2008/05/07

5月11日-18日の礼拝・集会案内

5月11日(日)
主日礼拝 10時20分 ペンテコステ聖餐礼拝・花の日
  ヨハネによる福音書 第14章25-31節
  「神様の約束」 楠原彰子牧師

教会学校 9時 
  CS生徒は、10時20分からのペンテコステ聖餐礼拝に出席してください

5月7日(水)
祈祷会 10時+19時
  出エジプト記 第7章1-29節 楠原博行牧師
5月4日の礼拝録音はこちらからお聞きになれます  
    マタイによる福音書 第5章13-26節
  「地の塩・世の光」 楠原博行牧師
   

5月18日(日)
主日礼拝 10時20分
   ローマの信徒への手紙 第2章18節-第3章8節
  「神は真実である」楠原博行牧師

教会学校 9時
  詩編 第8編4-10節 楠原彰子牧師

教理を学ぶ会 礼拝後
  ハイデルベルク信仰問答 問27 楠原彰子牧師

stern_neu.gif5月の礼拝・集会案内をお知らせのページにアップしました。
stern_neu.gif月報4月号巻頭説教「あなたは神を知っている」をアップしました。

icon12_37

↓地図をクリックすると大きくなります
Chizu_0809
電車

 JR木更津駅 徒歩10分
バス
 JR木更津駅西口-粟倉
 JR木更津駅西口-君津駅南口 
 どちらも新田一丁目下車 目の前が教会です。

onegai上総記念病院には駐車されませんようにお願い致します。教会の駐車スペースは限りがあります。
事情の許す方は、公共の交通機関をご利用下さい。

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2008/05/01

5月4日-11日の礼拝・集会案内

5月4日(日)
主日礼拝 10時20分 聖餐礼拝
  マタイによる福音書 第5章13-26節
  「地の塩・世の光」 楠原博行牧師
   

教会学校 9時
  コリントの信徒への手紙一 第14章23-25節 楠原彰子牧師

5月7日(水)
祈祷会 10時+19時
  出エジプト記 第5章1節-第6章1節 楠原博行牧師

5月11日(日)
主日礼拝 10時20分 ペンテコステ聖餐礼拝・花の日
  ヨハネによる福音書 第14章25-31節
  「神様の約束」 楠原彰子牧師

教会学校 9時 
  CS生徒は、10時20分からのペンテコステ聖餐礼拝に出席してください

4月27日の礼拝録音はこちらからお聞きになれます  
    ローマの信徒への手紙 第2章1-16節
    「心をやわらかに」 楠原博行牧師

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stern_neu.gif月報4月号巻頭説教「あなたは神を知っている」をアップしました。

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電車

 JR木更津駅 徒歩10分
バス
 JR木更津駅西口-粟倉
 JR木更津駅西口-君津駅南口 
 どちらも新田一丁目下車 目の前が教会です。

onegai上総記念病院には駐車されませんようにお願い致します。教会の駐車スペースは限りがあります。
事情の許す方は、公共の交通機関をご利用下さい。

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2008/04/30

あなたは神を知っている

ローマの信徒への手紙 第1章18-32節

 あるスイスの牧師が、牧草を育て家畜を飼う農家の主人がした不思議な体験を紹介していました。その年の夏は、例を見ないほど雨が多く、干し草を取り入れることができなかったのです。ようやく天気が回復した金曜日に、皆は草を刈り始め、日曜日も作業は続けられました。
 でも、この農夫の家では、代々、日曜日に働くことをしませんでした。この人は、古くから自分の家で守られてきたやりかたを破らないでいるか、それとも、日曜日にも働いて干し草を刈るかという問題に行き当たったのです。奥さんと一緒に長いこと悩んだそうです。しかし、その時、この人の耳に、「堕落してはいけない。そこには祝福があるのだから!日曜日には仕事をしないで居続けなさい」との声が響いたそうです。重い気持ちではありましたけれでも、この人は、息子たち、家で働く者たち、馬や車を休ませたのです。さらに3週間、雨は降り続きました。しかもよりによって、いつも月曜日から木曜日までだけ雨が降り、金曜日から日曜日までは、太陽が姿を見せるのです。でも、この人は自分の決心を守り続けました。結局、状態の悪い、伸びきった、しかも完全には乾ききっていない干し草を取り入れたのでありました。
 しかし一年が終わった時、不思議なことに、その年の収益は、ここ6年間の平均を下回らなかったのです。この人は奥さんと長いこと互いの顔を見つめ合いました。そして出納帳の上で手を合わせて、すべてをおさめられ、信じて従うものに恵みを給い、時には、人間の理解を超える仕方によって恵まれる神様に、心から感謝したのです。
 今日は、この礼拝後に教会総会を開きます。教会の一年の歩みと会計の報告もなされます。この季節が近づきますと、経済的なことにも心配が生まれます。スイスの農家のこの不思議な体験を思い出したのです。今年も、わたしたちひとりひとりの祈りの内に新しい一年へと入っていくことができますことを心から感謝致します。
 「あなたは神を知っている。」信仰者なら当然でしょう。このように、わたしたちの教会の歩みが支えられておりますことを、いつも、まず神様に感謝します。神様を知っているからです。まず神様を見るのです。自分の歩みについて神様に願い、神様を信頼し、神様に感謝するのです。
 ローマの信徒への手紙でパウロが語る道筋はたいへんはっきりしています。では、いったい、神様を知らないとはどういうことであるかです。今日のところの後ろの方、神様を知らないとはどういうことなのか、リストにさえなって記されています。
あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です(ローマの信徒への手紙第1章29-31節)。
 わたしたち人間が持つことが出来る、あらゆる悪い思い、考えです。当然のこととして、それは他の人にも向けられます。自分以外のものを、すべて下に見ます。神を知らないから、自分こそ神なのです。「神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」これらが、神を知らない人の生き方です。それらは、28節に記されますように、「無価値な思い」、何の役にも立たない、何の意味もない生き方です。何と、むなしいことでありましょうか。
 実は、パウロがここではっきりと言っていることは神の怒りということなのです。
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます(同18節)。
 パウロは、世界が造られたときから、神の永遠の力、神が神であることが、神が造られたもの、被造物に現れており、これを通して、人は神を知ることができると言うのです。
彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです(同20、21節)。
 パウロはその左手に、言ってみれば、裁判官としての判決を手にしています。神を知りながら、神を認めない人に対する判決です。でも一方で、パウロの右手には神の憐れみがあるのです。今日のところのすぐ前のところで、パウロは何と書いていたでしょうか。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです(同16、17節)。
 パウロが語るのは、信仰です。神の力です。救いです。神の義です。そして、信仰によって生きる、ということです。そして、そのすぐ後に今日のところがあるのです。それは、谷底、奈落を覗くようなところだとある説教者は言っています。でも、これらの、信仰、神の力、救い、神の義、信仰によって生きること。つまり、わたしたちの信仰の礎のようなものに、いわば巨大な岩の固まりに、自分の体をザイルでしばりつけて、ようやく、この神を知りながら、神を認めないという奈落を覗いているのだと、この人は言うのです。だから人間のみじめさという奈落の底に、わたしたちが陥ってしまうことはありません。
 この人は主イエスがお語りになった、「放蕩息子」のたとえ話を挙げていました。突然、思い立ち、父親に自分が手に入れるべき財産を分けて欲しいと申し出て、それを手にすると、今度は旅に出て、旅先で放蕩の限りを尽くして、財産を一切がっさい失ってしまう物語です。この説教者は、パウロがわたしたちに示した、神を神と思わない人々の奈落の底とは、人間が放蕩の限りを尽くして、持ち物を一切失ってしまっている状態。家畜の餌をも食べたいと思うほどに飢え苦しんでいる状態ではないかと言っているのです。でもどうだったでしょう。この放蕩息子は、旅先で失われてしまったでしょうか。滅びてしまったでしょうか。父親を思い起こしたのではなかったでしょうか。甘やかされ、やりたい放題を許される息子ではもうなくて、父親のもとで働く、一人の召使いとしてでも、父親のもとに戻って暮らしたいと思い直したのではなかったでしょうか。その、ただ一点の出来事が、この息子には残されていたのです。もし、パウロの言葉におそれをなすばかりであるならば、パウロが示す奈落を見るに堪えないと言うならば、あの放蕩息子さえ、自分のどん底において、頼るべき父がいることを認めたことを思い起こすべきなのです。
 最初に、スイスの山地の農家の話しを致しました。人間がどんなに思いめぐらし、計りめぐらしても、どうしても越えられない神様の秘密があるということです。その秘密は、わたしたち人間を恵みます。はぐくみます。そして、その秘密にあずかり、喜び、感謝へと導かれるためには、神様を知らないわけにはいかないのです。この物語には「祝福の秘密」という題がつけられていました。語られていたことすべては、神様の祝福についてであったのです。祝福には秘密がある。わたしたちはそれを知るべきです。
(楠原博行:2008年4月20日主日礼拝説教より)

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2008/04/04

キリストのものとなるように

ローマの信徒への手紙 第1章1-7節

キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、‥(ローマの信徒への手紙第1章1節)

使徒パウロが、ローマの教会の人々に書いた手紙の書き出しの部分ですから、まず、その差出人がどういう人であるかが記されます。パウロは、まず、自分がキリスト・イエスの僕であると記します。イエス・キリストを主人として、ひたすらお仕えする僕です。パウロは自分を使徒と呼びますが、それは、自分が、神の福音のために選び出され、召された者であるからと言うのです。原典であるギリシャ語聖書では、はっきりと「このお方の子に関する」と書いてあります。「このお方」とは神様です。福音とは、旧約聖書の中で預言者を通して約束された、神様の御子に関してのものなのです。ダビデの子孫。死者の中から復活された方。この方こそ、わたしたちの主イエス・キリストですと、パウロは告げます。福音とは主イエス・キリストご自身です。ここまで読んで、一つのことがはっきりします。パウロは、自分が、キリスト・イエスというお方の僕であると言っていることです。キリストに仕える者と申し上げましたが、この僕という言葉は、奴隷と言う意味の言葉でもあります。決まった所有者がいる奴隷のことです。パウロが自分のことを、キリストの僕と言います時、それは、パウロの生きた時代の呼び方では、キリストという方が、パウロを財産として自分のものとして所有していることなのです。
 また、1節では、このお方のお名前を、キリスト・イエスと呼んでいましたのに、4節では、わたしたちの主イエス・キリストと呼んでいます。わたしたちは、「主」と祈りの中でお呼びしますが、主とは、これも、パウロが生きていた時代におきましては、主人とその僕というように、はっきりとした身分の上下関係を言う言葉なのです。パウロが、「わたしたちの主イエス・キリスト」と言いますとき、それは、「わたしたちのご主人であるイエス・キリスト」と言うことなのです。1節から4節までで、パウロは、はっきりと、わたしたちの主人である救い主イエス。わたしたちは、この救い主イエスの僕、イエス様の財産、持ち物として、イエス様に仕えるものであるとはっきりと言っているわけです。
 神の子イエス・キリストがおられる。そして、わたしたちはイエス・キリストのものである。あなたが、もう、あなたのものではなくて、キリストのものとなる。自分が自分のものではなくなってしまうのです。怒る人がいるでしょうか。自分は自分のものだろうと抵抗するでしょうか。しかし喜びに満ちあふれる信仰があるのです。先ほど読みました1章3、4節の言葉。
 この中に、その根拠があるのです。「死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた。」このことです。わたしたちは、一週間にわたり、家庭集会、受難週の祈祷会を通じまして、わたしたち人間が死ぬということについて記された、聖書の言葉、説教の言葉を読んで参りました。それは、この受難週の間、キリストが十字架の歩みをされたこと、そして確かに死なれたことを覚えるためでありました。そして、何よりも、わたしたち自身が死ぬということを思いめぐらしますときに、キリストが十字架につけられ、キリストも死なれて葬られたのだということ。しかし、三日目の後に確かに復活されたことを思わないではいられません。わたしたち自身が死ぬということに目を閉ざさず、見つめないわけにはいかないときに、キリストが復活し、それにわたしたちもあずかることができる。このことを、信じ、希望を置かないではいられないのです。
 そのような、受難週の歩みの中で、わたしたちは、最も熱心に、教会の礼拝に集われていた方の、突然の死に接しました。愛するご家族。愛する仲間の、その悲しみははかりしれません。しかし、山本清さんの、この世の去り方は、わたしたちの信仰の歩みを励ますもの以外の何ものでもありませんでした。ハレルヤ、主を賛美せよの言葉を持って、御国に凱旋された、この世との別れは、わたしたちに、キリストの信仰を持つ喜びと、復活の確かさ、復活の力強さを、わたしたちに、まさに確信させるものであったのです。
 今日から、少しずつ、新約聖書の中のパウロの手紙、ローマの信徒への手紙を読み続ける、その最初の日がイースターとなりました。わたしが、論文の指導を受けた先生のひとりと、この手紙の成り立ちについて話をしたことがあるのです。それによると、この手紙は、わたしたちが考える手紙というものの枠を超えているものでした。もちろん、ローマの教会に宛てられた手紙がもとになってはいるのですが、パウロ自身が、その手紙をまとめて、おそらくは、自分で書いた他の手紙をもまとめて、書簡集というようなものにしたのだと言うのです。そして、これこそが、わたしのすべての信仰を言い表した手紙をまとめたものであるとして、他のキリスト者たち、特に、他のキリストの使徒たちに示したものであったのではないかと考えるのです。つまり、これを示すことによって、パウロは、自分の信仰というものを公にしたのです。いわば、パウロの遺書であります。自分の死をも見つめて、キリスト者の仲間たちに、信仰を言い表したものなのです。それを、これから、少しずつ読み続けるわけですが、その最初の部分の、わたしたちに対するメッセージともいうべきものが、「死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」キリストのことであり。
この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。・・(同6節)
その「キリストのものである」人々の中に、皆さんも、あなたがたもいるのですよと、手紙を読む人びとにパウロが呼びかけるところからはじまるのです。神の子、しかも力ある神の子である、イエス・キリストのものとなるように召されている人たちの中に、神の子キリストに召し出されたおびただしい人びとの中に、あなたも確かにいる。
わたしたち誰もが思わないではいられない、死というものを乗り越え、復活された主イエス・キリスト。わたしたちは、そのイエス・キリストというお方のものである。死を乗りこえ、復活の先頭に立たれておられる方の御手の内にわたしたちは、確かに抱かれているのです。主の御復活をお祝いする主の日、イースターの礼拝において、この御言葉が与えられましたことに感謝致します。
(楠原博行:2008年3月23日イースター礼拝説教より)

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2008/02/29

御言葉を行う- 第六戒 「汝、殺すなかれ」

ヤコブの手紙 第1章19-27節

 「汝、殺すなかれ」との十戒の6番目の言葉が、今日、わたしたちに与えられています。ハイデルベルク信仰問答は告げています。「あなたは殺してはならない」とは、「わたしが、わたしの隣人を、思いや言葉、態度、ましてや行いをもってでも、他の人の助けをもってでも、ののしったり、憎んだり、侮辱したり、殺したりしないことです」と。神様が、「殺すな」とおっしゃるのは、わたしたちに教えるためであって、神様は殺人の根っ子である、「ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心」をお憎みになられる。これら「殺人の根っ子」すべては、神様にとっては隠れた殺人なのである、と。
 ですから、こうも言っています。「殺してはならない」とは、ねたみや、憎しみ、怒りを、わたしたちの中から取り除いて、むしろ、わたしたちが、わたしたちの隣り人を、自分自身のように愛して、忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情をもって、力の限りに隣り人から恥をそらすこと。そして、それは、わたしたちの敵にもまた向けられること。それらを神様はお望みになっておられるというのです。信仰問答書は「殺してはならない」の言葉の中に、これだけのことを見ていたのでした。
 先日、ある方がわたしに、今、人間には「十戒」が欠けている。「殺すな」などまったく欠けているではないか、とおっしゃいました。確かに、ほんの一日、二日の間だけでも、新聞、ラジオ、テレビなどを見ますと、現実の世界にも、虚構の世界にも、殺してはならないどころか、人の命がまったく軽々しく扱われていることを思い知らないではいられないのです。
 なぜ命は大切なのでしょうか。たとえそれが他の人のものであっても、どうして守らなければならないのでしょうか。それは、命は神様がお与え下さったものだからです。ある人は、日本人がただおひとりの神様を知らないから命を大切にしないと言いました。でも、むしろ、旧約聖書の一番最初の創世記4章が、すでにカインによる人類最初の殺人を記しますように、人間は最初から命を大切にできていないのです。
 わたしたちのハイデルベルク信仰問答は第六戒の聖書箇所として、主の兄弟ヤコブという人の手紙を参照しています。

わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。(ヤコブの手紙第1章19、20節)

ヤコブが人の怒りを取り除きなさい、と言ったこと、これが、今日の十戒の言葉、「殺してはならない」につながるのだと思います。宗教改革者マルティン・ルターは、ドイツ語聖書の一つ一つの書物に序文を書いているのですが、実は、このヤコブ書の序文で「わたしの聖書の中では、まことに正しい、主たる書物であるとは考えていない」と軽視しているのです。それは、この手紙が、「わざ」を強調しているからです。ルターは、信仰のみと言って、人間の救いが人間のわざによるのではないと強く主張します。宗教改革のひとつの柱になったのです。しかし、ルターはこうも書いています。「しかし、この書物を大切に思う人たちに対して、わたしは反対意見を言うつもりはない。なぜなら、この書物の中には、(わざの問題を別にすれば)、たいへん良い言葉がたくさん記されているからである。」

だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。(同21、22節)

 ここしばらく、ルターも大切にした、信仰を強調する、使徒パウロの手紙を読み続けて参りましたが、ヤコブの手紙の「行う人であれ」は、少し違った切り込み方です。わたしも、ルターが言う様に、わたしたちの信仰にとって、救いを確かなものとするための、大きな勧めであるとも思うのです。
 主イエスが十字架の道を歩まれたとき、あらゆる苦しみをお受けになりましたが、そのまわりに渦巻いていたのは、人間が持ちうるありとあらゆる憎しみでありました。まず、祭司や律法学者たちの、自分の地位や立場を脅かす主イエスに対しての憎しみです。今すぐにもローマ帝国の支配から解放されると勝手に期待していた人々の失望から来る憎しみもありました。理解できないものに対する、さげすみの感情もありました。また、人間には、別に理由もないのに、抱くことが出来る憎しみもあります。人をさいなむ娯楽です。ただ大勢の人々と同じことをしていれば良いという、たいへん無責任な思いさえあるのです。これら、人間として持つことができる、自分以外の人間をおとしめる、ありとあらゆる感情を主イエスはお受けになったと言えるのではないでしょうか。憎しみ、怒り、「殺してはならない」という言葉を知っているにもかかわらず、自分を殺そうとする人々に対して、主イエスがお示しになったのは、十字架でした。自らが、手を広げて、腕を広げて、それら、人間のあらゆる憎しみをお引き受けになったのです。
 主イエスが十字架におかかりになり、死んで葬られ、復活され、天にのぼられた後、キリストの教会は、この主イエスを殺したのは、他ならぬ、わたしたちであるとの信仰を持つようになったのです。それは、単なる後悔ではありませんでした。生き方、考え方を変えてしまうような信仰だったのです。人に対する憎しみを捨てました。人を愛することを尊びました。主イエスのように、人々の憎しみを悲しみ、時には、それを甘んじて受けた人々さえいたのです。だからこそ、だからこそ、「殺してはならない」をただありがたい言葉として拝むだけでとどまることを良しとしませんでしたし、むしろ、そこから、人を愛すること、隣り人を自分のように愛することの方に目を向けたのでありました。
 主のご受難の季節に「殺してはならない」の言葉を改めて覚えることはたいへん意味のあることだと思います。わたしたちが抱きうるすべての憎しみ、怒りを、むしろご自身でお受けになられた方がおられ、私たちは、そのお方の事を思い、このお方に従っているのであります。
  (楠原博行:2008年2月10日主日礼拝説教より)

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2008/01/05

人間を照らす光

ヨハネによる福音書 第1章1-5、14節

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(ヨハネによる福音書 第1章1-3節)

 神様のもとに、あるものがあったと告げられます。聖書が記されているギリシャ語でロゴスという言葉を、どう言いあらわそうかとたくさんの人々がつとめたのです。わたしたちの新共同訳聖書では「ことば」と訳されていますが、もともとそう読まない字で記されています。「言」という字に、「ことば」とふりがながふられています。この「ことば」が「はっぱ」のように薄っぺらでないからだとも説明されるのです。
 初めにあったのは、「神様がお現れになること」だと言う人もいます。初めに、神様ご自身が、みずからをおあらわしになった。そして、神様は世界を創造されたのだと言うのです。神様のみわざと言っても良いかもしれません。一つひとつのみわざではなくて、神様のご意志、このようにされるとの、ご計画こそが最初にあったのです。

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(同4、5節)

 神様のみわざの中に命が宿ります。それはわたしたち人間を照らす光でありました。その光は暗闇の中でも輝くのですが、逆に、その光に照らされた暗闇は、その光が何かを理解しなかったというのです。新約聖書で夜とは、わたしたちが生き、生活する今のことを言うことがあると、先週申し上げました。新約聖書は、それほどまでに、自分たちが生きている時代の暗さを、夜ということをひしひしと感じていたのです。そしてまた、これから朝が来なければならないこと、いや、今、まさに長く続いた夜が明けて朝になろうとしていることを、はっきりと言いあらわそうとしたのです。暗闇という言葉も特別な意味合いを持っています。倫理、道徳的な堕落について言うのです。道徳的に誤っている人の生き方を言います。そういう人は暗闇の中を歩いているのだと。そしてそのような人は、これからも闇の中にいつづけるのだし、さらには、もっともっと深い闇の中へ放り捨てられるとさえ言われるのです。だから暗闇とは、倫理、道徳的に誤った人に対する罰であり、死であり、人々からうち捨てられることさえも意味したのです。
 わたしたちが暮らしている世界が暗闇であることについて、しばしば言われることをわたしたちは良く知っています。明らかに、人間が悪意をもって、あるいは、自分の利益だけを求めたことによって、他の人々を突き落とすと言うこともあるでしょう。文字通り、闇の中を歩む人たちです。聖書が言うように、人の道に反した暗闇です。人間が落ち込んでしまって、もう抜け出すことができない暗闇です。自暴自棄という暗闇も知っています。それは、他人をも巻き込むのです。ほんのしばらく前、命が奪われ、命が捨てられるのを、わたしたちはテレビや新聞を通して見たのではないでしょうか。ある新聞記事で読みました。「人間はどうせ死ぬんだ。どうせ死ぬんだから。死ぬまでに何か大きなことをやってやればいいんだ。」そう考えていた人が、残酷な事件を起こしたというのです。暗闇は、人を引きずり込むばかりか、回りの人まで、何の関係もなく、幸せな日々を過ごしていた人さえ巻き込むことがあるのです。そればかりではない、突然、押し寄せてくる、事件、事故という暗闇があります。その背後には、人間の無責任、人間の限界というものがあるでしょうが、さけきれず、巻き込まれ、悲しみの底へと突き落とされてしまうのです。痛ましい事故についても、私たちが昨日、今日、聞き知った出来事も数多いのです。一方で、人間の力で、そのような闇から、抜けだそうとする人もいます。人には見えないものを見る人がいて、アドバイスをする人もいます。お金が要求されることもあるでしょう。これさえ、昨日、今日、報道され事件となっています。
皆が暗闇を知っているのです。少なくとも、そのような暗闇から逃れたいという思いは、誰にもあるのです。時には、特別な手だてをあつらえても、お金を積み上げてでもと、人は思うのです。
 「ことば」とは何のことなのか。命とは何のことか。人間を照らす光とは何のことか。どうして、ヨハネという人は、ここから書き始めたのか。ある人は言います。ヨハネは、イエス・キリストというお方が、いったいどういうお方か、わたしたち人間にとってどういうお方なのかについて、まず書きたかったのだと。マリアとヨセフの旅についても、ベツレヘムでお生まれになった時の出来事よりも、羊飼いたちや、東方の博士たちが礼拝したことよりも、もっと、書き記さなければならないことがあったというのです。伝えなければならない大切なこと。それは、主イエスがわたしたちにお与え下さったものでも、主イエスが人びとの間でなさったことでも、主イエスの生い立ち、生涯でもなくて、この驚くべき主イエスというお方ご自身、主イエスそのものなのだということ、それを最も大切なこととして伝えたかったからだと言うのです(W・デ・ボーア)。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(同14節)

 その「ことば」こそ、わたしたちが知っている、わたしたちの主イエス・キリストなのだ。わたしたちの主イエス・キリストは、初めに、神様と共にあり、神様のところから来られ、わたしたちのところに宿られた。これは驚くべきことではないか。これこそが、ヨハネがわたしたちに伝えたかった、キリストの福音であったのです。
 今日、わたしたちに与えられた聖書の箇所を挙げて、これこそがクリスマスのメッセージだと言った人がいます(トゥルンアイゼン)。そのクリスマスのメッセージとは、イエス・キリストが、神と共にあった世界から私たちのところにきてくださったということです。そして父なる神様と共にあるこうした世界があるということです。そしてわたしたちの主イエス・キリストを通して、この父なる神様の子としてわたしたちが召されているということです。神様がわたしたちのところに出てこられる。暗闇ということについてお話ししましたが、その暗闇の世界へと神様ご自身が出ておいでになるのです。この人は、神様が、そこにとどまっておいでになることもできたのだとも言っています。わたしたちのところに来る言。わたしたちの救い、神様と共にある救いが、神様の所から来る。人間の力で何とかしようというのでもない。知恵を積んでとか、財をつんで、何とかしようというのでもない。神様の救いのみわざが、神様の所から、わたしたちの所に来る。ただ、神様の所から来る救いを信じ続ける。この言葉を心に刻み、クリスマスを祝いたいと願います。(楠原博行:2007年12月23日クリスマス礼拝説教より

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2008/01/04

わたしが生きているので、あなた方も生きる

2008年1月1日に行われた、元旦礼拝の録音です。

  ヨハネによる福音書 第14章15-19節
  「わたしが生きているので、あなた方も生きる」楠原博行
  

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2007/12/28

光は暗闇の中で輝いている

2007年12月24日に行われた、燭火礼拝の録音です。
   ヨハネによる福音書 第1章9-14節
  「光は暗闇の中で輝いている」 楠原博行牧師
  

Krippe

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2007/11/26

命を救う

マルコによる福音書 第8章31節-第9章1節

 主イエスは、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められました。しかも、それを「はっきりとお話になった」と福音書記者はしるしています。公然と、明らかに、あからさまにお話になったのです。これは不思議なことです。なぜなら、ペトロが「あなたはメシアです」と告白したときは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められたのに、主イエスが、公然とこれから御自身について起こることを弟子たちに示されたのです。
 弟子たちにとって、この言葉はどのように響いたのでしょうか。ペトロは「あなたはメシアです」とはっきりと告白しました。「メシア」ヘブル語で「油注がれた者」の意味です。預言者、祭司、救い主としてのキリスト。尊敬し、これぞ私たちのメシアだといった主イエスが、御自身の受難について語られたのです。
 人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される。このような姿のメシアがあるでしょうか。それはあってはならないメシアの姿でした。ペトロは、主イエスを脇にお連れしていさめ始めました。

「先生、その様なあからさまなことをいわれては困ります。あなたは、私たちの希望です。メシアです。人々から排斥されて殺されるなんてことがあってはなりません。そんなことをいわないでください。」と

 主イエスは、すぐ様にふりかえって、その場で、ペトロを叱りました。「弟子たちをみながら」とありますから、弟子たちの目の前で、ペトロを叱ったのです。

「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

「引き下がれ」とは、私の後ろに回れの意味で、私の前に立つなといわれたのです。主イエスは、さらに言われました。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(35-37節)

私の弟子となり、従う者、私をキリストと信じて従う者は、自分を捨てて、私と同じように、自分の十字架を負ってついてきなさいといわれたのです。しかも、この言葉は、限られた弟子たちだけに語られたのではありません。主イエスは、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われたのです。
 この言葉を聞くと、私たちは躊躇します。私は弱い者だ。イエスさまと同じように十字架を負うことなどできない。これはむしろ、特別に信仰深い人の向けて語られたのではないかと思ってしまうのです。しかし、主イエスは弟子のみならず、群衆を呼び寄せて、教えられたのです。誰一人の例外なく、あなたも、あなたも、キリスト者として私についてくるのならば、あなたの十字架を負って私のあとに従いなさいと言われたのです。
 友人一人が洗礼を受けたときに、お祝いに教会からいただいた聖書に、マルコによる福音書8:34の御言葉が記されていました。牧師はこう語ったそうです。
 洗礼のお祝いの聖書に書く御言葉を、祈りながら探しているときに、この人にはこの言葉という示しを受けた。が、しばらくためらってしまった。洗礼を受けて教会の仲間になる方のお祝いの言葉に「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」というキリストの言葉は、あまりに厳しすぎないか。もっと穏やかな、もっと慰めのある、あなたはそのままでいいのですよというような御言葉の方がいいのではないか。しかし、なぜ、自分を捨てること、十字架を負うことが、特別な人にしかできないような辛いこと、厳しいこととしか考えられないのか。ここで主イエスは人々を呼び寄せていわれている。イエスをキリストと呼ぶということは、「私は、あなたのあとに付き従います。」「あなたのいうとおりに生きます。」と言うことである。
 当の友人は、しかし、正直なところ、この御言葉の書かれた聖書を開くことができませんでした。はやり厳しいという思いがどうしてもあったのです。その教会では、受難週の祈祷会は、長老会から指名された教会員が奨励にあたり、みんなで祈るのです。誰もが主の十字架を語るのですが、その誰もが光り輝く十字架を語ったのです。
 確かに、私たちの人間の罪を負って、主イエスは十字架に架かられ死を遂げられた。それで終わりではないのです。死んで墓に葬られ、三日目に復活されるのです。罪の私は、主とともに十字架につけられ、滅ぼされ、主の復活と共に、私たちもまた、新しい命に生きる者とされたのです。奨励を担当した一人一人が証ししたのは、罪の暗い十字架ではなく、復活の輝く十字架でした。福音のために、この復活の十字架を負って、ついてこいと主はいわれるのです。
 主イエスは、決してあなた一人で、あなたの十字架を負って行きなさいとはいわれません。自分の十字架を負って、私のあとに付き従えといわれます。すでに、私たちの前を、主イエスが十字架を負って歩いていらっしゃるから、それに倣っていけばよいのです。福音のために自分の十字架を負ってついていくと、主イエスがそうであったように、どんなに小さなことであっても、自分のためではなく、隣人のため祈ることができるます。主イエスが、人々のために涙を流されたように、自分の悲しみだけではなく、隣人の悲しみも共に悲しむことができます。主イエスが死に打ち勝たれたように、私たちもまた、新しい息を吹き入れられ、まことの命に生きることができるのです。
 自分の十字架を負って主イエスのあとに従いましょう。主が負わせてくださる、まことの命に輝く十字架の光で、この世を照らしていきましょう。
(楠原彰子:2007年11月11日:主日礼拝説教より)

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2007/11/03

復活

コリントの信徒への手紙 第15章1-11節

兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。(コリントの信徒への手紙一第15章1節)
福音とは主イエス・キリストの十字架と復活の出来事のパウロ自身の体験でした。かつて告げ知らせた福音を、パウロはもう一度知らせると言うのです。その福音を、手紙を読んでいる人々は既に受け入れて生活のよりどころとしているだろう。その福音を忘れずにしっかり覚えていなさいとパウロは言うのです。しっかり覚えていれば、あなたがたはその福音によって救われると言っているのです。
 三節から八節に記されています、十字架にかけられ死んで葬られ、復活されたキリストと出会ったこと。これこそ、パウロが受けた福音であって、それが教会の迫害者パウロを使徒パウロに変えたのです。パウロは強い信仰の言葉を記します。
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。(同10節)
むしろ「今あるは神の恵み」という愛唱聖句として知られている箇所ではないでしょうか。パウロは、コリントの人々の信仰のよりどころを、福音について、もう一度明らかに語ろうとしたのだと思います。キリストの十字架と復活を語り、自分にも、そのキリストが現れた。自分は出会ったのだと語った時。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と語らないではいられなかったのだと思うのです。パウロ自身のたいへん力強い、自分はこれで生きているんだ、との信仰告白です。
 コリントの信徒への手紙15章は、パウロが復活ということについて語るところです。それはなぜだったか。今まで、コリントの教会で起きた、さまざまな誤った信仰の言葉を聞いてきました。「キリスト者って何をやってもいいんだ」というスローガンによって、日常の生活と霊的な生活を切り離してしまい、肉的な自分なら何をやっても赦されるという誤った信仰に陥ってしまったこと。「だけど腹は減るだろう」と言って、やはり霊的、信仰的なつつましやかさを離れ、地上的、肉的な放縦、やりたい放題なさまを赦してしまう考え方。パウロはひとつひとつ信仰的にコリントの教会の人びとをいさめてきたのでした。そして復活の問題はその究極です。霊的、哲学的な復活観に陥り、この私の肉体こそが復活するという、パウロが宣べ伝えたキリストの復活に疑いを差し挟む人びとがいたらしいのです。
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。(同3-5節)
これはキリストの十字架の3年以内にさかのぼるという古い信仰告白だと言われます。続く6,7,8節。これはコリントの教会の人びとに死者の復活を語ろうとしていることを考え合わせればわかります。復活されたキリストが500人もの人びとの前に姿を現した。その大部分は今なお生きている。教会の指導者であるヤコブにも現れ、このわたしにも現れた。それなのになぜ疑うのか。というパウロの証しであり問いかけになっているのです。おそらく、これは、この15章をひととおり読み終えた時に、もう一度ふりかえらなければならないことだと思うのですが、繰り返し紹介しています、この書物の注解書を書いたヘイズという人は、「すべてキリスト教の宣言は復活に基づいていなければならない。このことによって信仰は立ちも倒れもする」と記していました。わたしたちの信仰が立つか倒れるか、それは私たちがこの復活の福音の言葉に立っているかいないか--まさに冒頭のパウロの言葉のままなのですが--それにかかっているのだと言うのです。
(楠原博行:2007年9月12日祈祷会より)

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