしたちに、みことばをお与えになり、聖なる霊を与えようとしていてくださいます。そしてわたしたちの心は患難の中にあっても甦り、よろこぶのです。わたしたちには、この世に生きなければならぬ限り、自分自身のこと、自分自身が生きるための患難があるのです。あなたが助けていてくださることを、どこにいても気づかせてください。あなたが力を与えていてくださり、わたしたちはそれに身をゆだねることができるのだということに気づかせてください。日ごとに、年ごとに、常に新しく、どんな状況になろうと、あなたは助けを示してくださいます。そのことのゆえにわたしたちは感謝し、み名を崇めるのです。わたしたちが、あなたの御心にかなうものとなるようにしてください。地上にあって、苦しみ、耐え忍ばなければならないものの中で、しっかりとした心を持って、神様からいつも見守られているためには、わたしたちには、そのことが必要なのです。
 神様、主イエス・キリストをこの世に来たらせ、人間の救いの道を開いて下さる神様。
どうぞ、このクリスマスの喜びをわたしたちが分かち合い、喜びの中、わたしたちが、教会にあって、ひとつの交わりの中にあって、その歩みを堅くしていくことができますように。
 クリスマスの喜びの日々を過ごしている私たちの中で、新たに信仰を言い表そうとするもの、洗礼を受けようとするものは、まだこの教会に与えられておりません。しかしどうかわたしたちに祈り求める力を与えて下さい。ここに集いますすべての教会員が、ここに新たな決意をもって、歩みをはじめることができますようにお導き下さい。
 クリスマスの礼拝、この燭火礼拝に、小さな子ども達をあなたが祝福し招いて下さったことを感謝します。どうぞその健康と歩みとを健やかにお保ち下さい。
 ここを思いつつも、集うことのできない方々を思います。耐えられない痛みの中にある方、言い様のない不安の中にある方。あなたはすべてご存じです。どうか、あなたが、
その方たちを慰め、お支えください。
どうか、わたしたち、すべてが、この日、喜びの言葉を分かち合う事ができますように。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた(イザヤ書第9章5節)。」「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネによる福音書第3章16節)。」と。

この祈りを主イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。 アーメン。
(楠原博行:2004年12月24日クリスマス燭火礼拝説教より)

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2004/12/22

沈黙から賛歌へ -ルカによる福音書のクリスマス-

 ルカによる福音書はイエス・キリストの誕生の物語から始まります。クリスマスといえば、「喜びの歌声」「楽しい雰囲気」「聖なる光」と言ったものが思い浮かびます。しかし、ルカが伝える物語の始まりは、天のみ使いが人の口を封じる出来事です。
 ここに一組の夫婦がいました。祭司ザカリアと妻エリサベトです。二人は神様の御前に正しい人でありましたが、子供がなかったのです。ザカリアが、祭司の職によって聖所で香をたいているときに、天使ガブリエルが現れました。ガブリエルはザカリアに子が授かること、その子が主に先立っていくものであることを伝えます。み使いの言葉に対してザカリアは問うのです。

「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」(1:18)

人の目には不可能なこと、信じられないことに対して、しるしを求めたのです。御言葉を信じない人間の姿がここに記されています。ガブリエルはつぶやく唇を封じました。
 次に天使が訪ねたのは、マリアです。マリアに対するガブリエルの言葉は、
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(1:28)

という祝福の言葉から始まります。そして、マリアも天使に問うのです。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(1:34)
マリアもまた、信じることができなかったのです。しかし、神の力がマリアに対して働くのだということを知り、彼女は御言葉がその身になるようにと受け入れたのでした。
 マリアの受胎告知は、古くから多くの宗教画家たちの題材となりました。様々な画家たちの作品を見ていると、おもしろいことに気づくのです。天に描かれた父なる神から、鳩がマリアに向かって降りてくる様子が描かれています。マリアに聖霊が降ることを示しています。また、背景にアダムとエパの失楽園の様子が描かれていたり、遠くの丘に三本の十字架が書かれているものもあります。受胎告知が人間の罪の世界のただ中で行われ、既に十字架の死が定められていることを画家たちは描き出しているのです。
 み使いの言葉を信じられない人間、つぶやく言葉しか発しない唇は神の力によって封じられました。が、物語はここで終わりにはなりません。マリアはエリサベトを訪問します。同じように御言葉を身に受けたエリサベトを訪ねたのです。ここから物語は一気に変わります。
 マリアの挨拶を受けたエリサベトは御霊に満たされて声高らかに挨拶をします。本当に大きな声で叫ぶように、エリサベトは神を讃えて挨拶をしたのです。この言葉に響き返すように、マリアの賛歌が記されています。ここでは徹底して神を褒め称える言葉が記されています。取るに足りない者を用いてくださったということに対して、マリア自身が自分を誇っているのではありません。無きに等しい者の唇にも、神が讃美の言葉を備えてくださったことを讃えているのです。
 讃美の歌声はどんどん大きく響いていきます。続く洗礼者ヨハネの誕生の記事の中では、ザカリアが天使が伝えたとおりの名を子に付けたとたんに封じられていた口が解かれ、神から託された預言の言葉を語り出します。さらに、賛歌は野の羊飼いに現れた天使の大群の合唱となり、イエスの神殿奉献のシメオンの賛歌へと続くのです。そして、宗教画家たちが受胎告知に三本の十字架を描いたように、天使の合唱はイエスのエルサレム入城の時に群衆の歓呼として響くのです。
 マリアの賛歌、ザカリアの預言、天使の合唱、シメオンの賛歌。いずれも、古い時代から現代でもなお礼拝の中で、祈りの集いの中で歌われているものです。クリスマスを祝う季節に私たちも、つぶやく唇を閉じて神様の前にひれ伏し、「神を讃える言葉を与えてください」と祈り求めたいと思うのです。
(聖書を読む会の聖書研究より)

osirase.gif聖書を読む会は毎週第2金曜日10時より、教会にて行っています。ルカによる福音書を少しずつ読み進めています。聖書を読むのは初めてという方、もう一度じっくり読んでみたいと思う方。一緒に読んでいきましょう。
木更津教会のクリスマスはこちらへbo_gr_a1w_click.gif

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2004/12/19

主の日 (ハイデルベルク信仰問答第38主日 問103)

第4戒「安息日をおぼえて、これを聖くすべし。」
コロサイの信徒への手紙第3章16節
 主の日、日曜日を迎える。しかも教会に集い、礼拝を献げる。みなさんはどのような礼拝生活を送っておられるでしょうか。 今日、主の日に礼拝を守るみなさんは、さまざまであると思うのです。毎週かかさず主日には木更津教会に集い礼拝を守っておられる方。日々の仕事の中、やりくりをして礼拝に努めて出ておられる方。日曜日に勤めがあり、休める日をつくり、備えをして教会の礼拝に出ようと努力されている方。さまざまな事情から定期的に通う事が困難で、特別な日をもうけて礼拝に出席されておられる方。しかしわたしたちの教会への思い。木更津教会の礼拝に集う思いはひとつであるはずなのです。 主よ、あなたのいます家 あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います(詩編第26編8節)。 ここでは、わたしたちが礼拝する心を言っているのです。神様がお住みになる所、神様の栄光がおかれるところを、わたしたちは心から愛し求めているというのです。  しかしわたしたちが神様を愛する事は、わたしたちがそれぞれの生活の中で、別々に行う事。それぞれがバラバラに神様を慕っているということではありません。使徒パウロはコロサイの信徒への手紙で、次のように勧めております。 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい(コロサイの信徒への手紙第3章16節)。 パウロがわたしたちに求めるのは礼拝の生活、教会に集い、礼拝を守り、神様を求める生活です。それはわたしたちが一人ひとり勝手に神様を崇めているだけではいけないのです。キリストの言葉がわたしたちの内に豊かに宿るということは別々ではいけない。私たちがお互いに「知恵を尽くして」教え合わなければならない。いや相互に心から相手を思いやるばかりではない。詩編を歌い。讃美歌を歌い。感謝して心から神様をほめたたえなければならないというのです。  何週間かにわたって学んでおります「十戒」、この4つ目の戒め「安息日をおぼえて、これを聖くすべし」について、ハイデルベルク信仰問答は次のように教えています。 問
103 神様は、第四戒において何を求めておられますか。 答 神様は次のことを求めておられます。説教の職務と信仰の教育とが保ち続けられて、わたしが、とりわけ主日においては熱心に、教会の集会に集うこと。  そこで神様の御言葉を学び、聖礼典を守り、公に、主をお呼びして、キリスト教信仰による献金を捧げること。  さらに、わたしの生涯のすべての日において、わたしの悪い行いを休み、主が、そのみ霊によって、わたしたちの内に働いて下さるようにすること。  そうして、この生涯において、もう既に、永遠の安息日を始めることを、神様は求めておられるのです。
 有名な「十戒」という映画の中で知っている、あの神様の指で、石の板に書き付けられた4つめの戒めの中で、これらの事が求められているというのです。神様の御言葉の説教が告げられて、キリスト教の信仰を教え、学ぶことが続けられなければならない。そして日曜日には熱心に教会の集会に集わなければならない。そして安息日を守るということは、それだけにはとどまらない。わたしの生涯のすべての日においてわたしの悪い行いを休むこと。主のみ霊が、わたしたちの内に働いて下さるようにすること。そうしてこの生涯において、もう既に永遠の安息日を始めることを神様は求めておられるというのです。
 わたしの人生、健康である時もあり、病気である時もある。死を目の前にしているときさえあるはずだ。しかしわたしの人生が、もうわたしのものではなくて、主イエスのものであると信じる時、信頼し、確信し、勇気を持って、助けを、守りを、救いを信じて、生きていく事ができる。死んでいく事ができる。それが木更津教会における礼拝生活の、この4月の出発点でありました。しかしそのような信仰の中に生きるために、わたしたちは知らなければならなかったのです。わたしたちが、いかに神様がお命じになる生活とかけ離れているかを。それは、この4つ目の戒めを見るだけで十分なのです。神様は人生の一瞬たりともこれをおろそかにしてはならないとおっしゃります。わたしたちは、まあいいじゃないかと言って、神様を脇に置くということをしかねないのです。本音と建て前。現実の世界に生きているのだから仕方がないと言うことが、絶対にあるのです。現実の世界に生きるわたしたちは、神様の前に胸を張って立つ事ができないのです。もう神様の前では倒れ伏すしかないのです。
しかし、そのようなわたしたちにこそ神様はそのひとり子を与えて下さったのです。神様を信じている。神様に救いを求めている。しかし神様の前で顔をふせるわたしたち。神様に顔をそむけるわたしたち。主イエスはどのような姿をもってこられたでしょうか。たった二人っきりで孤独に夜を過ごす、ヨセフとマリア。日中は人々でにぎわっていました。二人には泊まるところさえなかったのです。しかし大勢の人々は今は眠ってい る。寂しい馬小屋の中で、幼子イエスは母親マリアに抱かれて布にくるまれています。
そして主イエスの誕生が知らされたのは、人里から離れ、寝ずの番をして、羊たちを守っているもっとも小さな人々、貧しい羊飼いたちが最初であったのです。「今日あなたがたのたえに救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
 はるかに高い所におられてここまで来いと命じておられるのではないのです。わたしたちに神様がそのひとり子をお与え下さったということは、わたしたちが神様から離れてしまってはいけないということです。人生の歩みの中でわたしたちの信仰が弱くなってしまうことがあるに違いない。神様が遠く感じられる事があるに違いない。しかしそういうわたしたちを、神様は放ってはおかれないのです。神様の方から来られるのです。神様の方から、この世の生活にあくせくするわたしたちを、ご自分の方に呼び戻そうとされているのです。クリスマスの光は、わたしたちが心の中に思う、この世の暗さ、この世の醜さ、この世のはかなさという、心の中に救っている暗闇のところに届き、これを照らし出してしまうのです。
「あなたは神様を求めて必死になる必要はない。あなたは神様が自分から遠くにあると思う事は許されないのです...神様はおられるのです。布にくるまれ、飼い葉桶に寝ておられる方として、あなたに近くいてくださるのです。すべてのあなたの悩みが、この方に無縁なものではありません。むしろそれをあなたと共に背負い抜くために...ご自身をお与えくださったのです!...このことを信仰において知っている者は、たとえ獄中にあろうとも、死に臨んでいようとも、捨てられてはいません。(マルティン・ニーメラー/「光の降誕祭」加藤常昭訳157頁より)」
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイによる福音書 第11章28節)」の言葉に招かれて、今日わたしたちは聖餐を守ろうとしています。このお方は、主イエスはわたしたちのもとに来て下さった。わたしたちのために十字架にかかり、わたしたちの重荷から休ませてあげようとおっしゃるのです。  礼拝後に、わたしたちはご一緒に、みなで持ち寄った食事でクリスマスのお祝いをし、そして聖書の御言葉をご一緒に読み、讃美歌を歌う、小さなページェントをしたいと思うのです。そしてその最後に、今日、木更津教会に集いますわたしたち全員で、ヨハネによる福音書第3章16節の御言葉を声をそろえて読みたいと思うのです。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである (ヨハネによる福音書第3章16節)。
(楠原博行:2004年12月19日クリスマス聖餐礼拝説教より)

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2004/12/12

真実を語る(ハイデルベルク信仰問答第36,37主日)

「汝の神、主の名をみだりに口にあぐべからず。」これが今日わたしたちに与えられた、主なる神様の戒め、十戒の中の第三戒です。主なる神様の名前をみだりに唱えてはならないとはいったいどういう意味なのでしょうか。

問99 神様は、第三戒において、何を求めておられますか。 答 神様は次のことを求めておられます。 わたしたちが、呪いや偽りの誓いによってだけではなく、不必要な誓いに よって、神様のお名前を、冒涜したり、乱用したりしないこと。  また、わたしたちが、沈黙や傍観によって、このようなおそろしい罪の共犯にならないこと。  要するに、わたしたちは、神様の聖なるお名前を、おそれと深い敬意をもってしか使用してはならないのです。その結果、わたしたちは、神様を正しく知り、呼び、わたしたちのすべての言葉とわざをつくして、讃えるのです。

 「主の名をみだりに唱えてはならない」というとき、わたしたちはこれだけのことを、自らに戒めなければならないというのです。それは「不必要な誓いによって、神様のお名前を、冒涜したり、乱用したりしないこと」であると言います。神様のお名前、主なる神様のお名前を呼ぶ時、わたしたちはわきまえなければならないのです。旧約聖書レビ記の19章12節も同じ事を禁じています。

わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。
 「主の名をみだりに唱えてはならない」それは主なる神様の名前を軽々しく使ってはならないということです。それはあなたの、わたしたちの神様の名前を汚す事である。わたしはあなたの主である神であると、強く宣言しておられるのです。いかがでしょうか。荘厳な雰囲気を感じるために、信仰とは全く関係なく、礼拝堂が造られて使用される。ヨーロッパの雰囲気を楽しむために、キリストの信仰とは全く関係なく、教会の建物が建てられる。そういう事が日本のあちこちで行われている。実は神様がモーセに与えられた十戒の中の3つ目の戒めで、すでにそのようなことは禁じられているのです。  しかもそのような行為を、わたしたちがしなければ良いと言うわけでもない。沈黙したり、傍観したりすることによっても、「主なる神様の御名をみだりに唱える」という恐ろしい罪の共犯になりうるとさえ、わたしたちの信仰問答書は言っています。  わたしたちは主なる神様のお名前を、「おそれと深い敬意をもってしか」使用してはいけない。そのようにわたしたちは自分自身を戒める。戒めることによって、初めて、わたしたちは神様を正しく知る事ができる。正しく神様を礼拝する事ができる。そうすることによって初めて、わたしたちの全ての言葉と業とをつくして、神様を讃えることができるのです。それは正しい神様の崇め方。正しいわたしたちの礼拝の姿なのです。  今日は新約聖書のエフェソの信徒への手紙第4章の御言葉も与えられております。 エフェソの信徒への手紙の4章は、パウロの勧めから始まるのです。神様から招かれたのであるから、わたしたちはその招きにふさわしく歩かなければならないこと。一切高ぶることなく、柔和であり、寛容であり、愛を持って互いに忍耐するべきであること。主なる神様はお一人であり、キリストの信仰は一つであり、わたしたちが受けた、洗礼もあれやこれやとあるわけではない、ただ一つなのである。だからわたしたちは平和のきずなで結ばれて、霊において一つでなければならないというのです。今日のテキストに先立つ部分は先日すでに読んだところでもあります。
だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。(エフェソの信徒への手紙4章22-24節)

 古い人が歩くのは、間違った欲望に従って歩くことだ。それを脱ぎ捨てよ。「心の底から新たにされて」、新しい人を身に着けなさい。キリストを信ずる者の、キリスト者の歩みには、まず神様がおられる。神様にかたどって造られた新しい人を身に着けること。そして欲望ではなく、真理に従って歩みなさい。それがキリスト者の歩みであるというのです。今日の部分はそれに続くところです。

だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。(エフェソの信徒への手紙4章25-32節)

 マルティン・ルターは説教の中でこう言ったそうです。「新しい人と呼ばれる人は、真実を語る。すなわち然り、然り、否、否である。しかしそんな人はどこにいるのか。大海の中だろう、そこには人は誰もいないだろうから!しかしわたしたちの主なる神はそのようなちゃかしを許されはしない。」
 礼拝ごと、礼拝ごとに、十戒という神様の戒めを聞く。ひとつひとつの戒めを味わう。しかしそれは、わたしたちがどれほど神様が求めておられる事とほど遠いかを知る事でもあると繰り返し申しあげました。すでに引用したことがありまが、同じルターは「十戒は、人間に自分自身で罪を犯していることを知るようにと教えて」いる。そして「自分が罪深く、不義な者であると知るように教えている」のだと言いました。十戒を前にしてわたしたちは決して胸を張ることができないと何度語られたでしょうか。わたしたちには一瞬でも、神様よりも先立つもの、神様よりも大切に思うものがあるというような経験があるはずなのです。今日の戒め、「主の名をみだりに唱えてはならない」においても、わたしたちは本当に、神様の名前を、まあいいではないかと、わたしたちの、わたしたちの側の理由をつけて、いいかげんにしてしまっているようなことは絶対にないと言い切れるのでしょうか。「隣人を愛しなさい」とイエス様がおっしゃるとき、本当にわたしたちは「自分のように」愛することができるのでしょうか。
 昨春のイースターの礼拝でも、実は十戒について語られたのです。よろこばしい、うれしい、イースターおめでとうと声をかわすすばらしいお祝いの日に、なぜ「神の戒め」が長々と語られたのか。しかし、なぜイースターなのか、どうして主は復活されるのか、どうして主が十字架にかかられなければならなかったのか。それはわたしたちの罪のためであった。そして何よりも、神様の戒めが、わたしたちがいかに罪深いか、正しくない者であるかを教えてくれているのです。そしてそのような罪深い、正しくない、不完全な、弱いわたしたちを思う時、そのためにこそ主イエスが十字架につけられ、そこから力強くよみがえられた。そのことを心から喜び、おめでとうとひとりひとりが呼びかけることができるのではないだろうか。
 そしてアドベントにある、来週は4回目のアドベントの主日、日本の教会ではクリスマスを祝う、主の御降誕を祝うと言う時に、わたしたちは再び主の戒めについて聞いている。いやひとつひとつの戒めを、指折り数えて味わっている。わたしたちにとってかけがえのない主イエスが来られる。わたしたちひとりひとりがいかに小さく、弱い、存在であるか。日々の生活の中に戻ってしまえば、またいつものように、神様の戒めから遠ざかってしまう。主イエスが、隣り人を愛しなさいと命じられても、さばきあってしまう。そういうわたしたちです。しかし、神様の戒めにより、ほんとうはわたしたちががみな惨めであると知らされ教えられたら、もうお互いに顔をそむけることなどできないのです。
 町の中を歩くと心さわがされることがあるかもしれない。町の中を歩くと、楽しい、にぎやかなクリスマスがある。しかしいったいそのような飾り付けをしている人のどれほどが、自分のことでなく、かけがえのない主イエスのことを思っているのか。わたしたちの教会ではクリスマスの本当の意味を思いたいのです。クリスマスを待ち望む時に、十字架にかかられる主イエス、わたしたちのためにその貴い血を流される主イエスを思いたいのです。そしてクリスマスを本当に迎えた時、わたしたちはお互いに、わたしたちの救い主がお生まれになったことを心から喜ぶ。それは町の中のどんな飾り付けも、町の中のどんなにぎやかな音楽も、町の中のどんな楽しそうな声も、かき消してしまうような喜びの声になるのです。
 町中の美しく輝く飾り着けをしている中で、いったいどれだけの人が、これだけ重い、これだけかけがえのない主イエスを待ち望む。それこそがアドベント、クリスマスの意味ではないのです。わたしたちが一日一日生きていくために必要なお方、わたしたちに必要なものを、わたしたちの祝福を、すべて与えて下さる方がお生まれになるのです。
 あまり言われない事であると申しあげました、アドベントの季節は、教会の暦の中で、受難節と同じように、昔から断食をする季節であったことを。ヨセフとマリア。この小さな夫婦、泊まるところもなく町の中をさまようことを強いられている。そしてようやく見つけたところは馬小屋であった。そのような中で、そのような暗い、さびしい、しかし静かなところで、わたしたちの主イエスがお生まれになる。輝くような電気の飾り、にぎやかな音楽、あふれるような贅沢な飾り、そのようなものとはまったく無縁なはずなのです。
(楠原博行:2004年12月12日主日礼拝説教より)

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2004/12/05

明けの明星(ハイデルベルク信仰問答第35主日)

ペトロの手紙二第1章16-21節

 今日、わたしたちに与えられていますのは、十戒のふたつめ、第2戒「汝、己れのために、何の偶像をも刻むべからず」です。

問96 神様は、第二戒において、何を求めておられますか。
答 神様は次のことを求めておられます。わたしたちが、どんな方法を用いても、神様を模写しないことを、そして、また、神様が命じられた方法以外の方法では、神様をあがめないことを求めておられるのです。
問97 それでは、人は、どのような画像も、造ってはならないのですか。
答 神様は、どのような方法によっても、模写できないし、模写してはならないのです。被造物は、模写しても、差し支えありません。
 しかし、神様は、崇めるためであったり、それによって、神様を拝むために、画像を造ったり、利用したりすることを禁じておられます。
問98 しかし、画像は、教会の中で、視覚教育用教材として許されているのではありませんか。
答 いいえ、そうではありません。神様は、キリスト教徒が、ものを言わない偶像によってではなく、生きている、神様の言葉の説教によって、教えられることを望んでおられるのです。その神様よりも、わたしたちの方が賢いと思ってはなりません。

 わたしたちは先週からアドベントの時を過ごしております。アドベントとはラテン語で到着することです。何が到着するのか。それはわたしたちの主イエス・キリストが到着する、おいでになることなのです。アドベントに十戒を読み味わう、それは不思議なことでしょうか。いや決してそうではないと思うのです。
 第2戒は「汝、己れのために、何の偶像をも刻むべからず」とわたしたちに命じます。それはわたしたちがわたしたちの神様をあがめるとき、神様が命じられた方法と違うというのです。ではどういうやり方が正しいのか。神様を礼拝するとき、どういうふうにすれば良いと神様は命じておられるのでしょうか。それは問98の中にある通りです。
「ものを言わない偶像によって」では決してない。「生きている、神様の言葉の説教によって」こそわたしたちは教えられる。そして神様をあがめ、礼拝するようになるのです。
 今日わたしたちにあたえられております、新約聖書ペトロの手紙第二の1章16節以下のみことばをご覧いただきたいのです。
わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。
荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。(ペトロの手紙二第1章16-18節)

 「他の者を賢くする」、「知恵を与える」、「教える」という意味の言葉が、ここでは形を変えて「ずる賢く考え出された」、「頭をひねって考え出された」という意味になるのです。そのようにして生み出された「巧みな作り話」、しかし主イエスについての御言葉はそのような「巧みな作り話」ではありえないのです。
 ある牧師は言いました。「『これはわたしの子、これに聞け』と神様ご自身がおおやけに告げられたのです...なのにどうしてわたしたちは一歩前に歩み出すことをためらうのでしょうか。どうしてわたしたちは人間がわれわれを説き伏せようとすることを信じようとするのでしょうか、そのような外への一歩が、無への、滅びへの、破滅への一歩であるのに。(H. J.イーヴァント)」神様ご自身がわたしたちの主イエスのことを愛する御子であると告げられた。わたしたちにはこの言葉だけで十分なのです。人間的な思いにあっては、魅力的な、美しい、楽しそうな言葉。いや言葉だけにはとどまりません。実際に楽しい、うれしい気持ちを呼び起こさせるものなら、なんだってあり得るのです。「雰囲気」というのも重んじられます。リラックスさせる、いやす雰囲気というのが、気持ちいいのです。今その瞬間においては、とてつもなく大切に感じられるのです。しかし「雰囲気」は「雰囲気」です。神様ご自身が語られる。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」との言葉の前では吹き飛んでしまうはずなのです。
 正しい礼拝、正しく神様をあがめるということが、「汝、己れのために、何の偶像をも刻むべからず」という戒めの根っこにあるのならば、魅力的な、楽しい言葉にひかれること、楽しい雰囲気に飲まれることも、十戒の中のこの戒めが禁じている事柄に通じるものではないでしょうか。しかしわたしたちのまわりには確かにそのようなものに満ちあふれてもいるのです。聖書は「暗い所」と記しました。そこに輝く光がある。それは確かな預言の言葉である。信仰問答書が教えるように「生きている、神様の言葉の説教」がある。それを「暗い所に輝くともし火」とせよというのです。

こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。(ペトロの手紙二第1章19-21節)

 わたしたちを教えることばである聖書の御言葉が、またとても美しい言葉であることはわたしたちの心をときめかせます。「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」
聖書が記す「暗い所」、それはわたしたちの世界です。しかし夜がかならず明ける。そして明けの明星がわたしたちの心の中に昇ると約束するのです。「明けの明星」とは主イエスのことです。言葉を変えていますが、ヨハネ黙示録の最後のところで主イエスはわたしは「輝く明けの明星」であるとおっしゃています。待ち望む人々の姿があるのです。主イエスを待ち望む。それはアドベントを過ごすわたしたちの、主イエスがはじめてこの世にいらっしゃるのを待ち望むだけの意味ではありません。主イエスが十字架にかかり、よみがえられ、天に昇られた後、主が再び来られるのを待ち望んでいるのです。「アドベントの中に生きる教会」とも呼ばれるのです。
 別の意味のアドベント、つまり主イエスの御降誕を祝う、クリスマスの前の4週間のアドベントの時、わたしたちは心を静めてその時を待ち望みましょうと申しあげました。それはあまりにも、この世の、このアドベントの過ごし方が、本当の意味のアドベントでないからです。美しく飾り、楽しく歌い、おいしく食べる。それだけでは本当の意味のクリスマスを迎える姿ではないからです。しかしわたしたちがもうひとつのアドベント、わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるのを待ち望む教会である事を考え合わせますとなおさらなのです。この世は暗いかも知れない。この世は悩みに満ちているかも知れない。聖書も「暗い所」と言っている。しかしわたしたちにはその「暗い所に輝くともし火」としての御言葉がある。約束の言葉がある。それはわたしたちの暗い世界に明けの明星が昇るということです。主イエスが来られた。それをクリスマス前のアドベントの時に心を静めて待ち望む。その望みは、その喜びはクリスマスを過ぎても通り過ぎないのです。クリスマスの飾り付けを急いで取り除き、次はお正月の飾りをと、急いでしめ縄などに付け替える。お祭りは終わった。今度は伝統的な日本の正月を、などという虚しいことにはならないのです。 
 第2戒「汝、己れのために、何の偶像をも刻むべからず」が命じています、正しい神様の礼拝は重要です。それは決して過ぎ去らない。それは決して、お祭りがおわったような、もの寂しさ、むなしさをもたらす事はあり得ないからです。わたしたちの手で作った物を祝うのではありません。わたしたちの手で作った物で楽しむのではありません。わたしたちには「暗い所に輝くともし火」が掲げられいる。わたしたちにはかならず「明けの明星」が、しかもわたしたちの心の中に昇る。かかげられたアドベントの星を見あげて、本当のクリスマスを待ち望みたいのです。聖書の御言葉を聞いて、本当のアドベントを待ち望みたいのです。
(楠原博行:2004年12月5日主日礼拝説教より)

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