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2004/08/29

天にましますわれらの父よ【2004年夏期修養会特集】

ルカによる福音書第11章1-13節     楠原博行

 主イエスは祈っておられたのです。そして祈り終えられた。すると弟子の一人がこう願うのです。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。」

そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」(ルカによる福音書11章1-4節)

 主イエスはわたしたちに、祈りの仕方を教えて下さいました。考えてみて下さい。弟子たちの前で、主イエスがひとことひとこと口を開かれるのです。祈りの言葉を、まるで口うつしで与えるかのように教えて下さるのです。そして主イエスはたとえ話を用いて、このように祈りなさいと勧めます。最初のたとえは友人です。パンを3つ貸して下さいと頼むのです。しかし友達だからと言っても与えてはくれません。
「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」(11章8節 )
「しつように頼め」とは「ずうずうしさ」という言葉でもあるのです。それほどの執拗さが、熱心さが聞く者を動かすとまでおっしゃるのです。
「だからあなたがたに言うが。求めなさい。そうすればあなたがたに与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。たたきなさい。そうすれば、開かれる。なぜなら人間でも父は子に良い物を与えることを知っているからである。」(11章9節)
 わたしたちの祈りは誰に向けられるのでしょうか。主イエスがわたしたちにまさに口うつしで与えて下さった主の祈りは、「父よ」という呼びかけではじまるのです。主イエスは、わたしたちの祈りが聞かれるのは、天にいらっしゃいますわたしたちの神様が、わたしたちの父であるからだとおっしゃいます。この部分はとても強い信頼が語られている箇所なのです。「求めなさい」という言葉はもともと祈りの中で求めることであると言われます。人間が人間に対して要求するのではないのです。祈りの中で、「祈り求める」、「神様に祈り求める」、それがここでいう「求めなさい」の言葉の意味なのです。条件などないのです。「与えられる」のだとはっきり語られるのです。それはなぜなのでしょうか。どこからそのような確信が来るのでしょうか。それは父と子であるからなのです。
「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。(11章11-13節)」
この世の人間でも、父親なら自分の子供には良い物を与えるだろう。だから天にいらっしゃる父なる神様が、求める者に良い物をくださる、そうでないはずがないではないかとおっしゃっているのです。
ハイデルベルク信仰問答 問26「わたしは、神、父、全能者、天地の造り主を信じます。」というときには、あなたは何を信じているのですか。答 わたしは次のことを信じているのです。わたしたちの主イエス・キリストの永遠の父が、その御子のゆえに、わたしの神様であり、わたしの父であるということを。神様は、天と地と、その中にあるすべてのものを、何もないところから造られました。そしてこれを、神様の永遠の御心と摂理によって、常に、保ち、支配しておられるのです。その神様に、わたしは、よりたのみ、疑うことをしません。神様が、わたしに、からだと魂に必要な、すべてのものを備えてくださっているということを。また、このなやみの多い世の中において、神様がわたしにお与えになる、どのような不幸でさえも、最もよいものに変えて下さることを。神様は、全能の神様ですから、これをなさることができますし、信頼できるお父さまですから、喜んで、これをしてくださるのです。
 「このなやみの多い世の中において、神様がわたしにお与えになる、どのような不幸でさえも、最もよいものに変えて下さることを」、「神様が、わたしに、からだと魂に必要な、すべてのものを備えてくださっているということを」信じ疑わないというのです。「このなやみの多い世の中」と言っているのです。わたしたちが住む世界は「なやみが多い」とはっきりと理解してくれているのです。信仰問答書は、わたしたちの信仰の教科書なのです。わたしたちの信仰の言葉なのです。「なやみが多い世の中」、悲惨の、苦しみの谷間を通るわたし、しかしそれをも神様がお与えになると告白するとき、信仰によってそのような悲しみを受け入れるとき、もうわたし一人ではなくなってしまうというのです。信仰により、たとえわたしたちがどん底にいると思えるときも、主イエスがいわば下から支えて下さっている。それを信じて疑わないとき、「どのような不幸でさえも、最もよいものに変えて下さる」に違いないというのです。
 「神様は、全能の神様ですから、これをなさることがおできになる。信頼できる、お父さまですから、喜んで、これをしてくださる。」わたしたちが聞かなければならないのは、ここなのです。だからこそ、苦しみの中で、不幸の中で、「父よ」と呼びかける。「父よ」と祈る。主の祈りはまた、人間が危機にあるとき、緊急の祈りとして用いられました。たとえ意識がもうろうとしていても、死に行く時にも、わたしたちの主イエスが口うつしに教えて下さった祈りです。いつでも口をついて出るのです。そしてこの祈りは、わたしたち個人の祈りにとどまりません。主の祈りは、何よりも教会の祈りなのです。わたしたち共同体の祈りなのです。わたしたちは主の祈りを教会で、礼拝で、集う者たち皆が口を合わせて祈るのです。そして最後にアーメンというとき、わたしたちひとりひとりはひとりではありえないのです。
(2004年教会夏期修養会)

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