「愛の服従」(ハイデルベルク信仰問答 問104)
エフェソの信徒への手紙 第6章1-4節第5戒は「あなたの父母を敬え」です。当たり前の事だと、多くの方が思うでしょう。何もキリスト教に限って、特別にいうことではないかもしれません。自分の親を大切にする事、あるいは親族の年長者を敬うことは当然のこととして私たちは考えていると思います。 そこで、ハイデルベルク信仰問答の言葉に目を向けてみたいと思うのです。
問104 神様は第5戒において、何を求めておられますか。 答 わたしは、わたしの父、わたしの母、そして、わたしの上に立つすべての者に対して、一切の栄誉、愛、忠実を示すこと、そして、すべての良い教えと罰とを従順に受け入れ、また彼らの弱さ、過ちに対しても寛大であることを求めておられるのです。 なぜなら、神様は、わたしたちを、彼らの手を通して、支配することを望んでおられるからです。ハイデルベルク信仰問答 問104の言葉は、私たちが敬うべきものは、私たちの両親ばかりか「わたしの上に立つすべての者に対して」敬意を払うことを求めています。ここまで来ると、私たちの心の隅で一つの疑問が持ち上がってくると思うのです。
神様が私たちをご支配なさることは理解できるのだが、なぜ直接ではなく目上の者の手を通してなのか。自分に横暴をふるう上司だっているし、両親といえども私たちと同じ人間だ、絶対に正しいとは言えないし、従えないこともあるじゃないか。「彼らの弱さ、過ちに対しても寛大であることを求めておられる」とあるけれども、本当にそうか。キリスト教の信仰を持たない両親や目上の者に対しても、敬意を払って従わなくてはならないのか。考えてみれば、ハイデルベルク信仰問答はキリスト教国である外国で編まれたものであって、キリスト者が人口の1%に満たない日本ではあてはまらないのではないか。
もし、私たちの親子関係、あるいは社会の人間関係を単純に力関係で推し量るならば、この疑問に対する答を見つけることはできないでしょう。ただの力関係で推し量るのではなく、信仰の目でこの問を問い直すことか求められていると思うのです。
まず第一に、私たちはこの戒めから始まる第5戒から第10戒がが2枚目の板に書かれていることを心に留めたいと思うのです。それは、単に1枚、2枚ということではないのです。1枚目の板が先にあり、2枚目がそれに続いているのです。このことはマタイによる福音書の中で、主イエスが神の律法を次のように要約して教えられたと、記されていることも対応するのです。
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40)神様との関係がまず第1の掟であり、隣人との関係がそれに続いて記されています。私たちの隣人との関係は、神様と私たちの関係のもとにあるということです。信仰の目で十戒を問い直すということは、神様との関係の中で、私たちの隣人との関係を問い直すことである、といってもよいでありましょう。
今日の主の日に与えられました御言葉は、エフェソの信徒への手紙 第6章1-4節です。ここでは、子供たちに対して、「親に従うように」と教えているのですが、5章21節から6章9節にかけて、この手紙の著者は妻と夫、子と親、奴隷と主人の3つの関係について記しています。
まず、妻と夫との関係です。5章21節から33節に記されている部分です。この部分は教会では結婚式の中で、妻に対する教えとして読まれる箇所です。しかし、おもしろいことにこの箇所は古い時代においては夫に対する教えとして結婚式の中で読まれていました。手紙の著者は夫と妻の関係を、キリストと教会との関係になぞらえて、この箇所で語っています。
「また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(24-25節)ここからだけでも、妻と夫との関係が力関係のうちに置かれていないことが分かります。「教会がキリストに仕えるように」(24節)「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように」(25節)「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(21節)と教えているのです。
次に、子と親との関係が記されます。私たちに今日の御言葉として与えられている部分です。この勧告の言葉も、親と子の力関係を記しているのではありません。子供たちに対しては「主に結ばれている者として両親に従いなさい。」と語ります。また、親に対しても「主がしつけ諭されるように、育てなさい。」と語ります。親と子という最も親密な関係に置いても、お互いが「主に結ばれている者として」あるということをまず覚えることを求めているのです。
最後に、奴隷と主人の関係が5-9節に記されています。奴隷と主人といえば、その力関係は歴然としています。しかし、ここでも、奴隷に対しては「キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。」(5節)と勧め、主人たちに対しても「同じように奴隷を扱いなさい。」(9節)と求めているのです。それは「彼ら(奴隷たち)にもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらない」からだというのです。
人間社会には、明らかに上下関係があります。従うものと従えるものの関係があるのです。それを「神様は人を分け隔てなさらないのだから」と人間社会の上下関係を無意味なものとして退けるのではないのです。「神様は、わたしたちを、彼らの手を通して、支配することを望んでおられる」とハイデルベルク信仰問答に記されていましたが、夫婦関係にしても親子関係にしても、社会生活の上下関係は神様がお定めになったことと理解するというのです。
もちろん、このことは無条件の服従を意味してはいません。神様を誹ること、侮るようなこと、絶対に従い得ないことには「否」をいわざるを得ないでしょう。宗教改革者のカルヴァンが著した「ジュネーブ教会信仰問答」で、第5戒を扱っている中「神がお与えになった場合の他は、父も、王も、その他すべての上の人も、権威がないからであります。」(戸山八郎訳)と記しています。つまり、神様が定められたのでなければ、父であるということも、王であるということも、どうのような地位も権威を持たないというのです。しかし、私たちは慎重でありたいと思うのです。絶対に従い得ないことには「否」をいわざるを得ないとしても、やはり同時に「彼らの弱さ、過ちに対しても寛大であること」が求められていると思うのです。なぜならば、私たちの主イエス・キリストは、すべての人を救うために来られたからです。いまは従い得ない上の人も神様の前に立ち帰る事を、主イエスご自身が忍耐して待っておられるからです。そのような人の命令に従い得ないとしても、私たちがその人を裁いたり、呪ったり、することを主は望んではおられないからです。
また、神様が目上の者を通して私たちを支配されるということは、目上の者が思いのままに振る舞って良いということを意味していません。神様に委ねられたものを神が私たちにしてくださったように、養い導く義務を負っているということです。
ここにいる方の中で、いままで一度も両親、目上の親族から怒られたことのない人はいないと思います。反対に、親の立場から、目上の者の立場から、子供たちを叱ったことのない人もいないと思います。叱られた経験、叱った経験を思い出してみると、叱られた経験があるいは叱った経験が100%、神様の愛に基づいた諭しであったでしょうか。 「お母さんはいつも怒ってばかりいる。」多くの子供たちが口をそろえていうのです。「それは、あなたがお母さんとの約束を守らなかったから。」母親にも叱る理由はあるのです。子供自身は、いけないことをして悪かった事はちゃんと分かっているのです。それでもなお、「お母さんはいつも怒ってばかりいる。」というのは、怒る母の顔が教え諭すのではなく、怒りに燃えているからかもしれません。親としてこどもをしつけるのは当然といいながら、感情にまかせて怒りを爆発させる姿にはっとさせられる。誰もが経験していることだと思うのです。『隣人を自分のように愛しなさい。』の教えに従い得ない罪の姿を知らされる思いをしたことも、誰もが経験していると思うのです。「どんなにしても、あの人だけは許すことができない」そういう思いにとらわれたことも、誰もが経験していると思うのです。
一つの物語を紹介したいと思います。これは、日本基督教団改革長老教会協議会が編纂している「季刊教会」という雑誌の中にも書いたことなのですが、アストリッド・リンドグレーンが書いた「ペレの家出」という話です。リンドグレーンはスウェーデンの児童文学者で、「長靴下のピッピ」「小さなロッタちゃん」「ロッタちゃんのひっこし」などの作品で世界的に有名になりました。
「ペレの家出」は小さな男の子ペレが、お父さんの万年筆をいたずらしたとの嫌疑をかけられるところから始まります。確かにペレはいたずらっ子で、お父さんの万年筆を隠してしまったことは何回もあるのですが、その日は万年筆を隠したりはしていませんでした。お父さんが別の上着のポケットに刺してタンスに入れたのを忘れていただけなのです。なのに、お父さんもお母さんもペレがしたものと思ってきつく問いただしたものですから、ペレは怒って家を出ることにしました。大きな船に乗ってアフリカに行こう。そこでライオンに食べられるんだ。お父さんもお母さんもきっと悲しむだろう。しかし、アフリカは遠すぎます。ペレは庭の隅にある小屋に家出をすることにしました。そこからならば、お父さんやお母さんの悲しむ様子を十分に見ることもできるからです。
「お父さんもお母さんも、時には間違ったことをするわ。でも、あなたのことをどんなにか愛しているのよ。」ペレを引き留めるお母さんに、「お父さんが謝らないから、万年筆を無くしたんだよ。」といい、怒りの一瞥をくれると庭の小屋へ出て行きます。しかし、時はクリスマス。ペレはいろいろと考えた末に、郵便屋さんが来たらペレが引っ越したことを伝えてほしいとママに言いに行くのです。そこでお母さんは言うのです。「ペレのいないクリスマス、ペレなしでクリスマスツリー、ペレなしのサンタクロース。」「それなら、別の子供を産めばいいじゃないか。」「私たちにはペレしかいないのよ。あなたを本当に愛しているのよ。イブの夜の間中、お父さんもお母さんも明かりのないクリスマスツリーのそばで泣いて過ごすわ。」この時ペレは、自分のしたことがどんなのひどいことであったかに気づくのです。自分の怒りの感情にまかせて、どんなにかお母さんを悲しませたかに気づくのです。「ごめんなさい」を言ったのはペレのほうからでした。そして、お母さんをぐしょぐしょに濡らすまで、その旨の中で泣いたのです。
物語の終わりは、仕事から戻ったお父さんがいつものようにペレを呼ぶ場面です。「うちのペレはどこだい。」「ここだよ。」そういってペレはお父さんの胸に飛び込んでいくのです。
これは不思議な感じのする物語です。本来ならば、謝らなければならないのは嫌疑をペレにかけたお父さんであるはずです。しかし、父親の謝罪の言葉は記されていません。ペレは、むしろ、嫌疑をかけられたことに対する自分の怒りにまかせて、お母さんを悲しませたことを悔いているのです。そして、最後にいつものようにお父さんの胸の中に飛び込んでいたのは、お父さんのしたことを許しているからでしょう。
子供は親の所有物ではありません。夫婦も同じです。どちらかがもう一方の所有物ではないのです。社会における人間関係も上司が部下を所有しているのではないのです。親子の関係も、夫婦の関係も、社会における人間関係も神様の御心のうちに定められている、主の赦しのまなざしの中にある関係であるのです。
「あなたの父母を敬え」第5戒の言葉を口にするとき、親であっても、子であっても、妻であっても、夫であっても、人を使う側であっても使われる側であっても、私たちは主イエス交わりの中にお互いの人間関係を再確認させられます。それは、しばしば、愛すること許し合うことよりも、裁きあってしまう自らの罪の姿をはっきりと示される事になるかもしれません。しかし、そこでうなだれることはないのです。自らの罪の姿と同時に、私たちは主イエスが、神様の戒めに従い得ないわたしたちの罪を担ってくださっていること、私が許すことのできない隣人も私同様に、主の赦しと救いに招かれていることをみるからです。私にできないことでも、神様にはできる。私たちは主イエスの愛の服従の中に置かれている。その主イエスを信じて祈り求めるときに、私たちもまた、隣人を許し、隣人を愛するものに変えられていくとの確信が与えられるのです。
祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神様。 私たちは、御子の御降誕を多くの方たちとともに祝いました。祝福された時を過ごすことができました。しかし、改めて思うのです。主イエスは大いなる力を持って、私たちの所に来られたのではありません。一人の幼子として、しかも、歴史的にはローマの支配という中に、来られたのです。私たちを救うために、何よりも主自らが謙遜に歩まれたことを思います。私たちは愛すること、人を許すこに疎く、自らの怒りを爆発させることは簡単に行ってしまいます。 しかし、自らの罪の姿に気づくとき、うなだれるのではなく、心からあなたの前に悔い改め、そのような私のために主が来られたことを固く信じさせてください。私が隣人を愛する以上に主がその隣人を愛され、私が隣人を許すことができないときも、主がその人を赦してくださっていることを信じさせてください。主イエスを仰ぎ、信じて歩むときに、私たちの歩みも変えられていくのだと言うことを確信させてください。
主イエス・キリストのみ名により祈り願います。アーメン
(楠原彰子:2004年12月26日主日礼拝説教より 『ペレの家出』の引用箇所はドイツ語訳(Pelle zieht aus und andere Weihnachtsgeschichten: Oetinger Verlag)からの私訳)
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